ゆっくりと意識が覚醒する。天井を眺め、視線を横に動かし、そしてここが学院の医務室か何かであろうことを確認したアニエスは、そのままのろのろと体を起こした。軽装の鎧は外され通常の衣服に変わっており、ああ誰かが着替えさせたのかとぼんやり思う。
「おはよう、アニエス」
視線を声がした方へと向ける。自身の主君が相変わらず胡散臭い笑みを浮かべながら座っていた。体はもう大丈夫のようね、そう言いながらアンリエッタは椅子から立ち上がる。
「気分はいかが?」
「最悪です」
「そう、それはそれは」
何が可笑しいのかクスクスと笑った彼女は、そのまま踵を返し扉へと向かう。何処へ行くのか、などとアニエスは問おうとして、やめた。今は目の前の相手に気を使う気分にならない。
そんなアニエスの様子を察したのか、アンリエッタは振り向くことなく気にしないでと述べた。え、と間の抜けた返事をしてしまったアニエスに向かい、彼女はやはり振り向くことなく言葉を紡ぐ。
「少し、ここで休んでいきなさい。気持ちの整理は――まあ、つかないでしょうけど」
「……」
「でも、そうね」
そう言いながら杖を振る。壁の周りに何か呪文を掛けたらしく、その辺りがうっすらと輝き、そして消えた。
アンリエッタは振り向かない。アニエスの顔を見ることなく、彼女に向かって言葉を紡ぐ。
「部屋の周囲に『サイレント』を掛けておいたわ。鍵も掛けておきますから」
好きなだけ泣いていけばいい。それだけを述べて、アンリエッタは部屋を出る。結局、最後まで振り向かずに。
ガチャリ、とその扉の鍵が閉まる音が聞こえるまで視線を固定させていたアニエスは、ゆっくりと天井を見上げた。上を向いていれば、零れない。そんな気休めを考えたのか、それともその先にいるかもしれない故郷の皆を思ったのか。
ゆっくりと目尻から雫が流れる。それはやがて溢れんばかりの洪水となり、彼女の見上げていた天井をあっという間に滲ませる。ああそういえば、さっきも泣いたような気がする。そんなことを考えるような余裕は、今の彼女には全く無くて。
「父さん……母さん……! ダングルテールの皆……私は、私は……っ! 仇を、故郷の仇を取れなくて……なのに、また生き残って……」
独り言は、やがて嗚咽としゃくりあげる声で少なくなっていく。言葉にならない言葉を呟き、ただひたすら流れる涙を拭うこともせず。
「うわぁぁぁぁ! ……わぁぁぁ、っぐ、ぁ」
彼女は泣いた。みっともなく、子供のように、ただ、泣いた。誰も聞こえないその場所で、一人で、たった一人で、泣いた。
さて、とアンリエッタは振り向く。今頃アニエスはまた泣いているだろうから、その間に用事を済ませようと部屋にいる面々を見渡した。
「姫さま」
「何かしらルイズ」
「何でわたしここにいるんですか?」
言外に帰っていいかとアンリエッタに尋ねたルイズは、当然のごとく却下された。ほらご覧なさい、と彼女の隣で大人しく座っている才人を指差し、主が使い魔以下に成り下がるのですかと言われれば、ルイズとしても黙るしかない。
しかしムカつくには変わりないので才人の頭を一発叩いた。
「何でさ」
「そういうアンタこそ。何で素直に座ってんのよ」
「……抵抗しても無駄じゃん?」
「短い間に随分悟ったわね……」
少しだけ不憫になったルイズは、先程叩いた才人の頭を今度はゆっくりと撫でた。されるがままになっていた才人も、しかし段々表情に力が戻りくすぐったそうに目を細める。
忘れてはいけないのは、今この部屋には彼女達以外にも人がいることである。
「なんていうか、まあ、ある意味メイジと使い魔の正しい関係というか」
「扱いが犬とか猫」
「そうなのよねぇ」
一足先に脱出したモンモランシー達の生贄として置いていかれたギーシュがそんな感想を述べる。それに同意するようにタバサとキュルケが言葉を続けた。眼前では仁王立ちしていたアンリエッタが楽しそうに笑っている。
まあそれはそれとして、と表情を戻したアンリエッタがパンパンと手を叩いた。自身に注目を集めると、本題に戻りましょうと視線をルイズ達から別の一角へと向ける。
無言で椅子に座り動かないコルベールを見て、彼女は少しだけ目を細めた。別にそこまで怪我の具合は深刻ではなかったはずだけれど。そんなことを言いながら彼へと近付く。
コルベールが受けた傷は、魔法による治療が行われておらず、消毒と包帯の応急処置のみがされていた。そのことに彼は別段不満は持っておらず、むしろ当然だと思っているほどだ。
「気分はいかが? ミスタ・コルベール」
「意外と、悪くはないです」
「あら、そうですか」
少しだけ驚いたようにそう返したアンリエッタは、しかしそれは丁度いいとすぐに笑みを作った。机の上に置いてあった書類を手に取ると、それをコルベールの眼前へと突き出す。変わらず表情は笑顔のまま、さあ読めと言わんばかりに微笑んでいた。
書類を手に取る。ペラリペラリとそれを捲るうちに、彼の表情は驚きと、そして喜びへと彩られていった。資料から顔を上げ、これは本当なのですかとアンリエッタに問い掛ける。ええ勿論、という答えを聞き、コルベールは隠すことなく口角を上げた。
「ミスタ・コルベール」
「何だねミス・ヴァリエール」
「その書類、わたしも見せていただけますか?」
「ん? ああ、いいとも」
これならば、むしろこちらからお願いしたいほどだ。そう口を開こうとしたコルベールより早く、ルイズが彼へと言葉を紡ぐ。突然のその提案に首を傾げつつも、コルベールは彼女にその書類を手渡した。
どれどれ、とそれを眺めたルイズは、暫し無言で佇む。キュルケとタバサに読めと差し出し、ついでだから才人にも読むよう伝えた。
「えーっと、何々? 風石を極力用いない超長距離移動船の開発?」
「……出来るの?」
自信満々に書類を用意したということはある程度目算があるのだろうが、それにしても。そんなことを思いながら二人はルイズを見て、そしてルイズはコルベールを見た。
はははと苦笑したコルベールは、今はまだ無理だと頭を掻いた。
「だが、殿下は私の作ったあの装置を見て可能性を信じてくださった。ならば一研究者として、その期待に応えようと思うのは間違ってはいないだろう?」
「うん。俺もそう思う」
「ちょっとサイト」
余計なことを言うな、とジト目で才人を見たルイズであったが、何だか先程までとは違う目の輝きをしているのを見て思わず引いた。これはあれだ、また変なことを言い出す時の顔だ。そのことを悟った彼女は、しかし黙らせるわけもいかず苦虫を噛み潰したような顔で彼の言葉の続きを待つ。
「いいじゃんかよ。新しい飛空艇の研究とか、ファンタジーの定番イベントだぜ。きっと完成したら自由に世界が回れるようになるんだ」
「世界を、自由に……。ははは、面白いことを言うなサイトくん」
「それだけじゃないですよ。きっと未知の場所だって行けますって、東の果てとか、西の向こうとか」
「うん、うん。いいな、それはいい」
何だこれ、と女性陣は思った。無駄にテンションを上げている才人と、それに乗っかるコルベール。一種異様な光景であったが、しかし当の本人は物凄く楽しそうで。
唯一ついていけなかった男性であるギーシュはとても寂しそうであった。
「……わたくしの意図しない方向に話が進んでいますわね」
「それはよかった」
そんな全体を眺めていたアンリエッタは、あれ、と少し困ったように首を傾げた。自分的には他国よりも脆弱である空戦力の底上げのために新たなフネが欲しいという旨の話だったはずなのだが。
何故か世界を股にかける物凄い大規模な探査船を作る方向で話が進んでいるではないか。それはそれで別にいいのだが、肝心の本題がおろそかになってはどうにもならない。
「というかルイズ。良かったとはどういう意味です?」
「そのままですけど。姫さまの悪巧みが失敗して万々歳」
「……その内絶対後悔させてあげますわ」
差し当たってこっそり借金増やそう。そんなことを思いつつ、アンリエッタはコルベールに声を掛ける。展望を語るのは構いませんが、返事はきちんとしてもらいたい、と。
それを聞いた彼は表情を戻す。戻ってきた書類をもう一度読み直し、先程才人と共に語った夢物語を思い出し。
ここに書かれていることならば、お断りします。そう言って深々と頭を下げた。
「理由を聞いても?」
「『破壊』だけのために、自身の力を使うことは出来ません」
「……その結果、こちらが貴方を処罰するとしても、ですか?」
「はい」
迷いなくそう言い切ったコルベールを見て、アンリエッタはやれやれと溜息を吐いた。どうにも自分の計画は最後の最後で駄目になることが多い。そんなことをぼやきつつ、余計なことをしてくれやがったルイズの使い魔をジロリと見た。ひぃ、と怯える才人を見て少しだけ溜飲が下がった彼女は、まあ仕方ないと肩を竦める。
「分かりました。では、望み通り処罰を与えます」
「はい」
「……先程の夢物語、必ず実現させなさい」
「え?」
「いいですか? 世界を回り、未知を得るフネの建造。出来なかった、は許しません」
真剣な表情でそこまで述べたアンリエッタは、呆気に取られたコルベールを見て口元を隠しクスクス笑う。これで話は終わりと手を叩き、帰って愛しのウェールズに癒してもらおうと踵を返す。
その前に、と彼女は立ち止まり振り返る。呆然としているコルベールを眺め、やれやれと頭を振った。
「返事は?」
「は、はい。かしこまりました!」
トリステインの王宮にやってきたコルベールが最初に見たのは、こちらを射殺さんばかりに睨み付けているアニエスの姿であった。出来ることならば出会わずに用事を済ませたかったのだが。そんなことを思いつつ、しかし無視をするわけにもいかないのでどうしたのかなと声を掛ける。
憎々しげに舌打ちをした彼女は、私自身は貴様に用事など無いと言い放った。
「……殿下が、貴様を用意した研究室まで案内しろと仰ったのだ」
それだけを言うと、ついて来いと言わんばかりに彼女は踵を返す。
薄くなった頭を掻きながらその後を付いていくことにしたコルベールは小さく溜息を吐き苦笑した。とりあえず、いきなり斬り掛かってこないだけはマシか。そんなことをこっそりと思う。
そのまま暫し無言で歩いていた二人であったが、アニエスが唐突に口を開いた。あの時聞けなかったことがある、と。
「……何かな?」
「私の故郷は、何故焼かれた?」
彼女は振り向かない。どんな表情をしているのかも分からない。だが、決して軽い質問でもなければ吹っ切れた故の問い掛けでもないだろうと判断したコルベールは、少しだけ間を取り、そして答えた。
「命令だった」
「……リッシュモンからのか?」
「ああ、そうだ。……疫病が発生した、治療は間に合わず、放っておけば被害が広がると。そう、告げられた」
「バカな。そんな事実は」
「嘘だったよ。それを知ったのは全て灰にした後だったがね。『新教徒狩り』の体の良い駒に使われたのだと、後になって分かった。……他の大勢のために、仕方なくこの手を汚した。そう言い聞かせて行ったことが、ただの権力争いで、有力貴族が懐を肥やすためで」
「……」
「限界だった。私はそこで軍を抜けた。二度と、破壊に手を染めないと誓った」
「それで、貴様が焼いた人達が帰ってくるわけでもないだろう」
勿論だ、とコルベールは頷く。だから私の罪は一生償われることなど無い。そう続けようとして、やめた。そんなことは既に向こうも承知で、この間も言ったからだ。
代わりに、振り向くことないアニエスに向かい、頼みがあると彼は言った。
「貴様の頼みなど、何故私が聞かねばならん」
「そうだな。……それでも、聞いて欲しい」
「……言ってみろ」
既に目的地には着いている。が、その扉を開けることなく部屋の前でアニエスは立ち止まり、そしてようやく彼へと振り向いた。相変わらず眼光は鋭く睨んでいるようであったが、しかし少しだけ、ほんの少しだけ彼に向ける憎しみが薄れているようにも感じられた。
コルベールはそんな彼女を真っ直ぐに見る。ゆっくりと口を開くと、一つ一つ言葉を紡ぐ。
「私の出来る全てが終わったら、君の手で私を裁いてくれ」
「……どういうことだ?」
「言葉通りだよ。これから私は研究者として全力を尽くす。その全力を出し終えたら、後は好きにしてくれればいい」
首を刎ねるなり、生きたまま焼き尽くすなり。そんなことを続けようと思っていたコルベールは、ぐいと思い切り胸ぐらを掴まれたことで言葉を止めた。目の前には先程のように射殺さんばかりに睨むアニエスの顔がある。
そして次の瞬間、彼は殴られ吹き飛んだ。
「ふざけるな! 抜け殻の始末などして私の気が済むなどと思っているのか!」
「……そんなつもりではない」
「いいや、違う。……貴様は、どこまで自分勝手なんだ。私はな、私の故郷を焼いたメイジが憎い。だがな、臆病者を喜んで切り捨てるような外道ではない!」
臆病者、という言葉にコルベールはビクリと反応した。確かに自分は軍から逃げた上に追手が来ないよう所属していた証拠まで消していく臆病者だ。だから彼女の言う言葉に間違いはない。
が、何を勘違いしているというアニエスの言葉で彼は顔を上げる。
「自分の結末を自分で決められないような臆病者だと、そう言ったんだ。何だ、私が斬り掛かった時に言っていた啖呵はでまかせか。その場を逃げるための、嘘か」
「嘘ではない。やるべきことがあるのは本当だ。だからそれが終わったら」
「それが終わったら、何だ? 死なない理由探しの次は、生きない理由探しか? 私をダシに、自分に酔うな!」
コルベールは押し黙る。そんなつもりはない。それは確かにそうだ。だが、本当か、と同時に思う。彼女の言うような気持ちが一切ないと、本当にそう言い切れるのか。
ゆっくりと立ち上がる。殴られた頬をさすり、腫れていることを確認したコルベールは情けなく笑った。まさか君に説教されるとはね。そう言いながら、笑い続けた。
「そんなつもりはない。貴様に腹が立った、それだけだ」
「ははは。それは常にではないのかな?」
「やかましい。いいからさっさと入れ」
扉を開けると、アニエスはそこにコルベールを押し込む。君は来ないのか、という彼の問い掛けに、当たり前だと鼻を鳴らした。自分は案内役であり、そもそも仇であるこいつと長時間一緒にいるなど反吐が出る。
だが、しかし。
「コルベール」
「何かね?」
「貴様は私が殺す。精々それまで、首を洗って待っていろ」
「……ああ、そうだね。その時が来るまで、必死に生き足掻いてみせるさ」
そう言って笑ったコルベールは、ひらひらと手を振りながら研究室へと消えていく。その背中を見送っていたアニエスは、扉が閉まるのを確認すると踵を返した。
自身の人生の意味は未だ果たされていない。だが、少しだけ何かが晴れたような気がした彼女は、知らず知らずの内に笑みを浮かべながら歩みを進めた。
お前を倒すのはこの俺だエンド。
別名ベジータエンド。