その1
トリステインのラ・ヴァリエール公爵領。一部の者からは『魔境』と称される場所を内包するそこは、当然ともいうべきか治める人物も一癖も二癖もある者達である。とはいえ、平民にも分け隔てなく接する貴族に分類される彼等の評判は概ね良く、領地の民は不平不満を漏らすことも殆ど無く満足した生活を送っていた。
そんな領民の中には、ラ・ヴァリエールの屋敷に奉公に出る者も当然現れる。ここ最近も一人新たなメイドが雇われ、公爵家に相応しい立ち居振る舞いを教わっているところであった。
そんなメイドの彼女が最初に教えられたことはここでの掟、と衛士奉公人全てで言われている事柄。この二つは心に留めておけ、と言われた言葉である。
一つは、ここは魔境である。すなわち、人も人外も変わらない、公爵家にとって味方、仲間、家族であるならばそれ相応の待遇となるということだ。貴族と平民を通り越したある意味平等主義のその一つ目の信念を聞くことで、新人はまず絶句する。
そして二つ目を聞くことで、ある意味ラ・ヴァリエール公爵を近くて遠い主だと認識することとなるのだ。
「あら、聞こえなかったの。もう一度言ってくださらない?」
「そうですか、では言いましょう。……ぶっ殺してやるわこの泥棒猫!」
「あらあらカリン。昔の口調に戻っていましてよ」
そう言いながら修道服の女性はクスクスと笑う。それを聞いた対面の女性、ラ・ヴァリエール公爵夫人は、掛けていた伊達眼鏡を勢い良く取り外すと握り潰した。同時に頭の上で纏めていた髪を振りほどき、それを束ねて背後に流す。鋭い目付きとポニーテールへと変えた髪型のおかげか、今の彼女は気品ある公爵夫人というよりも荒くれ者の騎士のようであった。
それを体現するかのごとく、ドレスをまるで邪魔な外套を取り払うかのように脱ぎ捨て、その下に纏っていた色褪せた、しかし手入れの行き届いた魔法衛士隊服を露わにする。剣杖を引き抜くと、そのまま真っすぐに女性へと突き付けた。
尚、場所は公爵の屋敷の廊下である。そんな場所で魔法をぶっ放して相手をどうにかしようとすればどうなるかはお察しである。事実、毎回被害にあっている当事者のラ・ヴァリエール公爵その人は顔を青くして公爵夫人を止めていた。
「や、やめろカリーヌ! ついこの間西側を吹き飛ばしたばかりだろう!? 修理だって楽じゃない、ナルシスに頭を下げるのにも限界がある!」
「大丈夫ですピエール。今日こそ、この女狐を土に還して仕舞いですから」
「あら怖い。……ねぇピエール、わたしを助けてちょうだい。ね? わたしを連れて、逃げて」
「カ――いや、ノワール。冗談はやめろ。……心配せずとも、そんなことはさせない」
「サンドリォォォォン! 貴様! どっちの味方だぁぁ!」
「あらいやだわピエール。ちゃんと、カリーヌって、呼んで?」
激昂する公爵夫人の目の前で公爵にしだれ掛かるノワール。それを見た彼女のとうに切れていた堪忍袋の緒が更にキレた。思い切り杖を振り被り、ピエールごと吹き飛ばさんと暴風を発生させ廊下を破壊し始める。
奇しくも、娘が学院の宝物庫を吹き飛ばした時と思考パターンがほぼ一致していた。
「待て! 待ってくれカリーヌ! カリィィィィヌ!」
「知るかバカ! 死ね! 死んでしまえこの唐変木!」
公爵夫婦の仲睦まじい絶叫が飛ぶ中、奉公人は今日も避難を開始する。ちゃっかりと避難を済ませているノワールもその中にいた。
掟のその二、ラ・ヴァリエール公爵と烈風カリンと魔女ノワール、この三人が揃ったらとりあえず逃げろ。未だこの光景に慣れない新人メイドはその言葉を反芻しつつ、しかし絶句しながら足を動かす。それをメイド長と副メイド長は引っ張りつつ、ああ今日はよく飛ぶねと呑気な感想を述べていた。
「カリンさんも、いい加減大人になればいいのに……」
「でも姉さん、カリンさんは一応母親としてきちんと娘を育てていたじゃない」
「まあ、そうね。あ、そういえばそろそろあの娘達も帰ってくる時期かしら」
自身を先導しながらそんな会話を行うこの二人は一体何者なのだろう。初老の執事が若い頃から全く姿が変わっていないという二人のメイド長の後ろ姿を眺めながら、新人メイドはぼんやりとそんなことを考えた。
背後では廊下が跡形も無くなっていた。
「まあでもよかったじゃんか。姫さまがお金出してくれてさ」
「実力で稼いだのよ。間違えないで」
ふん、とルイズは鼻を鳴らす。そりゃまあそうかもしれないけれどと才人は頬を掻き、そんな二人を眺めながらシエスタはクスクスと笑う。
三人がいる空間は馬車の中。帰郷の資金を手に入れたルイズがようやくの里帰りを行っている真っ最中であった。王宮では未だ高等法院を上手い具合に陥れ捕縛するアイデアがないらしく、とりあえず泳がせるというアンリエッタの方針により表面上は平穏を保っている。その為、当事者として巻き込まれたルイズ達も夏休みの満喫を再開することと相成ったのだ。
「でも、まさか姉さま達もそれに合わせていただなんて」
「ん? 別におかしくないだろ。普段バラバラの家族が盆や正月に集まる時ってやっぱり示し合わせるし」
「そうですね。盆や正月は家族水入らず。ひいおじいちゃんもそう言っていたらしいです。ボンやショウガツが何かはよく分からないんですけど。……あれ?」
実家に帰郷をするとの報告をルイズがした際、姉二人もそれに合わせて帰郷すると予め決めていたようで、今現在公爵領に向かっているのだという話を聞いている。口では不満そうではあるが、その実表情は緩んでおり、間違いなく彼女も家族が揃うのを楽しみにしているのであろうことが窺えた。
才人もそんなルイズを見て少し表情を緩める。彼女の家族の話はよく話の種で聞いていたし、先程自分で言った弁のこともある。楽しそうな友人であり師匠であり主人である彼女を見ていると、自分のことのように喜ばしくなったのだ。
ただ、同時に少しだけ望郷の念が湧いたのも間違いでは、ない。
「って、そういやシエスタはいいのか? 帰らなくて」
「ええ。ルイズ様が帰郷するのでしたら、従者として共にあるのは当然のことですし」
「本音は?」
「最近ルイズ様をおちょくれてないので欲求不満なんです」
「はっはっは、そこになおりなさい不敬者」
そう言いつつデコピンを放とうとルイズは手を伸ばし、それをにこやかに躱しながらとんでもございませんとシエスタは笑顔で頭を下げる。ああ平和だな、と才人はそれを見ながら呟いた。これまでの出来事を思い返し、こういう時間はとても貴重だと実感しているのだ。肉ばかりでは飽きるので野菜も食べたい。現在の彼の心境はそんな感じである。
そうこうしている内に一行は目的地である公爵領へと近付いていく。それと同時に様々な噂を酒場や宿で耳にするようになった。そのどれもが眉唾、あるいは処罰されてもおかしくないゴシップであったのはご愛嬌というべきであろうか。
そして出発して二日目。ようやく公爵領へと辿り着いたルイズは、適当な場所で一旦小休止と馬車を止めた。どうせこのままでは辿り着くのは夜遅く、急いでもしょうがない。そんなことを言いながら外に出た彼女は、しかし一直線にとある場所へと走っていってしまった。
「どうしたんだルイズの奴?」
「ここはルイズ様の故郷ですし、性格は昔から恐らくアレだったんでしょうから。秘密基地とかあるんじゃないですかね」
「久々に田舎戻ってきた男子高校生じゃねぇんだから……」
そう呟きつつ、案外間違ってないかもしれないと思えてしまうのはルイズだからなのだろう。追い掛けるか、と才人はシエスタに述べ、そうですねと彼女も頷く。
が、その一歩を踏み出そうとした正にその時、彼等は背後から声を掛けられた。片方は聞き覚えのない声であったが、もう片方は。
才人はひょっとして、と振り向く。彼の予想通りならば、後ろにいるのは。そう思い向けた視線の先には、金髪の女性とピンクブロンドの女性が立っていた。
「カトレアさん! お久しぶりです」
「ふふ、お久しぶり、サイトさん」
ピンクブロンドの女性――カトレアはそう言って微笑み、視線を少しだけ巡らせた。才人と、シエスタ。その二人しかいないことを確認すると、ああやっぱりいないのねと頬に手を当てながら呑気に述べる。
そんな彼女を金髪の女性はジロリと睨むと、そのまま視線を才人へ向けた。刺すような鋭い目付きに思わずビクリと姿勢を正し、彼は女性の言葉を待つ。
「そこの貴方」
「は、はい」
「違うわ。言葉を待つのではなく、まず貴方が話しなさい」
「へ?」
「この辺りの人間ではないみたいだけれど、貴族ではないでしょう? 見る限りわたしよりも年下。ならば、先に挨拶をするべきはどちらか」
「え、あ。初めまして、俺、才人と言いま――申します。えっと、ルイズの弟子で、使い魔、やってます」
ふむ、と女性は頷く。まあ一応良しとしましょう。そう言うと、では改めてと長い金髪を掻き上げた。
「エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロア・ド・ラ・ヴァリエール。このカトレアの姉で、貴方の主であるルイズの姉よ」
エレオノール、と名乗ったその女性は、言うなれば厳しいという言葉を体現したような人物であった。ルイズの姉、と言えば確かにそうであろう鋭い目付きは、しかしルイズと違い相手を寄せ付けないようなオーラを放っている。
それでもどことなく厳しさ以外の何かを感じてしまうのは、才人がルイズから話を聞いていたからなのであろうか。ともあれ、彼女とカトレアの先導で、一行はルイズの向かったであろう場所へと足を進めていた。
「それで、使い魔の貴方」
「は、はい」
「あの娘は、どうなの? ここ最近学院で何かやらかしていない?」
「……えっと」
その道中、エレオノールはそんなことを才人に問い掛けた。前を歩く彼女の表情は窺えず、そのせいもあって正直に述べていいかどうかを彼は迷ってしまう。やらかす、というのがどこまでの範囲なのかは分からないが、少なくともそんなことはないと言い放つことは出来なかった。
ちらりと視線をシエスタに向ける。従者は黙して語らずとその目が述べており、早い話が知らんという返答であった。
仕方がない。覚悟を決めた才人は、大きく息を吸うと意を決したようにエレオノールへと言葉を紡いだ。質問を返すようで申し訳ないですが、どの辺までいくとやらかすになるのでしょうか、と。
「成程」
「へ?」
「もういいわ。その返答でおちびが大体何をやらかしたのか分かったから」
ある程度噂は流れていたが、この様子だとほぼ真実だったようだ。そう判断したエレオノールはやれやれと溜息を吐く。あの娘は一体いくつになったら落ち着くのだ、と呟きながら天を仰いだ。
「ダルシニとアミアスによれば、母さまの性格は変わっていないそうですよ」
「知ってるわよ。はぁ……あの娘は本当に、もう」
まあまあ、とカトレアはエレオノールを宥めるように微笑む。そんな妹の様子を見た彼女は、もう一度溜息を吐いて髪を掻き上げた。
そのやり取りを見ていた才人は、なあシエスタ、と隣の少女に話し掛ける。何ですか、と彼の方を向いた彼女に向かい、少し思ったんだけど、と言葉を続けた。
「エレオノールさんって、こう、なんていうか……」
今まで出会った人が出会った人なだけに、びっくりするぐらい普通なんだけど。そう言いながら頬を掻いた才人は、シエスタが何とも言えない表情をしていたのを見て怪訝な顔をした。そう思います? と何か含みのあるような彼女の言葉に、彼の表情はますます曇る。
「わたしも直接その現場を見たことは数回ですが」
あのお方は三馬鹿を正座させて説教出来る貴重な一人なんですよ。そう言ってクスクスと笑ったシエスタは、その光景を思い出したのか次第に堪え切れなくなった大笑いを肩を震わせつつも必死で耐えている。
「三馬鹿を正座させて、って……ルイズと、キュルケと、タバサを?」
「ええ、そうですよ。あの方にとっては、ルイズ様達は一纏めでおちび三人らしいですし」
へぇ、と才人はエレオノールの背中を眺める。確かにルイズは彼女を怖い姉さまと言っていたが、成程あながち間違いではないのかもしれない。
だが、と彼は思う。彼女の隣を歩いているカトレアと比べると恐らくどうしようもないほど弱いと確信が出来るのだ。比較対象がおかしい気もするが、それでもルイズ達を力尽くで抑えこむことが出来るとは考えられない。
と、そこまで思考を巡らせた才人は、現在の場所が森の中だということに今更ながら気付いた。一体何処に向かっているのだろうか、そんなことを思いつつ、しかし尋ねるのも何なので首を傾げつつも素直に足を動かす。
「しっかし、歩きにくい場所だな」
「そうですね、苔とか、木の根とか。足を滑らせそう」
「のわりにはひょいひょい進みますねシエスタさん」
「慣れてますし。そういうサイトさんだって」
「まあ、慣れたからな」
森から山から川から色々ルイズに連れられ冒険したのだ。今更この程度なんてことはない。少し自慢気にシエスタにそう述べ、再び視線を前に向ける。そこに広がる空間を視界に収め、思わず感嘆の声を上げた。先程話していた冒険の場所とは一線を画すそれは、まるで『生』というエッセンスを煮詰めたような光景で。
「あ、姉さまとちいねえさま」
そこの泉のほとりで木にもたれてぼんやりとしていたルイズが、一行に気が付き顔を向けた。嬉しそうに破顔すると、立ち上がりこちらに向かって駆けてくる。当たり前だがその動きに乱れはなかった。
そんなルイズを見たカトレアは微笑み、エレオノールは苦笑する。相変わらずね、という言葉は同じでも込めた意味の違うそれに、少し困ったようにルイズはあははと笑った。
ヴァリエールの三姉妹。姦しいとはまた違うその三人を見つつ、才人は手頃な石に腰を下ろす。その隣に同じように腰掛けたシエスタは、まあこればかりは仕方ないですねと苦笑していた。
「家族の団欒に無理やり入る趣味はないしなぁ」
とりあえず適当に時間でも潰すか。そんなことを思いながら突き抜けるような空を眺め、そして視線を元に戻す。左隣に座るシエスタを視界に入れ、右隣のシスターをちらりと眺めつつ、さてどうするかと彼は立ち上がる。
立ち上がり、そして弾かれたように右へと向き直った。
「どうしました坊や」
「いや、どうしたもこうしたもねぇよ。……誰だ?」
「あら? わたし?」
クスクスと黒い修道服を纏ったシスターは笑う。ゆったりとした服を着ていて尚隠せないその肉感的な体が得も言われぬ色気を醸し出していたが、この場にいる男性は才人一人である。
ちらちらと唇、胸元、太ももを視線が行き来していたが、それだけであった。十分色香に引っ掛かっているとも言う。
そんな彼を見て笑みを強くさせたシスターは、ゆっくりと距離を詰めた。才人の眼前にゆさりと揺れるたわわなそれが突き付けられ、ゴクリと思わず唾を飲む。マズい、これはマズい。そんなことを思いつつ、しかし思考とは裏腹にまるで操られるかのごとく彼の手はゆっくりと目の前の女性のそれへと――
「サイト」
手が止まった。そして心臓も同時に止まったんじゃないかと才人は思った。錆び付いた蝶番のような動きで首だけを後ろに向けると、そこには無表情で彼を見詰める主がいる。目を数度瞬かせると、何かを諦めたように彼は息を吐いた。ここは死ぬにはいい場所かもしれないと、そんなことまで思う始末だ。
が、ルイズは才人を始末しなかった。ゆっくりと彼の隣に立つと、目の前の女性をジロリと睨み付ける。
「こんなところで一体何をしているのかしら? 『おばさま』」
「あら、わざわざそんな呼び方をしてくれるの?」
「望むなら母さまと同じく泥棒猫とか女狐って呼びますけど」
「駄目よ。あんなカリンと同じ呼び方はやめて頂戴。ちゃんとわたしのことは――」
言いながら、女性はルイズに一歩近付く。細くしなやかな指先で彼女の顎を持ち上げ、まるでキスをするかのような体勢を作り上げると妖艶に微笑んだ。
「――カリーヌと」
「『ノワール』おばさま、それで何の用かしら?」
酷いわね。そんなことを言いつつ、しかし何処か楽しそうにノワールは微笑んだ。
両手にカリーヌなピエールさん五十代。