少年は一人であった。心を病んだ母親を『事故』で失った時から、彼の中の孤独はより一層強くなった。縋るものはなく、ただ罪悪感に苛まれ続けてきた。
そんな自分を吹っ切るように、彼は自身を必死で鍛えた。父親はそんな彼を立派なメイジになると褒め、讃えたが、彼には全く響かなかった。
そんなある日のことである。彼は親同士の繋がりもあり懇意にしている公爵家の集まりに参加していた。親が酒の席で交わした約束もあり、婚約者として小さな少女のエスコートを頼まれたのだ。ピンクブロンドの幼い少女は、少年の傍らで人懐っこい笑みを見せていた。
やれやれ、と彼は頭を掻くと、少女にどこか行きたい場所はあるかと尋ねた。コクリと頷いた少女は、こっちだと彼を引っ張り移動する。好奇心旺盛な年頃らしくあちらこちらに走り回る彼女を眺めながら、彼はやれやれと肩を竦めた。
きゃ、と短い悲鳴が上がる。どうやら勢い余って人にぶつかってしまったらしく、少女は尻餅をついていた。申し訳ない、と少年が少女を助け起こそうとしたが、大丈夫だと彼女は笑い、一人で立ち上がるとこの歳とは思えないきちんとした態度で謝罪を行う。その姿に彼は思わず目を見開き、そして何故か嬉しくなった。あんな約束でも、婚約者だ。それが立派な淑女ならば、嬉しくないはずがない。そう考え、自分の中の孤独が少しだけ薄れていることに気付いた。
また別の日。所用で公爵家を訪れた少年は、そこで彼女を見付けた。まだ小さな少女が、全身を目一杯使って目の前の大人に立ち向かうその姿は、彼の中に強く焼き付いた。あれは一体、と尋ねると、少女の日課の修業だという答えが返ってきた。彼女は魔法がとても苦手らしく、土台作りとして、あるいはそれを補う為に、ああして己自身の力を鍛えているのだと。
それを聞いた少年は、修業を終えた少女に問い掛けた。どうして君はそんなことをするのだ、と。喪失感から、罪悪感から逃げる為に己を鍛えていた自分とどこか重なるものを感じた彼は、彼女の理由を聞いてみたくなったのだ。他人の評価ではなく、自分の中の答えを聞きたかったのだ。
「恥ずかしくないように、です」
「君の御家族が、かい?」
「えっと、それもあるかもしれないですけど。何よりも、自分自身が胸を張れるように。この体に眠っている勇気に、恥じないように」
そう言って笑った彼女は、幼いながらに眩し過ぎて。彼の心の中に鮮明に焼き付けられた。
彼は言う。今思えば、自分はあの時初めて『彼女』に出会い、一目惚れをしたのだ、と。
才人が初めて見る浮遊大陸の姿に心を奪われている最中、ワルドは一人その背中を睨み付けていた。理由は言わずもがな、あの酒場の一件である。
ゴロツキを打ち倒す才人は、明らかに普通とは違った。ルイズに鍛えられているという話は聞いていたが、それだけでは説明出来ない『何か』があったのだ。成程あれならば大口を叩いていたのも頷ける、とある程度納得はしたのだが、しかし。
「認めんぞ」
思わず呟く。表面上はともかく、彼の中では完全に才人は『敵』であった。自身の婚約者に言い寄る汚らわしい犬、それが目の前の少年に対する評価であった。
そんなワルドの様子が気になったのか、ルイズは彼の隣にやってきてどうしたのかと問い掛けた。慌てて表情を元に戻すと、何でもないさと彼は微笑む。それならいいけど、と呟くと、今度は才人の方へと歩いていった。
ギリ、とワルドは奥歯を噛む。そこに込められた怒気が届いたのか、才人はビクリと肩を上げ、キョロキョロと辺りを見渡した。
「どうしたのよサイト」
「いや、何ていうか……俺、嫌われてる?」
「誰に?」
「そりゃ――」
お前の婚約者にだよ、と言いかけて口を噤んだ。それを目の前の少女に述べると、恐らく直接物言いに向かうだろう。そして、その結果益々怒りの目を向けられるのは間違いない。才人としてはわざわざいざこざを起こす理由も意味もないので、一瞬だけ迷うと気のせいだったと彼女に伝えた。
ふうん、とルイズは返すと、まあどうでもいいけど仲良くしなさいよ、と告げ彼から離れた。その言葉は知っていて言っているのか、はたまた何となくそう述べただけなのか。それは才人には知る由がなかった。
ゆっくりと才人は振り向く。そこには爽やかな笑みを浮かべながら殺気をぶつけるという器用な芸当を行う髭面がいた。
「ワルド、さん?」
「何だい使い魔くん。僕は君と話すことなど何もないよ」
取り付く島もない。はぁ、と才人は溜息を吐くと、そのまま彼の横へと座り込んだ。
そんな彼をジロリと睨んだワルドは、ふんと鼻を鳴らし視線を前に向ける。そのまま無言で佇み続けたが、やがて独り言のように口を開いた。
「君は、ルイズの何なんだ?」
「え? ……そりゃ、使い魔でしょ」
「それだけか? それに満足しているのか?」
「満足、って……」
そんなこと言われてもと彼は頬を掻く。船に乗り込む前、前日の夜に話した時もそうであったが、才人の中ではまだ恋愛がどうとかそういう部分を楽しむほどの余裕が無い。今も一人ならば目の前の浮遊大陸でどんな世界が広がっているのかを考えてしまうほどだ。
だから、ワルドのその質問にすぐ答えを返すことが出来ない。使い魔で満足しているか、と言われれば、答えは是であり否でもあるのだ。
「……ふん。お前のような何も考えてなさそうな平民に聞いたのが間違いだったか」
「……随分な言い草ですね。年上でルイズの婚約者だからって、そこでヘラヘラするほど俺はヘタレじゃねぇぞ」
「使い魔が主人の婚約者に牙を剥くのか?」
「ああ、そういう意味で聞いたのかよ。じゃあ、俺の答えはこうだ。俺はルイズの仲間で、友達だ。テメェみたいな髭面のオッサンに馬鹿にされる言われはねぇよ」
「異国の平民が偉そうに」
「貴族でメイジだからってだけで威張り散らしてるような奴らよりはよっぽどマシだね」
「そのような三流と俺を一緒にするな」
「へぇ、じゃあ見せてもらおうじゃねぇか」
数歩後ろに下がり、お互いに自身の得物を抜く。甲板の空気が一瞬にして変わり、張り詰めたそれが周囲にいた者達にも伝染していった。
一体何事だ、と船長が様子を窺いに現れたが、杖を抜いているメイジがいるのを見て顔色を変えた。これはどうしたことだと船員に尋ねても、急にこんなことになったとしか返ってこない。下手に口を出すとこちらに被害が起きかねないこの状況に、船長は真っ青になったまま頭を抱えた。
「行くぜ、色男」
「来い、下郎」
空を進む船の上で、才人は一気に距離を詰めるべく足に力を込めた。が、揺れない地上と違い不安定な甲板では、普段のように上手く進めない。ただ歩くだけならばまだしも、戦闘となると話は別なのだ。
そしてそれをワルドは見逃さない。才人と同じように距離を詰めると、持っていた軍杖で素早く突きを放った。ちぃ、と舌打ちしながら才人はそれを自身の剣で弾き、そして反撃だと得物を振るう。当然、苦し紛れに放ったようなその一撃を食らうような相手ではなく、容易く躱されると背後に回られ後頭部に一撃を食らった。不安定な甲板でゴロゴロと転がり、縁に叩き付けられる。
「終わりか?」
「っつぅ。まだに決まってんだろ!」
叫び、再び剣を構える。だが、そんな才人をみたワルドは詰まらなさそうに鼻を鳴らし、杖の切っ先を突き付けた。
刹那、風の呪文で才人は宙を舞った。気付いた時には既に遅い。彼の眼前には青空が広がり、視界の外れに甲板が見える。以前戦った学院の風メイジとは比べ物にならない一撃、結局勝てなかったあのゾンビメイジよりも更に強力な呪文だと彼が認識したのは、重力に引かれ落下していく直前であった。
「サイト!?」
甲板からこちらに跳んでくるピンクブロンドの少女の姿が見えた。魔法も何も使わずに彼を抱き留めたルイズは、次の瞬間着地地点が何もないことに気付いて思わず目を見開く。
「な、にやってんだよ! お前も一緒に落ちたら何にもならねぇだろ!」
「うっさい! つい勢いで体が動いたのよ! 大体こんな距離、気合で」
「あーはいはい。分かったからとっととシルフィに乗るのね」
どすん、と落下地点に滑り込んだシルフィードの背中に着地した二人は、そのまま無言で甲板へと戻る。ご苦労様、とタバサに労われたシルフィードはきゅい、と嬉しそうに鳴いた。
さて、甲板に戻ったルイズに駆け寄ったのは他の誰でもないワルドであった。何であんな危険なことを、と顔を青くして述べる彼に向かい、彼女は不機嫌さを隠そうともせずに決まっているでしょと返す。
「貴方がサイトを船の外に吹き飛ばすからでしょ! 何やってるのよ! サイトが死んじゃうところだったじゃない!」
「それで死ぬなら、彼もその程度の男だったということだろう? 君の隣に立てる器ではなかった、それだけさ」
「巫山戯ないで! サイトがいつわたしの隣に立つなんてことになったのよ。彼はまだ半人前で、そんな位置になんかとても――」
そこまで言って、彼女はハッと何かに気付いたように視線を動かした。座り込んだまま、情けなく笑みを浮かべている少年を見て、ルイズはしまったと顔を顰めた。普段から軽口のように述べてはいるが、流石に今はタイミングが悪い、ということに気付いたのだ。
ゆっくりと才人は立ち上がる。ペコリとワルドに頭を下げ、申し訳ありませんでしたと静かに述べた。ルイズが彼の名を呼んだが、大丈夫、と一言だけ返すと、そのまま才人は船室へと戻っていく。
やれやれ、とキュルケは肩を竦め、ちょっと行ってくると才人が消えた船室へと足を運んだ。そしてタバサはそんな一行を見て、静かにこう述べた。
「面倒くさい」
アルビオンに辿り着いた一行は、さてではどうするかと港町を眺める。町中をいかにもガラの悪そうな連中が歩いているのを見て、大分治安が悪くなっているなと顔を顰めた。
「この様子だと、馬車で行くのは問題ありそうね」
風竜や幻獣で飛ぶのも充分に問題なのだが、陸路は盗賊や賊軍に襲われる可能性を跳ね上げる恐れがあった。しょうがない、とタバサはシルフィードに視線を向け、ワルドも同様にグリフォンの首を撫でた。
港町を出て、前回と同じように分かれて空を行く。眼下に広がるアルビオンは、一見すると平和な光景に思えた。だが、実際は大小様々な場所で小競り合いが起きている。今はまだそれだけで済んでいるが、いついかなる時に大規模な戦場に変わるか、どちらかが死に絶えるかなど分からない。
「……案外、姫さまの言っていたことも正しかったのかも」
「どうしたんだいルイズ」
「ううん。ちょっと考え事」
グリフォンの上でそんなやり取りをした二人であったが、ワルドはそんなルイズの曖昧な返事に眉を顰めた。あの使い魔のことを考えていたのかい、と少し口調を強めて問い掛ける。
「違うわよ。この依頼の意味を考えていたの」
「依頼の意味? ウェールズ皇太子をトリステインに一時匿うのだろう? 両国の同盟締結も兼ねて」
「……そうね。うん、案外いいタイミングだったのかも、って」
実際はただ単に愛しい人を攫ってこいという問題行動だったわけだが。誤魔化すように頬を掻くと、ルイズは後ろを振り返った。グリフォンに速度を合わせているために余裕の表情を浮かべているシルフィードの姿がそこにある。その背には、悪友のキュルケとタバサ、そして。
「……サイト」
「まだあの使い魔のことが気になっているのかい?」
「それは……当たり前でしょう? わたしの、使い魔なんだし……」
「気にすることはない。使い魔は所詮使い魔、君の友人や共に戦う者にはなり得ないさ」
「そんなこと……」
ない、とは言えなかった。何しろ、自分で言ってしまったのだから。彼女にとって、彼はまだ使い魔で弟子であり、あくまで自分より下である。そう言ってしまったのだから。
視線を前に戻した。この調子ならばそう遅くならずにニューカッスルへと辿り着く。そこからが問題だが、アンリエッタの渡してくれた書状がちゃんとしたものであることを祈りつつ、ルイズはとりあえず目の前の依頼に集中することにした。
そんな彼女とは裏腹に、才人は一人暗い顔で溜息を吐いていた。あの後キュルケにある程度慰められたものの、しかしそれですぐに立ち直るかといえば答えは否。主人の婚約者に負け、そして当の主人には戦力外通告。神経が図太い、鈍いとも言えるほどの才人であっても、これでヘラヘラと笑っていられるような性格はしていなかった。彼も男である、負けず嫌いなのだ。
「鬱陶しい」
「容赦無いなおい……」
「しょうがない。本当のことだし」
「まあ、確かにちょっと暗いわよねぇ」
「んなこと言ったって」
どうしろって言うんだよ。そんなことをぼやきながら才人は項垂れる。今すぐ強くなることなんか出来やしない。ルイズに並べる存在になることは不可能だ。それが分かっているからこその凹みようなのだ。
そんな彼を見て、キュルケはやれやれと肩を竦めた。分かってないわね、と呟きながら、彼を自身の胸に抱き込む。
「そういう時は、何が何でもあいつを倒すって言えばいいのよ。そういうのが男の子ってものでしょ?」
「あいつを、って……」
「当然、ワルド子爵をよ」
彼に負けて落ち込んでいるのならば、彼を倒して自信を取り戻せばいい。至極単純な話であり、あっさりとこういう考えを出すところが彼女がルイズの悪友たる所以であった。
それを聞いた才人は一瞬言葉に詰まり、無理だ、と絞りだすように述べた。自分とあいつでは実力が違う。今の自分ではどう頑張っても勝てない。キュルケから視線を逸らしながら、消え入りそうな声でそう彼は呟く。
突如、後頭部に衝撃を受け、才人はキュルケを巻き込んで倒れた。勢い余って彼女の胸に顔を埋めつつ、一体何だと慌てて視線を上げる。
呆れたような顔で杖を振り下ろしたタバサが、そこにいた。
「鬱陶しい」
「いや、だからそれさっき聞いたって」
「普段の貴方は、もう少し無鉄砲で考え無し」
「酷ぇ」
「でも、その前向きな姿は、嫌いじゃなかった」
「……っ」
思わず口を噤む。今までのことを思い出しているのか、何かを言いたくても言えないように視線を彷徨わせ、挙動不審な動きをただただ続けた。
起き上がったキュルケも、彼をぶん殴ったタバサも、彼を乗せているシルフィードも。そんな怪しい動きをしながら悩む才人を、彼の出す答えを、じっと待つ。
決めた、と彼は顔を上げた。真っ直ぐに視線の先にいるグリフォンを睨み付け、拳を握り、それを天高く突き上げる。
「俺は! 絶対に! あの髭面をぶん殴る!」
「うん、その調子よサイト」
「頑張れ」
「きゅい」
調子を取り戻したのか、そのまま勢い良く立ち上がってしまった才人がシルフィードから落ちそうになったりするハプニングもあったが、それでも皆の表情は笑顔であった。
こっそりとタバサが会話を前に送っているのは、ここだけの話である。
「……聞こえているぞ……」
「あっはははははは!」
ちなみに、グリフォンの上では額に青筋を浮かべているワルドと、笑い転げているルイズがいたのだが、当の才人には知る由もなかった。
個人的メモ……才人とワルドは絶望的に相性が悪い。