では改めて、とアンリエッタは一枚の書類を机に置いた。解除薬のレシピはきちんと用意してあるという言葉はたしかに偽りなかったのだろう。専門的な知識を持ち合わせていないルイズとおまけのギーシュは、とりあえずそう判断し頷いた。
だが、しかし。問題はここからである。レシピがあればさあ大丈夫、などという甘い話ではないからだ。この紙はあくまで作り方が書かれているだけであり、現物ではない。そして当然先程までのやり取りからして現物は存在しない。
「姫さま」
「何かしら」
今日だけで何度目かのそのやり取り。そんなことを気にする余裕もなく、ルイズはジロリとアンリエッタを睨む。はいはい、と肩を竦めた彼女は、まあ落ち着きなさいと『おともだち』を宥めにかかった。
「そうね……ミス・モンモランシ」
「は、はい!」
「どれくらいで精製出来るかしら?」
「普通の解除薬ならば一日あれば十分ですけれど……これは、その、特別製なので」
「大丈夫ですわ。正直におっしゃって」
「は、早くても三日は掛かりますっ!」
むしろエルフの薬が混ざってるのに三日で出来るのかよ、とルイズは少しだけ目を見開いた。隣ではギーシュが流石はモンモランシーと誇らしげに頷いている。
ルイズの知らないところなのだが、モンモランシーはモンモランシーでケティとの騒動から『そういうこと』に対する才能が開花し始めたらしい。ルクシャナと交流を始めてからは頭角をメキメキ現し、卒業後アカデミーへの内定を手にしているとかしていないとか。勿論魔王の囲い込みである。
ともあれ、現状ルクシャナとモンモランシーが揃っている以上、こと薬に関することならば大した問題ではないということがここで発覚した。少しだけ安堵の溜息を吐いたルイズは、出来るだけ早めにお願いするわと彼女達へと向き直る。その表情に棘がないのを確認したモンモランシーは、苦笑しつつ頬を掻きながら頑張るわ、と返した。
「姫さま」
「何かしら」
「もう用事は済んだので、帰っていいですよ」
「嫌よ。あの騒動をもう少し間近で見たいもの」
結局かよ、とルイズは緩めていた表情を再び引き締めた。
平賀才人は困惑していた。一体全体どういうことだと混乱しっぱなしであった。
左側には、とある騒動から仲良くしている吸血鬼の少女がいる。本来ここハルケギニアでは人と相容れない存在であった彼女は、彼と出会い、安息の場所を得て、そして命と心を救われた。だから、彼に好意を抱くのはある意味必然であり、その隣に座るのも別段不思議なことではない。とりあえず、現状、今回はそういうことになっている。
右側には、いがみ合っていたにも拘らず幾度となく共に行動し不本意ながら気心の知れた少女がいる。元々ナイフとして、道具として宿主を変えては生きて来た結果心が荒み性別など忘れかけていたにも拘らず、彼と出会って、影響され、気付くと女性らしさを取り戻した。だから、本来認めることは決してないが、彼に好意を抱くのはある意味必然であり、その隣に座ることは何もおかしくはない。とりあえず、現状、今回はそういうことになっている。
勿論、そういうことになっている理由など知る由もない。特に当事者である才人には。
「え、エルザ」
「何? お兄ちゃん」
「いや、えっと、そのだな」
ニコニコと笑顔でべったり引っ付いている彼女を引き剥がす勇気は才人にはなかった。何かに目覚めかけるのを必死で抑えているのに全力を尽くしていたからとも言う。ともあれ、彼は適当に誤魔化してあははと笑うことしか出来なかった。
「まったく、相変わらずの優柔不断ですか。言いたいことがあればはっきりと言ったらどうです?」
「言えたら苦労しねぇっつの! っていうか、お前もお前だ」
「さっきも聞きましたよ。一体私の何に問題が?」
「近い! いつもはもっと、なんつーか、俺を嫌そうに遠ざけるじゃねぇか」
「……サイトは、私に離れて欲しいのですか?」
「え? いや、そういうわけじゃ、ないっていうか」
普段見せないような表情でそんなことを問われたら、才人はもう何も言えない。一瞬でもこいつ可愛いんじゃないかと思った自分を心の中で殴りつつ、彼は適当に誤魔化しながら視線を外して別の場所を見た。
心底楽しそうにこちらを見るアンリエッタが視界に映った。現状の原因が何かを一瞬にして理解した才人は、その隣で困ったような表情を浮かべている己のご主人に目を向ける。
それに気付いたルイズは、苦笑しながら手をヒラヒラとさせた。とりあえず現状は頑張るしかないらしい。
「……いや、どうしろってんだよ」
開き直ってイチャイチャすればいいんじゃないか。彼の中の悪魔が囁く。いやいや、二人同時なんて不誠実だ、やるなら一人ずつ。彼の中の天使が諌める。どちらも色々な欲望に一直線なことに愕然とした才人は、ああもう、と勢い良く立ち上がった。
密着していたので、左のささやかな柔らかさと、右のそれなりの柔らかさが両腕に擦り付けられた。
「うがぁぁぁぁ!」
何かが切れた。とりあえず意味のない絶叫をした才人は、そのまま全力でラウンジを駆け抜ける。違う、俺は違う、という意味合いの叫びを残しながら、彼の姿はあっという間に見えなくなった。
残された二人は暫し目をパチクリとさせる。エルザはどうしちゃったんだろうと首を傾げ、少しだけ心配そうに眉尻を下げた。追い掛けた方がいいのかどうか若干迷いつつ、ちらりと隣の少女を見る。
『地下水』は相変わらず変な奴ですねと笑っていた。ああいうところもひっくるめて才人なのだから、今更不思議に思うことなどあるまい。そんな余裕が見て取れて、追い掛ける気などないと言わんばかりの態度に見える。
エルザは何だか負けた気がして、不満げに頬を膨らませた。
ともあれ、二人は逃げる才人を追い掛けない、という選択を取ったらしい。それは彼にとって幸いであり、しかしある意味不幸でもあった。具体的な状況を知らぬまま、勢いに任せて飛び出してしまったのだから。二人が追い掛けなかったことで、説明してくれそうな連中も追撃を掛けなかったのだから。
「はぁ……はぁ、はぁ」
ゼーハーと息を吐きながら額を拭う。広場の噴水に腰掛け、左右を見渡し、エルザも『地下水』もいないことを確認して息を吐いた。これ以上あの二人に密着されたら色々とまずいことになる。何せ、今回は本物なのだから。
「てか、一体何なんだよ……」
天を仰いだ。アンリエッタの横にはルクシャナとモンモランシーがいた。あの状況になる前に、魔法薬の会話をしていた。それらを加味すればまず間違いなく一服盛られたのは確実なのだが。
肝心要の何を盛られたのかが分からない。碌なものではないということしか分からないのだ。
「こういう場合にまず考えられるのは……惚れ薬か?」
漫画ではお決まりのパターンである。自分の隣に配置されたエルザと『地下水』が惚れ薬を飲み、そして見た。お約束の展開で、ファンタジーならば十分あり得る。何よりアンリエッタがいた以上、面白そうとやってもおかしくはない。かもしれない。
「まあ、でもそれならルイズが解決してくれるまで俺は逃げてれば問題ないってことか」
まさかあの場にいた全員が自分に惚れた、などというハーレムラブコメも真っ青な状況にはなっておるまい。そう判断した才人は、よし、と気合を入れると立ち上がった。どこか適当な場所に身を隠そう。そう決めて、拳を握りしめた。
「あれ? サイトさん?」
「うぉ!?」
そんな彼に声が掛かる。思わずそちらに振り向くと、見慣れた少女の姿がそこにあった。オリジナルとの差別化を図るために髪型をアップにしたその少女は、ほんわかした笑顔を向けながら彼の方へと歩いてくる。
「何だ、十号か。びっくりした」
「びっくりさせてしまいましたか?」
「いや、こっちの話だから気にするな」
申し訳なさそうに眉を下げた十号を見て、才人は慌てて弁解をする。コホン、と咳払いをしながら、それよりどうしてこんな場所にと彼女に問うた。
そんな下手くそな話題転換にクスリと微笑んだ十号は、大したことではありませんが、と返した。彼にとっては大したことである理由を述べた。
「逃げたサイトさんを皆が捜索中なのです」
「待て待て待て待て!」
「どうしました?」
「どうしたもこうしたも! 何で俺を捜索中!?」
「わたしも詳しくは知らないのですけど……サイトさんが不用意にぶらつくと、犠牲者が増える、とかなんとか」
「うん、さっぱり分からない」
ですよね、と十号は笑う。とりあえずそういうわけなのであまり動かない方がいい、と彼女に言われ、才人はううむと首を捻った。
十号が嘘を吐いている、という選択肢は無い。上手い具合に言いくるめられているという可能性は残っているが、その場合もう少し分かりやすい理由が用意されているはずだ。となると彼女の語った理由が真実であり、先程の予想からすれば薬に関係する何かであると考えられるわけで。
「ん? ひょっとして薬飲まされたのは俺なのか?」
惚れ薬にはニパターンある。一つは飲んだ人が誰かに惚れてしまう、というタイプ。大抵はこっちで漫画ではヒロインが飲んで騒動の種になる。
もう一つは、飲んだ人物が他の人物に惚れられる、というタイプ。複数ヒロインがいる漫画では、主人公が飲むことでヒロインが大挙して押し寄せラッキースケベイベントが連発する羽目になる。
「……」
「どうしました?」
「あ、いや、こっちの話」
急に黙り込んで難しい顔をした才人を心配したらしい。そんな彼女に何でもないと返すと、どちらにせよどこかに隠れるのが一番だという結論に達した。逃げ続けるよりはよっぽど堅実である。
「……あの、サイトさん」
「ん?」
「身を隠す場所を考えているのですか?」
「あー、うん。そうだ、そうなんだよ」
何だか嫌な予感がする。そうは思ったが、実際彼女の言う通りなので彼は首を縦に振った。それなら、と手を叩き笑顔を見せた十号を見て、何だか猛烈に嫌な予感がしたがとりあえず彼は続きを促した。
「わたしの部屋に来てはいかがでしょう」
「え?」
「わたし、こう見えても一応学院生徒の所有マジックアイテムということで、個室が与えられているのです。そこならばあまり人も来ないし、身を隠すのにうってつけだと思うのです」
「……お、おう」
成程確かに言い分は分かる。実は才人も知らなかった新事実ということから考えて、ルイズ達が知っている可能性も低い。いわんやエルザに『地下水』をや。本来ならば願ったり叶ったりであろう。
そうと決まれば行きましょう。そう言って、十号が才人に腕を絡めなければ、の話であったが。
「何をしてるのデスカ!?」
「え? ですから、わたしの部屋に行きましょう、って」
「うんそれは分かる。何で腕組んだの? 何で密着したの!?」
「……い、嫌、でしたか?」
「嫌じゃないですけど!」
ベースとなったケティは可愛らしい少女であった。『地下水』もそうだが、中身が違うと見た目もなんとなく変わって見えるもので、十号には十号だけの魅力が勿論存在する。具体的に言えば、小動物的な可愛さである。
そんな少女が自分にくっついてきた。果たして健全男子の才人は引き剥がせるだろうか? 答えは否。
「……」
「サイトさん?」
「な、何!?」
「どうか、したのですか?」
「何でもないです……」
逃げても駄目だったよ。そんなことを心の中で呟くと、彼の中の天使と悪魔がそりゃそうだと深く頷いていた。
「成程。やっぱり十号もサイトにそこそこ好意を持ってたのねぇ」
「……みたい」
「モテモテですね」
才人が再度パニックになっている真っ只中。茂みからその様子を覗き込んでいた出歯亀三人衆はそんなことを呟いていた。ルイズは現在アンリエッタに文句を言いながらモンモランシーを働かせている。そのため、出歯亀には加わらなかった。
「……案外、そうじゃなくてもこっちには来なかったかもしれないのよねぇ」
「何が?」
「こっちのは・な・し」
クスクスと出歯亀三号、別名キュルケは笑う。含みのあるその態度を見た出歯亀二号、別名タバサはまた何か始まったと冷めた目で彼女を見ていた。
そんな二人を横目に才人を見ていた出歯亀一号、別名シエスタは、ふと思い付いたように問い掛けた。今のキュルケの会話を聞いて、少しだけ気になったのだ。
「お二人は、サイトさんにキュンキュンしないのですか?」
「するわけない」
「ば、バッサリですね……」
タバサはそう言ってシエスタに即答した。本当に? と擦り寄ってくるキュルケには杖を叩き込んだ。
「サイトは友人としては良いけれど、そういう対象として見たことはない」
「そんなこと言ってぇ、ちょっとしたきっかけでコロッといっちゃうかもしれないわよぉ」
とりあえず二撃目を叩き込んだ。ふぎゃ、と悲鳴を上げた彼女を見下ろし、タバサはだったらそっちはどうなんだと問い掛ける。先程のシエスタの質問は、自分以外も対象だったはずだ。
「別に、そういう相手でもいいんじゃないかしら」
「え?」
「え?」
「何よその反応」
そんなことはない、というのを期待していた二人は、キュルケが肯定したことで思わず声を上げた。対してその反応が不満だったのか、彼女は二人を思わずジト目で睨む。
「いえ、だってミス・ツェルプストーですし」
「だってキュルケだし」
「あなた達があたしをどういう目で見てるかよく分かったわぁ」
こう見えても乙女なのだ。そんなことを言って彼女は唇を尖らせる。
が、乙女は多分男を取っ替え引っ替えしないと思うとタバサもシエスタも心の中でツッコミを入れた。口には出さない。面倒だから。
「あ、でも、そうなるとどうして?」
「アプローチしないのか、って?」
「ん」
そんなの決まってる、とキュルケは笑った。自分はああいう連中とは違うのだから、と微笑んだ。
自分はいつでも恋に積極的なのだから、何も変わることなど無いのだ。そう言って、どこか誇らしげに胸を張った。
「ふーん」
「聞いておいて流すのはよくないと思うわぁ……」
「あ、そんなことより! サイトさんが逃げます!」
「そんなこと……」
確かに現状才人を補足するのが最優先であろう。だが、いくらなんでもそれはないんじゃないか。そんなことを思ったキュルケは、やっぱりルイズがいないと駄目だと溜息を吐いた。
「ああもう。それでどうするの? そろそろサイトを捕獲しておく?」
「確かに頃合い」
「現在エルザちゃんと『地下水』さん、十号ちゃんの三人。確かにこれ以上増えると厄介ですね」
こくり、と揃って頷く。三人の意見は一致した。後は実行に移すだけだ。
才人に密着して蕩けるような笑顔を浮かべている十号には悪いが、仕方ない。茂みから飛び出した出歯亀三人衆は、突然のことで驚いた才人と十号に何か対処する暇すら与えず。
「な、何!? 何なのです!?」
「なんじゃこりゃぁ!」
確保ー、という掛け声と共に二人は捕らえられ、簀巻にされて運ばれるのであった。
原作のヒロインが全くなびいてこないのはどういうわけなのだろう……