その1
ガリガリと頭を掻きながら書類に立ち向かっているその人物の名はヴィットーリオ。ロマリアの聖職者の最上位である教皇に位置する男であり、余裕を絶やさぬ態度と先を見越した行動手腕で聖騎士達からはかの双王や黒百合の魔王に匹敵すると信じられている人物である。
「ジュリオ」
「何ですか?」
「逃げたいです」
「駄目です」
確かに彼は指導者として、黒幕として優秀であったのだろう。が、彼の不幸なところはそれに匹敵する、あるいは飛び越える黒幕が雨後の筍のようにぽこじゃかと存在していたことである。元来それほど強気な性格ではない彼は、多数の黒幕が徒党を組んで始めた悪巧みについていくことが出来なかった。
ついでに腹心として見出した少女がその実向こう寄りであったのが拍車を掛けた。
「……無理なんですよ、もう」
「諦めないでください」
いいから働け、とジュリオが彼を睨む。分かりましたよ、と溜息を吐いたヴィットーリオは、途中であった書類にペンを走らせた。先程までの停滞ぶりは何だったのかと思うような速度で、瞬く間に完成した書類の山が出来上がる。これでよし、と息を吐いた彼は、そのまま机にだらりと体を投げ出した。教皇としてどうなのだ、と言われても仕方のない姿である。
「まあその態度はもう何も言いませんけど」
はぁ、とジュリオが溜息を吐く。出来上がった書類をペラリと捲ると、適当に何かを書いたわけではないことを確認した。最近ジョゼットを側近に置いてから、ヴィットーリオの人目がない場所での駄目っぷりに拍車が掛かっている。そのことを指摘しても、本人はまあしょうがないと笑うばかり。人前ではキチンとしているのだからいいだろうと言いくるめられた結果が現状であった。
それに慣れた自分も自分だ。そんなことを自虐しながら、ジュリオは改めて書類を眺める。ちゃんとした内容なのは確認したが、ではそれをノーチェックで通すかどうかはまた別の話なのだ。
「聖下」
「何ですか?」
「本気ですか?」
「冗談ですよ」
「聖下!」
「そう、言って欲しかったのでしょう?」
体を投げ出したまま、ヴィットーリオはそう言ってクツクツと笑う。それを見て苦い顔を浮かべたジュリオは、ふざけないでくださいと机を叩いた。振動が彼の体に伝わり、その表情が少しだけ歪む。
やれやれ、と体を起こしたヴィットーリオは、コキリと首を鳴らすとジュリオの持っていた書類に目を向けた。自分の書いたものだ、それだけで何のことを言っているのか理解した彼は、少しだけ目を細めると口角を上げる。
「トリステインとの関係は良好なものを保ちたい。それは、わたしの偽らざる本音です」
「……その為に、自国の民を差し出すと」
何かを試すようなジュリオの物言い。それを聞いたヴィットーリオは笑みを強くさせ、中々言いますねと言葉を返す。そうしながら、生徒の間違いを正すような仕草で立てた指を左右に振った。
「ここは信仰の国です。始祖への敬意すら持たないような輩が、自国の民だと?」
「向こうには向こうの信仰に則っていただけかもしれません」
「確かにそうだ。……それでジュリオ。貴方は、大切な彼女を異端審問に無理矢理晒しあげ処刑しようとしたことを是と」
「するわけないじゃないですか。別にぼくに異論はありませんよ」
「ならば最初から噛み付かなければいいではないですか」
ジュリオは無言でヴィットーリオを睨む。分かってますよ、とそんな彼を見て肩を竦めたヴィットーリオは、少しだけ椅子に体重を預けながら困ったように笑った。
「腐敗した神官から私財と権利を没収する大義名分は出来ましたからね。以前の会談の時とは状況も違います。少なくとも、わたしは教皇を引きずり降ろされない」
「そして向こうに渡すのは出涸らし、ということですか。……聖下も随分と強欲で俗っぽくなられたことで」
「褒めても何も出ませんよ」
「貶してます」
げんなりとした表情でジュリオはそう言い放つと、とりあえずこの手続をしてきますと席を立った。いってらっしゃい、と手を振るヴィットーリオを横目に踵を返し、執務室を出る。扉を閉めると、彼は盛大に溜息を吐いた。
それでも平和を求めるのが根底にあるのだから始末が悪い。そんなことを思いながら、ジュリオはトボトボと歩き出した。
「ねえルイズ。火竜山脈の調査に丁度いい言い訳は何があると思います?」
「……行くのわたしですよね?」
アンリエッタは答えない。ニコニコと笑いながら、真っ直ぐにルイズを見るのみである。
はぁ、と溜息を吐いたルイズは、しかし律儀に彼女の言ったことを考え始めた。調査の名目、というからには、本来の目的は調査ではないのだろう。そしてそれを理由にすると何かしら問題があるということなのだろう。
「姫さま」
「何?」
「ちなみに、本当の理由は何なんですか?」
「秘密」
「帰ります」
付き合ってられんと席を立つ。そんなルイズをあらあらと微笑んだまま眺めていたルイズは、それならしょうがないわねとアニエスを呼んだ。
一礼してアンリエッタの横についたアニエスに、彼女は笑顔のまま言葉を紡いだ。極力表情を出さないよう必死で耐えているアニエスに向かい、命令を下した。
「エレオノールさんの手伝いをしているエルザを呼んで頂戴。ルイズが嫌がったから代わりにお願いしたいことがあると」
「待った待った待った!」
慌てて振り向く。今こいつなんつった。そんな表情でアンリエッタを見詰めるルイズを、当の本人はニコニコと笑顔で見詰め返す。
何か問題があるのかと言わんばかりの表情をしているアンリエッタから、隣にいるアニエスに視線を移す。もう知らん、とばかりに無表情を貫いている彼女を見て、ルイズは色々と察した。既に巻き込まれている真っ最中なのだろう、そう結論付けた。
「いや、でも姫さま。それ確実に姉さまに説教されますよね?」
「ルイズ、わたくしは気付いたのです。何かを為すため他者を犠牲にする前に、まず己がその身を差し出すべきではないか、と」
「内容が違ったら結構感動したかもしれないのにその言葉……」
早い話が死なばもろともである。ルイズが酷い目に合うのならば自身が説教されることも厭わない、というわけである。控えめに言って最悪であった。
ともあれ、了承しなければしないで友人が危険な目に遭うか姉の説教に巻き込まれるかの二択を迫られること――今回の場合前者になることはまずないので実質一択だが――になったルイズは、諦めたかのように溜息を吐いた。どうせ最終的に同じ結果が待っているのならば、わざわざ遠回りして余計な被害を受けることはない。そう考えたのだ。
「で、何で火竜山脈なんですか?」
やってらんねぇ、と言わんばかりの態度で椅子に座り直したルイズを見て微笑んだアンリエッタは、ちらりと視線をアニエスに移す。こくりと頷いた彼女は、そのまま部屋を退室していった。
それを確認しつつ、アンリエッタはルイズの質問に答えんと口を開く。勿論表情は笑顔のままだ。
「何か、あるみたいなの」
「漠然とし過ぎでしょう!?」
アンリエッタは笑みを絶やさない。分かっているけれど言わないのか、はたまた本当に漠然とした不安なのか。返した言葉はこれであっても、ルイズの中で目の前の魔王の腹の中は恐らく前者であろうと推測をしていた。そして同時に、その『何か』は自分達に振りかかる厄介事であるという確信めいたものが頭によぎる。
そんなルイズの表情を眺めていたアンリエッタは、クスリと笑うと指で自身の口元を隠した。頬杖のような体勢でそれを行いながら、しかし目だけはほんの少しだけ真剣さが混じる。
「以前、ミス・オルレアンのお手伝いで火竜を倒しましたね」
「へ? あー、そういえば、そんなことやりましたね」
村の仲裁のついでか何かだったはずだ。そんなことを思いながら彼女は生返事をする。ルイズらしい、とその態度を見て少しだけ呆れたように溜息を吐いたアンリエッタは、話を続けましょうと視線を机の書類に向けた。
つられてそこに視線を向けたルイズは、火竜山脈の縄張りを侵す『何か』が存在した、という報告を目にする。若い火竜や子供の火竜、果ては雛の死骸らしき痕跡が一箇所に集められているというおまけ付きだ。
「これは……」
「危険地帯である以上、あまり詳しい調査は出来ませんでした。ですが恐らく、殺された火竜は目を抉られたであろうと推測出来ます」
火竜の目。その単語に何か引っかかりを覚えたルイズであったが、しかしそれが何なのかが分からない。ううむと頭を捻るが、生憎こういう時に限って答えが湧き出てくることはないのだ。
まあそうだろうな、と微笑みながらそんなルイズを見ていたアンリエッタは、そろそろ頃合いかと彼女の背後の扉を見る。絶賛悩み中のルイズはその扉が開くのに気付かず、彼女達が入ってくるのにも気付かない。オンとオフの切り替えが素晴らしいといえばその通りなのだろうが、こういう時のポンコツぶりは本当に駄目だな、と魔王は自身の『おともだち』の評価を下していた。
「火竜の目、火竜の目……」
「メンヌヴィルの片目」
「ああ、あん時のクソ野郎が移植してたやつだ」
「うひゃぁ!」
飛び上がった。ついでに椅子を倒した。そして真後ろにいた才人に激突した。綺麗に頭が顎に当たった才人は、そのままほんの少しだけ宙に浮き、そしてガクリと膝から崩れ落ちる。何とか意識は持ちこたえたようであったが、脳を揺らされたらしく立ち上がるのは無理そうであった。
いつつ、とルイズは振り返る。そこに見えたのは予想通り悶えている才人と何やってんだかとそれを見下ろすタバサ、そしてあちゃぁと額を抑えるキュルケ。早い話がいつもの面々であった。
再度振り返る。アンリエッタは笑顔でルイズの視線に頷いた。
「姫さま」
「何かしら」
「最初から依頼でわたし達を呼べば良かったのでは?」
「そうしたら、素直に受けてくれたかしら?」
「……受けましたよ」
「あら、そう。となると、わたくしは考え違いをしていたようですわね」
勿論笑みは消さない。苦し紛れのような、負け惜しみのようなそんな言葉を放ったルイズを見ながら、アンリエッタはそういうわけですのでと残りの三人を見る。既に話はつけてあったので、彼女達はその説明に分かったと首を縦に振った。
「完っ全にわたしをバカにするための流れじゃないの!」
アンリエッタは答えない。が、表情は先程までの笑顔を潜めていた。正確には、特定の誰かをからかう笑みから、何かを企んでいる微笑へと移り変わっていた。それが分かったから、才人もタバサもキュルケも、そしてルイズもそこで一旦言葉を止める。
「調査を名目に、と言った理由は先程述べた通りです。火竜の死骸を作った者が未だそこにいるとは考えられませんが、万が一という事も当然のように有り得る以上、万全を期さねばなりません」
そう言いながら、才人達を呼んできたアニエスを見た。今回は彼女を同行させるので、貴女達は戦闘に集中してくれれば問題ないと言葉を続ける。よろしく頼むと一礼したアニエスを見た一行は成程と頷いていたが、しかし何かが引っ掛かっていた。
が、その何かが何なのかは分からぬまま。アンリエッタに言われた通り、アニエスを加えた一行は火竜山脈へと向かうこととなる。
それが分かったのは、道中。
「でも何でアニエスさんなんだ? そういうのの調査に向いてるようには思えないんだけど」
馬車の運転をしているアニエスの背中を見る。アンリエッタに振り回されながらも色々とやらかしている女性剣士は、どことなく空気が違っていた。
才人の言葉に確かにそうね、とルイズも頷く。タバサは適当な生返事を、そしてキュルケは彼と同じように普段と少し様子の違うアニエスの背中を眺めていた。
「……何か、彼女を連れて行く必要のある理由があるのかしらぁ」
「理由、ねぇ」
何かあったっけか。そんなことを言いながら、才人は馬車の背もたれに体を預けた。アンリエッタが用立てただけはあり、ボスンと音を立て沈む感触はかなり心地が良い。
ルイズも暫し考えを巡らせていたが、結局見付からずに肩を竦める。キュルケも同様だ。才人は勿論何も出てこない。
そんなわけで。三人の視線は我関せずと読書に勤しんでいる最後の一人へと向けられた。
「うっとうしい」
ジロリとタバサはそんな三人を睨む。別にそんなものどうでもいいだろう、そう言わんばかりの彼女の態度に、まあ確かにそうなのだけれどと三人は頬を掻きながら視線を逸らす。とはいえ、一度気になったらどうしようもないというのもまたその通りであるのだ。分かるだろう、と言われてしまえば、タバサとてその通りと頷かざるをえない。
「じゃあ、タバサ。あなたの考え、教えてちょうだぁい」
「……少し前に、ガリアも火竜山脈に調査隊を送っていた。結局その時はトリステインと合同になったらしいけれど」
ちらりとアニエスを見る。彼女がここにいるということは、そうなのだろう。そんなことを思いながら、タバサは再度視線を皆に戻した。
「ロマリアの神官らしき者が、目撃された」
「ん? どういうことだ?」
一体それがどうしたのか。そんなことを思った才人は素直にタバサの言葉を待ったが、しかし。
その前に、ルイズとキュルケが弾かれたようにアニエスへと振り返ったことで思わず目を見開いた。二人は何に気付いたのか、そして自分は何を見落としているのか。それが彼にはどうにも分からない。
「サイト。よく考えなさい」
「王妃はわざわざメンヌヴィルの痕跡を調査の名目にしたのよ。そして、目撃されているロマリアの神官『らしき者』。つまり」
「――リッシュモンが、何かを行っている」
は、と才人もアニエスを見た。今の会話は聞かれていないか。聞かれていたとして、向こうは既にそれを承知なのか。尋ねることは出来ず、彼は彼女の背中を見詰めるばかり。
「……姫さま、やった奴がいるとは考えられないっつってたじゃねぇかよ」
「これからの出来事が、万が一なんでしょ」
ルイズの言葉には、どこか確信を持っているような力強さがあった。そして、それに異論を唱えるものはいない。
これから向かう先には、ほぼ間違いなく、いるのだ。アニエスの仇たる、元高等法院が。
「戦闘に集中してくれて問題ない、か」
「メンヌヴィルをぶっ飛ばす」
「油断しちゃ駄目よぉ。この流れからすると、もう一人もいるでしょうから」
「……デルフ、リベンジのチャンスが来たわよ」
「マジかよ!? あー、いや、上等だ!」
才人とタバサは片目に火竜の瞳を移植した大男の殺人狂を。そしてキュルケとルイズ、おまけのデルフリンガーはミノタウロスのメイジの男性を。
それぞれに思うことを秘めながら、馬車はガタゴトと目的地へ進んでいく。
火竜山脈は、まだ少し先だ。
※リッシュモンはラスボスではありません