ハルケギニアの小さな勇者   作:負け狐

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さようなら綺麗な姫さま


その3

 飛んだ。放物線を描いて、人が飛んだ。それはアンリエッタにとって初めて目にする光景で、そして一生体験することなど無いであろうものであった。

 そう、飛んだのはアンリエッタ本人だ。綺麗に打ち込まれた拳により、彼女は飛んだのだ。

 

「げふっ」

 

 落下地点がソファーであったことは幸いだった。これが固い石畳であれば、今頃彼女の幼い体は見るも無残なことになっていたかもしれないからだ。勿論それを加害者が望んでいたはずもないので、ここに落とされたのは向こうの意志なのだろう。チカチカとする視界の中で、そんなことを思わず考える。

 いや、違う。とアンリエッタは思い直した。そもそも、この状況に陥るのがそもそもおかしい。一体全体、どうすれば自国の王宮で姫が飛ぶのだ。ちらりと視線を動かすと、アッパーの体勢を取ったままやっちまったと青褪める『おともだち』の姿が見える。そして彼女と自身の間には、テーブルに置かれたふわふわの。

 

「……ルイズ」

「ひ、ひゃい!?」

「貴女の住んでいる場所では、お菓子の取り合いで人が飛ぶの?」

「え、いえ、そ、そそそそんなことは決して」

「……その割には随分と手慣れた行動だった気がしたのだけれど」

 

 クリーム菓子の取り合いという子供のちょっとしたじゃれ合い程度のはずであった。勿論本人は真面目に喧嘩をしているつもりなので、そんなことを言われては文句の一つも出るであろうが。

 それでも、子供らしい攻撃を仕掛けたアンリエッタをカウンターで吹き飛ばすルイズは、傍から見ていても色々とダメであった。もはや条件反射ともいえるほどのその動きは、倒れたまま動けないアンリエッタがその感想を抱いても何らおかしくない。事実、言われたルイズは拳を下ろし、視線をあからさまに逸らしながらあははと乾いた笑いを上げている。

 

「さ、最近はもう少し穏便になってきたんです」

「以前はもっと酷かったのね」

「しょ、しょうがないじゃないですか。ツェルプストーが事あるごとに突っ掛かってくるんですもの」

 

 ぐぬぬ、とアンリエッタに反論するルイズを見ながら、彼女はぼんやりと思いを馳せる。『おともだち』であるルイズの口から度々出るツェルプストーの名。それが彼女にとってちくりと胸を刺す針のような何かに感じられた。自分にとって唯一とも言える友人である彼女は、自分以外にも遠慮なく接することが出来る相手がいる。

 ルイズは、自分だけの『おともだち』じゃない。ルイズは、自分を対等に見ていない。それが目下アンリエッタの悩みの種であった。今回だって、恐らくそのツェルプストー相手ならば彼女は謝ることもせずにどうだ参ったかと胸を張るであろうという想像がありありと浮かんできたからだ。

 

「ねえ、ルイズ」

「は、はい……」

 

 怒られる、とルイズは項垂れる。そんな姿を見て、アンリエッタは更にその表情を曇らせた。違う、そうじゃない。自分が望んでいる姿は、それじゃない。

 

「貴女は、わたくしの『おともだち』ですか?」

「それは勿論! 姫さまが、そう思ってくださるのなら」

「……そう……」

 

 アンリエッタがそう思ってくれるのならば。それはつまり、相手に答えを委ねていることにほかならない。そういう意図ではないとしても、今の彼女の思考ではその結論に達してしまったのだ。

 嫌な女だ。そんな自己嫌悪に陥ったアンリエッタは、話題を変えるようにそういえば、と言葉を発した。そのツェルプストーとは随分と仲が良いのだな、と。

 

「そんなことありませんよ! あの馬鹿、こないだも「あらヴァリエール、今日は随分と貧相ねぇ。あ、元から?」とか出会い頭に言いやがったんですよ! もうその場で蹴り叩き込んでやりましたけど」

「……大丈夫なの? その、彼女は」

「きっちり受け身取って反撃してきました。何でも、ラインの壁をそろそろ超えるかもしれないとか何とか」

 

 自分を倒せもしないくせに何うそぶいているんだか。そう言って肩を竦めるルイズは笑顔であった。自分に見せるものとは違うタイプの笑みであった。

 逃げるつもりの話題に更に打ちのめされる。アンリエッタの顔が曇り、しかしそれを覚られまいとすぐさま戻す。ゆっくりと体を起こすと、小さく、しかし深い溜息を零した。

 

「さてルイズ。貴女の勝ちですから、お好きな方をお取りなさいな」

「え? あ、そうか。……では、遠慮無く」

 

 ではこちらを、とクリーム菓子を取り分け、もう片方をアンリエッタに差し出す。そういう気遣いをされるたび、段々と彼女の心が軋んだ音を立てていることに、ルイズは気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 そんな娘の感情は露知らず、マリアンヌはご機嫌であった。アンリエッタの『おともだち』であるルイズは、己の親友の愛娘。親子二代でそのような仲が構築出来たことに、彼女は喜びを隠せずにいた。勿論、それにかこつけてカリーヌとお喋り出来るというのも拍車をかける。

 今日だってそうだ。娘が放物線を描いて飛んでいるなどと想像もせず、親友とのティータイムと洒落こんでいた。

 

「しかし、王妃」

「何?」

 

 紅茶に口をつけながら、カリーヌは視線を窓の外に向ける。ここからでは何か見ることは出来ないが、正確に何かを見ることが目的ではないことはマリアンヌにも察せられた。彼女の相槌に、カリーヌは大したことではないかもしれませんが、と言葉を続ける。

 

「最近、トリステインはきな臭いように感じます」

「あら? そう?」

「ええ。夫との、ピエールとの意見も一致していますし」

「……ふぅん」

 

 マリアンヌの目が細められる。ヴァリエール公爵の名を出した途端、どこか面白くなさそうな顔に変わったのだ。別段嫌いというわけではないが、何となく気に入らない。言うなればそんな感情であろうか。

 それで、とマリアンヌは問う。一体全体何が問題なのか。そんなことを尋ねたのだ。

 

「私腹を肥やす輩が、増えました」

「それは、こちらの政治手腕が悪い、と言いたいの?」

「そういうわけではありません。ただ」

 

 平民を少し下に見過ぎではないか。少々言い淀みながら、カリーヌはそんなことを述べた。マリアンヌはその言葉を聞き、少し考えるような素振りを見せる。

 成程、確かに今の自分達では末端の末端まで目を向けている余裕が無い。貴族連中の中にはそれをいいことに何かしらをやらかしている可能性もある。が、それはあくまで可能性の話だ。噂のようなそんな情報で、自らが動くことは出来ない。

 何より、自分は王ではない。そういうことを行うのは夫の役目だ。弁えているというべきか、その為の知識や手腕の無いマリアンヌでは、それとなく進言してみる程度が精一杯だ。分かりましたとカリーヌに答えるのが、精一杯の彼女の誠意であった。

 

「でも、凄いのねカリン。そんなところまで見ているだなんて」

「あー、いえ。それは、その」

 

 あはは、と困ったように笑いながらカリーヌは頬を掻く。普段娘達の前では見せないようなその表情を見て、昔を思い出したのかマリアンヌの顔も綻んだ。笑顔のまま、彼女の言葉の続きを待つ。

 

「ヴァリエール公爵領では、その辺りの区別をあまり行っていないもので」

「あら、そうなの」

「ええ。貴族であろうが平民であろうが。……亜人であろうが。こちらに仕える気があり、実力があれば、平等に機会を与えています」

「それはまた……」

 

 そういえば、とマリアンヌは思い出した。彼女が公爵家に嫁いだ辺りから、あの場所には妙な噂が立ち始めたのだ。

 人呼んで、『ヴァリエールの魔境』。成程、その理由の一端はそういうところにあるのか。一人納得した彼女は、うんうんと頷きながら紅茶に口を付けた。

 

「わたくしも、今度そちらに遊びに行こうかしら」

「なりません」

「……どうして?」

「立場をお考えください。それに……あれと出くわす可能性も、十分にあります」

「心配症なのね、カリンは」

 

 でも大丈夫、とマリアンヌは続ける。貴女ほど確執があるわけではないのだから、と微笑む。そして、大体もう遅いわと言葉を続ける。

 

「少し前に、ここに来ていたわよ」

「なっ……!?」

 

 思わず立ち上がったカリーヌを、マリアンヌはまあまあと手で制した。悪戯に成功した、子供のような顔で。

 

 

 

 

 

 

 カリーヌの心配に反し、その後特に何かが起こることなく月日は過ぎた。ルイズとアンリエッタは『おともだち』として仲良くやっているようであるし、『あれ』も何かちょっかいをかけてくることはない。だが、それがかえって不気味に感じてしまうなどと、彼女は柄にもない表情を浮かべた。

 今日もルイズはアンリエッタに呼ばれて王宮へと向かっている。この頃はその頻度も上がり、ここ一ヶ月ほどは公爵領に戻らず王都の屋敷で暮らしていた。ツェルプストーにルイズを取られないように。そんなことを考えたのではないかと邪推するほど、最近のアンリエッタはルイズに執着を見せている。

 良くない傾向だ、とカリーヌは思った。が、それを止める術は己にない。マリアンヌにも話したものの、かつての自分もそうであったと言われればぐうの音も出ない。そういえばそうだった、と項垂れるのみである。

 だが、それで済ませて良いのかといえば答えは否。かつてのマリアンヌがそうだった、とするならば、その娘であるアンリエッタも当然。

 

「……当たって欲しくなかった」

 

 ああもう、とカリーヌは毒づく。普段の夫人としての髪型をポニーテールに流すようなものに変え、服装も動きやすいものに変更し、騒ぎになっている王宮の騎士の一人を掴まえ状況を尋ねた。

 芳しくない、という答えが返ってきて、思わず彼女の顔が苦いものに変わる。その正体を知らずとも、烈風のそんな表情を見た騎士は申し訳ありませんと頭を下げてしまう。貴方は悪く無いと宥めながら、しかしどうするべきかと彼女は思考を巡らせた。

 アンリエッタが消えたのである。誘拐という線は捨てきれない。が、カリーヌはそれが彼女自身の意志で行ったであろうと予想をしていた。理由は単純、マリアンヌが言っていたからだ。昔の自分に似ている、と。

 そしてそれを肯定するがごとく、アンリエッタは己の意志で王宮を抜け出していた。変装を施し、町娘のような格好で、護衛も付けずにふらふらと王都を歩く。場合によってはマリアンヌ以上の酷さであった。

 

「ひ、姫さま……!」

「だめよルイズ。今のわたくしは、ただのアンよ」

 

 それでもアンリエッタは笑顔を見せる。ルイズに負けてなるものかと自身が豪胆であると胸を張る。対等であろうと虚勢を張る。

 それがまさに裏目であることなど気付かずに、アンリエッタは思い込んで突き進む。

 

「ルイズ、以前言っていたでしょう? 姫殿下が危険だからって。そんなことはないわ、わたくしは一人でも大丈夫。貴女の邪魔になんて、ならない」

「姫さま」

「アン、よ」

 

 訂正するようにルイズの唇に自身の人差し指を押し付けると、では行きましょうと踵を返した。待ってくださいよ、とルイズは彼女を追いかける。本来ならば連れ戻すのが正解であろうが、どうにも先程の顔を見た後ではそんな気分になれなかったのだ。

 まだ幼い年齢である二人では、どうしても行動範囲に限界がある。思ったほど危険な場所に近付くこともなく、姫殿下のお忍びは平穏無事に過ぎていった。それがルイズには喜ばしく、そしてアンリエッタには不満を残す。

 

「ねえルイズ」

「何ですか?」

「あちらに、行ってみましょう」

 

 そう言って指差したのは路地裏であった。明らかに不潔で危険な場所、そこに行こうと彼女は提案したのだ。当たり前のように、ルイズはそれを却下する。それをきっかけに、もう帰りましょうという言葉を口にした。してしまった。

 

「それは、わたくしが頼りないから?」

「は?」

「わたくしと一緒では冒険が出来ないから、そんなことを言うの?」

「な、何を言って」

「どうして……どうして貴女は、わたくしを同じにしてくれないの!」

 

 叫んだ。頭を振り、ルイズの静止を振り切り、アンリエッタは路地裏へと駆けていった。呆気にとられたルイズは、そのために追いかけるのに出遅れてしまう。待って、と駆け出した頃には、既に彼女は曲がり角へと消えていた。

 アンリエッタは走る。何処に向かっているのか、などは全く考えずに、ただ闇雲に、がむしゃらに走る。何かから逃げるように、何かを振り切るように、走る。

 何故、どうして。彼女の思考はそれで一杯であった。ツェルプストーはよくて、自分では駄目。そんな思い込みが、彼女の中にまとわりついて離れない。お前は友人ではない、と突き付けられているという思いから、目が離せない。

 ゼーハーと肩で息をしながら、アンリエッタは足を止めた。ふと辺りを見渡すと、全く見覚えのない景色が視界を埋める。迷った、という事実にようやく気付き顔を青褪めさせるが、しかし叫ぶことなく涙をぐっと押し込んだ。

 

「いえ……これでいいのよアンリエッタ。わたくしは、この程度でくじけない。くじけたら、ルイズに、『おともだち』に、見捨てられる……」

「ふふっ。健気なのね」

「っ!?」

 

 唐突に掛けられた声に、アンリエッタは弾かれたように振り向いた。修道女の服装をした美しい女性が、彼女の方へとゆっくりと歩みを進めていた。

 こんな場所でどうしたのかしら。そう女性は問い掛けた。アンリエッタはその答えに言い淀み、しかし取り繕ってもしょうがないと素直に真実を語る。それは大変ね、としかし言葉とは裏腹に笑顔のまま、女性はアンリエッタの頭を撫でた。

 

「それで、どうするの? 貴女が良ければ、王宮の道へと案内するけれど」

「……いえ、大丈夫ですわ。わたくしは一人で帰れます」

「そう、『一人』で、帰るのね」

 

 一人。その言葉を女性は強調した。ピクリとそれに反応したアンリエッタを見て、彼女はクスクスと笑みを浮かべる。口元を手で隠しながら、何か気に障ったのかしらとわざとらしく問い掛けた。

 

「何が言いたいのです?」

「特に何も。貴女の方こそ、わたしに言って欲しい言葉があるのではなくて?」

「……」

 

 言葉に詰まった。その問い掛けがどういう意味を持っているかなど、火を見るより明らかだったからだ。言葉が続けられないアンリエッタを見て微笑んだ女性は、まあいいわと踵を返す。一人で帰るのならば、大丈夫よね。再度一人を強調しつつ、彼女はヒラヒラと手を振った。

 

「そうね、いざとなったらそいつを生け贄に逃げる。そう言っていたものね。実践するのはいいことだと思うわ」

 

 ビクリとアンリエッタの肩が震えた。何故そのことを知っているのか、そんな疑問は一瞬。すぐに、『生け贄に逃げる』という言葉が彼女にのしかかる。大事な『おともだち』を、見捨てて、一人で。誰も言っていないのに、まるですぐ近くで囁かれているような気さえした。

 だって、本当は彼女は絶対にそんなことをしないと知っているのだから。

 

「ま、待ってください!」

「どうしたの?」

 

 アンリエッタの言葉に、女性は振り向く。表情は変わらず笑顔。頬に手を当て、こちらの言葉を待っている。

 これを、聞いても構わないのか。そんなことが頭をもたげた。自ら、向こうに話しかけても大丈夫なのか。そう己に問い掛けた。

 だがそれも一瞬。アンリエッタは真っ直ぐに前を、女性を見詰めると、大きく息を吸い、そして吐いた。

 

「ルイズが、わたくしの『おともだち』が何処にいるか、教えて下さい」

「……それを聞いて、どうするの?」

 

 笑みは崩さない。ただ、ゆっくりと、先程とは少しだけ違う口調で女性はアンリエッタに問い掛けた。自分がそれを知っているのかどうかという前提をすっ飛ばしていることなど、まるで気にはしていないようであった。

 

「謝ります」

「それだけ?」

「……いいえ」

 

 ゆっくりと首を横に振る。再度女性を見詰め、はっきりとした意志を込めた瞳で、アンリエッタは言葉を続けた。

 

「彼女の、隣へと立ちに行きます」

「今の貴女に、出来るかしら」

「今が無理なら、未来で構いません」

「そう、真面目なのね。でも、駄目よ」

 

 そういう時は、もっと貪欲になりなさい。そう言ってアンリエッタの頭を撫でた女性は、じゃあ行きましょうと彼女の手を取った。丁度、おあつらえ向きに舞台が整っている頃合いだから。そう言って笑みを強くさせた。

 

「さあ、行きましょうアンリエッタ。『今』『すぐに』、あの娘の隣に立つために」

「……はい」

 

 華奢で、しかしどこか禍々しい彼女の手を、アンリエッタは離さんとばかりに強く握り締めた。




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