その1
「遠路はるばる、ようこそいらしてくださいました」
そう述べ、目の前の青年は微笑んだ。その美貌は以前出会った時と何ら変わりなく、否、前よりもその魅力を増しているような気さえした。傍らに立っているアニエスですらそう感じてしまうのだ。対面しているアンリエッタは如何ほどか。
そこまで考え、馬鹿馬鹿しいと彼女は目を閉じた。あのお方が、そんなものに魅了されるはずがないではないか。
「いえ、こちらこそ。謁見の機会を作って頂いて感謝いたしますわ」
そう述べ、アニエスの主は微笑んだ。目の前の相手が神々しい笑みというのならば、彼女の笑みは果たして何と表現していいのだろうか。彼女の幼馴染ならば、悪魔の微笑みだとか言うのかもしれない。とアニエスは目の前の光景を見て少しだけ口角を上げた。
さて、それで。そう言ってアンリエッタは笑みを消さずに言葉を紡いだ。教皇聖下の人となりを少しだけ拝見させていただきましたが。視線を彼から本棚へと向けつつ、そう続けた。
「子供達との約束を先にしていたのだから、当然のこと。と、わたくしは思いますわ」
「嬉しいことを言ってくださるのですね。普通ならば無礼だと怒りそうなものですが」
「わたくしの国では、その程度で腹を立てていては、三日経たずに憤死してしまいますわ」
そりゃそうだろうな、とアニエスは思う。今回の会談の際、教皇ヴィットーリオは三十分ほど子供達に勉強を教える用事があると彼女達を待たせた。向こうにとっては申し訳ないことだと思っていたらしく、案内の少年は頭を下げていたが、これがトリステインならばどうだろうか。
絶対に適当な理由を付けて向こう側に非があるよう仕向けただろうと確信を持ってしまった自分がいて、アニエスは静かに頭を振った。
「そのような万人に慈悲をお与えくださる聖下に、質問をお赦し願いたいのですが」
「ええ、なんなりと。元より、その為の会談です」
「では、遠慮無く」
クスリ、とアンリエッタは微笑む。この国の矛盾を、聖下はどうお考えですか。そう述べ、笑みを湛えたまま目の前の相手の言葉を待った。
成程、とヴィットーリオは頷く。ロマリアは光り溢れる国なのではない。パンに事欠く民がみすぼらしい姿で座り込むその隣を、私腹を肥やす神官が己を着飾り歩いている。信仰の正しい姿など、ここにはどこにもない。
「恥ずかしながら、教皇という地位をもってしてもこの現状が精一杯なのです。これ以上利益を神官たちから取り上げようとすれば、内乱になる。同じブリミル教徒が、互いの血を求め合うことになる。そのような争いは、起こしてはならない。そう、思うのです」
沈痛な面持ちでそう述べたヴィットーリオは、信仰を再び強固なものにするための力を示さねばならない、と静かに続けた。人を救いたい、と真っ直ぐな瞳で言葉にした。
「ご立派ですわ」
アンリエッタは短くそう返す。そこには大きく感銘を受けたなどということは見受けられず、しかし下らないと言い捨てているわけでもない。そんな、平坦な返事であった。
今この現状では、大隆起は遠い先に起きる厄災でしかない。今この場で信仰を取り戻しても、来るべき時には再度腐敗している、ということもあり得る。むしろその可能性の方が高い。それを知らずに理想を語っているのか、それとも恒久の結束を約束する何かを持っているのか。
そのどちらにせよ、アンリエッタにはどうでもいいことであった。彼女が気にするのは未来ではなく今である。起きてもいない問題より、目の前にある不愉快さの方が余程大事なのだ。
「では聖下。今回のロマリアの不始末を、その高潔な志で解決してくださいませんでしょうか」
アンリエッタの言葉に、ゆっくりと彼は頷く。ええ、元よりその為の会談です。そう言いながら、しかし顔を伏せたまま口元に手をやり思案する素振りを見せる。
彼女が今述べたように、アンリエッタの今回の目的はロマリアに落とし前をつけさせることである。国を裏切っていた子爵がロマリアに与していた以上、当然その国の最高責任者に何らかの対処をしてもらう必要がある。言葉にはしていないが、彼女の望むことは黒幕の引き渡し。そしてこれも言葉にはしていないが、その黒幕というのは個人ではなく多数のロマリア神官であることを突き止めている。勿論それをヴィットーリオは承知の上なのだが。
それをするということはつまり、先程彼が言った『これ以上神官達から利益を取り上げること』に他ならない。教皇を辞す引き金を自身で引くことに、他ならない。
「……かの者には、こちらで十分な処罰を与えます」
「成程。そのお言葉、信じさせていただきますわ」
アンリエッタは踏み込まない。ここで追撃をする意味は、『今はまだ』ない。彼女がロマリアまでわざわざ来た理由は、こんな会談をするためではないのだ。向こうもそれは承知なのであろう。このような口頭での約束事で済ませることに、何か疑問を挟むことをしない。
そうして彼女の話は終わり、アンリエッタは大聖堂を去る。それを笑顔で見送ったヴィットーリオは、しかし彼女の姿が見えなくなると大きく溜息を吐いた。
「ジュリオ」
「はい」
彼についていた少年が、どうしましたかと視線を向ける。そんなジュリオにヴィットーリオは大したことではないのですが、と苦笑した。
「恐ろしさというのは、存外に美しいものだったのですね」
「同感です」
顔を見合わせ、思わず笑う。そんな笑顔のまま、しかし向こうにいいようにされるわけにはいかないと表情を少しだけ真面目になものにした。とはいえ、腐敗している神官共を野放しにすることは、言語道断。
少なくとも、黒いことを表に出したものは処罰せねばならない。
「この件に関しては、トリステインはわたしを支持してくれるでしょう。全て、とはいかずとも、それなりの数の神官の私財と権威を剥奪出来る」
「――そうして空いた場所に、敬虔な信徒を招き入れる」
ジュリオの言葉に、ヴィットーリオはコクリと頷く。小さな一歩ではあるが、腐敗している神官共を変革するには必要なことだ。始祖ブリミルの敬虔なしもべは、多くて困ることはない。
しかし、とヴィットーリオは呟く。アンリエッタの態度に、少しだけ気になる点があったのだ。
「トリステインは、『虚無』を抱え込んではいない……?」
あるいは、『虚無』が実在することを知らないか。前者ならば同じ舞台にはいるがこちらが一歩先、後者ならばまずこちらに負けはない。
そこまで考え、いや、過信は禁物だと頭を振った。アルビオンの聖女の噂がある以上、少なくとも後者である可能性は捨てるべきだ。前者の可能性も片隅程度でいい。
「いやはや。彼女のような者が教皇になれば、ここも少しは変わるのでしょうかね」
「…………もし、そんな存在がいれば、聖下は教皇の位を譲り渡すのですか?」
「そうですね」
『そんな存在』がわたしを出し抜いたのならば、考えます。そう言って、ヴィットーリオは薄く笑った。
失礼するよ、とジュリオはその礼拝堂へと踏み入った。確か今日は彼女がここで勤めを果たしているはず。そんなことを思いながら、彼はキョロキョロと辺りを見渡し。
「あら?」
「――え?」
先程見送った人物がそこにいるのを見付け、思わず声を上げてしまった。
一体どうして、と疑問を投げ付ける間も無く、動きを止めてしまったジュリオへと一人の少女が駆け寄ってくる。彼の名を呼びながら、その少女は彼の胸へと飛び込んで。
「じょ、ジョゼット……客人の前で、そんな」
「あら、わたくしは気にしませんわ。というよりも、普段は自分がやる側ですので」
アンリエッタはそう言って笑う。そういうことよ、と抱き付いたまま微笑んだジョゼットは、こっちに来てと彼を引っ張り隣に座らせた。当然のように、対面にはアンリエッタとアニエスがいる。
「ええと……王妃は、彼女とどういう関係で……?」
恐る恐るジュリオは尋ねる。その質問に微笑みを返したアンリエッタは、簡単なことですわと言葉を続けた。
曰く、結婚祭の時に招待されたロマリアの神官として彼女がおり、そこで話をして仲良くなったのだとのこと。聞く限り、別段何もおかしいところはない。
「ミス・ジョゼットは、ロマリアでも珍しい孤児院出身の女性神官だとか。才能を聖下に見出され、次代の教皇候補という噂もあるのでしょう?」
「……ジョゼット、嘘は良くないな」
「あら? 嘘じゃないわ。そう遠くない内に、本当になるもの」
ねえジュリオ、と彼女は微笑む。その笑みについ先程感じたそれと同質なものを感じ取ったが、それを表情に出さずに彼はやれやれと肩を竦めた。調子がいいな、とおませな妹を窘めるように、彼女の額を軽く突付いた。
「成程。王妃は、どちらかといえばこちらが本命でしたか」
「教皇聖下との会談に勝るものはありませんわ」
「そういうことにしておきます」
はぁ、と彼は溜息を吐く。これではせっかく彼女と話をしようと思っていた気持ちが台無しだ。口には出さずにそうぼやくと、まあいいと気持ちを切り替え、ジュリオは二人の会話を聞くことにした。
当り障りのない談笑。ジュリオの抱いた感想はそれであった。お互いの境遇でのちょっとした出来事や微笑ましい事件などを、お茶を交えて語り合う。ただそれだけだ。身分を除けば、どこにでもいる少女達の日常の一幕。
「へえ、ではその犬は、結局他の方が?」
「ええ。とはいえ、どうやら犬の方では既に飼い主などいないと思っているようで。昔の仲間や新しい仲間を集めて威張り散らしているようなの」
「あら、それは大変。わたしでよければ、手助けしますわ」
「ふふっ。ミス・ジョゼットにそう言っていただけるのならば百人力です。あの犬も、きっとすぐに懲らしめられるでしょう」
女の子の話というのは、よく分からない。そんなことを思いながら、ジュリオは紅茶を飲む。そんな彼の目の前には、同じように静かに紅茶を飲んでいるアニエスの姿が見えた。違いといえば、彼女はその会話を聞いて不思議な反応をしていることだろう。
「あら、もうこんな時間」
いけないけない、とアンリエッタは驚いたような表情をしながら口元に手を当てる。楽しい時間はあっという間だ。そう続けながら、彼女はごめんなさいとジョゼットに頭を下げた。
気にしないで、とジョゼットはそんなアンリエッタに言葉を返す。今度は自分がトリステインに向かおう。そう言って、見送りのために席を立つ。
「ええ、是非。その時は、わたくしの大事な『おともだち』を紹介いたしますわ」
「ありがとう。ではわたしも、今度は大事な仲間を紹介しましょう」
そう言ってアンリエッタは笑い、そう言ってジョゼットは笑った。アニエスはやれやれと肩を竦め、そして途中参加のジュリオは微妙についていけずに頬を掻く。
礼拝堂の外へと二人を見送り、その背が見えなくなると、ジョゼットは微笑みながらジュリオへと向き直った。じゃあ今度は、ジュリオと語らう時間だ。そう言って、彼の腕に自身の腕を絡ませた。
「やれやれ……」
「駄目よジュリオ。わたしといる時は、そんな顔をしちゃ駄目。ね?」
「……ああ、そうだね。なんたってぼくはきみの『勇者さま』だからね」
「もう! からかわないで」
「いつもきみが言っていることじゃないか」
まったく、とジュリオはジョゼットの頭を撫でる。そのことでふにゃりと表情をとろけさせたものに変えた彼女は、くい、と彼の袖を引っ張った。
彼女が向かおうとしている先は、彼女の部屋。つまり、それは。
「教皇を目指す者が、そんなことでいいのかい?」
「いいのよ。わたしのジュリオへの愛は、決して不埒ではないもの」
それに、と彼女は聞こえないように呟く。ムードを壊してしまうから、その理由のみで声を抑えて言葉を紡ぐ。
そうなるように、彼女と話していたのだから。
所変わってガリア。トリステインへと帰る途中に、アンリエッタが立ち寄った場所である。服装も完全にお忍びのものに変え、リュティスの城下町の酒場で二人の男女とテーブルを囲んでいた。
「何でまたこんな……」
その面々の一人、黒髪の女性はゲンナリした表情でぽつりと呟く。それを聞いていた隣にいた髭の美丈夫は、仕方ないだろうと笑った。わざわざ謁見の手続きをすると時間が掛かってしょうがないのだから。そう続け、目の前のエールを煽る。
「いやだからって、何で酒場で飲んでるんですか」
「おかしなことを言うなシェフィールド。酒場は酒を呑む場所だろう?」
「そういう意味ではありません!」
がぁ、とシェフィールドは叫ぶが、隣の男――いうまでもなくジョゼフは悪びれない。カカカと笑いながら皿のつまみを手に取り口に入れた。香辛料が程よく利いていて美味い。そんな感想を抱きながら、さてそれではと視線をアンリエッタに向けた。
「ロマリアは、どうだったのかな?」
「聖下は意外と抜目のないお方でしたわね。高潔さだけでは、あの国の指導者はやっていけないのでしょう」
「ふむ。そちらがそう評価するということは、一筋縄ではいかんか」
面倒だな、とジョゼフは笑う。笑い事じゃありませんよとシェフィールドは肩を落とした。
そんな彼女を受け流し、ジョゼフは表情を少しだけ真面目なものに変えた。だが問題はそちらではないだろう、とアンリエッタを真っ直ぐに見詰めながらそう述べた。
「ええ。――ミス・ジョゼット。彼女を完全にこちらに引き入れられるかどうかで、ロマリアとの関係が決まります」
「出来そうか?」
「……恐らく。個人的にも彼女とは仲良くしていきたいと思いますし、今のところ双方の利害は一致しています。問題があるとすれば」
そこで彼女は言葉を切る。ジョゼフも言いたいことは分かっているのか、暫し無言で考える仕草を取った。
まあ仕方ない、と彼は肩を竦める。こういうことはやはり当事者に任せるしかないだろうと結論付けた。エールの追加を注文し、シェフィールドのグラスを奪い取る。
「今回はシャルルを外させたが、次は奴にも意見を聞くとしよう」
「オルレアン夫人のお話も聞いてみたいところですわね」
そう言った二人は、そこで同時にもう一人を思い浮かべた。最近脳筋に傾きつつあるあれは、後回しにしよう。そんなことを同時に思った。
「しかし、不思議なものですわね」
「ああ、そうだな」
追加で来たエールを飲みながら、ジョゼフはアンリエッタの言葉に頷く。まさか彼女が、ジョゼットが。存在しないはずのシャルルの娘が、存在しないはずのシャルロットの双子の妹が。
「『虚無』、か……」
「ええ。使い魔の印を持った少年も傍らにいましたし、間違いないでしょう」
ルイズと才人の関係を考えれば、ジョゼットとジュリオがパートナーであるという予想は簡単につく。彼女は大々的に宣伝しているわけではないが、隠そうともしていない。そこから導き出される答えも容易だ。
「ん? そうなるとロマリアの統治者がガリア王家に連なるのか?」
「あら、それは少し短絡的ですわよ陛下」
ククク、うふふ。お互い笑いながらも目が笑っていないのを確認したシェフィールドは、もう帰りたいと切に願った。アニエスは最初から諦めていた。
登場人物がほぼ悪人。