影絵   作:箱女

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 菫の頭を悩ませているのは各科目から出された夏休みの課題でも多くの女子高生が気にしがちな体型のことでもなく、インターハイ本選前に照と打ったときのあの感覚についてだった。なんとかあの状態を再現しようと頑張ってはいるものの、結果はあまり芳しくはない。ときおり似たような感覚もあるにはあるが、以前のような確信は得られていないのだ。単に調子の問題なのか集中力の問題なのか、はたまたそれらとは異なる問題があるのかと考えてみても比較対象となる成功事例がひとつしかないのだからなかなか結論は出そうになかった。

 

 いっそのこと同じクラスの大エースに尋ねてみようかと菫は考え付いた。自分より格上の人間に教えを請うのはおかしなことではないし、上達のためにはプライドなどちいさな問題でしかない。たしかに尋ねる内容が菫の感覚に関するあやふやなものだから満足な回答が得られるとは限らないが、ダメでもともとと考えれば聞いてみる価値はありそうだ。夏休みはあと十日ほどで終わるが、次の大きな大会まではかなり時間がある。様々な可能性を試すためにも、菫はまず照に聞いてみることを決断した。

 

 

 暑いには暑いが風もあって湿度も低いその日の昼食休憩も、菫はいつも通りに照と食事をとっていた。夏休みの校舎は教室こそ閉まっているが行ける場所は案外多く、なんでも麻雀部部長に代々伝わる秘密の場所なんてのも存在するらしい。

 

 お弁当をつついている間にも機会を窺ってはいたのだが、照には食事中だと受け答えがおろそかになる癖がある。これからする質問は菫にとっては非常に大事になり得るものだ。だから食事中はなんでもないような世間話をしつつ、きちんと質問できるタイミングを待った。

 

 「なあ宮永、ちょっといいか?」

 

 「うん。でもその前にひとついい?」

 

 これまでの会話のなかに存在していなかった切り返しに菫は驚きつつも頷いた。

 

 「弘世に宮永って呼ばれると監督に呼ばれてるみたいで、なんかいや」

 

 「なんだそれは……。呼び方を変えろってことでいいのか」

 

 「そう。照って呼ぶといいと思う」

 

 「ならお前も私を下の名前で呼べ。そうじゃないと不公平だろう?」

 

 「わかった、菫。これでいい?」

 

 「上出来だ」

 

 どうして照が突然こんなことを言い出したのかはわからなかったが、菫はさして気にも留めなかった。それよりは自身の麻雀の腕の向上につながる可能性のある話がしたかった。ひどく抽象的で雲をつかむような不確かな話は、雲一つない青空の下で存分に行われた。あまりに話に集中し過ぎていつの間にか腕を蚊に食われていた菫は苦々しげな顔をしていたが、そのぶんだけ報われるかは今後の彼女の頑張り次第というところだった。

 

 

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 二学期が始まったところで途端に暑さが和らぐわけもなく、まだまだ続く残暑に学生も教師たちもうんざりしていた。なんでも暦に従えば、八月上旬の暑中を過ぎれば残暑の扱いなのだそうだ。二十四節季など実生活において役に立たないことは百も承知なのだが、あまりにもズレがあり過ぎて菫は文句のひとつでも言いたいような気分だった。部室はエアコンがあるからいいが、教室にはそんなものは設置されていない。じわりと滲む汗のせいでべったりと肌にくっつく制服がうっとおしい。どうにも集中力が削がれて仕方がないが、クラスメイトたちもどうやら菫と大差ない状態のようだった。

 

 さすがの照も生物としての機能は失っていないようで、滲む汗を止めることはできないようだった。当然のことを改めて確認して菫は安心する。普段の菫であればそれが礼を失したことだとすぐに気付くのだが、今日は気温のせいで頭が正しく働いていないのかもしれない。

 

 

 九月も半ばを過ぎたというのに未だに気温三十度を超える日が当たり前にあって、地球温暖化に対して菫が訳のわからない八つ当たりをぶつけていたある夜のことだった。自室のテレビの電源を入れて適当にチャンネルを回していると、ある局でよく見知った顔がテレビに映っていることに気が付いた。しかしそこには強烈な違和感があって、それは菫の認識をひどく遅らせた。さらさらのほとんど黒に見えるくらいの暗くて赤い髪、右側のハネた癖毛、整っていると表現するのに十分な顔かたち。間違いない。宮永照だ。だがどうしたことか画面に映っているのはいつもの能面ではなく、それが違和感の原因だと理解するまでに多少の時間が必要だった。

 

 そこには、やさしい笑みを湛えた宮永照がいた。

 

 友人のまったく知らない顔にどこか薄気味悪さを覚えて、菫はぶるりと体を震わせる。テレビに映った彼女は満面の、というわけではなく実に自然な笑顔を浮かべてインタビューに答えている。口角をわずかに上げて、ときおり目を細め、それこそ蕾がほころぶような完璧な微笑だ。受け答えに淀みなどなく、声は実に聞き取りやすい。菫が知る照とテレビで取材を受けている彼女の共通点といえば、せいぜいが身体的特徴と受け答えの滑らかさくらいだった。

 

 冷蔵庫にあるよく冷えたアップルジュースを飲み下して気持ちを落ち着かせる。心臓の音が妙に大きく聞こえるが、今はどうしようもないことだ。少しだけ冷静さを取り戻して考えてみれば、先の出来事はあの振る舞いを見せているのが宮永照だという点を別にすればおかしなところはどこにもないことがよくわかる。単に彼女は注目を集めすぎたのだ。それは菫の想定したよりも、そしておそらく前部長や学校が想定していたよりも。厳密に言えば照の振る舞いについて菫が尋ねる必要はなく、それを彼女も理解してはいたが、それでも尋ねないという選択肢はないようだった。

 

 

 翌日、当の本人は休憩中なのか椅子に座ってチョコ菓子を口に放り込んでいた。何の影響を受けたのかは菫の知るところではないが、照は夏休みが明けてから部活の合間にお菓子をつまむようになった。頭脳スポーツに分類されるだけあって、麻雀という競技は想像以上に脳を酷使する。それだけにブドウ糖などの頭への栄養補給は重要だとされている。そういった事情もあって、麻雀部員たちは休憩時間に食べたり飲んだりすることにあまり抵抗がない。もちろん女子高生がゆえにカロリーとの兼ね合いも考えていろいろと苦労を重ねていたりするのだがそれはまた別の話である。

 

 菫が隣に座ると、照は無言のうちに手に持ったチョコ菓子を勧めてきた。甘くておいしそうだなと思いはしたが、なんとかそれを押しとどめて菫は照の善意を手で制する。

 

 「なあ照、昨日テレビでやってたインタビューなんだが」

 

 「見たの?」

 

 いつものように視線を向けることなく淡々と言葉を交わす。照の調子は普段と変わらない。空の様子について話しているかのような調子だ。

 

 「ああ、お前あんなふうに喋れたんだな」

 

 「人前に出るならあっちのほうが自然でしょ?」

 

 「大女優の言い方だな」

 

 「女優なんて興味ないけど、私はそういうのを要求される立場だから」

 

 それを聞いて菫は目を丸くする。たしかに照は頭の回転は悪くないし、それなりに気を利かせて行動を取れることは事実だ。だが周囲、それも白糸台以外の周囲に与える影響を考慮に入れた上で取るべき道を選ぶとなると、それは菫の中の宮永照像を超え出たものだった。

 

 「……それを実生活で活かそうとは思わないのか」

 

 「余計に疲れることにあまり意味があるとは思わない」

 

 「全国的にお前に対する勘違いが広まるな」

 

 「別に気にするようなことじゃない。本当のことを知っている人はいつだって少ないもの」

 

 そう言って照はチョコ菓子をひとつ口へと放り込んだ。まるで達観したかのような照の物言いは堂に入ったもので、その場しのぎの発言ではないことがよくわかる。いったい何が彼女をここまで変えたのか菫にはわからなかったが、そこに疑いを差し挟む余地はないようだった。

 

 菫は照の持っていたお菓子の袋からひとつつまんで取り出し、上品に口へと運んだ。塗りつぶすような甘味が口の中に広がる。一連の流れを照はじっと見ていたが、結局は何も言わずに照自身もお菓子を食べることに集中し始めた。

 

 

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 季節は巡って夏とは違う意味でお風呂が恋しくなる頃、白糸台麻雀部の活動形態はひどく安定していた。言い方を悪くすれば変わり映えしないと言ってもいいくらいである。ときどき照が練習をテレビやら雑誌やらの取材で抜ける以外には大きな問題も発生していない。普段の練習に加えて、日によっては近場の有力校と練習試合などを経験した部員たちは傍目に見ても順調に成長しているようだった。菫も他家のアシストをすることで照の連荘を止めることができるようになりつつあった。まだ彼女に勝つ方法だけは見当もつかないが。

 

 新部長から頼まれていた一年のとりまとめ役も、菫は見事にこなしていた。とはいっても意見の吸い上げや部全体の連絡の管理くらいしかやることがないため、それほど大変というわけでもなかった。菫はその辺りのことを公表することなく自然にそうなるように仕向けていったから、とくに反対の意見が出るようなこともない。人心掌握というと言葉が過ぎるかもしれないが、それの種のようなものを持っていることは否定できないだろう。

 

 

 菫は麻雀部専用の資料室の一角に陣取って様々な牌譜を見比べていた。外には冬の到来を告げる冷たい風が吹いている。窓から見える校門の周辺にはマフラーや手袋、中には軍手などという防寒具を身につけた生徒たちが散見される。部活が休みで、これから帰るのだろう。一方で菫は紙媒体であったりパソコンの画面であったりを睨みながら深く考え込んでいる。

 

 麻雀という競技について思考を巡らせることは極めて難しい。そもそもの基盤として、運が絡むという性質を持っている限り正解などという考え方は持たない方が賢明だろう。自分が何を引いてくるのかもわからない。相手が何を考えてどう動いてくるのかなどもっとわからない。だから牌譜を使って考えるときはどこかで蓋をしてしまわないと思考の迷宮に陥ってしまう。だがどこで蓋をすればよいのかと問われてもその人の実力次第で線引きは変わってしまうから、“経験と勘” という実に不確かなものに頼らなければならない。それはバランスボールの上にヤジロベーを乗せるようなもので、どこまでいっても不確かなものであることに違いはない。尤も、上手な人の打ち回しを見るというのは勉強になるため、牌譜が役に立たないというのは誤解であることを付記しておく。

 

 彼女がじっと眺めているのは自身と似たタイプの雀士の牌譜で、そこから戦略の幅を得られないかと考えてのことである。さすがに強豪と呼ばれる高校だけあって興味深い牌譜には事欠かない。こうした地道な積み重ねはすぐに花開くわけではないが、蓄えた知識はいずれ繋がり合って実を結ぶ。弘世菫という名前が全国に知れ渡るのはそう遠くない未来の話である。

 

 がちゃ、と資料室の扉が開いて、そちらに目を向けると入ってきたのは菫と同じ一年生の部員であった。眼鏡をかけた、どちらかといえば内気なほうに分類される子だ。少女は軽めの挨拶をしつつ菫の近くに座った。ため息でもつきそうな、明るいとは言えない表情をしている。

 

 「どうした、景気の悪そうな顔をして」

 

 即座に菫は水を向ける。

 

 「あはは、いや、いつものことだよ。照ちゃんに吹っ飛ばされちゃって」

 

 「……まあ、アイツに関しては考えるだけ無駄だろう」

 

 別に頭痛の種というわけでもないのだが、菫は額に手をやってやれやれと首を振る。あの個人戦決勝以外では一度たりとも一着を譲っていないというのだから恐れ入る。連勝の数など数える気にさえならない。

 

 「頭ではわかってるつもりなんだけど、やっぱり悔しいっていうか、ね」

 

 ぽつりとこぼれた言葉は菫にもひどく共感できるものだった。たとえ相手が誰であっても負けるのは悔しい。いや、隠さずに言うならば勝ちたいのだ。

 

 「あれは理不尽だよなあ」

 

 「だよね、だから私もなんでそんなに強いの、って思わず言っちゃった」

 

 「で、照はなんて?」

 

 「 “私に妹がいないから” だって」

 

 「……またそれか」

 

 何度聞いたか知れないそのセリフに、菫はため息を抑えきれなかった。

 

 

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 年も明けて、高校生の間で行われる二つめの全国規模の大会である春季大会をおよそ二か月後に控えた白糸台高校はひとつの大きな問題を抱えていた。それは照のみならず多くの部員たちに対して行われる数多くの取材である。春季大会はインターハイとは異なり予選が存在しない。実績などにより選抜された、いわゆる招待による大会なのである。となれば団体戦優勝かつ個人戦準優勝の宮永照を擁する白糸台はほぼ出場が確実のようなもので、全国の注目が集まることも仕方ないと言えた。学校側はこれでも抑えているほうだと主張してはいるが、練習時間が明らかに削られている現状を鑑みると素直に頷くことは難しいというものだ。

 

 それがレギュラー候補のチームに名乗りを上げただけの菫にさえ飛び火してくるのだから、照の負担など容易には推し量れない。一言でも弱音を吐いてくれれば彼女を守るために全力で動くこともできるのだが、照は弱音を吐くどころかいつもと変わらない表情を維持し続けた。どこか普段と違うところはないかと聞かれても、せいぜいがお菓子の量が増えた気がするといったくらいで目に見える変化はなかった。

 

 

 春季大会はすべての高校が春休みに入った三月の末に実施され、その立ち位置はインターハイの前哨戦という意味合いが強い。例外的な新入生が入ってこない限り、次の夏を戦うのは春季大会を中心としたメンバーであるのだから当然と言えば当然の話である。もちろん夏の予選を突破するという前提はあるにせよ、全国のチームとの力量差を見極めるためにも重要な舞台だと言える。他の都道府県から見れば白糸台、ひいては宮永照のデータを取る絶好のチャンスというわけだ。

 

 夏の大会で照に魅せられたファンたちも、彼女を見ることを期待していた。天才とさえ謳われた戒能良子とギリギリまで張り合ってみせた宮永照が、いったいどんな進化を遂げたのかを見たいと思うのは無理もないだろう。それは優勝を期待してのものだったし、確信と言い換えても違和感の残らないほどのものだった。あるいは彼女に牙を突き立てられる者がいるのならば、それでもいいという思いも隠れていたのかもしれない。

 

 だが、出場校の算段も、ファンの希望も、どれひとつとして叶うことはなかった。

 

 それは春季大会を前に、宮永照が姿を消したからだ。

 

 

 三年生の卒業式を終えて、協会のほうから招待が届く直前のことであった。ひとつの学年がまるごといなくなって、なんだか空気が薄くなったような気がするそんな春の日。いつものように練習を終えて、いつものようにみんなと駅へ向かい、いつものように違うホームから別方向に進む電車に乗って、そうして、宮永照は姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 




これで一年生編はおしまいです。
また数か月後に二年生編でお会いしましょう。

何かございましたらメッセージ等によろしくお願いします。

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