影絵   作:箱女

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 日程の関係上、個人の予選は平日に実施される。しかし菫はその予選の日にきちんと学校に来て授業を受けていた。各校から個人戦に出られるのは七人まで、と定められている。高校によっては百人を超えるような部も存在するため、人数制限なく出場を認めてしまうと予選そのものがパンクしてしまうからだ。つまり、菫はその七人からは漏れていた。白糸台はその変則的な制度のおかげで団体戦のメンバーでさえ個人戦に出られない者もいるくらいなのだ、それは仕方のないことと言えるだろう。

 

 クラスの誰も気付くことができなかったが、菫はどこか上の空だった。もちろん姿勢正しく座って丹念にノートをとっているし、教師からの質問にもよどみなく答えている。周囲に気付かせない振る舞いは圧巻といえるものだった。そして残念なことに彼女の異変に気付く可能性を唯一持っている存在は、今この教室にはいなかった。

 

 

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 部長、と呼ばれるようになったのは先代から引き継いでからのことだから、もうじき一年が経過する。名前に先輩をつけて呼んでくれていた後輩たちが、そろって部長と呼び始めて戸惑ったことを彼女はよく覚えている。同い年の部員たちも初めはふざけて呼んでいたくせに、そのうちそれが自然になっていった。もう “部長” というのは自身の名前に等しいものになったことを認めないといけないね、なんてあっけらかんと笑う。彼女はこの大らかな人柄のおかげか人望は厚い。

 

 部長は宮永照を、どこか危うさを孕んだ人間であると見ていた。

 

 とくに何を話したというわけではない。相談を持ち掛けられたこともないし、なんらかの兆候が見られたわけでもなければ不穏当な発言を耳にしたこともない。ただ彼女をじいっと見ていると、いつも天井から頼りない糸で吊るされたガラス玉をイメージさせられた。部長は自身で人を見抜くような特別な能力を持っているとは思っていないし、また事実として持っていない。ただ彼女は気の利く人間で、すこし勘の鋭いところがあるというだけだ。だから何に対して危ういところがあるのかなど部長にはわからなかった。あるいはそれが大きな問題だったのかもしれない。

 

 

 女子団体予選は誰も文句のつけられないかたちで白糸台高校が優勝した。先鋒である自身を含めてメンバーは出せる限りの力を出したと胸を張って言えるが、それでもいちばん後ろに控えていた宮永照にその称賛がすべて集まるのは避けられないことだったと部長は思う。照は決勝では二校を同時にトバしてさえみせたのだ。

 

 のちに聞いたところでは、観客席は非常に静かだったという。実況やプロの解説などどこ吹く風で、ただただ目の前で繰り広げられているなにかに見入っていたそうである。その異彩は場が進行するごとに際立って、ゲームが終了するその直前に最も輝いた。これまでに積んできた実績や年齢を遠くに置き去りにする実力がそこにはあって、観客はそれに酔いしれた。誰しもが新たな女王の誕生を予感した。

 

 選手控室でメンバーと抱き合ってインターハイ出場を喜ぶなかで、部長は画面に映る照がすぐに席を立って一礼だけしてさっさと退場していくのを目にした。もともと感情表現の豊かな子でないことは、短いとはいえこれまで共にしてきた時間でわかっている。三年である自分たちと同じように喜びを噛みしめろ、なんて強制するつもりは彼女には毛頭なかったが、それでもあそこまで無反応だと気にかかるのは仕方のないことといえるだろう。それでもそのことで突っかかるのは上策ではないと思い直し、部長は改めて仲間たちと喜びを分かち合った。

 

 照は周囲のほとんどから、ひどくシャイなのだと思われている。感情を表に出さない割には受け答えがしっかりし過ぎているし、何より仲良しの菫とよく一緒にいることからそう思われている。部長の違和感もそのシャイという範囲に収まる程度のものではあった。だから照が控室でちっともはしゃがなかったことも白糸台の面々にとっては何ら不思議なことではなかった。

 

 

 雨こそ降っていないものの、救いといえばそれくらいしかないような暗く重たい雲が空を覆っていた。湿度も高く、そこかしこにカタツムリやナメクジが出張ってきている。会場へ向かうために家のドアを開けて外に出た瞬間に物理的に空気がまとわりついてくるような感じがして、部長は盛大にため息をついた。梅雨時のしとしとと降る雨は眺めとしては嫌いではないが、それは彼女自身が快適な部屋にいるときだけの話だ。

 

 部長は前もって考えていたほど、個人戦に集中しきれないでいる自分に気が付いた。原因とまで言ってしまうといささか言葉が過ぎる気がするが、やはりそれは団体で全国出場が決まったことが大きい。仲間と調和を大事にする彼女からすれば、団体戦で結果を出す以上のことは存在しなかった。しかしだからといって個人戦をどうでもいいと考えているわけではない。彼女が出場している裏には望んでも出られなかった部員が大勢いるのだ。

 

 実際に予選が始まってしまえばそんなこともなくなるだろうと考えて、部長はそのことについては放っておくことにした。この西東京地区では予選に七百人弱ほどの選手が出場し、その中で四人だけが全国大会へと駒を進めることができる。百人に一人も勝ち抜くことのできない、実に狭き門である。一次予選はランダムの組み合わせの東風戦を一定数行って、その得点の多寡で順位を決める。上位六十四人が二次予選へと進んで、そこから先はトーナメントの山を四つ作る。そしてそれらの一位が西東京地区の代表となる形式をとっている。トーナメントの山分けも一次予選の成績順に振り分けられるため、初めから手を抜くことができないのが特徴だといえる。

 

 団体戦の大将としてこれ以上ない活躍を見せた宮永照が、個人戦においてもその猛威を振るうものだと誰もが思っていた。あらゆる出場選手が彼女と当たりたくないと心の底から願った。しかし蓋を開けてみれば、照は一次予選こそトップで突破したものの周囲が考えていたような飛び抜けた成績をたたき出したわけではなかった。局によっては二着で終えることもあった。

 

 それは決まって照が東一局で親番を引いたときだった。照は必ず東一局では見に徹する。それは自身が親であっても徹底された。そして一次予選の東風戦を回すという性質と彼女の習性はひどくミスマッチなものだった。武器である親での連荘が初めから存在しないのだ。したがって安手を三つ和了って逆転できなければそれで終わりであった。もちろん逆転できた局もあったし、そもそも初めに親を引かなければ相手をトバすまで打てるのだ。彼女が一次予選で落ちる可能性など実力的にいってほとんど考えられないことではあった。しかし考えてみれば、照を叩くことができるのはここしかなかったというのもまた事実に違いなかった。真正面から打ち合えるのであればまた話は変わってくるのだろうが、この西東京地区にはそんな選手はいないようだった。少なくとも照にとってあまりよくない条件でも、彼女の成績を上回れる選手はいなかった。

 

 怖れつつも彼らが照に期待していたのは、全ての局で勝つことだった。それはとても無責任で、陰湿な期待だった。その期待は諦めと憧れと嫉妬の入り混じった複雑な感情から産まれる、ひどく歪なかたちをしたものだった。その中で唯一幸いと言えるのは、それらの感情が直に照に伝わらなかったことだろう。もし仮に届いたとしても彼女は表情を変えないだろうから、いったい何を思うのかは周囲の人間の知るところではないが。

 

 白糸台の七人は一次予選をなんとか全員が突破することができた。東風戦という流れひとつでどうにでもなってしまう形式で七人ともが残るというのは驚異的な結果である。それは図らずも彼女たちの層の厚さを見せつけるかたちとなった。

 

 

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 「改めておめでとうございます、部長」

 

 「あはは、これで面目保てたかな」

 

 観客たちはすでに帰って個人予選の熱気もすっかりとなくなった会場の廊下で、照と部長は並んで歩いていた。表彰式を済ませて、荷物を預けてある仲間たちのもとへと戻る途中だ。

 

 すこしだけ黄色をした灯りが廊下を照らしている。じ、じ、と電球の中でなにかが暴れるような音が聞こえる。ふたりの会話は淡白なものだった。宮永照とふたりでいると自然とそうなるのだ。敵意のようなものは互いに存在しないのに、どうしてか無言の時間を選びたくなる。決して無言が気持ちいいというわけではない。当たり前のことだが静かな場所より騒がしい場所のほうが好きな人間だっているのだ。それでもふたりでいると、自然と会話がなくなってゆく。あるいは照には言葉選びを億劫にさせるなにかがあるのかもしれない。

 

 窓の外の雲はその重たそうな色と質感を保ったままだった。雨粒が落ちてきていないのが不思議なほどである。あとは部員たちと合流して帰るだけなので、できればそのまま降らないでほしいなと部長が思ったのは自然なことだろう。

 

 歩きながら部長はちらと横目で照を見る。その顔はまっすぐ前を向いていて、まるでそこ以外に見るべきものなど存在しないと主張しているようにさえ見えた。強い視線だと感じ取ることはできたが、何を見据えているのかは部長にはわからなかった。ひょっとしたらわかる人間など世界に一人もいないのかもしれない。

 

 

 こうして西東京地区の予選は終了した。それは同時に宮永照の名が日本全国の高校麻雀の関係者に知れ渡ったことを意味する。まったく誰も知らない高校一年生の少女が、圧倒的と表現するしかないほどの力を以て西東京を制圧したことを。そしてその映像から彼らは判断した。彼女は間違いなく全国制覇を目指す上での壁になる、と。

 

 彼らのその推測はある一点を除けば、きわめて正確なものだった。宮永照は今後の高校麻雀界において絶対的に君臨する存在であったし、また彼女の所属する白糸台も全国最強と等しく扱われる名前となる。ただひとつだけ彼らが間違えていた点は、宮永照あるいは白糸台を倒すことそのものが全国制覇なのだと認識できなかった点である。そして結果としてそれを達成できたのは、彼女が高校生でいられる三年間のうちでたったひとりだけだった。

 

 

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 まだ菫が小学生で、麻雀を知らなかったころのことだっただろうか。その日は南方から台風が近づいて来ていて、ひどく風の強い日だった。朝から暴風警報が出ていて学校は休みだとの連絡網が回されていて、小さな菫が起きてリビングへ下りると母親がそれを教えてくれた。生活のリズムがきちんとしている彼女にとってもう一度ベッドに戻るのは難しく、仕方なく朝食をとってからソファに身を埋めることにした。正直なところ面白そうなテレビ番組はやっていない。菫は憂鬱そうに窓の外に目を向けて、ばたばたと窓を叩いては流れ落ちる雨を観察していた。

 

 父親は会社へと向かい、母親は流しで洗い物をしている。フローリングのリビングは広いぶんだけ閑散としていて、菫にはそれがなんだかつまらなかった。L字に置かれたソファの前にはお菓子の乗ったテーブルがあったが、さして気にも留めずにまた窓の外へ目をやる。窓に張り付いた雨粒の軌道は不思議なもので、同じところからスタートしたように見えるのにまるで違う方向に進んでいくことがしょっちゅうだ。とくに調べたいというほど気になるわけではないが、ただなんとなく菫はそれを見ていた。

 

 しかしそんなものをいつまでも眺められるほど成熟していなかった菫は、いつの間にか児童小説や携帯ゲーム機をひっぱり出してきていた。自宅で過ごさざるを得ない降ってわいた休日なのだ。ひとりで遊べるものをうんと楽しんでもバチは当たらないだろう。ずっとゲームばかりやっていると怒られてしまうが、その辺りは幼いなりに菫も弁えている。それに読書も面白いのだからそれで十分だ。そんな風にして風に閉じ込められた午前中は過ぎていった。

 

 ごうごうと風の音がするなかでの食事もまた普段と違う感じを菫に与えた。荒れ狂う雨粒と目に見えない暴力は外に出ることの危険性をわかりやすく伝えており、それはたしかに怖れを抱かせるだけの効果を持っていた。だが菫の心中には、恐怖とはまた異なる感情があったのも事実である。わくわくしていたのだ。ごく単純な、これまでに体験したことのない何かが起きるんじゃないか、といった罪のない期待。どす黒いと言ってもいい雲の向こうに、未だ見知らぬ素晴らしい何かが見えるような気さえした。まだ十歳にもなっていなかった菫はそれを論理的に考えるという発想そのものを持っていなかったため、そこに理由を求めることなどしなかった。ただただ途切れない興奮に身を浸していた。

 

 ニュースではこれからさらに台風が接近するとの報道がされており、各地の被害状況やら何やらを伝えるためにレポーターが大変そうな状況に立たされていた。菫の住んでいる地域はまだ本格的な強風に晒されていないとのことで、今よりもっと酷い天気になるのかと彼女は驚いた。これよりもっとスリリングな荒れ模様になるのかと、わくわくが強まった。

 

 しかし菫の期待に反して未体験のなにかは起きなかった。実際にはただ台風が近づいてきているというだけなのだから当然のことである。ほとんど一定にさえ聞こえる雨音と、食後ということも手伝って菫は眠気に襲われた。ふかふかなソファはまだまだ成長の余地を残した彼女の身体を掴んで離さなかった。

 

 

 ふと目が覚める。姿勢がよくなかったのか、はっきりと位置さえわかるほどの頭痛がしている。言葉のかたちを成していない小さなうめき声を上げて、菫は辺りを見回す。いつもの見慣れたリビングには違いないが、どうにも暗い。明かりが点いていないのだ。気が付けば体にかけられていたタオルケットをばさばさと退けて座りなおす。テーブルの上に紙片が一枚あるのに気が付いた。それによるとどうやら母親は買い物に行ったらしい。いくら立体駐車場のあるスーパーとはいえ、この天気のなか向かうのもどうなのだろうと菫は思ったがまさか呼び戻すわけにもいくまい。諦めて菫は電気を点けて小説の続きを読み始めた。

 

 時間が経てば経つほどに風は強まった。午前中でさえ小さな菫が外にはでられないな、と考えるほどの強風だった。それが今や吹くたび窓をびりびりと震わせるほどのものとなっている。外から聞こえてくる音は、ときおり信じられないくらいに鋭いものになった。それは世界に対する知識も経験も足りない菫を不安にさせてなお余りある威力を持っていた。

 

 もはや午前中のわくわくなど消え去っていた。菫の胸中をざわつかせるのは、空を覆う雲と同じ色をした感情だった。明かりはきちんと点いているのに、ねずみ色をした空気があらゆる隙間から侵入してくるかのような気がした。外の、がなるような音がすべて自身をめがけて発されていると勘違いしそうになる。菫に取れる手段は何もない。目を閉じて耳を塞いでも状況は何ひとつとして好転しない。家という人工物かつ人のぬくもりが感じられる空間において、初めて菫は孤独と自然の恐怖を知った。どれだけ願ったところですぐに母親が帰ってくることはなく、この世には絶対に逆らえないものがあるのだと身をもって理解した。

 

 

 そのあとのことを菫はよく覚えてはいないが、とりあえず母親が帰ってきたときに安心して腰が抜けたような記憶がある。あれほどドアが開く音を待ち望んだことなどなかったし、また今後もないだろう。とにかくその経験のせいで菫は嵐があまり好きではない。統計をとれば好きではない人のほうが多いだろうが、菫のそれは一般的なものとはまたすこし違っている。

 

 

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 梅雨空のせいで余計なことを思い出してしまったな、とため息をつく。外へ出るのに傘の手放せないこの季節は、祝日もないうえにテストやら何やらが重なるものだから年間を通してももっとも疲れが溜まるのだ。心なしかクラスの雰囲気も落ち着いているように感じられる。自分の席へ目を向けると、その後ろにはやっぱり照が先に来ていた。

 

 「おめでとう宮永。ずいぶんご活躍だったそうじゃないか」

 

 「ありがとう。それにしても耳が早い。部長から聞いたの?」

 

 普段と変わらず手元の小説に目を落としながら照が返す。

 

 「いいや、カマをかけてみただけだ」

 

 「私がもし負けてたら今のはすごく酷いセリフ」

 

 菫は手を口元にやって、くすくすと笑いながら鞄を置いた。照の表情はいつも通り変わることはなかったが、そのときだけは彼女の内心がわかりそうな気がした。

 

 「信頼だと取れよ、エース」

 

 「その呼ばれ方はあまり好きじゃない」

 

 「そうか」

 

 「そう」

 

 それからは何もなかったかのように普段と変わらず過ごした。照と付き合いのある人から見れば明らかに照と菫は仲が良かったが、それでもそのふたりはそこまでしょっちゅう話をしているわけではない。どちらかといえば菫はクラスメイトと話している時間の方が多いし、照は学校生活のほとんどの場面でじっと本に集中している。あまり高校生らしい友達付き合いとは言えそうにないのだが、それでうまくやっているのだから不思議なものである。

 

 

 事前に聞いている部員が多かったためか、部室での個人予選の結果報告は菫が考えていたものより淡白なものだった。部長自身もそこまで持ち上げるような言い方をしなかったし、照に至っては全国に出られることになりました、の一言で済ませる始末であった。あるいは反応が淡白だったのは期待の高さゆえだったのかもしれない。なんにせよこれで白糸台高校麻雀部のこの夏の予定は決まった。それぞれが気合を入れるなかで、やはり照だけはその表情を変えていなかった。

 

 

 

 

 

 

 


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