影絵   作:箱女

29 / 29
エタったりなんか、しない()


二十八

―――

 

 

 後悔をする準備をしておけ。先日のロビーの隅での会話の終わりに愛宕洋榎と辻垣内智葉が残した言葉がそれだった。春の選抜が始まって日程が進行していくなか、菫はその言葉がどうしても頭から離れなかった。なんらかの競技に取り組む相手に対してアドバイスを送る場合、後悔しないように全力を尽くせというのが一般的なものだ。当然ながら言われるまでもなく菫はそうするつもりで日々を過ごしてきたし、あの二人もそうしているだろう。そこに疑いはない。しかし飛び出てきたのは後悔しろ、という真逆の言葉。さて、と菫は頭を悩ませる。

 部の勝利に観点を置けば、負かしてやるから覚悟しておけ、との意味にも取れる。しかしそれでは通らない。直前に話していた内容が魔物を殺すという話だったからだ。もちろんそれぞれが部に対しての思い入れはあるだろうし、その最大の表現が勝利であることも理解しているだろう。ただ、あの場はそれを飛び越えての話であったことは動かない。では後悔とは何に対してのものなのだろうか。魔物たちに挑む宿命を抱えてしまったことに対してだろうか。いや、と菫はひとりで首を振る。それならあの二人はまず止めることから入るだろう。

 答えが出ないのならばいっそ聞きにいってしまえばいいのでは、という考えが頭をよぎる。それは決して間違っていないだろうことを菫は理解している。だがそれでも最後の結論として菫はひとりで考えることを選んだ。彼女たちがあの場でその言い回しの理由を話さなかったのならばそのこと自体に意味がある。そう考えたからだ。今のところ菫にその意味はつかめない。それにこの春の大会では菫自身はどうやっても宮永照とは当たれない。個人戦がないのだ。

 

 菫が以前に比べて遥かにひとりの時間を選べるようになったのは部全体が活性化したことに起因している。菫が指示を出すまでもなく部が順調に回るようになったからだ。夏の本番へ向けて、誰もがこの部で団体レギュラーの座を勝ち取り、そして全国制覇を成し遂げたいと考え行動していた。もしそうなれば前人未到の三連覇というおまけつきだ。菫が積極的に統率力を発揮する必要がなくなるほど部員全体の状態が上がっている直接の原因は秋の合同練習だろう。選ばれた者もそうでなかった者もその意味を受け取った。まさかまだ入学さえしていない淡がレギュラーはもらうと公言しているなかで発奮しないわけもない。それでは名門の名折れというものだ。

 

 菫はまたこのあまり好きになれないホールを歩いていた。前と同じ期待を抱いてはいたものの、どうやら感性は変わらなかったらしい。場所に好悪を見出さない菫からすると、負の方向性とはいえこの全国大会が行われるホールはある意味では特別な場所だった。

 右を見ても左を向いても選手の姿がある。この前に二人と話したような例外的な隅に行かない限りはどこもそうなのだろう。おそらくこれから始まる試合のことや他校の情報、今後における戦略などを話しているに違いない。あるいはそれも終わってしまって雑談をしていることもあり得るが、そこまで厳密に考えるつもりは菫にはなかった。というより菫は周囲にいる人々に意識を向けたくなかった。そこらじゅうから視線が飛んでくるからだ。そういった経験がこれまでにもないではないのだが、物量が違えば意味も変わってくる。きついというのが本音だった。これ以上のものを照が当たり前に耐えていたのかと思うと尊敬の念さえ芽生えそうになった。

 いっそもうホテルに戻ってしまおうかとも考えたあたりで、知った顔が小説を読んでいるのに出くわした。場所のことなど考えにないのだろう。周囲はちょっと離れたところから彼女を観察している。

 

「照。どうしたこんなところで。ロビーより観客席のほうが椅子は上等だろう」

 

「私が空いてる席に座ろうとすると周りによくない」

 

 想像に難くない。目の前の鉄面皮がひとつしか空いていない席に座ることに躊躇しないことは明白だが、それを周囲が当然と受け取らないのも同じくらいわかりきっている。下手をすれば変な気をきかせて席を立つ者まで出てきかねない。本当に気にしているかどうかは別にして、彼女も自身の立ち位置は飽きるほど叩き込まれているだろう。それも菫の想像もつかないくらいに。おそらくそれがあるから観客席は遠慮したのだろう。だからといってこんなに人通りの多いロビーで読書にふけるのはやはりずれていると言えるが。

 

「そうか」

 

「菫は? てっきり観戦しながら分析でもしてるかと思ってた」

 

「ある程度のデータは事前に揃っているし、今夜まとめてやるつもりだった」

 

「そういう柔軟な考え方は大事だと思う。これまで菫は真面目すぎた」

 

「意地悪を言ってくれるなよ。私も部長になって初めての大きい大会なんだ、緊張してるんだ」

 

 そう言ってみたところで照の表情は動かない。まるで菫の冗談なんて聞いてもいないかのようだった。お互いに真剣なことでないのは了解のうえだが、それでもこの見透かすような目はあまり気分のいいものではない。

 何がどう作用したということもなく、ただ二人は離れようとはしなかった。菫は照の隣に座って、照はそれに何を言うでもなく手元の文庫本に目を落とした。よく学校で見られる姿だった。

 

「それ、何を読んでるんだ?」

 

「わたしが・棄てた・女」

 

「それがタイトルなのか?」

 

「そう。遠藤周作というひとの作品」

 

「ああ、その人なら聞き覚えがあるな。面白いのか?」

 

「まだわからない。途中」

 

 それはそうだ、と菫は下がることにした。たしかに本など読み終わってみなければその評価を決定するのは難しい。序盤中盤と面白くても最後でどうしようもなくつまらなくなることもあるだろう。その逆だってあるかもしれない。それは誠実な態度で、油断していない。

 

「そういえば照、今年はいなくならないんだな」

 

「去年は理由があった」

 

 宮永照が昨年の春の選抜大会をまるごと欠席したのはまだファンのあいだでは記憶に新しいところで、それを心配する声もあった。揶揄するようなものもあったがわずかなもので、学校側はいちいち対応まではしなかった。内情を知らない者はいい気なものだと言いたくなるが、それを目の当たりにした白糸台の二年生でさえ内情を知らない。菫も知らない。照本人を除いて誰も知らないのが事実である。水を向けたくなる菫の心情も理解できるものだった。

 それを問われての照の返答はいつもの通りにすぐに返ってきた。そのテンポだけを見るなら、隠すようなこともなければ恥じることもないといった具合だった。彼女の声の調子は変わらないからそれ以外の判断材料がないのだ。とはいっても返答に詰まることなどこの二年間で菫もたった一度しか見たことがないのだから、それを判断材料として扱ってよいのかは難しいところだった。

 

「その理由は聞かせてもらえるのか?」

 

「最終的には、私にも感情があるということ」

 

「ひとつもわからないんだが」

 

「楽しむ気持ちも悲しむ気持ちも、惜しむ気持ちもある」

 

「それは知っている。少なくとも私はお前と友達だからな」

 

「そうだね」

 

 そう言うと照はまた文庫本に視線を落とした。説明は終わったと思ったのかもしれないし、これ以上話すつもりはないとの意思表示なのかもしれない。こうなってしまえば菫にはどうにもできない。聞き直すという選択肢はもちろんあったのだが、菫の気は進まなかった。ちょっかい程度で始めた話で詰めても仕方がない。それに聞かれて楽しい話でない可能性は高い。無断で大会ごと欠席と考えれば重大な問題が起きていたこともあり得る話だ。

 ここで照を見かけるまでなんとなくホテルに戻ろうかと思っていた菫は、結局戻ることをしなかった。照の隣に座って、ただ何もせずに時間が経つのを待っていた。周りから見ればさぞ違和感のある脅威に映っただろう。最大の優勝候補のダブルエースと言ってもいい二人が言葉も交わさずに、ただそこにいる。誰を待っているわけでもなければどこに行こうということもない。それはある意味で彼女たちの立ち位置を示していた。

 それから三十分が経過した。

 

「ねえ菫」

 

「どうした」

 

「この大会で本気は出す?」

 

「全試合はさすがにしないな。というより通して三局四局がいいところだろう」

 

「理由は?」

 

「知っての通り私の武器はバレても問題ない。が、戦術の幅を狭める必要はないからな。ツモもできればオリも選択できる。要は使いどころというやつだよ」

 

「そう」

 

「感謝してるよ。私のこの形はお前のアドバイスがなければ完成しなかったんだからな」

 

 言葉にして菫は冷たいものが背筋を駆け抜けるのを意識せずにはいられなかった。彼女のこの武器は、狙撃は宮永照の上を行くためのものだ。連荘を止めるためだけのために生まれた他家のアシストが姿かたちを変えて成ったものだ。その武器を手に入れたことで弘世菫は読みの精度を上げ、プレーそのものの質を高めた。そしてそれを誰が導いたのかを理解できないほど菫は鈍くない。

 彼女の牙は、魔物に届くまでになったのだ。岩のようなリアリティがそこにあった。疑っていたわけではない彼女たちの言っていたことが、パズルの最後のピースをはめたようにぴたりと動かなくなる。血の匂いがした。いや、やっと気付いたのかもしれない。

 菫の肌がいっせいに粟立つ。宮永照は、ずっとそれを望んでいたのだ。打とう、勝負しようと誘っていた。去年もそうだ。西東京の個人地区予選で菫が潰されたあのときも。

 

( あのとき私は勝つつもりで打ってはいなかった )

 

 一方で常勝の怪物はどうだったか。ただの一度も手を抜かず、誰を相手にしても変わることなく全力を尽くして勝利を重ねた。その姿勢は部に入ったときから貫かれている。彼女は姿勢で示し続けていた。手を抜くな、全力で向かい合えと。主張していたのだ。食い合おうと。

 菫がそれをどう感じたかを正確に言葉で表現することは難しい。ひどく重たい、澱んだ感情だ。大きな恒星が星系を作る。それを中心にして世界がぐるぐる回る。そして、ちょっとずつ中心に引き寄せられていく。誰も逆らえない。生命に栄養が必要なように。

 

 ふと、後悔とはこれのことなのだろうかと菫は考えた。これでも納得できそうだと思えたが、しかしなんとなく違うような気がした。

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。