影絵   作:箱女

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二十

―――――

 

 

 

 「亦野、少しいいか?」

 

 そう言って腕組みをしつつ資料棚に背中をあずけた菫の姿は、まるで撮影のセットのようにぴったりと風景として馴染んでいた。それは誠子と向かい合っている資料棚の隣の棚で、誠子からすれば突然ではあったがどうしてか驚くようなことにはならなかった。棚と背のあいだには艶やかとしか表現しようのない長い黒髪が挟まれているのがわかる。誠子からすればそれは一種の自傷行為であり、また冒涜でさえあるように思えた。あるいは自身の持っていないものに対する幻想的な憧れが影響していたのかもしれない。

 

 しかし、と誠子は思う。この人の所作はどうしていちいち華を伴うのだろうか。何度となく頭に浮かんできたことが、不意にまた誠子の頭をかすめた。それは尊敬する先輩の髪に対する思いと同時のものであったから、もしかすると並列思考と呼ばれる特別な技能として評価されるものかもしれなかった。とはいえ仮にそうだったとしても現実に並列思考だなんて名前で呼ぶ価値はほとんどなかっただろう。実際それらの思考はまったく同時であったにせよ、ごく短時間のあいだに生まれて、そして何も実を結ぶことなく消えて行ったからだ。

 

 気が付けば誠子はただ菫に顔を向けたままで、じっと黙っていた。

 

 それをどういった沈黙と取ったのか、菫がちいさく顔を傾けて視線を足元へ落とした。付き従うように自由の利く黒髪がさらさらと流れる。

 

 「調子はどうだ」

 

 「……あはは、気付かれてました?」

 

 「まあ、卓に着かなくなって今日で四日目になるからな」

 

 誠子は棚にぴったりとくっつけられていた椅子に腰を下ろした。白糸台の部では資料を読むのにルールを特別に設けているわけではないが、それなり以上に長い時間をかけて読む部員のために、いくつかの資料棚の前には椅子が置かれている。もちろん棚の低い位置にも牌譜なり資料は数多くしまわれているが、低い位置に行けば行くほど古いものとなっているため、用事のある部員はまずいない。例外としては統計的な研究を行うような場合であれば下段の資料にも出番はあるのかもしれないが、加えて専用の資料室まで存在しているせいでそこまで徹底する部員もなかなかおらず、椅子が置いてあっても邪魔にならないというのが現状であった。

 

 もともと立っているときでもすこし目線を上げる身長差だったものが、座れば見上げなくては視線を合わせることができなくなった。そこにはたとえば対局のときにあるようないつものものとは違う、不思議な緊張があった。

 

 「あー、その……、……いや、あはは」

 

 「いいよ、たぶんだが大体はわかってる。アレを相手に無理はするべきじゃない」

 

 包むような声色だった。言葉そのものの意味以上に伝わるものがあるのだということを、まずは無意識に、次いで意識の上で誠子は認めなければならなかった。

 

 「前、入部してすぐでしたよね、先輩が私を止めてくれた意味、やっとわかりました」

 

 口調としてはぽつりとこぼすような、独り言に近いものだった。ほとんど甘えのようなものだと自覚こそしていたが、それでも止めることはできなかった。これに対して返事がないだろうことは彼女にとって半ばわかっていたことだった。湖に石を投げれば波紋が立つのと変わらないくらいに自明のことだった。いま誠子は顔をただ前へ向けている。視線の先には卓やそれを囲む部員たちの姿がある。しかし誠子の目は特定のなにかに注がれてはいなかった。

 

 「()()っていう言葉の意味合いが違っていたんですね」

 

 ひとつひとつの音や発声は決して大きくはないが、全体を眺められる位置に来てみると、それらが合わさってある一定程度の力になることに誠子ははじめて気が付いた。思い出してみれば自身はずっとその渦の中にしかいなかったような気もしてくる。うねるように高く低く押し寄せてくる音の混合物に誠子はなんとなく波のイメージを重ねた。

 

 疲れているのだろうか、と自分に問う。理由付けならいくらでもできる環境下にあるのだから、そうだと言い切ってしまうのは簡単なことだった。

 

 「……先輩は、宮永先輩とどれくらい打ってきたんですか?」

 

 「数えたことはないが、それでも多いというわけではない、と思う」

 

 誠子の隣にいる背の高い部長は思い出すように視線をいちど上に投げて、そうしてから確認するように呟いた。それはたしかに呟きだったのに、誠子の耳には一粒も漏れることなくきれいに届いた。彼女の声はよく通る性質のもので、その特徴だけを取り出して人の前に立つために選ばれたと言われても納得できそうなほどのものだった。反面、内緒の話なんかは難しそうだな、と誠子は考えたことがあるがそれはまた別の話である。

 

 不意に空気の流れが変わったような感じがあって、ふと顔を上げるといつの間にか切れ長の鋭い目が誠子をまっすぐ捉えていた。あの目については今年入部した部員であれば誰でも一度は話題にする。あまりにも弘世菫という個性に似合いすぎた黒い双眸は、彼女の実際の人格とは別にしてもやはり冷ややかな印象を残していた。しかし誠子の眼前にあるのは、一年生たちのあいだに広がる印象とはまるで異なる温かさだった。

 

 「なあ、卓には着けそうか」

 

 「……宮永先輩とはすくなくともあとひと月は打ちたくありません」

 

 言ってしまったあとで誠子はすぐに後悔した。ほとんどの場合、口をついて出るような言葉は自身にとって良くない種類のものであることは身に染みて知っていたからだ。しかし冗談ほど明るさに振り切るわけでもなく真剣な話ほど深刻さを持ち出すこともない、そんな煮え切らない調子の誠子の返答は、意外にも笑い声で迎えられた。

 

 「ふふっ、なんだ亦野、思っていたより言うじゃないか」

 

 まったく想定外のリアクションをもらって、誠子は言葉らしい言葉を返すことができなかった。頭に血が上ったときのように顔が熱くなった。もちろん原因は恥ずかしさのあまりに、ということだ。もう秋だと言い切ってもいいだろうというくらいに気温はちょうどいい日の午後ではあったが、そんなことは吹き飛んでしまうくらいに制服の下では汗がにじんだ。

 

 腕組みの状態から口元に手を自然にやって笑う部長の姿はまたしても品があって、誠子はだんだんそれがどうして自分の目の前にあるのかがわからなくなりそうになってきていた。目の前の人物は白糸台高校麻雀部を率いる立場にある特別な存在であることは疑いようのない事実だが、自身はその部のただの一員でしかない。現段階ではレギュラー争いに名乗りを上げたわけでもない。それがこうやって一対一で、それもきっと励ますためにだ、話してくれているというのは誠子にとってどこか現実感のないことのように思えた。ただ、その違和感は次の一言で途端にかたちを変えた。いい方にか悪い方にかは誰にもわからない。

 

 「……ああ、そういうことか。あのな、照のやつが言ってたぞ、お前は強くなるそうだ」

 

 「はい?」

 

 「その調子なら問題ないだろう。期待しているよ」

 

 椅子に座っている誠子の肩を軽く叩いて音の満ち満ちた世界に歩を進めていく姿は、颯爽という形容がぴたりと鳴るほど当てはまっていた。誠子はそれをただ黙って眺める以外の行動が取れないほどであった。時間が必要になった。もう卓に着くことはできるだろうし、直接あの怪物にぶつからない限りはプレイング自体に影響が出ないだろうことも誠子は自身で理解してはいた。つい今しがたまでは、じゃあそろそろ練習に参加しないとな、なんて考えていたものがたったいまこの瞬間にそれどころではなくなった。

 

 

―――――

 

 

 

 雲が空を覆えばきちんと冬服か、あるいはさらにセーターやカーディガンを着なければ肌寒さを感じるほどに秋が深まった。もう夏を思い出すよりも近づいてくる冬に思いを馳せる季節だ。菫も冷え症というわけではないが、全体的に見て身体にあまり肉がついていないせいでブレザーの下にセーターを着込むのは早いほうだった。

 

 菫と照の仲が良いのは周知の事実であったが、だからといって二人が四六時中ずっといっしょに行動しているわけではないということもまた知れ渡っていた。ふたりの学校での生活を考えるならそれは当然のことのようにも思えたし、一方で奇妙なことと言っても通りそうだった。菫と照ではその持つ意味こそお互いに違うが、周囲はふたりに対して集団の中心にいることを期待していた。菫の場合はクラスにおいても部活においても先頭に立つことが半ば自然になっていて、照の場合はいつの間にか周囲に人の輪が出来ていることが珍しくなかった。テレビの中の宮永照もまた宮永照の一部であることに違いはないらしく、読書に入り込むという癖はあるものの独りで過ごすことを決して最優先にはしていなかった。ある意味ではどちらもが抱えている人垣がふたりを引き離しているようにも見えるのだが、彼女たちに限って言えば、そういう実際的な事情など関係なく一つの付き合い方として外から見れば淡白にも取れる関係なのだ、と言われれば納得できてしまうような雰囲気がふたりのあいだにはあった。だからどちらかといえばいっしょに部室へ向かうよりも、むしろそれぞれのタイミングで教室を出るほうが光景としてはよく見られていた。

 

 ホームルームが終わって菫が教室を見回すと、出入り口の辺りに照の後ろ姿がちらりと見えた。行動を起こすのが早い照は、条件さえ揃えば躊躇なく教室を出て行くし読書を始める。もちろんホームルーム終わりにクラスメイトと話をすることもあるが、彼女から積極的に行くパターンはなかなか見られない。菫も行動が早い部類に入るだろうと自覚しているが、そこまで徹底しているかと問われれば首を縦に振るのは難しかった。

 

 廊下の閉められた窓ガラスの向こうはどうやら風があるらしく、しきりに木の枝が揺れていた。枝についた葉はまだ緑色こそしているが、春から夏にかけてのみずみずしさは失われているように見える。リノリウムの床の上に立って見るその情景からは寒々しいものが感じ取れた。葉が落ちてしまっているよりははるかに見栄えはするのだが、そんなことには思い当たることもなく菫は部室へ向かって歩き始める。

 

 「やっほう菫ちゃん、もうここんとこずーっと寒いね」

 

 「ん、遠山か。そうだな、ちょっとずつ朝がつらくなってきた」

 

 「あっはっは、菫ちゃんも人間だねえ」

 

 どこにでもある女子高生の会話で、どこにでもある光景だった。特別なものなんてどこにもなかったし、ある理由も必要もなかった。最近あったちょっとした偶然のことや噂話、教師への愚痴なんかが無目的に消費されてゆく。長い人生のなかのどこかでもしかしたら思い出すことがあるかもしれない、そういった日常の一ページだった。

 

 「あいつフツーにくしゃみとかするぞ?」

 

 「うっそ、あたし見たことないんだけどどんな感じなの」

 

 「控えめな感じのやつだな、変な言い方だが妥当というかなんというか」

 

 「えー、照ちゃんのくしゃみちょっと見てみたい」

 

 「そういうものでもないと思うんだが」

 

 「あ、照ちゃんで思い出したんだけど、最近あれ聞かなくなったよね」

 

 「あれ?」

 

 指すものが不明瞭な言葉に思わず菫は聞き返す。話が急に飛んだことも影響していたという見方もあるかもしれないが、女子高生の会話ということを前提に置けばそれほど変な話でもない。

 

 「私に妹が、ってやつ」

 

 「そう言われれば、……そうだな。そんな気がする」

 

 対局も会話も今までと大差なく交わしてきたなかで、そのセリフをいつ聞いたのか菫は思い出せなくなっていた。すくなくとも夏には、インターハイには聞いていない。それなら春は、冬は、と遡っていってもここだと言い切れる自信が菫には持てなかった。

 

 その言葉にどんな意味が込められているのかは菫にはわからない。だがそれが嘘だということについては確信を持っていた。ほんとうに妹がいない人間が自分に妹のいないことをわざわざ言う必要はないからだ。事情など想像もつかないが、照が何かを抱えているのは間違いない。その象徴のような言葉が聞かれなくなったことが菫に違和感を残していったのは当たり前のことであった。

 

 「なんか決め台詞ー、みたいな感じに思ってたんだけど」

 

 「そんな意味の分からない決め台詞があってたまるか」

 

 動揺はあったが、菫はそれが表面に出ないように努めた。あまり好きではない言い回しを近ごろ耳にしていないだけで挙動がおかしくなれば、疑問を持たれるのはそれこそ菫になってしまう。それは周囲からすれば菫がそこで動揺する理由そのものがないからだ。菫の認識している照の異常性と、部員たちが認識しているそれは明らかに別物だった。なにかが軋む音がした。

 

 努力が功を奏したか、菫のほんのわずかにぎこちない振る舞いは隣を歩く部員の目には留まらないようだった。普段の学校生活における会話の中でのちょっとした笑いも維持することができた。歩く速度も声の大きさも変わらず、どうにか部室にたどり着いて独りになれた瞬間に、菫の身には疲れがどっと押し寄せてきた。閉め切られた室内の空気は乾いていて、息を吸おうとすると喉に変な感触があって菫はせき込んだ。部活の開始まではまだ十分ほどの時間があって、見渡せば一年生たちが自動卓の準備をしている姿が目に入る。照は窓際のほうの卓に着いて、やはり小説を読んでいた。

 

 ( ……変化だと? ()()()()? )

 

 強めの咳払いをして、菫は準備をしている一年生を手伝いに歩き出した。

 

 

 

 

 

 


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