影絵   作:箱女

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十九

―――――

 

 

 

 雲はわずかに厚みを増していた。しかしそれでも日の光を透かすのには変わりなかった。同じように朝に比べれば湿度も増したように感じられるが、それは空一面に広がる厚くなった雲が思い込ませているだけなのかもしれない。やはり風はなく、外の明るさのわりには空気が重い。ほんの一、二週間前まではすかっと突き抜けるように青く晴れて暑かったことがまるで嘘に思えるほどの空模様だった。

 

 機会を見計らって照を部室の外へと連れ出すことを決めた菫は、二着で終えた対局に一礼をして席を立った。他家からもそれぞれ少しずつ違ったタイミングで挨拶が返ってくる。そのやりとりは菫にとってあまりにも自然なもので、だからこそ部員たちは彼女の振舞いが正しいのだと納得することができていた。もちろんそんなことは誰も菫に言わないから彼女自身そういったタイプのある種の尊敬を集めていることは知らない。そんな彼女が対局直後に席を立ってどこかに向かうのはどちらかといえば珍しいことに分類される。なぜなら大概の場合は席を立ったところで誰かに捕まるのが通例だからだ。よその学校が想像しているほど白糸台麻雀部も菫個人も対局詰めの練習を行っているわけではないが、それでもたしかにいろいろと差っ引けば彼女の休憩時間はあまり多いとは言えそうにはなかった。人によっては話しかけるチャンスを見つけられずに一日を終えることすら珍しくはないほどなのだから。しかしそういう状況下にあっても菫は簡単に照を伴って部室を出ることができた。どういうわけかそういった隙間を縫うような短い空き時間を見つけるのが菫は得意だった。

 

 廊下を振り向きもせずに足早に歩いていく菫の後ろ姿からは、照が後ろからついてくることをまったく疑っていないということが読み取れた。事実、菫から三メートルほど遅れて彼女にぴったりついていく姿がそこにはあった。それはどこかしら不自然な距離で、上履きの立てる音はその三メートルを渡り切れないようだった。密度を上げた空気中の水分がそれを邪魔したのかもしれないし、もともとが音の立たない歩き方をしていたのかもしれない。いま二人が歩いているのは部活棟の廊下で、そこには生徒の姿は見受けられなかった。このまままっすぐ行けば渡り廊下があって一年十組の教室が見えてくる。菫の歩調を見る限り、どうやら部活棟を抜けるつもりらしい。

 

 教室棟へ入ると言葉にするのは難しい空気の質が一段変化した。それはいくつもある教室の奥でひそひそ囁かれている小声での秘密の話が何度も壁や床に反射して言葉としてのかたちを失くしてしまったせいのようにも思える。それはちいさな音量に違いはないが、まわりの環境があまりにも静止し過ぎているせいで浮いて聞こえるような気さえする。あるいはそんな音など初めからないのかもしれないが、森閑とした廊下の空気はそういう思い過ごしにいつも以上の現実感を与えるものである。造り込まれた空間だと言われれば信じたくなる人間も出るだろう。

 

 一向に緩まなかった菫の足取りは、四組と五組の間にある中央階段の近くへ来てようやく変化を見せた。麻雀部の部室は部活棟の二階にあり、その渡り廊下はもちろん教室棟の二階につながっている。教室棟は二階、三階、四階と階と学年が連動して上がっていくことになる。菫と照は二年生だから今のところ三階の教室に通っているということだ。学校という建造物の構造もあって屋上もあるにはあるが、時世の流れというべきか屋上につながる扉には常に鍵がかかっている。入ることのできない屋上に近寄る生徒など誰もいない。例外としてはその扉の前あたりの掃除担当くらいのものだった。菫の右足が上へ行く階段にかかる。

 

 「菫、屋上は入れない」

 

 「知ってるよ、わざわざルールを破って怒られるつもりもない」

 

 照が声をかけたのは菫が四階からさらに上へ行こうと階段を上がり始めたときだった。もっとせっかちな性格をした人物を連れていたら四階に上がろうとした時点で菫を止めようとしたかもしれない。そもそも二年生が三年生の教室のある階に行くこと自体少ないと言っていいからだ。

 

 照のほうから話しかけてくるのも珍しいと思ったが、それよりも菫は照が学校のルールのようなものを把握していたことに驚いていた。あるいは読書のために一人で屋上に行こうとした経緯があるのかもしれないが、それでも一般的な事柄が宮永照の中に残っているという事実に奇妙な違和感を覚えていた。ほんのわずかあってその考えが失礼であることにやっと菫は思い至った。

 

 「あまり知られてないけどな、実はここに部屋がひとつあるんだよ」

 

 そう言って菫は四階と屋上をつなぐ階段の踊り場にある扉を軽く叩いた。一般的な学校に溢れているスライド式のものではなく、ノブを回して開けるタイプのドアだった。白糸台高校も教室のドアはスライド式であったから確認してみると多少は面食らうものがあるはずなのだが、それでも意識しなければ印象に残りそうもない不思議なドアだった。踊り場という中途半端な場所が問題なのかもしれない。四階から屋上に続く階段は三年生が掃除担当であり、誰も来ないというわりには目立って汚いところはない。その汚れのなさだけを見れば普段から使われていてもおかしくなさそうに見えるのだが、ドアとして認識しようとするとドアというよりも壁が変形してそこだけがへこんでいるというようにしか見えなかった。

 

 

 いつの間にか手に握られていた鍵を菫が手慣れた様子で鍵穴に差し込むと、特徴のない音が立った。先ほどまで廊下を歩いていたのと同じように振り返ることなく菫は踊り場の部屋へと入っていった。やはり照がついてくることが当然だと考えているようで、菫はすこし長く開いているようにと通り抜けてからドアを軽く進行方向に押した。照も自然に菫の開けたドアをくぐった。猫がソファに自分の居場所を作ったときのように、照の足の動きとドアの閉まる動きにはぴったりと収まる感じがあった。

 

 「さて、あまり世間話をするつもりもない」

 

 「いいよ、なに?」

 

 部屋の中央で菫が振り向いた。踊り場の部屋の中は書類棚と職員会議などで使うような机ががいくつも並び、それに対してパイプ椅子がひとつだけ置いてあるというアンバランスな構成だった。配置から言えば執務室のような印象さえ受け取るかもしれない。しかし菫はそのパイプ椅子に掛けずに、立ったまま照のいるドアのほうを向いている。空が曇っているのに加えて窓の向きとは違うところに太陽があるようで、室内の暗さは時間帯を考えれば意外なほどであった。二人のあいだに一般的な女子高生同士のような明るい空気が流れる光景はほとんど見られないが、今のこの状況は部屋の雰囲気もあいまってより一段階暗い方向に傾いているように見えた。

 

 菫は短く息を切った。普段はできるだけ気を付けている目についてもう気を払うつもりはなさそうだった。もともと鋭いと評判の目はもはや他の人物であれば竦んでしまうだろう眼光に変わっているが、目の前にいる相手は何をどうしたところでまったく表情を動かさない宮永照ただひとりなのだから菫がそんなことを気にする必要はない。考え方を変えれば、菫が気兼ねをすることなく本気で話ができる相手は照だけということになるのかもしれない。あるいはそこに淡も入ってくる可能性はあるが度合いに違いは出てくるだろう。

 

 「なあ、おまえ亦野に何をした」

 

 「亦野さん? とくに思い当たることはないけど」

 

 「今日で三日目になる」

 

 「何が?」

 

 「亦野が卓に着かなくなったんだよ。部には出ているのにな」

 

 その単純に冷たいと一言では表現しきれない声を聞いている人物はこの部屋には他にいない。クールで落ち着き払った声色だとか、あるいは大人っぽい話し方という評価のついて回るいつもの菫の口調とはすっかり色が違っている。しかしだからといって具体的にどこが違うと指摘するのも難しい。それは照とはまた別の意味での菫の仮面でもあった。

 

 「何が言いたいのかわからない」

 

 「亦野と最後に打った中にお前がいたのくらいすぐにわかるさ、記録してるんだから」

 

 とくに強く張っているわけでもないのに演説のように通る声が空気をびりびりと震わせる。この場にいるのが照でさえなければ、空気を壁にして声に縫い留められたかのような錯覚を味わっていただろう。両者の性格を考慮すればあり得ないことだが、そこにはいつどちらが掴みかかってもおかしくないような雰囲気が流れている。部長はチームを守らなくてはならなかったし、エースには自身を曲げるという選択肢がなかった。

 

 互いに目を合わせていたそれほど長くはなく、時間にすれば二十秒から三十秒程度のものでしかなかった。その長いとも短いともつかない時間が過ぎ去ったとある一点で照がため息をついた。

 

 「……亦野さんだから、だと思う」

 

 「何を言っている?」

 

 「そのままの意味。亦野さん以外に同じ状況になってる人がいないことへの答え」

 

 「お前が亦野ひとりに的を絞って何かをした可能性は?」

 

 それを聞くと照は何も言わずに目を閉じてゆっくり首を横に振った。顔に動きはあったが表情に変化は見られない。それはただ眺めていると呆れられているようにも怒らせてしまったようにも見える。どこまでも感情を表に出さない彼女の鉄面皮に影響を与えるのは菫の知る限りただひとつ、彼女のことをきちんと知らない大多数の前という極めて限定された状況以外には存在しない。条件で見ればこの部屋はそれとは対極に近いと言ってもいい状況だ。照が自主的に表情の異なる仮面を被る理由などどこにも見当たらない。

 

 「言葉の向きが違う。彼女にしか受け取れないと言うべき」

 

 「もう少しわかりやすく説明しろ」

 

 「…………亦野さんは強くなるよ、菫。大事にしてあげたほうがいい」

 

 それだけ言うと照はくるりと身を翻して、菫に何かを言わせる前に部屋を出て行ってしまった。後に残されたのは菫自身とすっかり現実感の失われた空気だけだった。

 

 

 立地の関係もあって、本来であれば白糸台ではよく風が鳴る。普段から授業を受けている教室などは校庭に面しているせいで耳慣れている生徒はそれほど多くないが、一定の条件下ではびゅうびゅうと響く。実は踊り場の部屋はちょうどその条件にぴったりと当てはまっていつもならうるさいくらいなのだが、今日は珍しく風が完全に止んでおり、そのことがどうしても菫にとっては良い兆候には思えなかった。

 

 たったひとりしかいない踊り場の部屋は、よく言われるような広すぎる感じとは違って、その部屋にとっていちばん適切な状態のように映る。それにはおそらく居る人物が菫ということも無関係ではないだろう。もともとの経緯こそ菫は知らないが、とにかくここは麻雀部の部長が独りになるための部屋なのだ。考えるべきことがはっきりしている今、部活がまだ終わっていないことを除けば彼女がここを動く理由はなかった。

 

 頭の回転の速い菫にとって、照の口にしたことに対する仮説を立てるのにそれほど時間は必要なかった。照の言う特別性を総合して彼女が導いたのは、亦野誠子が異能を有している程度には鋭いものを持っているのだろうということだった。菫自身も照と打って吐き気に近い不快感に襲われた記憶さえあるが、思い出してみればたしかにあのとき他家に不快感はあっても自分ほど敏感に感じ取っていた先輩はいなかった。この違いの原因をどこに見るかと問われれば、感性の部分だろうと菫は結論を出す。となれば亦野誠子は自分よりさらに鋭敏に感じ取った結果として卓に着けなくなったとしか菫には考えられず、その付属物として異能を備えているだろうことは時間を措かずに推測できた。

 

 菫はこれまでの部活で誠子と打つなかで強烈な違和感を抱いたことはなかったがそれは当然の話で、部内だからといって自分の能力をひけらかすような真似をする選手はこの白糸台の麻雀部にはほとんどいない。能力には傾向があり、傾向があれば対策が立つ。部内でさえ勝ち抜かなければならないこの環境では誰であれそうそう簡単に奥の手を晒すわけにはいかず、したがって練習の仕方にも個々人で工夫が必要になり、それが白糸台を強くする。もちろん信頼できる相手に個人的に相談を持ち掛けることもあり、それらを含めて実に自由な練習体系を採っていると言えるだろう。

 

 頬杖をついたまま菫は、ふう、とすこし長めのため息をついた。

 

 

―――――

 

 

 

 踊り場の部屋から部室へと戻る途中、もう部活棟には入っていて、菫の考えの向きもどうやって後輩に話しかければソフトランディングになるだろうかということに集中していた。自身のイメージが厳粛やら潔癖やらそういう方面で固まってしまっていることを菫も知っており、それが部員に対してふつうに話しかけるのにマイナスの影響が出ているのが悩みのひとつだった。何度目になるかわからない、さて、を頭の中でもう一度繰り返したところで腰の辺りに後ろから大きな衝撃がやってきて、さすがの菫もたたらを踏んだ。

 

 「っ、な、なんだ!?」

 

 「スーミレっ♪ 難しい顔してどうしたの?」

 

 「お前か……。本当に危ないから後ろから飛びつくのはやめろ」

 

 はーい、とまるで反省した様子を見せずに返事をする淡の姿を見て菫は額に手をやった。どうも手のかかる子供がそのまま大きくなった印象がぬぐえない。実際まだ子供といえば子供ではあるのだが、中学三年生というのはもうすこし落ち着きがあるものではなかったかと菫は自問する。

 

 「というかお前こんなところで何してるんだ」

 

 「飲み物買いに行って戻ってきたらスミレがいたからやっちゃえ、って」

 

 菫はじとっとした目を向けていたが、途中ではっとなにかに気付いたように顔色を変えた。

 

 「なあ大星」

 

 「なあに?」

 

 「亦野について何か思うところはないか? ちょっと気になることがあってな」

 

 「亦野先輩? 見誤ってたかなー、って感じ」

 

 「どういうことだ」

 

 「んー、目良いしタフだし、フツーにいい人だし」

 

 この後輩の口からさらさらと感想が流れてきたことに菫は奇妙なものを感じた。そういえば行きと同じようにもう部活棟に入っているというのに、麻雀部の部員もよその部の部員も見かけていない。まるでこの場所に立てる人間が限定されているみたいに。

 

 「けど、へー。スミレも亦野先輩が気になるんだ?」

 

 「最近あいつ卓に着いてないだろう。どうにか元に戻してやりたくてな」

 

 「あ、そういうこと。だったら放っといても大丈夫だと思うよ、さっき言ったけどタフだし」

 

 「そうかもしれないが私がそれで納得するわけにはいかないんだよ」

 

 「スミレが話聞いてあげたら一発で治るでしょ、しかしブチョーさんは大変だね」

 

 目を細め舌を出して、いかにも自分はそんなことやりたくありませ~ん、と言いたそうな表情と同時に放たれたその言葉にいつの間にか力をもらっていることに菫は気付けなかった。皺の寄っていた眉間もいつの間にか和らいで、難しい顔が消え去っている。菫も淡も互いの顔や前を見ながら話を続けていたためどちらも気付かなかったのだが、窓の外の光を透かす程度の薄い雲にわずかながらとはいえ切れ間ができていた。残念ながら太陽の位置は合わなかったようで日が差し込んだわけではないが、そこからはちょっとだけ青空を覗くことができるようになっていた。これに気付けたのはほとんどが外にいた人だけで、校舎内にいた人は誰一人としてイメージの出来上がっていた今日の曇り空など見上げる気にすらなれなかった。

 

 菫は部室の戸を開けて淡を先に押し込むと、自身は室内を見回して目的の人物を探し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 


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