影絵   作:箱女

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 人生の中でも相当にひどい夢見だったような気がする。菫は見た夢を翌朝にはすっぱりと忘れてしまうタイプの人間だったから内容を憶えているわけではない。だがいやな夢を見た後だけはその気分だけが感覚として残る。それなら何のために人の脳はそんな働きをするのかと問い詰めたいところだが、残念ながら問い詰めるべき対象はどこにもいない。そんな苛立ちを追い出すように深くため息をついて、枕の側に置いてあるデジタル時計に目をやる。菫自身が設定したアラームの鳴る時間まであと二十分というところだ。別にその時間で何をするというわけでもないが、とりあえず菫は起きることに決めた。

 

 夢の内容は憶えてはいないが想像はつく。どうせ宮永照のものだろう。最終的な成績がどうなったかといえば、九回の半荘を戦って九連勝。うち全ての対局で誰かのハコを割らせている。つまり半荘を一度も消化していないのだ。さらに言えば南場に入ったのも二回だけ。理論上はそういうことがあってもおかしくはないと言えるが、現実にはそういうことは起こり得ない。いや、起こってはいけないと言うべきか。菫はもう一度だけため息をついてベッドから足を下ろした。

 

 朝食のときに両親から顔色の悪さを指摘されたが、なんでもないと言い張って学校へと向かう。まさか同い年のプレイングにあてられて気分が優れないなどとは口が裂けても言えまい。

 

 

 昨夜十一時ごろに降り始めた春のやわらかい雨は、菫が目を覚ました時点ですでに止んでいた。多少しっとりした空気だとは思うが大して不快には感じない。通学路のアスファルトはまだ濃い色をしている。道行く人たちの手元を見ると、傘を持っている人は誰もいない。もちろん菫も同様である。鞄の中に折り畳み傘を入れっぱなしにはしてあるが。

 

 中学と高校の大きな違いのひとつとして、菫は実感としての自由を挙げる。通っていた私立中学はあれこれとしてはいけないことの規則が多かった。もちろん現在通っている白糸台高校にもそういった規則はあるが間違いなくその厳しさはすこし緩んでいて、ああ女子高生っぽいな、と妙なところで納得するあたり菫も高校生という身分に対して何らかの幻想を抱いていたのかもしれない。

 

 開きっぱなしの戸をくぐって教室に入る。ふと自分の席の方へ目を向けると宮永照はもう彼女の席に着いていた。机の上に文庫本を出して、それに視線を注いでいる。菫はクラスメイト達と軽いあいさつを交わしながら自分の席へと向かう。かたん、と音を立てて椅子を引いて机の上に鞄を置くと、後ろの席から声をかけられた。

 

 「弘世さん、昨日はありがとう」

 

 「…………は?」

 

 菫にはまるでさっぱり礼を言われるようなことをした記憶はない。むしろ一方的にではあるが、礼を失したことを考えさえしてしまった。もちろん卓など囲んでもいない。

 

 「いやちょっと待て宮永、昨日? 私には覚えがないぞ?」

 

 「部活のあとでたくさん褒められたけど、最初に褒めてくれたの弘世さんだったから」

 

 口周りの筋肉以外は見事なまでに動かない。精巧なロボットに人間の皮を貼り付けたと言われても信じてしまいそうだ。熱心に読んでいたはずの文庫本にはかわいらしい栞がいつの間にか挟まれている。視界に入った些末な情報を処理しつつ、彼女が発した言葉をどうにかして呑み込む。

 

 不思議な物言いだ。どこかがかみ合っていない。ここがおかしい、とすぐさま指摘することができないぶん余計に菫のなかに妙な印象が残る。歯車同士がかみ合わなければならないのに、片方がゼリーのような軟らかいなにかで出来ているような感覚だ。形そのものは間違っていないのに感触が本来のものとは違うのだ。正しい返答が菫にはわからない。

 

 「……なんというか、まあ、その、わかった」

 

 「そう、何事も最初は大事。だからありがとう」

 

 どうやら菫は宮永照に対する印象をふたたび大幅に修正しなければならないようだった。昨日のイメージともそれ以前に持っていたイメージともまた違う。今の彼女は文学少女をこじらせたか、あるいは不思議ちゃんのどちらかと言うべきである。それならば昨日卓に着いていた()()はいったいなんだったのだろうか。菫は自分の席に座って、教科書などを机にしまいながら考える。あまりの強さに自分が勝手に作り上げた虚像なのだろうか。少なくとも今の彼女からは昨日のような気味の悪さはまったく感じられなくなっていた。

 

 昼に向かうにしたがって次第に雲は晴れてきたが、空はくすんだような水色をしていた。

 

 

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 弘世菫は、いわゆる良家のお嬢様に分類される。家庭環境も家族の関係もこれといって問題ないどころか、きわめて幸せななかに育ってきた。兄弟姉妹がいないことだけが彼女にとっての唯一の不満ではあったが、それ以外は本当に恵まれていると菫は自分のことながらそう思う。

 

 彼女は大概の場合、学級委員や部長などの人をまとめる立場にいた。それは生来の責任感の強さから来るものなのか、あるいは弘世菫という能力に彼らが期待を寄せたのかは定かではない。だが結果として菫はその役職をみごとにこなしてきたし、それは菫に任せたクラスメイトや部員たちも常に納得のいくものだった。頭の回転が速く、周囲に目を配ることに飛び抜けて長けているのは、もともとの素質とこれまでの経験によるものである。そのせいか同年代の中では達観しているようなところがあって、だからこそさらに頼られるようになった。

 

 小学四年生のときに友達に連れられて行った近所の麻雀教室が、菫と麻雀の初めての出会いだった。テレビ中継などで見たことはあったもののルールさえ理解していなかったから、ああ、なにか盛り上がっているな、くらいの認識しか持っていなかった。だから正しく麻雀と出会ったのはその教室だったといえるだろう。今でも出会ったときの、あの不思議な感銘を覚えている。場況が進むにつれて次第に引き絞られていく感覚に、幼い菫はわけもわからず興奮した。()()は面白いものだとすぐさま確信した。当時から頭一つ抜けて物覚えのよかった菫は、難なく麻雀の大雑把なルールを呑み込んだ。あとは実戦を体験しながら教室の先生に細かいところを教えてもらった。はじめは初心者もいいところなのだから勝てないのは仕方のないことだったが、そのぶん初めて勝ったときの喜びは一入だった。

 

 そうして麻雀という競技にのめり込んでいった菫は、地道に研鑽を重ねてついに中学三年のときに花開いた。全国大会への出場を果たしたのである。中学生雀士にとっては憧れの舞台であるその場は、各都道府県から選りすぐられた精鋭たちにしか出場することが許されない。もちろん出場だけで満足しているようでは勝つことなど到底できないが、素直に感慨に浸ることくらいは見逃されて然るべきだろう。菫はその大会で健闘を見せたものの、全国上位陣の壁は厚かった。折悪しくその年は他に類を見ないほどの実力者揃いの大会だったのだ。とても同い年には思えないほどの彼女たちの戦いを、菫は大会の途中から観客席で見ることを余儀なくされた。スクリーンの向こうにいるのは菫ではなかった。もっと自分が上手ければ、強ければ、こちらにいることはなかった。そう思った瞬間に、菫のなかで憧れが目標に変わった。

 

 菫の責任感の強さは自分自身にも及ぶ。一度決めたのだからそう簡単に諦めたくはない。たとえ後ろの席に自分の目標としたものを軽々と踏み越えていく可能性を持つものが座っていても。

 

 

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 その日、菫は照を昼食に誘った。あれだけの闘牌を見せられて興味を持たないというのも難しい話だろう。あまりに一方的であったことを差し引いても。さて昼食に誘うとはいっても確認してみればお互いにお弁当を持ってきている。わざわざ食堂の席を取るのも気が引けるし、菫としては話を聞きたかったから一緒に穴場を探すのも望ましいとは言えない。だから菫は普段の席からそのまま振り向いて、照の机の上で食事をとることに決めた。

 

 ほとんど自分から話しかけることのない照と、とりたてて口数が多いというわけでもない菫のふたりだ。食事は静かに進んでいく。不思議なことにその状況は、気まずさを生まなかった。

 

 「……宮永は料理とかするのか?」

 

 「お米を炊くくらいならできるけど、料理は無理」

 

 自分の弁当をつつきながら、何気ない会話を始める。

 

 「弘世さんはするの?」

 

 「私も料理なんて呼べる代物は作れないな」

 

 嫌味なく笑う。この年代で調理実習を除いて料理をしている、なんてのは女子に限っても少ないだろう。多少はそういったものに憧れなくもないが。しばらく何でもない会話を続けて、菫は本題に入ることにした。

 

 「なあ宮永、お前なんであんなに打てるのに中学でやってなかったんだ?」

 

 相も変わらずの無表情ではあったが、めずらしく答えるまでに少しの間があった。

 

 「……私に妹がいないから?」

 

 文脈のまるでつながっていない返答に菫は呆気に取られた。まるで表情を変えずに言い放つものだから、それが本当に理由なのかと思ってしまいそうになる。

 

 「……冗談苦手なのか、お前」

 

 「え、そう?」

 

 あくまでも平板に、そっけなく照は返す。菫に言われたことよりも目の前のお弁当のほうが大事なようだ。視線は明らかに机の上に注がれている。菫もとくに深くは考えず、たまたま通っていた中学に麻雀部がなかったとかそういう理由があるのだろうと結論付ける。ふつうでは考えられないような事情などは物語のなかの話であって、現実にそういったことはまずない。日本全国を探せばそういう人もいるかもしれないが、いま自身の目の前にいる無表情な少女がそれだなんてあり得るわけがない。確率的にいってそうだろう。

 

 教室にはクラス全体の三分の一くらいの人が残っていて、それぞれお昼を食べたりノートを出したりと自由に過ごしている。窓から見える桜はほとんどその花弁を散らしており、葉桜になる前のあまり綺麗とは言えない姿をしていた。

 

 

 白糸台高校麻雀部の、とくに団体戦のメンバー候補たちの当面の目標は宮永照の打倒になった。上級生が新入生を相手に何を情けないと思うなかれ、どの競技においてもそうだが絶対的な力というものは間違いなく存在し、才能は望んだからといって与えられるわけではなく、持たざる者にとって持てる者はいつだって想像を超えた壁なのだ。今やすべての部員が理解している。言葉にする必要もないほどに。もはやこの部の実質的な中心は宮永照なのだ、と。

 

 麻雀部の活動の中心は、基本的に実戦である。見学や牌譜の研究もトレーニングの一環としては重要なものには違いないが、それらのためにも実戦が欠かせないのだ。他のスポーツと違って基礎練習のようなものが存在しない。だから頭脳スポーツと言われる囲碁や将棋とその性質は近いといえるだろう。ランダム要素を常に含むという点では、それらの競技と明らかに一線を画しているといえるが。

 

 インターハイにおける麻雀の団体戦は先鋒から大将までの五人構成で争われる。各校の持ち点は十万点の変則ルールだ。その十万点を各自が二半荘ずつを戦って奪い合い、大将戦が終わった時点でもっとも得点の高かった学校が勝利となる。予選の場合は出場校数の多さの関係上、準決勝までは半荘一回となっている。持ち点が持ち点のため、あまり考慮されないことだがトビ終了もルールにはきちんと明記されている。

 

 その団体戦に出場するメンバーの選定方法が、白糸台は一風変わったものとして知られていた。監督がある時点でチームを四つ作る。それらのチームはそれぞれに特徴を持っており、攻撃重視型、守備重視型、速度重視型、そしてバランス型に分けられる。その四つを団体戦の様式で定期的に戦わせて、その結果で代表のチームを決めるのだ。例外として事前調査で九割以上の部員に推薦された選手は、どのチームが勝ったとしてもメンバー入りが約束される。その場合は部内団体戦の人数が各チームからひとりずつ減ることとなる。図らずもこのシステムは、現在のインターハイで行われている形式の不条理さを体現していた。

 

 

―――――

 

 

 

 「なあ宮永、団体戦のメンバー候補、どうなると思う?」

 

 わざとぼかした聞き方をする。

 

 「ちょっと意図するところがわからない」

 

 「お前が入るんじゃないかって話だよ」

 

 期待していたものとは違う可愛げのない回答に、菫はちょっとへそを曲げた。もっともその期待が達成されるとはほとんど思っていなかったが。

 

 「それは私が決めることじゃないから、なんとも」

 

 「どっちにしろその通りだけど、願望とかないのか?」

 

 葉桜の緑がきれいに映える昼休み、食後のなんとも気だるい時間。肌寒い日より暖かい日の割合が増えてきている。そろそろ高校生活に慣れ始めた一年生たちには、学校指定のブレザーではなくカーディガンなどを着てくる者も出始めた。菫と照はブレザーのままである。カーディガンやらセーターやらはあまり似合わないというのが本人たちの主張だ。

 

 「大会に出られたら楽しそうだとは思うけど、それとこれとは別」

 

 まるで年齢にそぐわない自制心というか欲の無さに菫はため息をつく。たしかに監督に選ばれるか事前投票で選ばれるかしなければどうしようもないのは事実だが、もっとこう、燃え立つものはないのかと問いただしたくなる。周囲から大人びていると言われる自身であってもそれは抑えられるようなものではないのに。

 

 「ねえ、弘世はどう? 出たい?」

 

 「そりゃ叶うものなら出たいさ。もっとも自分の実力くらい把握してるけど」

 

 いつの間にか照も菫のことを呼び捨てで呼ぶようになっていた。クラスや部活どころか学校中を探し回っても照がそう呼ぶのはたったひとりで、それだけ気を許しているということなのだろう。

 

 「そう。選ばれるといいね」

 

 「……気休めはけっこうだ」

 

 はあ、と先ほどとは種類の違うため息をひとつ。

 

 「ため息をつくと幸せが逃げるよ」

 

 「逃げていくような幸せなら初めから願い下げだ」

 

 「……弘世はときどきすごく男前」

 

 「私はそれを褒め言葉ととっていいんだよな?」

 

 ぐいぐいと照の頬をひっぱる。妙に伸びる。能面だ能面だとは思っていたが、実際には木彫りというわけでもないらしい。当たり前のことに菫は小さな感動を覚えて目を丸くする。

 

 

 その日、団体戦に向けての事前投票の用紙が配られた。無記名のうえに提出しなければならない義務もない。だからほとんどの場合において成立しない制度なのだが今回だけは事情が違う。宮永照がいれば全国大会出場どころか優勝さえできるかもしれないし、あるいは彼女ならば高校最強の呼び声高いあの天才にも届くかもしれない。そんな選手が部内の団体選抜で落ちる可能性があるということ自体がもったいないと言える。もちろん彼女が投票で選ばれてしまえば団体メンバーの席は減る。しかしそれでも、白糸台高校の一員として勝つ確率を上げることを多くの部員が選ぶだろうことは想像に難くなかった。

 

 部員全員が照と対局をしたわけではない。だが上級生を相手に未だ無敗どころか半荘を消化さえさせていない。この瞠目に値するデータを見て彼女を不必要だと言える者などおそらくいないだろう。そこに嫉妬や羨望や、さまざまな感情が起きていることも間違いのない事実ではある。しかしそれ以上に宮永照は強すぎた。議論を差し挟む余地などはじめから存在していない。

 

 結果から言ってしまえば、照は今年の団体戦のメンバーに選ばれた。この白糸台において異例の中の異例である。そもそもこの制度が機能すること自体が稀であるというのは先にも触れたことだが、その制度で一年生が選ばれるというのは史上初のことであった。

 

 

 照がメンバー入りを確定させた一方で、菫は四つの候補チームに入ることさえ叶わなかった。

 

 はじめからわかっていたこととはいえ、菫の胸中にもちいさな波が立っていた。他人への悪感情ではない。菫の場合、それは自分へと向かう。どれだけ抑え込んでも無力感や焦燥がどこかで燻るのがはっきりとわかった。それらの感情は自身の糧にならないと理解はしていても、完全な感情の抑制などできるわけがなかった。もちろんそれを表に出すようなことはなかったが。たしかに菫のなかに思い上がりのようなものがあったのは否定できない。そうでなければ人は選ばれなかったことに対して傷つきはしない。反面それはどの人間も程度の差こそあれ等しく持っているべきものであって、彼女のそれも決して間違ったものではない。

 

 幸いなことに麻雀のインターハイは常に東京で開催される。比較的近いのだからおそらくは部の全員で応援に行くのだろうし、仮にそうでなくとも一人でだって観に行ってやろうと菫は考えた。力がないのならつければいい。誇りを失ったのなら取り返せばいい。それをするだけの環境は整っているのだ。ふと以前読んだ本の一節を思い出した。“だから人間はいくらでも強くなれる”。状況が似ているなどとはちっとも思わないが、それでも菫はなんだか勇気をもらった気がした。

 

 

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 納得がいかないとまで言うと言葉が強すぎるが、菫にとっては不思議な現象があった。宮永照の周りには、自然と人が集まる。彼女のなにがそうさせるのかなどまるで見当がつかない。たしかに話してみれはかなり独特なユーモアのセンスを持っていたり、受け答えに淀みがないなどの美点を持っていることはわかる。しかし例えばクラスではほとんどしゃべっていないのに、いつの間にか一座の中心に据えられていたりする。これは菫と一緒にいてもそうでなくても同様である。なぜか当の本人もその状況に驚いているようで、どういうことだろうと菫は相談を持ち掛けられたこともある。それでも表情は崩さなかったことに感心したことをよく覚えている。

 

 彼女には自然と人を惹きつけるなにかがあるのだろうか、と菫は頭をひねる。よく考えてみれば自分がよく一緒にいるのもそれの影響かとも思うが、実際のところはわからない。気にしても仕方のないことだが、不思議なものは不思議なのだ。まあ孤立するよりははるかにマシかと思い直し、菫は枕に顔をうずめた。西東京地区予選を月末に控えた、五月の初めの夜のことである。

 

 

 

 

 

 

 


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