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「よう、弘世ちゃんじゃねーの」
白糸台麻雀部には珍しい、ぽっかりと空いた一日の休みが運んできたのは偶然の再会だった。
残暑の下の舗装された道は歩道車道の区別なく、かすかに発光しているように見えた。それでも菫の実感としては真夏の日差しより落ち着いていた。わざわざ気温を測ってもいないし季節ごとの太陽の光の強さをいちいち覚えようともしていない。具体的な説明などひとつとしてないが、夏の真ん中と厳しい残暑のあいだの違いを、菫は、どちらかといえば信じていた。
照り返しのあるアスファルトを抜けて電車に乗り、たまたま空いていた座席に腰かける。車内は冷房を弱めに利かせているらしかった。場合によっては外と車内の気温差で体が驚いてしまうことがある。走って駅まで来たわけでもない菫にとっては冷房は弱めでちょうどいいくらいだった。菫の体重でわずかに沈んだ座席は、適切な言葉の思いつかない不思議な反発力でかたちを一定に保っている。学校へ行くときも学校から帰るときも必ず席が埋まっているせいで座席の感触などしばらく確かめようもなかったのだが、たまに座ってみると悪くないと思えるのだった。
高架から街を一望していたつもりがいつの間にか地面と同じ高さを走っていたりと、窓から見える景色はくるくる変わった。目の前を流れていく自身の足で歩いたことのない街並みと自分の知っている街並みが、かならずどこかでつながっていることが菫には不思議で、そこに人が暮らしているとなると余計にそう思えるのだった。
菫が目指しているのは都心にある百貨店で、そこでしばらくぶりにきちんと時間を取って趣味に興じるつもりでいた。広く言ってしまえばショッピングということになるのだが、今回の彼女の最大の目的は石鹸であり、おそらくはそれこそが菫の趣味としてはいちばんのものであった。香りや泡の滑らかさの具合などこだわりだせば際限のないものだが、どれがベストなのかは菫本人にしかわからない。ちなみに彼女自身この趣味が女子高生の間ではそれほどメインストリームを形成していないことを承知しているため、とくに誰にも話すことなくここまで来ている。
東京の、それも中心的な駅ともなると外の景色を一切見ることなく様々な店にたどり着けるのがむしろ当たり前で、そのある種の不健康さに菫はほとんど意識を向けなくなっていた。人の匂いや地下に特有のわずかに不快な臭いの混じりあった蜘蛛の巣なんて目じゃないほどの迷路を迷うことなく菫は歩いていく。追い抜いたり追い抜かれたり、正面から向かってくる人を躱したり、あるいは突然に前を横切る人にぶつかることも驚くこともない様子は、外から見れば特殊な技術を共有した上で成り立っているかのような感じさえあった。まるで頭になかった人物と菫が出くわしたのはそんな折であった。
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「よう、弘世ちゃんじゃねーの」
常識で考えれば話し声や雑踏の中の環境音に消されてしまうはずのその声は、不思議とまっすぐ菫の耳に届いた。ふいと顔の向きを変えるとそこには通常なら個人的な関わりなど持てないはずの人物が立っていた。ただ単に彼女が人混みの中に立っているのは菫にはミスマッチに感じられた。そのこととは関係なく彼女からいくつも種類のある笑みの中から親愛を示すものを向けられると、菫の頬もほころんだ。
「三尋木プロ。どうしてこちらに?」
「ははは、相変わらずかってーのな。アタシは買い物だよ、キミは?」
「私もです。珍しくぽんと一日空いたので」
「そっか、白糸台みたいなトコだと休みが少ねーもんな。つえー学校の宿命だね」
咏の姿はテレビのイメージどおりの和装だったが、周囲を歩く客はほとんど不躾な視線を向けることをしなかった。そういった振る舞いが自然と身に着いた客層を相手にした店舗なのだろう。そもそも石鹸の専門店が入るような百貨店が近隣にいくらもあるわけがないのだから、あるいはそこを中心に買い物をするような人々と三尋木咏はある種の顔なじみになっているのかもしれない。
さすがに入口付近で足を止めるのは迷惑以外の何物でもないということで、とくに行き先を決めずに二人は歩き出した。一階は化粧品を扱っている店やそれに近い品物を取り扱っているドラッグストアが店舗のほとんどを占めており、そういった品々に興味が出始める年頃の菫はその道の先輩である咏から参考になる話を聞いていた。とくに試供品で肌との相性を確かめてからでないとロクなことにならないということと、その辺りの確認をするときには必ず店員に話を聞くべきだということは何も知らない菫にとって膝を打ちたくなるような情報だった。
「でもさ、見りゃわかるけどすっぴんでそれだろ? 化粧なんてまだまだ余計だって」
ほんの少しだけ意地悪さを乗せた目に射竦められて、菫はうまく言葉を返せなかった。世辞などとはまるで縁のなさそうな彼女から外見について褒められたのは菫にとって嬉しいことだったし、それでちょっといい気になったのは本当のことだった。その一方で化粧というものに興味があったのもまた事実であって、ただ咏にそう言われてしまうとどう返しても自身が思い上がっているような気がしてしまう菫がそこにいるのも事実だった。
困ったような表情で口を開いては閉じたりしている菫の様子を見て、咏が笑いかける。
「はっはっは、悪かったって。ちょっとした茶目っ気ってやつさ」
「……もしかして」
「いやでもキミの頭の回転の速さにゃ驚いてんだぜ? フツーなら言ってから後悔してるよ」
こうやって軽いイタズラを仕掛けられるくらいには気安く付き合える相手だと思ってもらえていそうなことについて文句を言うつもりは菫にはなかった。ただイタズラの仕掛け方が、なんというかえげつない。それは菫に仕掛けようとするのなら学生の身ではとても真似のできないやり方だ。言ってしまえば三尋木咏という立場があるからこそ成立するもので、ある意味では菫が相手だからこそできるやり方と言えるかもしれない。もちろん腹を立てているわけではないのだが、普段とは違う扱われ方のせいでいつもとは違う心の粟立ちに菫は居心地の悪い思いをした。
菫はこのときの自身の気持ちを言い表せる言葉を持っていなかったから、ただ咏のことを真正面からじっと見つめることしかできなかった。こんな場面をもし白糸台の知り合いが見たら、きっとそのほとんどが驚いただろう。同世代から見れば彼女は大人びて見えるのかもしれないが、やはり年上から見ればまだまだ小娘ということになるのだろう。
「わかったわかった、お昼ごちそうすっからさ、そう睨むなってー。な?」
睨んでいるつもりはない、と菫はとっさに否定しようとしたが自分の目つきのことを思い出して黙り込んでしまった。中学生のある頃を境にすっかり言われなくなったが、その前までは目が鋭すぎると言われていたこともあって、菫はいまだにその辺りに多少のコンプレックスを抱えていた。見る人が見れば切れ長の美しい目とでも評価するのだろうが、彼女自身がいい目つきとは言えないと認識してしまっているのだからどうしようもない。とはいえ咏が菫のそんな事情を把握しているはずもなく、彼女は楽しそうにからからと笑っていた。
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「そーいや聞き忘れてたけどさ、麻雀のほうは最近どうなんだい?」
「成長してはいるのだろうと思いますが、ただどうにも実感が……」
菫が咏にやり込められたあとも二人はまるですこしだけ歳の離れた姉妹やあるいは従姉妹のように百貨店をぶらついた。その中心は話にあって、商品はその肴でしかなかった。人の類型で言えばおよそ似ているところがあるとは思えない組み合わせではあったが、案外と相性は悪くなかったということなのだろう。やがてちょうどいい時間になり、咏の行きつけだという個人経営のレストランで二人はひと息入れていた。もうすでに食事は終えて皿は片付けられ、テーブルには食後のコーヒーと紅茶がそれぞれ咏と菫の前に置かれている。ゆっくりと揺らめく湯気を挟んで、普段通りの表情をした顔と軽い苦笑いが相対していた。
「ま、比較対象が宮永ってーのはね。たしかに難しいかもねぃ」
「生まれたときから既に大きい……、ゾウとかキリンと背比べをしているような気になります」
「実際そこまでのレベルの差はねーんじゃん? 知らんけどさ」
「……どうなんでしょうね、距離が近すぎてうまく測れてないのかもしれません」
なんとも判断のつかない笑みを浮かべて菫は言葉をこぼした。
「宮永と自分を比べんな、なんて言わんけどね、そいつはどだい無理な話ってもんだし」
「……少し、救われます」
「星の関係と似てんのさ、いちばんでけー恒星が星系を作んの。どこも変わらんよ」
先ほどまでの雑談と何ら変わらない飄々とした調子からは慰めの色は少しも感じ取れない。けれども菫にとってはそれが心地よかった。すべては今さらでしかなかったし、聡明な彼女がある程度の折り合いをつけていないわけがなかった。だから咏の意図がどうあったのかは別にして、なんでもないように変わらないと言ってもらえたことに本当に救われた気がしていた。
菫は黙ったままカップを傾けた。それが失礼な振る舞いにはあたらないと芯から思えているような自然な動作だった。敬意も気安さも含んだ、簡単に一言で親しさと片付けることができない空気が二人のあいだには流れている。それは菫からすると部活にもクラスにもない、目の前の女性とのあいだにしかない関係性だった。
「やっぱりさ、宮永は気になるかい?」
「はい、どうしようもない類のことだとすら思います」
「ま、それっくらいなら大丈夫かね。あんまのめり込むんじゃないよ?」
「あの、それはどういう……」
「似たような事例を知ってるってだけのことさ、気にしなくていいよん」
詳しく聞きたそうな様子の菫を安心させるように白い歯を見せて咏は話を打ち切った。単純に、それだけで完結している笑みだった。それを承けた菫の表情ははじめ煮え切らないものだったが、どこかで割り切ったのか質問を重ねるようなことはしなかった。そのあとも二人は麻雀に限らない話を続けて、それなりの時間が経ったところで解散の時間を迎えた。咏ははじめもともとあった予定をこのままサボってしまおうと考えていたのだが、生真面目な菫と話をしているうちに面倒だからといってサボりっぱなしなのもどうかと思い直したということらしい。なんだか大役を果たしたような気がして気後れしたが、そのことについて菫は深く考えないことにした。そのかわりなのかどうかはわからないが出掛けた当初に目的にしていた石鹸をまったく見ていないことについて菫が思い出したのは、その日の夜、入浴する段になってのことだった。
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亦野誠子は活発で親しみやすく、人の輪の中心にいることが自然だと思わせるような人柄をしている。まだ落ち着きが足りないなどという声もあるが、それは高校生に求めるには酷な資質であって、それは彼女への信頼を損なうようなものでは決してない。たとえば宮永照や弘世菫が特殊すぎる例だというだけだ。彼女が出場したわけではなかったが、都の予選が終わったあたりから責任感と麻雀の実力がめきめき伸びてきたという評価を受けており、そんな誠子が早くも次期部長として目されるのはおかしなことではなかった。
とはいえまだ入部して半年も経っていない一年生である誠子には、それらのことは縁遠いことでしかなかった。まさか自身が尊敬するあの弘世菫のように部を導いていけるとはとても思えなかったし、それ以上に名門たる白糸台の部長など身に余るというのが彼女の考えだった。だから彼女はそのことに対してまるで頭のリソースを割いていなかった。注力すべきは何よりもまず実力の向上であると理解し日々の練習に励んだ。もちろん学生の本分である学業にも苦労しながら取り組んだ上での話で、それは外から見ても充実した生活を送っているように映っただろう。ただ一点を除けば誠子本人も実際にそういった実感を持っていた。誠子の頭に暗い影を落としているのはひとつの懸念である。しかしそれは懸念という言葉が本来持つ意味以上に緊急性を伴っていた。
原因は何かと問われれば、それはやはり宮永照に帰って来るものだった。見方を変えれば誠子に運がなかったと言えるのかもしれない。対象を人に取る異能を有するほどの優れた感性こそが彼女に疑念を抱かせ、そして大星淡との出会いがそれを危機感へと変えた。弘世菫と宮永照のあいだにはなにかがある。それは誠子のなかではほとんど確信となっている。そしてそのなにかが致命的な事態を引き起こす可能性を持っていることを察知することと、それを止めるために動くことを両立できるのは誠子ただひとりだった。残酷な言い方をするなら、あるいは原因は彼女の見て見ぬふりの苦手な性格にあったのかもしれない。
いまだ明確な形をとらないその懸念にはっきりした姿を与えるために、誠子は淡の口にした
薄い雲を透かして日が注ぐような空模様だった。学校そのものが山にあって見晴らしがよく、三階から上の窓からはずいぶん遠くまで見渡せた。しかしその遠くの木々さえ微動だにしないほどに風はない。空気そのものがぴたりと止まっているようで、どこか不気味であった。秋の入り口にしては気温は低く、よほど激しい運動をしない限りはそうそう汗をかくことはないだろう。逆に言えば運動に適した日和ということなのかもしれない。そんなどっちつかずな天気が朝から続くなかで、これから未知の領域に踏み込もうとしている少女は、四時間目の古典の授業の途中から精神を昂ぶらせていた。
特別な条件など何もない。三年生が抜けて新体制になった影響もあって、挑もうと思えば誰でも宮永照に挑むことは可能だった。ただ誠子の目から見て彼女を叩き潰そうという気概が見える部員は淡だけだった。他の部員からは胸を借りるといった雰囲気や、自分が傷つかないように立ちまわっているのが感じ取れる。菫に至っては同じ卓を囲んでいる姿さえ見かけた記憶がない。そこになにか理由があるのかは知れないが、とりあえず余計なことは脇に置いておくことに決めて誠子は照の座る卓に近づいていった。ちょうど東場と南場のあいだのわずかな時間だったようで、思っていたよりも簡単にコンタクトを取ることができた。そのとき誠子は自分がどんな声と顔をしていたのかなどまるで把握していなかった。
「次、一局お願いしていいですか」
「うん、いいよ。よろしく、亦野さん」
誠子が焦がれていた対局は、いともあっさりと決定された。