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続く酷暑は戒能良子に一年ぶりの東京をはっきりと思い出させた。良子は今年も含めれば四年連続で夏にこの地を訪れていることになるが、事前に覚悟をしていても、来るたびに地元のものとは違う暑さにげんなりするのを抑えられなかった。天気は間違いなく良いのに、すっきりと通るものではないことに強烈な違和感を覚える。空気がぎゅうぎゅうに詰め込まれているような感覚があって、良子はどうにもそれが苦手だった。
コンビニで買った塩飴をひとつ口に放り込んで良子は歩を進める。行き先はインターハイが開催されているホールだが、今年はもちろん選手としてではない。どちらかといえば気分はむしろ観光に近いと言っていいだろう。自身が出場しないというだけで、良子はこれだけ気楽に会場に来ることができるようになるとは露とも考えていなかった。まったく変わっていないはずのホールの眺めがすっかり姿を変えてしまったような気さえした。
良子がホールを訪ねる必要は平たく言えば何もない。プロ一年目の彼女に解説の仕事が入るわけがないし、ただ試合が観たければ自宅でテレビ中継でも観ていれば大きな問題はないはずだ。それでもここを訪れたのにはプロとしての特権を利用してみたいという子供じみた理由があった。
関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を開けると、良子の予想に反して先客がひとりだけいた。テレビ真正面の一人用のソファに頬杖をついて、退屈そうに画面を眺めている。気ままという評価がついてまわる彼女が、いくら後半戦とはいえ今日の第一試合の先鋒戦のこの時間にここにいることが良子にとっては意外だった。準決勝とはいっても都合十半荘は行われるために第一試合の朝は早い。扉の音には気付いていたのだろう、彼女はゆっくりと気だるげに視線を良子のほうへ飛ばすと、おや、という表情のあとに小さく笑んで自分のほうへと手招いた。
「やあ戒能ちゃん、でいいかい? こうやって話をするのは初めてだね」
「ええ、はじめまして三尋木プロ。戒能良子と申します」
良子が咏の座るソファにぴったりとくっつけられた隣のソファに座ったことも関係したのか、若干二十三歳にして現トッププロの第一人者たる彼女はきちんと顔を向かい合わせることなく流し目で応対するつもりのようだった。そのまま何かを思い出すようなそぶりを見せたかと思えば急にくつくつと笑い出して、下の世代はずいぶん礼儀正しいんだね、とちいさく呟いた。別個のソファが隣り合っているために肘掛けが二つぶんつながっており、その距離のせいで咏の呟きは良子には届かなかった。
「で、戒能ちゃん、キミどうしてこんなところにいるんだい?」
「その、恥ずかしい話ですが、この控室に入ってみたかっただけでして」
「ははは! なんだそりゃ! 面白いコだ、気に入ったぜぃ」
手にした扇子で膝頭を叩き、頬杖をついていたもう一方の手で口元を隠して心底面白そうに笑う姿はどう見ても冗談には見えなかった。良子としても変に気を遣われるよりはいっそ笑い飛ばしてもらったほうがいいとは思っていたものの、実際にそういった反応を見るとなんだか説明のしにくい気分になるのだった。
話を切り出したのは良子で、その内容はどうしてわざわざここで観戦をしているのかということだった。返ってきた言葉は、ちょっと気になることがあってね、というひどく曖昧なものだった。ソファに深くもたれて頬杖をついたままの返答はその態度だけ見れば投げやりにしか取れないが、実際に話をしている良子はそんなことを思いもしなかった。それどころかこの返答を、良子は会話のやり取りをしてくれるつもりがあるようだ、と解釈した。質問の回答としては何の意味も成していないが、こちらの疑問点を明確に増やす返答なのだからそう解釈する以外にあるまい。とはいえ初対面の尊敬すべき先達を相手にしているのに、友人と話すときと同じように曖昧な質問を繋げていくのは褒められたことではないだろう。とりあえずいったんテレビに目を向けてみると、彼女が気になると言ったことの大枠が掴めたような気がした。
「……白糸台ですか」
「はは、なんだ、ノッてくるねぃ。イコールで宮永照くらいまでは導いたのかい?」
「というより、彼女がいる限りその風評からは逃れられないかと」
「こいつは手厳しい。つっても正論にゃ違いないんだけどねぃ。知らんけど」
からからと笑う姿は、良子がプロになる前にテレビで見かけた三尋木咏そのものだった。
「ということは、その気になることは彼女ではない?」
「完全に個人的な話さ、麻雀にもかすかに関わってるかもしれんけどね」
気が付いてみればテレビ中継の音量はかなり絞ってあるようで、たとえばソファの生地と良子の着ている衣服との衣擦れのような環境音のほうが強いくらいだった。騒がしさのない落ち着いた空間であるのは疑いようがなかったが、良子はそこに自然ではないものを感じずにはいられなかった。あるいはそれは観戦のための控室なのにわざわざ静かな空間が作られているからなのかもしれないし、あるいはまた違った理由があるのかもしれない。ただ、良子はそれを明確な言葉のかたちにできるとは思っておらず、またそのための努力をするつもりもなかった。
テレビ画面上で展開されているのはさすがに準決勝というだけあってレベルの高い試合だった。良子の目から見て、その中でもやはり印象にしろ実際の得点にしろ頭一つ抜けているのは白糸台であるように思われる。いまはまだ先鋒戦だが、そこでこれだけの差がついていれば後続のレベルの高さも測れようというものだ。それに対して良子はとくに引っかかるところもなく納得していた。白糸台に関して言えばもともとの地力の高さもあるのだろうが、ひとりの別格の存在が生む影響を彼女はよく知っている。今年も白糸台の大将に座る彼女のそれは甚大なものだったのだろう。
少しのあいだ試合中継に意識を割いていた良子がそういえば、と思って隣に座る咏へと目をやると、いかにも退屈そうにテレビ画面を見つめている姿があった。思い返してみれば良子がこの控室に入ってきたときにも同じように退屈そうにしていた。そこにあるのはただの純粋な退屈で、決して別の感情につながらないものだった。どちらかといえば諦念に近いとすら言えるかもしれない。良子はこれまでにそんなものを一度も見たことがなかった。そして同時にそうまでしてこの試合を観る理由がどこにあるのだろうという思いが湧くのを止められなかった。
良子が視線を送ったことに気が付いたのか、やはり顔の向きは変えないままで咏が問うた。
「なあ戒能ちゃん、こいつは答えても答えなくてもいいんだけどさ」
「ずいぶんとストレンジな入り方ですね」
「まあまあ気にすんなって。でさ、キミの目には宮永照ってどう映るんだい?」
唐突と言えば唐突だが、そうでもないと言われれば納得してしまうような質問だった。言い方を変えればそれはほとんどタイミングの問題で、仮に今でなくてもいずれ問われるはずのものだ。なぜなら今の白糸台高校を定義するのは宮永照以外の何者でもないのだから。
わざとすそ野を広げられた問いの形は、それ自体に意味があるように良子には思われた。仮にもっと絞った話がしたいのであればそう口に出せばいいだけの話で、言ってしまえば彼女の打ち筋について聞けばいい。だから咏が聞きたいところはそこではないと良子は判断する。試されているのだろうかという考えも浮かんだが、良子は即座にそれを否定した。自身が彼女に試されるような信頼を得ているとは到底思えないからだ。
「私には彼女がモンスターに見えます。本人の前では口が裂けても言えませんがね」
「周りから見ても大概そーなんじゃねーの。たぶん実際に何人かツブしてんだろ、アレ」
咏から言葉が返ってきて、やっと良子はこの一連のやり取りが歪なかたちをしていることに気が付いた。明言はしていないものの気になる人物は宮永照ではないと判断するには十分な返事をしたことを考えれば、たった今の質問は筋が通らない。もし場がこの控室でなく、もし相手が三尋木咏でなければ、ただの雑談と捉えることもできただろう。しかしその “もし” はどちらも成立していない。良子に対してかどうかは別にして、彼女は明らかに
「去年ぶつかった時も肝を冷やしましたよ。本当にタフな精神性をしています」
「ああ、決勝かなんかで当たったんだっけ? その辺はまあどうでもいいんだけどさ」
いつの間にか画面からは人の姿がなくなっている。しかし良子はそんなことには気が付けない。彼女の関心はすべて隣に座る咏に、より正確に言えば咏の発言に奪われていた。一方で咏の視線も関心も良子に向けられてはおらず、まだテレビのほうを向いている。ごく自然な振る舞いだった。
良子に導けるのは、彼女の言う気になることに宮永照が抜きがたく関わっているだろうことだけだった。しかし理解が及ぶのは言葉としてだけで、具体的にどのような形態をとればそう表現するしかなくなるのかはまるで見当がつかなかった。そしてそこまで辿り着くと、ついさっきまでしていた会話が急にフラッシュバックした。実際に目に見えている光景には何らの変化もなかったが、脳のどこかでちかちかと何かが白く点滅するのがはっきりとわかった。良子の背中に一気に冷たいものが走る。
「……ん、いや、そっか。なるほどねぃ、参考になったぜ」
どうでもいい、と切り捨てたすぐ後に咏が画面から視線を外した。その置かれた一拍のあいだに決定的な何かが含まれているとしか良子には思えなかった。ただそれと裏腹に彼女の言葉はそこで完結していて、手の出しようがなかった。どこまで行っても咏の視線の先に良子の姿はなかったし、またそこに姿がないのだからそれ以上の理解が及ばないのも道理だった。二つ並んだ肘掛けにはどちらの腕も置かれてはいない。
音量を絞っているとはいえ余計な音のないように作られた空間でテレビ中継の音声が聞こえないということもなく、不意に耳に入ったそれが良子の意識を表層へと引き上げた。気が付くついでにそのままテレビに目をやると、先ほどまで映っていたのとは違う選手がいつの間にか映っており、そこにひとりだけ妙に目を引く容姿の少女がいた。肩甲骨をすっかり隠すほど長く艶のある黒髪だというのに重苦しい感じはせず、むしろ凛とした印象を残しているようにさえ見える。カメラワークの関係でわかりにくいが、どうやらその少女の身長は際立って高いようだ。白いワンピースの制服が無骨な対局室に映える。一目でわかる、白糸台の選手だ。
「あっはっは、初々しいねぃ。ガチガチじゃんか」
けらけらと笑う彼女が楽しそうにこぼすのを聞いて、良子は画面右下のブロックに記された選手情報の部分にはじめて注目した。そこには通り一遍のデータが四人ぶん記載されてはいるものの、その情報量の少なさでは役に立つとはあまり言えそうになかった。せいぜいが場を繋ぐ話題の提供といったところだろう。もちろん良子の目を引いたのもその程度の情報には違いなかった。
「なるほど、白糸台の次鋒は二年生ですか。なかなか有望のようです」
「ま、大将にすげーのがいるせいでほとんど注目されてないんだけどねぃ。知らんけど」
「それは彼女が注目に値すると捉えても?」
「さあね、そこは戒能ちゃんが判断してくれるっしょ」
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控えめな温度設定のエアコンが働くリビングで少女がひとり不満そうにテレビ番組をザッピングしている。二人が余裕をもって座れるソファにだらしなく全身を預けて、そのままにしておいたら動くのに不自由しそうな長い金色の髪は適当にシニヨンにしてまとめている。リモコンの握られていない手には、冷凍庫から出されたばかりのアイスがまだ個別包装されたままぶら下がっている。きれいに円を描いているはずのブルーグレーの瞳は本来の姿とはすっかりかたちを変えてしまっていた。
手当たり次第に各局のボタンを押してはみたもののどうやら彼女を満足させる番組はひとつもなかったようで、少女はつまらなそうにひとつ息をついた。事前に決めていたのか、あるテレビ局のボタンを押すと、少女はリモコンを目の前のテーブルに軽く放った。軽いが不吉な音を立てたかと思えばリモコンは裏返しになってテーブルの上に止まっていた。少女はそれに目もくれずにアイスの包装を破く。優先順位で言えばテレビよりも手元のアイスのほうが高いらしい。画面では緑のマットの上を手と雀牌が行き来していた。
ちらと視線を画面のほうに向けると、少女の視線はしばらくそのまま動かなかった。動き続けていたのはアイスを食べるための口だけで、見開かれた目は縫われでもしたかのようにまばたきさえしない。
「んー、学校の連中よりはマシっぽいけど、まだヌルいかなぁ」
そう呟くと少女はソファに置いてあったクッションを抱き込んだ。先ほどよりも深く身を沈めている辺り、興味がないわけではないようだ。
庭へも出られる大きな窓の向こうの空はきれいな水縹色をしているが、少女から見える位置に太陽の姿はなく、そのせいで明かりをつけていないリビングはどちらかといえば暗かった。ソファの前に脱ぎ捨てられたスリッパは向きが不揃いのままで、それとテーブルの上に転がるリモコンだけが生活感の汚れのようにリビングの風景と調和していなかった。ただ少女はそんなことにはまるで気を払っていない。ひたすら画面にだけ集中していた。
「あれ?」
しばらく静かに試合を眺めていた少女が突然に首を傾げた。少女のリビングでの様子を見ている者は初めから誰一人としていないが、控えめに言ってそれは奇妙な光景だった。さんざんバカにしたような態度で中継を見つつ、時には、これじゃあ相手にとって不足ありじゃん、などと笑いさえしていた彼女がはじめて画面に映るプレイヤーを下に見ることなく思考を始めたのだから。少女が思考の対象に選んだそのプレイヤーはたったいま三度目のロン和了を決めたところで、そのことに別段おかしいところは見つけられない。少女からしてもそれは同様のようであった。ロン和了など言ってしまえば不運か注意力不足のどちらかで片付けられてしまう程度のものであり、だから三度和了ったプレイヤーに対する称賛ではなく振り込んだ側のプレイヤーに非を認めるのが彼女の通例であるはずで、問題は少女自身がそれを通例どおりには扱えないと判断したところにある。
「おっかしいな、変なニオイがする」
ソファにもたれかかった体を起こして、少女はテレビに対して顔の位置を動かし始める。まるでそこに距離感のせいでピントの合わない何かがあるかのように。いまここにあるのは先ほどまでの思いあがった少女の姿ではなく、ぶつぶつと誰にも聞き取れないような小声で何かを呟きながら、いったい何が自身の感覚に訴えてきているのかを真剣に探し求める姿だった。
少女がまばたきをするたびにブルーグレーの瞳が強調されるような感じがあった。思考の区切りとして目を閉じる癖があるのか、比較的短いあいだに不定期にまばたきは繰り返される。
これまで少女が見ていたぶんの局の展開を思い出しても、特別にここがおかしいというところは見当たらない。当たり前のかたちで牌が配られて、当たり前の思考判断のもとに牌の取捨選択をして、そうして局が閉じてみればどこかに巧妙に隠された人為の臭いが残った。もちろん麻雀は人と人とが争うものだから人為が絡まないほうがおかしいのであって、しかし少女からすればそれはその局のあいだにはっきりと見て取れるものでなければならなかった。だからこそ少女は今年のインターハイに、はじめてわずかばかりの能動的な興味を抱いた。思いあがりかどうかは別にして、彼女には自分への絶対的な自信があったから。
起こした体をもう一度ソファへと投げて、少女は忌々しげにテレビをにらんだ。それはほとんど敵意とさえ言えるような強い視線で、同時に苛立っているのも明白だった。先ほど体を起こした拍子に触れたのか、スリッパが余計に向きを変えている。ここ数十分のあいだにこのリビングで動きがあったのは少女自身と、スリッパと、あとはアイスだけだった。その他は何も変わっていない。変わらずエアコンは控えめの設定温度のまま働いていたし、明かりが点けられることもなく部屋はすこし暗いままだった。
「白糸台……、なんかどっかで聞いたことあるような気がするけどまあいいや。覚えた」
最終的に少女がソファから離れたのは次鋒戦がすっかり終わって、続く中堅戦も四局を消化したところだった。リビングから出ていくときにはつまらないものを見せられたような表情になっていたが、結局そんなことなど誰も知らないのだからどうでもよいことだったのかもしれない。