影絵   作:箱女

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十三

―――――

 

 

 

 「……照か、どうしてまたこんなところに」

 

 「あまり試合を観るつもりはなかったから。それとどうしてここに、はお互いさま」

 

 返ってきた答えは菫が考えていた通りのものだった。照はいつも事前研究まではしっかりやるが直前の試合に対してはまるで興味を持たない。試合を見るための場所へ連れて行ったところで、視線は手元に落ちるのがオチだ。ふた月ほど前の西東京予選でも同様だったことは記憶に新しい。

 

 菫が照の顔からわずかに視線を逸らすと、彼女の右手にはいつものように文庫本があった。いつもブックカバーがしてあって読んでいるもののタイトルはわからない。同じものを読んでいるのかカバーを付け替えているのかもわからない。おそらくは愛用しているしおりと同じく使いまわしているのだろうが、確かなことは菫には何も言えなかった。手元の文庫本から判断するにおおかたどこかで読書をしていて、気分を変えるために場所を移そうとしていたのだろう。半ば照のクセのようなものだ。菫も読書自体は嗜むが、場所による気分の違いというものを実感したことはない。

 

 「あー、まあ、なんだ、ちょうど外から帰ってきたところなんだよ」

 

 若干、よりはもう少し色の濃い気まずさとともに菫は口を開いた。もともと彼女は生真面目で、周囲からもそういう目で見られる立場にあることに自覚的でもある。しかしある意味で言えば周りが勝手に作り上げた像であるとも言えるはずなのに、それと違う行動を取ることには常に裏切るという意識が彼女の中に芽生えるのだった。

 

 初めからそうと決めてかからない限り、菫は嘘をつくのがどこまでも下手で、そういう意味では限りなく不器用だった。

 

 「二回戦で当たるところが試合してる時に菫が外に出てるとは思わなかった」

 

 「……そうだな、こんなことをしたのは中学を合わせても初めてだよ」

 

 照の濃いブラウンの瞳が菫のそれを捉えた。いつものように表情は変わらない。

 

 「あれ、でも朝はスクリーンのほうに入らなかった?」

 

 ほとんど聞き覚えのない照からの疑問形に菫は片眉を上げた。しっかりと目と目を合わせて必要最低限の表情筋以外を動かさないその有様は、菫以外が見れば詰問しているように捉えられたかもしれない。もっとも、照の発言の意図がどのようなものかは本人にしかわからないのだが。

 

 「いったんは入ったんだ。ただ、そのあとどうにも集中できなくなってな」

 

 「菫が?」

 

 「ああ、嘘をついても仕方ないだろう」

 

 正直なところを話してしまうとあらためて調整された室内の空気が自覚された。ついさっきまで肌と空気の境目がなくなるほどの熱のなかにいたことが遠い思い出になってしまったような気さえした。必要なこととはとても思えなかったが、どうしてか菫はここと外とがはっきりと違う場所だと意識せざるを得なくなっていた。強化ガラスの自動ドアの向こうとこちらは仕切られた別世界だった。

 

 いつの間にかすっかり汗が引いていたことに気付いて、菫はポケットにハンドタオルをたたんで仕舞った。そしてその動作が終わると、それを待っていたかのように照が口を開いた。

 

 「やっぱり菫が抜け出す理由がわからない」

 

 「……説明するのは難しいな、なんとなくあの場から離れたくなったんだよ」

 

 「観てた試合がつまらなかった?」

 

 「いや、そういうわけでもない。参考になる打ち回しもあったしな」

 

 菫を見る照の目がほんのわずかに、真正面にいる菫でさえ気付けないほどに大きくなった。照の目の変化はきっと意味を伴ったものだった。ただ何を受け取ったかがはっきりしないだけだった。なんだか居心地の悪さを感じて菫が照から視線をそらすと、人のざわめきが急に聞こえ始めた。そんなにも照との会話に集中していたかと思ったが、そうではなくどうやら単純に次鋒戦が終わって短い休憩時間のあいだに観客が席を立ちはじめたということらしい。

 

 それにしてもこれだけの観客が一斉にスクリーン会場から出て来るのに、試合中は栓をしたようにぴたりと誰も出て来ないのは菫からすると不思議なことに思われた。咏に声をかけられたときも周囲に誰もいなかったことを思い出して、菫はなにか薄気味悪いものを感じた。まるでこの現実が精巧に作られた模型なのではないかというような冷たい疑念が湧いた。

 

 あまり明るいとは言えない考えを振り払うために、菫は思い出した名前を使ってできるだけ楽しい話をしようと考えた。奇跡的な偶然の重なりの果てにトッププロといっしょに時間を過ごしただなんて、これ以上に他人の興味を引けそうな話題を菫は思いつけない。

 

 「……そういえばな、外に出てたときの話なんだが」

 

 「うん」

 

 「たまたまなんだろうがすごい人に声をかけられてな」

 

 いまだに現実感と夢の感覚とが半々に感じられるほど信じがたい体験であったから、菫の表情は自然と笑顔に近づいていった。いくら周囲から大人びて見られていても、まだ十七歳の高校生であることに変わりはない。興奮するなというほうが無理な話だ。ちょうどこのとき誠子が近くを通りがかったのだが、菫は気が付かなかった。

 

 「三尋木プロだ、信じられないだろう? 誘ってもらっていっしょにお茶までしたんだよ」

 

 ある程度の予想は立てていたものの、照の反応は菫の口から出たトッププロの名前をおうむ返しするだけで終わってしまった。鉄面皮もここまで来れば称賛してもいいのではないか、とさえ菫が思うほどだった。ただ、無表情に名前を口にするだけの照のその様子に、どうしてか菫は後ずさりそうになるのを堪えなければならなかった。周囲のざわめきがむしろ自分の心を守るように包んでくれているような錯覚を覚えて、菫は出所すらわからないその考えを捨てるように二度三度と頭を振った。

 

 「楽しかった?」

 

 「途中までは緊張で何がなんだかわからなかったけどな」

 

 菫の肯定の言葉にも、ふうん、としか照は返さなかった。興味がないようにも面白くなさそうに受け取ったようにも見える。もっとも常にそんな感じなのだから何に対して前向きな、あるいは後ろ向きな感情を持つのかなどわかったものではない。もう一年以上の付き合いになる菫でさえも明確にそれがわかったと確信が持てたのはたったの一度だけだ。

 

 奇妙なことに周りを歩くほとんどの観客は二人に注意を払っていないようだった。すくなくとも麻雀界隈においてここ一年で最も注目を浴びた少女がいるというのに誰も声をかけることすらしなかった。話をしているところを見て気を遣ったのかもしれないが、それにしたってただの一人も、というのはあまりにも状況に即していなかった。

 

 「どんな話をしたの」

 

 「……そう言われると困るな、なんでもない話をしてただけなんだよ」

 

 菫の言うところに嘘はない。それこそクラスメイトと話すような、お互いの日常で気にかかったことや少し興味を引いた人の話だった。こういう話をした、と取り立てて強調する部分のない雑談らしい雑談だった。たしかに必要性のない、だからこそ気兼ねなく楽しむことのできた価値のある無駄な時間だった。照に話すために思い出すことで、自分にとってそういう意味合いがあったのだと菫は改めて理解した。ロビーの空調が効きすぎているように感じられて、菫はそっと右手で左腕をさする。

 

 目の前にある照の立ち姿には一本の筋が通っているように見えた。去年はとくにそういった印象を抱くこともなかったのだが、取材対応などをこなしていくうちに自然と人前に出ておかしくないものを身につけたのかもしれない。飛びぬけて美しい姿勢とまで言うつもりはないものの、だからといって簡単に維持できるものではないことを菫は知っている。

 

 「それでなんだか気分が晴れたからこっちに戻ってきたんだ」

 

 「じゃあ次の試合からまた観るの?」

 

 「そのつもりだが」

 

 「ねえ、菫は物足りないって思わなかった? 先鋒戦を観てたときに」

 

 「……バカを言うな、よそのエースを相手にそれはないだろう」

 

 そう、とだけ返して、照は二階への階段へと足を向けた。二階には会場の円周に沿うようにきれいに円を描く廊下と、ところどころに設置されたソファに一階へ降りるための階段、あとは自販機とせいぜい大きなガラス窓があるだけで、要するに規模の大きな休憩所が延々と続いているようなかたちになっている。きっと照はそのどこかで持ってきた本に集中するのだろう。背を向けた照は振り返ることなく階段を一段ずつ上がっていく。会話の終わりがずいぶん味気のないようにも見えるが、菫はもうとくに何も思わないようになっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 白糸台の部員たちがまるごとお世話になっているホテルの玄関口。制服からは着替えてすっかり身軽な服装で外へと向かう影が二つあった。真夏の太陽が沈み切るにはよほど時間が必要だったらしく、空は暗いのに熱の残滓が空気中に浮かんでいるようだった。

 

 菫の隣には照ではなく同じ二年生の眼鏡をかけた同室の少女が立っている。彼女も去年と比べてだいぶ大人っぽくなったが、それでも隣に立っているのが菫だとどうしても高校生の感がぬぐえない。二人が同級生だと言うよりも似ていない姉妹だと言ったほうが納得する人が多そうだ。きっとそんなことを言えば菫は表面に出ないように機嫌を損ねるだろう。

 

 「うわぁ、夜って言ってもぜんぜん涼しくないね」

 

 「今日も熱帯夜だそうだ。ま、私は蚊がいるほうがイヤだけどな」

 

 「そんなこと言って菫ちゃんめっちゃ肌出してるじゃん、何なのそのすらっとした脚」

 

 「あのな、コンビニに行くのにわざわざ着替えるのも変だろう。部屋着でもないんだし」

 

 呆れた顔をして同級生に目を向けると、彼女はじとっとした目を菫の脚に向けていた。いったい何のつもりだと菫は小さなため息とともに首を傾げるが、わかっていないのは本人だけだ。一七〇センチ半ばもある身長に、日本人離れした上半身と下半身の比率を見て嫉妬あるいは羨望の感情を持たない女性は少ないだろう。ただ本人は逆に高過ぎる身長にコンプレックスを抱えていたりもするのだが、そのことは誰も知らない。

 

 歩き出さずに脚をじっと見続けていた同級生の頭を軽くはたいて菫は歩き出した。どのみちそんなに大げさな買い物などする予定もないのだから、菫はさっさと用事を済ませてしまいたかった。

 

 

 さすがにこまごまとした買い物にそれほど時間がかかるわけもなく、菫と同級生は再びコンビニから夜の下に出る。店内の空気はなるほどレジの店員が長袖の制服を着ているわけだと納得するほどに冷やされており、そうなるとむしろ熱帯夜の空気のほうに居心地のよさを覚えるのだから不思議なものである。菫もなんとなく気が楽になったような気がしていた。

 

 その気温の安心感と、昼にあったインターハイのデビュー戦で見事というほかない結果を残したことから来る気の緩みからか、珍しく菫が頭に浮かんだことをそのまま口に出した。

 

 「なあ、対局中に “負ける理由が見当たらない感覚” って体験したことあるか?」

 

 「え? あー、わかるよ。そういうときって何やってもうまくいっちゃう感じあるよね」

 

 「ん、ああ、そんな感じだ」

 

 「それにしても突然どうしたの? 菫ちゃんからそんな話が出るとは思わなかったよ」

 

 弘世菫という人物の返事としてはずいぶんと歯切れの悪いものだった。そのことに気付いているかどうかはわからないが、相手を務める彼女の眼鏡の奥の瞳はいつものように優しく、返ってきた言葉には真剣な疑問の色彩などちっとも見られなかった。状況に照らして見てみれば、どこで返しに詰まるのかわからないほどごく正当な返答だった。菫の耳元をちいさな羽虫が通り抜けた。

 

 「あ、ひょっとして今日調子よかったから? ロン和了バシバシ決めてたもんね」

 

 「そう言われると私が自慢しているように聞こえるな」

 

 「お、言ったなー! 団体メンバー様の余裕かー!?」

 

 そう言って二人でにやにやと口の端を上げると、どちらからともなく自室へ向けて歩き出した。がさがさと音を立てるビニール袋がときおりむき出しの脚に触れてくすぐったかったが、菫は無視を決め込んだ。

 

 エレベータホールには暖色の明かりが隅々まで行き届いていた。中途半端な時間帯ということもあってか、玄関口やロビーと違ってホールでエレベータを待っている人はいなかった。現在位置を示すランプが点滅を繰り返して徐々に近づいていることを主張している。一階への到着を知らせる音が鳴って扉が開くと、中には誰も乗っていなかった。菫と眼鏡の彼女が笑いをこらえられなくなったのは、エレベータにそのまま乗り込んで、下へ降りていく表示を見てやっと地下駐車場へ降りていくのだと理解した途端のことである。地下駐車場の階でいったん降りて、そうしてからもう一度乗りなおそうと二人は頷き合った。エレベータに乗り間違えるという失敗は、菫にとって初めての体験だった。

 

 

 菫は四人部屋の端のベッドに腰かけて、ひとり大会プログラムを開いていた。今日の昼に二回戦を終えて、次の試合は準決勝という位置づけになる。まだ上がってくる学校が出揃ってはいないが、やはり気になってドローのページを開いているようだった。表面上こそ静かにプログラムに目を落としているように見えるが、その行動そのものが彼女の落ち着かない心情をはっきりと示していた。

 

 同室にはテレビを横目に雑談に興じている二人の部員と、そこからは離れて読書に耽る照の姿があった。照と二人の部員の仲が悪いということはないのだが、今は照のほうに話に加わるつもりがないだけらしい。昨年に比べれば菫以外と話をするシーンも増えてはいるのだ。

 

 菫が対戦相手になる可能性のある高校の名前を指でなぞって確認していると、テレビのほうからひまわりという言葉だけが不意に耳に入ってきた。ひまわりに対して特別な意識を抱いていない菫からすると、どうしてだろうと思わざるを得ないような出来事だ。小学生の時に学んだ一般的なことぐらいはまだ頭の隅に残っているが、ただそれだけだ。しかし気が付けば菫は、そのひまわりに関する知識を思い出そうとしていた。

 

 ( ……そういえば咲く時期がインハイときれいに重なっているな )

 

 一年草の多くがそうであるように、ひまわりも短いあいだだけ花をつけて、そして枯れる。その季節がたまたま夏であるというだけで不思議なことは何もない。しかし奇妙なことに、ひまわりに対する一方的なシンパシーが菫のなかに芽生えていた。そこにあるのは親しみのような明るいものではなく、同情でしかなかった。

 

 菫はプログラムをゆっくりと閉じて悩ましげに額に手をやり、そうしてから急にきびきびとした動作で歩き出した。話をしていた二人が何事かと振り向くと、菫の足はバスルームに向いているようだった。夕食前に菫がシャワーを浴びていたことを二人とも憶えていたが、もう一度バスルームに行くことを取り立てて変なことだとは思っていなかった。むしろ、あの艶のある長い黒髪を維持するための並々ならぬ努力なのだろう、くらいに考えていた。少しあって水の音が聞こえてくると、ほらやっぱり、と二人は目だけで分かり合った。結局彼女たちがそのことを特別に気に留めることはなく、それからしばらくは水の音が止むことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 


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