影絵   作:箱女

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十二

―――――

 

 

 

 一年前に訪れたときから、菫はインターハイの会場となっている気密性の高いこの建物が好きになれなかった。とくに建造物に対する造詣やこだわりを持ち合わせているわけではないが、だからといって幾何の持つ美しさをまったく解さないということもない。すくなくとも表面的には彼女が建物に対して一方的に嫌悪を抱く理由はない。多くの女子高生がそうであるように菫も建築物に対する立場を決めてはいないし、そもそもそういったことを考えた経験がない。しかしこの円墳のようなかたちをした建物を見て起る感情は、決まって前向きなものではなかった。

 

 とはいえ菫はその感情を口にすることはなかった。いくらでもある話題の中からわざわざ嫌いなものの話を選ぶ意味などないと考えているからだ。それならば小さな疑問であったり、あるいは好きなものの話をしたほうがいくらか建設的だろう。嫌悪にもいくつか種類があるが、この会場に対しての菫の持つ嫌悪はそういったタイプのものだった。

 

 開会式の前日の自由時間には、選手と応援という立場の違いから感じるところにも違いがでるのだろうかと思い、ひとりで一年ぶりのホールの外を一周りし、内部を大雑把に歩き回ったがそれは結局のところ無駄に終わった。仮に心が球のかたちをしているとして、表面から中心へと向かって三割ほど進んだ点に感じる疼きに変化はなかった。原因はわからない。一年前よりも麻雀の実力も精神性も成長した自負があるが、あるいはそれとはまったく関係がないのかもしれない。そこまで思考を進めて、自分の考え方に明らかな矛盾が生まれていることに気付いて菫はため息をついた。周りには誰もいなかった。

 

 

 白糸台にとって必要のない抽選を昨日に終えて、今日からは一回戦が始まる。また今年も頂点を目指す戦いが、言い方を変えれば白糸台を、宮永照を倒すための戦いが始まる。場内に集まる誰も口にはしないが、認識は共通していた。

 

 シードを与えられている白糸台の面々が大会初日から会場に出向く必要はないが意味はあって、それは単に偵察であったり場の雰囲気を掴むことであったりと決して重要性の低いものではない。そのことは菫も十分に理解しており、だからホールに姿を見せてはいた。しかしどこか、ひとりで座る彼女が目の前のスクリーンの映像に意識を集中しきれていないのは明らかだった。その様子は地方予選とは明らかに違い、緊張から集中できないこととは理由を異にしているようだった。

 

 目の前で展開される各県の代表の打ち回しはたしかにレベルが高く、それこそ菫が今後の自身の打ち方の参考にしようかと思うようなものも数多く見受けられた。しかしそこまでだった。布地の細やかな肘掛けに片肘をついてスクリーンを眺める彼女の姿は絵になるほど様になっていたが、逆に言えばそれは身を乗り出すほどの衝撃はなかったということの証明でもある。

 

 ( ……違う。私が考えているのはそういうことじゃない )

 

 頭の奥がしんと冷えていくのを感じて、菫はちいさく頭を振った。

 

 秋田の先鋒が七萬を捨てる。妥当だ。ときおり映される彼女たちの手牌を考えればプレイングの妥当性くらいは判断ができる。それはもちろん判断基準を個々人に委ねるという前提はあるが。しかし自身のなかで先の判断とはまた別の声が上がっていることを菫は自覚しなければならなかった。誰か別の、菫ではない人間が声に出しているのなら無視すればいいだけの話だが、自分の内側からの声をそう扱うことはできない。それを無視をしようにもそこにあり続けるのだからどうしようもないのだ。抵抗を試みてもどうにもならないだろうことは初めからわかっている。彼女はここ最近で何度もこの感覚を味わってきたのだから。

 

 結局、菫は先鋒戦さえ終わらないうちに席を立った。レギュラーであるというのに試合観戦を放棄することに対する言い訳をいくつか自身の中で用意したが、どれも菫には空虚に思えた。

 

 

―――――

 

 

 

 「ちょいとそこ行く美人さん、おねーさんの話相手になってくんない?」

 

 そんな女性の声が聞こえると同時に夏服の袖口を引かれて菫は振り向いた。場所はまだホールの中で、菫がスクリーンのある部屋から出てきたばかりのところだ。ナンパの文句にしてももう少しあるだろう、いや同性同士だからそもそも、と見当違いの方向に思考を飛ばし始めた菫の目に入ったのは着物姿の背丈の小さな女性だった。

 

 菫がその人を即座に少女でなく女性と判断したのは、その立ち姿と菫のほうに送られた流し目に妙な色気があったからだ。和装のせいなのかもしれないし違うのかもしれない。一見した印象では対峙する相手を威圧するようなものは感じられないが、向かい合うとどうしても大人というものを意識させられそうな感じがある。袖に隠れた手に握られた巾着も扇子も小さな彼女の着物姿と完全に調和しているのだが、それでも漂うアンバランスさが菫の視線をつかんで離さなかった。あるいは彼女が日本を代表する麻雀のトッププレイヤーであることも無関係ではないのかもしれない。

 

 「お、その反応は知ってくれてるってことかねぃ。ま、知らんけど」

 

 目を細めてころころと笑うと、そのままホールの出入り口へと向かってまっすぐに歩き出した。それは後ろを振り返ることのない、菫がついてくることを前提としているような歩き方だった。着物が崩れない範囲での上品な速さではあったが、どうしてか急かしたくなるような気持ちは生まれなかった。しばらく眺めていたいとさえ菫には思えた。

 

 もちろん選択肢としては行かないというものもあった。しかし自然と菫の足は彼女のあとを追っていた。出入り口の自動ドアの向こうに見える外の景色は、青と緑と白とで支配されている。外のあらゆるものに反射する光が目に突き刺さって、思わず菫は右手を顔の前にかざした。菫の歩幅の四歩先を行く彼女が自動ドアの前にわずかな時間だけ立ち止まる。彼女の命に従うように強化ガラスが左右に身を引いていった。

 

 

 ただ彼女の背中だけを見て歩くというだけのことがなぜか菫には面白く感じられた。隣に並んで話しかけようという発想自体が生まれてこなかった。いつの間にか近くを行く人も、過ぎていく景色も、ずっと遠くにあり続ける空も、すべてが霞んで目に映らなくなっていた。あるのは彼女の背中だけだった。そうやってホールを出て十五分ほど菫の知らない横道を行ったところで彼女は不意に立ち止まり、振り返って菫の姿を確認するとからかうような笑みを浮かべて前へと向き直った。菫には何がなんだかわからなかったが、その混じりっけのない自然な笑顔は奇妙に心に残った。

 

 それからほどなくして菫が目にしたのは、高級住宅地にあってよくよく覗き込まないと看板さえ見つけられないようなカフェだった。はじめは何の気兼ねもなく門を開けて入っていく彼女の姿に驚きさえした。それでも彼女の背中を信じて中へと入ると、外観以上に広く感じる余裕のある空間がそこにはあった。種類こそわからないが店内は落ち着きのある色調の木材で統一され、ほのかに香る紅茶やコーヒーが菫を安心させた。テーブルの数は多くないどころかはっきりと少なく、あるいは趣味に近いレベルで店をやっているのかもしれない。

 

 勝手知ったるといった風に彼女は空いている席に腰を掛け、扇子で向かいの席をぴっと指した。ここまで着いて来ている時点で菫に否応の選択肢はない。掛かる菫の体重にあわせて木の椅子が、ぎ、と音を立てた。

 

 「はっは、ま、いわゆる隠れ家的な店ってやつさ、そんなにキョドんなくていいぜ」

 

 運ばれてきたミルクティーを傾けて、彼女はわずかに満足げな表情を浮かべた。菫はとくに何も混ぜないストレートティーを注文している。香りを楽しめるほどの紅茶など茶葉の品質や淹れ方を含めてそうそう出会えるものではなく、菫は素直に感動しながらそれを味わっていた。そして菫はふと視線を上げて、にやにやと自分を見つめる彼女に気が付いた。

 

 「……どーにもね、こんなシゴトしてっと勘っつーのが冴えちまうんだよな。知らんけど」

 

 「勘、ですか」

 

 「そ、後ろ姿見ておもしろそーだなって声かけたら白糸台の二年生レギュラーときたもんだ」

 

 そこまで言われてやっと菫は自分が自己紹介をしていないことを思い出して、謝罪とともに普段とはまるで違う早口で自分の名前を告げた。

 

 「いーっていーって、有無を言わさない感じで引っ張ってきたのはこっちだしね」

 

 陶器同士が触れ合ってかちゃりと音を立てる。和装とティーセットの組み合わせだというのに、どこにも古臭さを感じさせるものはなく、いたって現代的な印象を持ってしまうのが菫には不思議でならなかった。

 

 時間がゆっくりと流れていく感じがあって、それが菫には心地よかった。ここには菫を追い立てるものは何もない。

 

 「どうだい? この店は」

 

 「とても不思議な店だと」

 

 「そのこころは?」

 

 「雰囲気もいいですし、紅茶しか頂いていませんがそれでも素晴らしいことはわかります」

 

 「なのにこんなにひっそりやっている、ってかい?」

 

 思っていたことをぴたりと当てられたことへの驚きを、できるだけ表情に出さないようにして、菫は、ええ、と頷いた。看板すらもあまり目立たないように出されている理由が菫にはよくわからなかった。もしももっと目立つように店を構えていれば、きっと連日満員になるまでそれほど時間はかからないだろうとさえ思えた。

 

 「ま、いーんだよ、いいトコってのはほっといても客が来るって相場が決まってる。それに」

 

 「それに?」

 

 彼女は扇子で顔の中心を指していたずらっぽく笑う。

 

 「いい女ってのは鼻が利くのさ」

 

 話の中心が明らかにずれているのに、菫はそこに不快なものを感じなかった。どちらかといえば結論を急ぎたがる傾向のある菫にとって、それは珍しいどころか初めてに近い感覚だった。ころころと笑う彼女の飾りっ気のない態度の影響か、あるいは店自体の落ち着いた雰囲気の影響かはわからない。いま菫にわかるのは自分のなかにあるものだけだ。

 

 菫たちを除いたほかの客は、示し合わせたように一言も発さなかった。いつもの菫ならばきっとこの状況にいたたまれなさを感じていたに違いないが、この場所ではそれが実に自然なことのように思われた。ここは真夏もいいところだというのに季節の音が遠く、時間の停滞をさえ思わせる。実際、この店には時計というものが見当たらなかった。

 

 「なんか甘いモンでも食べるかい? 味は保証するし、おねーさんのオゴリだぜ?」

 

 「いえ、さすがにそこまでお世話になるわけには」

 

 さすがに申し訳なさが先に立ったのか、菫は焦ったように申し出を断った。失礼にあたるかとも思ったが、当の彼女はまったく気にしていないという風で、それも菫を安心させた。太陽が先ほどよりも高い位置に来たのか、窓の外の景色の色がわずかに明るくなった。

 

 「あの、三尋木プロ、ひとつお聞きしたいのですが」

 

 「んー、固ってーなー、咏ちゃんとかでもいいんだぜぃ? で、どしたの?」

 

 「今日はどうしてこちらに?」

 

 「解説の打ち合わせってすっげつまんないからさ、ぶっちぎってきた」

 

 いたずらが成功して面白くてしょうがない、という風に彼女は笑った。別の種類の二つの驚きを同時に経験するという珍しい体験に、菫はある種の感動をすら覚えていた。ひとつは彼女が話したここにいる理由。もうひとつは笑顔ひとつ取ってもこの短時間でいくつもの表情が見られたことに対してだ。

 

 いまの言葉でいろんな些末なものが吹き飛んでいった気がして、驚きの感情が去ったあとに菫も思わず笑みをこぼした。間違いなく褒められない行動原理だが、彼女にはそれを押し通してしまう不思議な魅力のようなものがあった。

 

 「いーんだよ、麻雀なんて何が起きるかわかんねーのが売りなんだからさ。知らんけど」

 

 「明日の試合のですか?」

 

 「そ。対局者の情報はアタマに入れてんし十分だって。……ま、小言はもらうだろうけどねぃ」

 

 やれやれといった様子でわざとらしくかぶりを振って、彼女は自身の正当性を主張した。そこにはひとつも彼女をフォローできる要素はなかったが、状況は決してそんなものを要求してはいなかった。ふたつ離れたテーブルに新しい紅茶が運ばれてきたようだった。

 

 

―――――

 

 

 

 菫の白い肌を削ごうとするかのように日差しは強く降り注いでいた。彼女のあとを追って店へと向かっているときにはまるで気にならなかった季節の証明が、今ではその存在を激しく主張している。ホールの敷地の証である白張りのタイルに足を乗せたころにはハンドタオルの手触りがしっとりしたものへと変わっていた。

 

 彼女との話は盛り上がったと説明するにはいささか疑問が残るような内容であったが、それでも会話自体は途切れることなく続いた。そこを見るとふたりの相性は意外とよかったと言うことができるのかもしれない。ある程度の時間が経ってからは菫も相手がプロであることを認識しながらも失礼にはあたらない範囲で自然に接することができるようになっていた。それはこのまま一日まるごと時間を潰したっていいと思えるくらいには菫にとって収穫のあるひと時だった。

 

 

 真っ青な空との対比でいっそう白く映える円墳は、やはり菫の気分をより明るくはしなかった。とはいえ好きか嫌いかで問われて、どちらかといえば嫌い程度の感情なのだから決して菫の気分を害するほどのものではない。無視をすることだってできるくらいのものなのだから大きな影響などないと言い切っていい。もしそうでなければ去年の応援でさえまともにできていないはずなのだから。ほとんど無意識にすこしだけ長く息を吐きながら、菫は出入り口のほうへと歩いて行った。

 

 外が極端に明るいせいで、ガラス張りの自動ドアの向こうが暗くて見えなくなっていた。音さえ立っていないように見えるその暗さからは、どこか冷たささえ感じ取れるような気がした。建物内は当然のように空調システムが働いているため過ごしやすい室温になっている。まだ猛暑日と呼ばれる気温の中に身を置いている菫からすると、その暗い空間が魅力的に見えて仕方がなかった。吸い込まれるように菫は自動ドアのセンサーが反応する位置まで近づいて、暗い空間への扉を開いた。

 

 まだ試合中ということもあってあまり人のいないロビーに、ひとり出入り口をまっすぐ見つめる姿があった。光量の違う環境下に入ったせいで菫の目はそれが白糸台の制服を着ていることまでしか認識できず、誰なのかを断定できなかった。やがて目がゆっくりと周囲の環境に慣れて本来の視力を取り戻したとき、菫はそこにひとりの少女の姿を認めた。

 

 

 宮永照が、立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




それではまた数か月後に

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