影絵   作:箱女

11 / 29
十一

―――――

 

 

 

 昼頃に吹き始めた風がやんで、その代わりに雨粒がすこし大きくなった。太陽はきちんと沈み、宮永照は白糸台の勝利を決定づけた。今はその表彰が始まるまでのがらんとした空き時間である。そこにある倦怠感は地区予選を突破した高校にだけ許された、ある種の特別なものだった。帰りは表彰式が終わってからと通達があったし、その表彰式まではまだまだ時間がある。表彰されるのは部の代表である部長なのだからレギュラー入りした身であってもそこに菫の出番はない。菫はその空いた時間を観客の帰り始めたスクリーン席で過ごすことに決めた。控室にある無骨な椅子よりはふかふかのシートの方がいいに決まっている。菫はシートに思い切り身を沈めて、映画館のような空気をいっぱいに吸い込んだ。

 

 高校生になって初めて選手として出場した二日間を振り返る。一試合だけマイナスだったものの、全体で合計して見ればプラスだったのだから戦績としては上々だろう。少なくとも試合の流れを壊すことなく中堅へと回すことはできた。ほう、と意識することなく漏れた息は、きっと安堵からくるものだったのだろう。とりとめのないことを何も映っていないスクリーンを眺めながら考えていると、誰かが隣の席に座った音がした。照かとも思ったがなんとなく違う感じがして、菫はそちらへ顔を向けてみた。空いている席がいくらでもあるなかでわざわざ自分の隣に来るのだから、何がしかの用事があるのだろうとの判断によるものである。

 

 そこに座っていたのは亦野誠子という一年生だった。女子にしては珍しいくらいに髪を短くしており、わずかに幼さこそ残るものの精悍と呼べる顔立ちはどちらかといえば麻雀よりは何かのスポーツのほうが似合うような印象さえ与える。彼女は菫と違って特殊な才能を持った打ち手であり、その意味ではあちら側の人種である。菫の記憶ではひと月だかふた月だか前に、照に関する質問を投げかけてきた少女だ。

 

 「ああ、亦野か。どうした?」

 

 「あっ、その、お疲れ様ですっ」

 

 本当なら自分から挨拶するべきだったのに失敗してしまい、それを取り繕うように口早に誠子は菫に対する労いの言葉をかけた。菫は彼女が短いあいだ硬直した理由がよくわかっていなかった。せいぜい先輩という立場の相手に気後れしてしまったのだろう、くらいに考えていた。

 

 「ああ、ありがとう」

 

 実際はそれと比べるともう少し根が深かった。奇しくも菫が以前願ったように、新しく白糸台に入った新入部員たちはこの予選で宮永照というプレイヤーを理解したのだ。それも入部から予選が始まるまでの二ヶ月間できちんと高校生のレベルを叩きこまれた上での理解であったから、その不透明な異常性が彼女たちにもよく見えた。そんな存在とただひとり対等に接することのできる弘世菫という存在もまた、一年生たちにとっては畏敬を通り越して恐怖に近い感情を呼び起こす対象となっていたのである。

 

 それを考えれば誠子は実に勇敢だと言うことができるだろう。この場合においてはむしろ菫の方が宮永照という存在の意味を見誤っていたのかもしれない。既に菫は照に対する独自の視点を構築してしまっていたから、異なる立場からの見方ができなくなってしまっていた。

 

 菫は言葉を促すために黙っていた。亦野誠子が労いの言葉をかけるためだけに自分の隣に来たと菫は考えていなかったし、またそれは正しかった。ただすこしだけ彼女の精神性が同年代のそれに比べて成熟しすぎていたから、その無言の時間が生む気まずさに気付けなかっただけで。

 

 「…………その、宮永先輩は」

 

 意を決してやっと開かれた誠子の口から出た言葉は、菫の予想の範囲を出るものではなかった。

 

 「宮永先輩は、いったい何者なんですか」

 

 「見たままだ、としか言いようがないな」

 

 ひどく冷たく聞こえる言葉ではあるが、これ以上の親切な返答を菫は思いつけない。言葉という不完全な道具で宮永照を説明するのは不可能である。それはある一個人を言葉で説明するのが不可能であると言うのと同じ意味を持ってもいたし、また別の問題を含んでもいる。そして照に近い人間が求めるのは、その別の問題のほうだった。大雑把な形容ならこれほど簡単なこともない。宮永照は特別だ、異常だ、とでも言っておけばいい。しかしそれらの言葉は確実なものを何一つ蔵していない空っぽな言葉であってそれ以外ではない。菫がそれを考えなかったわけがないのだ。ずっと彼女がいちばん近くにいたのだから。

 

 「ひょっとしたら怖く見えるかもしれないな、だけど必要以上に怖がらなくていい」

 

 菫はそれまでとくに気を回していなかった表情に、少量の優しさを乗せた。新部長も菫も、決して新入生たちを怯えさせたかったわけではないのだ。ただ宮永照という劇薬に何も知らないままにぶつかってほしくなかっただけのことなのだ。絵空事ではなくしっかりと現実に彼女が存在していることを理解してさえもらえれば、照は最高の手本になり得る。そしてそのことは麻雀打ちにとって他にない価値をもって輝く。

 

 怖がらなくていい、という自分の話を聞いて怪訝な顔をした誠子を見て、懐かしさという感情が心の奥に生まれたことに気付いて菫は驚いた。それは原理的におかしいことで、その感情は過去に似たような体験をしていなければ生まれるはずのないものだ。しかしそのことに気付いたところで伝えるべき相手がいるわけでもなく、また伝えてどうなるものでもない。菫はたしかに自分自身に疑問を残しはしたが、それよりは目の前の後輩に声をかけることのほうが重要に思えた。

 

 「別にアイツは噛みついたりはしない」

 

 菫の精一杯の冗談に、誠子はわずかに間をあけて小さく笑った。

 

 「その証拠にほら、私は無傷だろう?」

 

 

―――――

 

 

 

 梅雨の季節に白糸台に降る雨は特別に軽くて長い。それなのにと言うべきか、だからこそと言うべきか、余計に気分を落ち込ませる何かがある。地形的な要因があるのかもしれないが、それを調べたところでどうにもならない。空気はべったりと皮膚に張り付いて離れないし、気持ち悪い熱を帯びてじっと留まる。この時期を好きだという人があまりいないのと同様に、菫も好きな季節には数えていない。菫は個人での全国出場を逃していた。

 

 何のことはない。不運と言えば不運であり、実力不足と言えば実力不足であり、理不尽と言えば理不尽だっただけのことだ。麻雀という競技に身を置いているのだから、それに文句を言うべきではないことを彼女はきちんと理解している。時にはそれが彼女を勝たせてくれることもあるのだから。席替えのおかげで窓際に座っている菫は、ふい、と曇っている空に目をやった。特別な感慨は何も湧かない。わりと親しんだ景色で、灰色で、ただそれだけだ。三時間目に見る教室からの景色はいつだって面白くない。

 

 自身がレギュラーとして出場した団体で全国出場を決めて菫の生活が変わったかと問われれば、それはイエスでありノーだった。表面上は何も変わりない。学校生活も部活も、照に麻雀の質問を飛ばしているときでさえも変化は見られなかった。しかしそれとは別に、彼女の心のなかに小さな灯がついたこともまた事実だった。

 

 

 珍しく青空の面積のほうが多い日の放課後、部室へ向かう途中で菫は照に話を振ってみた。

 

 「なあ照、お前でも対局中に不安になったりすることはあるのか?」

 

 「……ときどき菫はすごいシツレイ」

 

 相変わらず表情は動かさないから本当のところはわからないが、言葉をそのまま受け取ればどうやら不満であったらしい。たしかに菫の言い方も不躾なものだが、そこは気の許せる友人同士のやりとりだ。お互いに他意はない。

 

 照はすこし歩く速度を落として菫のほうに顔を向けた。こうなると照はもっとも厄介だ、冗談を言うときもあれば言わないときもある。それを彼女が自覚的にやっているかどうかはわからないが、自覚的にやっているのだろうと菫は思っている。宮永照が賢く立ち回れる能力を持っていることを忘れてはいけない。

 

 「いつでも必ず勝てるなんて保証はないし、現に去年は負けた」

 

 「言ってることは正論なんだがな、お前が言うとどうにも」

 

 「信じられない?」

 

 「とまでは言わないが、あの宮永照が不安ねえ、とは思う」

 

 気のない乾いた笑いを飛ばしながら菫は軽く請け負った。実際、菫にとっては宮永照はスーパーヒーローに近い存在だ。身近な友人であることにも違いはないが、その前の初めて彼女を見つけた衝撃が菫の中にかたちづくったものは大きい。だいぶ珍しい関係性だが、成立している以上はそこに不思議はない。

 

 「てっきりお前は、負けるわけがない、くらいの気持ちで打ってるものだと思ってた」

 

 「ううん、いつだって怖いよ」

 

 「へえ?」

 

 「それにもし絶対に負けない人がいたとしても、そんな人は麻雀なんてやらないと思う」

 

 その言葉は菫のなかに奇妙に響いて残った。天井のとても高い静謐な教会で、パイプオルガンを思い切り鳴らしたような響き方だった。全方位から包み込むように身体に染み入ってくる。そして菫がパイプオルガンのことをよく知らないように、どのような経緯で照がそういった考えを身につけるようになったのかが、菫にはわからなかった。

 

 菫は照のいまの言葉のなかに、宮永照そのものを理解する糸口のようなものがあるような気が、漠然としていた。具体的なことは何も言えない。ただそんな気がするだけだ。

 

 「どうしてそう思うんだ?」

 

 「私に妹がいないから」

 

 当たり前でしょう、という風に照は断言した。

 

 菫はいつの頃からか、この言葉に不快なものを感じるようになっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 同い年の他の少女たちに比べて菫の成長期の終わりはすこし遅かったらしく、彼女の背は未だにしっかりと伸びていた。高校入学時に比べて4cmも目線の位置が高くなった。普段はさほど気にしていないが、ふと気づいたときに周囲の友達よりも頭一つぶん近く大きなことを自覚してため息をつくこともあった。高校生というのは、おそらく人生のあいだで最も急激なスピードで大人へと近づく過渡期だ。肉体的な成長が終わりに近づいて、精神的な成長が本格的にやってくる。

 

 灰色に染まった風景に、紫陽花が鮮やかな汚れみたいに浮かび上がる陰鬱な季節のことだった。突然、菫は自分の成長を自覚した。あまりに突然過ぎて、菫はその事実がうまく呑み込めないほどだった。これまで宮永照の連荘を潰すためだけに磨いてきた、他人の鳴きたい牌を読んで鳴かせる力が応用できるものであることに気付き、そして自分がそれを既に行使できるレベルにあることに気付いた。それはほとんど立体的なパズルのようなものだった。あるパーツ同士の位置を組み替えれば形が変わる。それくらいに自然なことだった。そして菫は、もとある形からそのパーツを組み替えて、効果的な別の形を生み出した。

 

 “狙撃” という名前がついたのはしばらく後のことで、実際には夏のインターハイが終わってからのことであった。菫が手に入れた新しい形は、菫に不思議な自信を与えた。これで強くなった、という正常かつシンプルな自信ではなく、もっと歪で限定的なものだった。そのことに菫自身は気付けない。とくに彼女のどこかが壊れていたというわけではなく、それはある意味で避けようのないことだった。

 

 

 ちょうど東の牌を河に捨てたときのことだった。これは他家に鳴かせようという意図のない、ただ単に菫の手には必要がないから捨てようという牌だった。同じ卓に照は座っていない。その東から指を離した瞬間に、例のパズルが頭の中で組み上がった。相手の鳴きたい牌がわかるのなら、ちょっと考え方を変えれば手格好も想像がつく。そこからいつか零れるだろう牌の予想など容易いことに違いないのだから、それを狙って和了ればよい。こういった考えが、淀みなく自然と流れていった。

 

 もちろん菫はその卓でその考えを実践するようなことはしなかった。それは妄想の類だと誰かに言われれば、きっと菫はそれを信じただろう。自分の内側から出てきた考えにしてはあまりにうさんくさかったし、何よりそういう妄想が出てきてもおかしくないくらいに疲れているという自覚があったからだ。ちかごろ取り立てて忙しかったという記憶はないが、梅雨はそれだけでじわじわと疲労を蓄積させるものだ。それに六月には祝日がないという事実がそれに拍車をかけた。いくら大人びていたって菫も人間であり、それらのことをまったく無視するなんてことはできない相談だった。

 

 しかしあまりに頭から離れないその戦法に、いつか違う意味での不審を感じ始めた菫は、それを試すことを決意した。身体の内側でなにかが変質していくような、奇妙な感覚があった。

 

 紫陽花のような菫の不幸の明確な出発点は、きっとこの日だったに違いない。

 

 

―――――

 

 

 

 飛び抜けた実力を持つ世代というのはたしかにあって、その中核を担うのは、常にどうしようもなく隔絶した実力を有した存在だった。“宮永世代” なんていう言葉が生まれたのも、ある意味で言えば当然のことだったのかもしれない。ただ、その名付けが他のものに比べて特別なのは、彼女たちが二年生の段階ですでにその名がつけられていたことだった。それはつまり前年に一年生にして団体優勝と個人準優勝を達成した彼女を筆頭に、各地で照や菫と同い年のプレイヤーが大暴れしたことを意味している。それこそ照の存在が起爆剤になったのかもしれない。もしそうだとすれば、正しく彼女たちは “宮永世代” だろう。

 

 きっとその言葉に何の興味も示さないだろうな、と菫は雑誌を放り投げた。雑誌はベッドの上に柔らかい音を立てた。もう荷造りは済んで、明日には荷物を先にホテルに預けることになる。菫自身が都心のホテルに身を寄せるのは明後日のことだ。その翌日に開会式と抽選会があって、そしていよいよ本選が始まる。梅雨は少し前に明けて、これからは夏の要素が一気に強まっていく。気が付けばいつの間にか流れているのが季節であって、足を止めなければその微細な変化の端々を意識することは難しい。たまたま菫に足を止める機会が訪れただけのことであって、特別な事情があったわけではない。遠くの夜空が瞬いた。星の光は、赤かったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。