影絵   作:箱女

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一年生編


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 誤解を招くことを恐れずに言えば、結果として宮永照は弘世菫を深く傷つけたのかもしれない。あるいはそれは傷という生々しいものではなく、彼女の心の底の底に静かに降り積もる澱のようなものと言ったほうが適切かもしれない。ただどちらにせよ、宮永照が弘世菫という一個人の人生に対して影響を及ぼしたことは間違いのないところだ。それが良きにつけ悪しきにつけ。

 

 

 

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 ちいさなちぎれ雲がぽつりぽつりと浮かぶきれいな青空と、見事に咲き誇る白にわずかな桃色を混ぜたソメイヨシノの花弁が目に眩しい。見渡せば真新しい制服に未だに着られている感じのある少年少女たちが、親や友人と、あるいはひとりでどこか緊張した面持ちをしたまま体育館へと向かっている。次々と体育館へ入っていくうえに後ろからもまだまだやってくるようで、ざっとでさえその数は掴めそうにない。また新たな生徒が校門から入ってきたようだ。

 

 長く艶のある、真っ直ぐな髪が特徴的な少女である。この春から高校生になるというのに、既に女性的な体をしている。だというのに制服の上からでも油断のない引き締まった体でもあるというのがはっきりと見てとれる。髪が長いということで判断が多少は鈍るものの、おそらく何らかのスポーツをやっているだろうことを窺わせる外見である。顔立ちは整っており、凛としたという表現がしっくり来るだろうか。あるいは眼に対して鋭すぎるという印象を持つ者もいるかもしれない。

 

 つむじを糸で引かれたようにぴんと背筋を張って歩く姿は、その身長もあって人目を惹かずにはいられなかった。もし初対面の相手に年齢を当てさせれば、多くが実年齢より上だと言ってしまうだろう。年頃の少女には疎ましくてしょうがないものだろうが、大人びた雰囲気というものは努力で消し去れるものではない。

 

 体育館の入り口の脇には “入学式” と大きく書かれた板が貼り付けられている。

 

 

 入学式では体育館の入り口で渡されたプリントからそれぞれが自身のクラスと出席番号を探し、それと一致する席を自分で見つけることになっている。四百人に届こうかという人数規模の中で見つけるというと大変に聞こえるが、実際はクラスごとにわかりやすく分けられているためそこまで難しい話ではない。席についてさえしまえば後はじっとしているだけでいい。いわゆる偉い人の話を真面目に聞いてもいいし、聞いているふりをしてもいい。誰もがそういう話をきちんと聞いているだなんていうのは幻想だ。場を掌握して聞かせるような演説をうてる人間は基本的に教職になどつかないものである。

 

 滞りなく式は終わり、新入生たちは各自のクラスへと並んで歩いていく。校内に入った段階で、早くも親しげに話をしている者もいるようだ。どのみちこれから自己紹介があるからまあいいか、と長い髪を揺らして弘世菫は歩きながら校舎内を観察し始めた。

 

 

 自己紹介ほど退屈なものはない、と菫は思う。一度に四十人近い人物の顔と名前を記憶するのは難しいし、それ以上の情報となるとさらさら覚える気にすらならない。せいぜいが出席番号が近くて席の近い子の名前と、あとは極めて強い印象を残した人くらいしか覚えない。もちろん菫は自分がそれになるつもりはないから無難な自己紹介の準備をしている。名前と入るつもりの部活くらいを言っておけば十分だろう。他の人がいることも考えると、あまり時間をかけるのも賢いとは言えない。そんなことを考えながらぼんやりと他人のものを聞いていると、思っていたよりあっさりと菫の番がやってきた。

 

 「それじゃあ次は弘世さん、お願いしますね」

 

 す、と立ち上がることで担任の呼びかけに応じる。当たり前のことだが教室中の視線が菫のもとへと集まる。もともと菫は注目されやすい容姿や立場だったりするのだが、いつまで経ってもこれだけは慣れない。内心ではうんざりしていたが、外面にはそれをおくびにも出さなかった。

 

 「弘世菫です。麻雀部に入るつもりです。どうぞよろしくお願いします」

 

 菫はそれだけ言うとさっさと席についた。これ以上言うべきことがあるとは思えないし、そうであるならば立っている理由もないだろう。なにやらひそひそ話が増えたような気がするが、自分が目立ったあとにそう感じるのは仕方のないことで、それは短期的な自意識過剰というやつなのだろう。菫はそう思うことにしている。

 

 先ほど入学式前にもらったプリントを眺める。自己紹介は出席番号順だから、次は菫の後ろの席に座る子のはずだ。自分の名前の下に書いてあったのは “宮永照” というものだった。後ろを振り返ってみるとその子はどう見ても女の子である。いまひとつ読み方に自信が持てないが、それはすぐにわかることだ。珍しい読み方でもするのだろうか、といろいろ予想を立ててみる。すぐに菫は自省する。どうも今日はくだらないことばかりが気にかかる。緊張しているのだろうか。あれこれと考えていると、後ろの席から椅子を引く音が聞こえた。

 

 「……宮永照です。ええと、麻雀部に入ろうと思っています。よろしくお願いします」

 

 赤をほとんど黒に見えるくらいまで暗く煮詰めたような髪の色をしていた。右側にくせ毛なのか寝ぐせなのか判別のつかないぴんと跳ねた部分がある。髪自体は肩まで届かないくらいの長さだ。他には飛び抜けて目立つ特徴はない。たしかに顔立ちは均整がとれているが目の醒めるような美人というわけではないし、体つきもすこし細身かなという程度で実に高校一年生然としている。何の変哲もないただのクラスメイト。一年生が終わったときにクラスで聞いてみたら多くの人がそう答えるであろうタイプの子である。これで趣味が読書とか音楽鑑賞だったら満貫だな、などと菫はまたくだらない方向へと思考を飛ばしていた。それは見下すだとか馬鹿にするとかいったそういうものとはまったく無縁の、ただの感想だった。

 

 

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 白糸台高校における高校生活のオリエンテーリングを終えれば、授業の開始とともに部活の勧誘期間が始まる。はじめから入る部活を決めている生徒は配られた入部用紙に必要事項を記入して、さっさと入部を済ませている。菫も照もそのうちの一人である。用紙が配られたのは入学式から一週間ほど経ってからのことで、そのころには菫はそれなりに話せる友人を何人か作っていた。菫は席の関係と同じ部に入るということもあって、照とはコミュニケーションを取りながら観察をしていた。菫からの印象は表情の変わらない内気なヤツだな、というものだったがクラスではどうにかやれているようであった。

 

 まだ入部用紙が配られる前、すでに麻雀部に入ることを表明している新入生たちの間でひとつの噂が流れていた。いわく、今年の新入生の中に特待生がいるらしい。はじめに聞いたときは興味を持ちこそしたが、すぐにデマだろうと菫は思い直した。たしかに白糸台は激戦区である西東京地区にあって強豪校と呼ばれているくらいなのだからそういった制度自体はあるだろう。だが菫も中学時代は全国でそれなりに鳴らしている。さすがに同じ東京の辻垣内や大阪の愛宕、江口と比べれば落ちるのは認めざるを得ないが。しかし特待生に選ばれるというのはそういったレベルの選手であって、そんな上位のプレイヤーが同じ学校にいれば菫が見落とすはずがなかった。仮に菫が見落としたとしても、有名な選手のはずなのだから誰かが見つけて騒ぐに決まっている。考えてみればひどく単純な理屈である。特待生などいないのだ。

 

 菫は同じ部に入るという照にその話題を振ってみたが、彼女は片眉さえ動かさなかった。芯から興味なさそうに、そう、とだけ呟いた。その表情の変化の無さに、菫はむしろ感心さえしていた。とくに彼女から頑固な印象は受けないが、それなのにこの鉄面皮ぶりは珍しい。どこか欠落しているのではないかとすら思えるようなものだった。

 

 

 その日の空は薄曇りで、灰色というには心許ない色をした雲が空一面を覆っていた。天気予報では日付が変わるころから雨が降り始めると言っていたが、念のため折り畳み傘を鞄に入れておく。菫はこういう準備に余念がない。駅から学校まで歩いた感じでは降りそうな気配はないが、さすがに何時間もあとのこととなると予想がつかない。考えてもどうしようもないことは頭の端に押し込んで、菫は今日から始まる部活のことを考え始めた。

 

 ホームルームの間に帰宅や部に行く準備を整えていたクラスメイトたちが、挨拶を終えると同時に動き出す。教室に二つしかない出入口を見てみれば多少の混雑を起こしていた。ああいうところに飛び込む気にはなれないから、菫は窓の外に目を向ける。朝よりすこし灰色が濃くなったように感じられた。これは折り畳み傘を持ってきたのは正解かもしれないな、と思いながら出入口の方を見ると、まだ混雑は続いているようだった。もう二、三分は経たないと出られないらしい。

 

 菫と照のふたりが連れだって廊下を歩いている。目指すのはもちろん麻雀部だ。他にも麻雀部に入ったクラスメイトはいたのだが先ほどの混雑に突っ込んでいったらしく、通行がラクになってから出たのはふたりだけだったのだ。

 

 「なあ宮永、お前中学では麻雀やってたのか?」

 

 「……部活ではやってない。身内と、あとたまに雀荘でやってた」

 

 まるで表情が変わらないとはいえ意思疎通ができないわけではない。たびたび菫が照に話しかけるのも、要素のひとつとして返答が端的でわかりやすいものだったから、というのがあった。

 

 白糸台高校の廊下は長い。一学年に十ものクラスがあるのだから当然と言えば当然だが、端から端までの長さは百メートルなどゆうに超えている。部活棟があるのは十組の先の渡り廊下を曲がった先にあるから、たとえば一組はすこし面倒なのだ。菫と照は三組なので不利な側に分類される。なぜか四組と五組の間にある中央階段を通り過ぎて思うのは、部活棟に向かう生徒の多さについてだ。これなら部活動が盛んといっても嘘にはなるまい。

 

 

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 ( ……やはりそう簡単にはいかないか )

 

 ひとつため息をついて額に手をやる。部活の初日は歓迎を兼ねたフリーの対局だった。もちろん本当に歓迎の意味を持っていたのには間違いない。ルールを知らない初心者のための卓も立てられていた。ただそれと同時に打てる新入部員の品定めの意味を持っていたことも否定はできないだろう。半荘を三回打ってトップはなし。自身の実力にそれなりの自負を持っていた菫であっても高校の強豪クラスとなると勝つのは難しいということだ。力をつけてのし上がるという展開は嫌いではないから、勝てなかったことそのものを菫は気にしていない。仮にいきなり勝ててしまったらそれはそれで拍子抜けというもので、気の持ちようとは大事なことである。

 

 さて周囲の様子はどんなものかと菫がまわりを見渡すと、あるひとつの卓に上級生たちが集まっているようだった。他の卓にもちらほらとは立って見ている先輩はいるが、その卓との違いは瞭然としている。自身も打った直後ということで他の卓を見がてら、やけに人の多い卓を見に行くことに菫は決めた。この位置では人垣のせいで誰が打っているかすらわからない。

 

 

 果たしてその中心にいたのは、宮永照だった。

 

 

 教室で見る普段と変わらない無表情のままで、上級生を相手に打っている。手元の点棒を入れる箱に目をやると、そこには誰がどう見たって照が勝っているのがはっきりとわかるくらいに点棒が積み重なっていた。改めて照の対戦相手を確認してみれば、先ほど全体の挨拶を執り行っていた部長がいるではないか。他二名はよく知らないが、この部に所属している以上は最低でもそれなりの実力は備えているはずだ。それは菫が身をもって知っている。だとすれば、この現状が示す可能性はそう多くない。

 

 「いったいどうなっているんだ……?」

 

 意識せずに菫の口から言葉がこぼれる。

 

 「いやすごいよね、あの子。あれウチの部長と団体のメンバー候補だよ」

 

 「……フロックということはありませんか?」

 

 「ないと思う。あの様子じゃ誰かトビだし、そうなれば四連続でトバしてトップだからね」

 

 無意識の言葉に返されたことに気が付かないほど菫は動揺していた。数多くの考えが頭のなかに浮かんでは消えていく。実力を備えていることそのものに文句を言うつもりなどさらさら無いが、問うてみたいことはいくつもある。一方で何も質問したくないという気持ちがあるのも否定できない。彼女の口から不意に出る言葉が菫を打ち砕かないとも限らないのだ。それらの考えを跳び越えて、菫をもっとも動揺させたのは照の表情だった。目は他家や河を見るために動き、口はなんらかの発声をするために動いているのにもかかわらず、表情は一切の変化を見せていない。それは教室で話しているときに感じたものをはるかに越えて不気味だった。大げさでなく人間としての機能が失われていると菫に思わせるほどに、そこには感情というものが見られなかった。

 

 能楽に使われる面の目や口だけが動く、というのがもっとも近い表現だろうか。もちろん能面の貌の造りと宮永照の顔の造りは違う。だが表情を変えないというただ一点において、宮永照と能面は恐ろしいまでの類似性を持っていた。木彫りの面が喜怒哀楽を自在に扱えないように、彼女もそれを扱えない。いや、扱えないかどうかは本人に尋ねてみるまではわからないが、少なくとも今見るところでは扱うつもりはないようである。

 

 周囲をぐるりと人に囲まれた卓だというのに、麻雀に必要な最低限の音以外はまるで聞こえてはこなかった。唾を呑み込む音でさえ響き渡りそうな気がする。その卓を見ている誰もが既に勝負がついていることを悟っていた。打ち続けることの無意味さを理解していた。

 

 最終的に照は西家に座る先輩をトバして勝利を収めた。誰一人として身動きひとつ取れないなかで、照だけがそれを意に介することなく立ち上がった。そうしてからはじめて囲まれていたことに気が付いたようにきょろきょろと辺りを見回した。そして頭ひとつ抜けて背の高い菫を見つけて、抑揚なくこう言った。

 

 「弘世さん、私勝ったよ」

 

 言うまでもなく彼女の表情はまったく変化を見せていない。

 

 そのとき初めて菫は照の顔をはっきりと真正面から見た。少なくとも表面上におかしいところはない。目も口も鼻も耳もすべて人間のそれだ。だがそれでも菫には目の前の人物が自分と同じ種の生物であるようには思えなかった。明らかにどこかがおかしい。しかし今の菫はそれを説明するだけの言葉を持たない。自分以外がその違和感に寸分の違いなく気付いているかもわからない。もしそれに気付いているのが菫だけで、あとで思い込みだと証明されたらどれだけ彼女は救われただろうか。ただ現実として菫を襲っているのは、ちいさな蟻が体の内側をすこしずつ蝕んでいくような気分の悪さだった。

 

 「あ、ああ。すごいな」

 

 努めて平静を保ったつもりだが、外から見てどう映ったかまでは意識を回せなかった。内心では叫びだしたい気持ちが暴れまわっている。菫はそれを抑え込むので手一杯だった。

 

 

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 一階の中央階段そばにある自販機で小さなペットボトルを購入し、菫は一息ついていた。理由はなんでもいいが、とにかく落ち着く必要があった。正直なところ誰に何を言って部室を出てきたのかすら覚えていない。それほどまでに鮮烈で、衝撃的だった。こくり、とペットボトルを傾けて、はじめて喉が渇いていることに気が付いた。果物の味を強調した清涼飲料水によくあるべたついた甘味が、むしろ心地よいくらいだった。

 

 外からは運動部の声が聞こえてくる。菫は壁に背中を預けて、何を考えるでもなくそれを聞いていた。太陽が出ていないせいか気温としては涼しめだが、ブレザーを着ているおかげでとくに寒いと感じるようなことはなかった。

 

 宮永はまだ打っているのだろうか、とついつい思考がそちらへと寄ってしまう。あれだけのことを大勢の前でやってのけたのだ。注目の的になるのは免れないだろう。その質が良いものにせよ、悪いものにせよ。入部初日に名もないルーキーが実力で部を掌握、作り話にしたって出来が悪い。これからこの部が彼女を中心に回るかどうかまではわからないが、団体戦のメンバー選出にあたって名前が挙がることだけは間違いないだろう。

 

 買ったペットボトルを飲み干して専用のごみ箱に入れる。いつまでも休憩しているわけにもいかない。もちろんあの空間に戻ることに抵抗はあるが、たったひとつの、それも一方的な事情で部に出ないというのもおかしな話だ。菫は菫で求めるものがあってこの白糸台の麻雀部に入ったのだ。少なくとも同期に飛び抜けて強いのがいたからといって折れるような安いものではない。

 

 雨は、まだ降りそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 


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