こちら、アインクラッド解放軍第104小隊   作:ハイランド

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30商人の依頼 中編

 ウィーク・ポイント。

 人体には俗に『急所』と呼ばれる箇所がある。外傷に弱く、そこを傷つけられば程度にもよるが死に至るとされる部位だ。

 例えば全身に血液を送り出す心臓、司令塔である脳を納めた頭部、そこに血液を循環させる頸動脈および首などなど。

 それらはこのSAOでもプレイヤーの弱点部位として設定されており、モンスターを相手にした通常戦闘で攻撃を受ければダメージ値にプラス補正がかかるし、場合によっては一撃でHP全損という事態もあり得る。

 プレイヤー同士で行うデュエルでウィーク・ポイントを狙い撃てれば勝敗は即座に決するので、成功すればギャラリーから賞賛されることは十中八九間違いない。

 逆に言えばそれだけ難しい技術ということだ。相手は練習台の木偶人形ではなく、素早い回避や防御を駆使する人間なのだから。

 けれどそれも、両者が適度な間合いを取っている場合の話。今のヒナタさんのように背後から密着し、少しでも動けば相手の喉にナイフを突き立てられる状況ではそう難しいことではない。

 

「ヒナタ、さん……」

「ふふふふ、動いちゃだめですよ~?」

 ウィーク・ポイントの補正は絶大だ。適切な場所に相応の強度を持つ武器を差し込めれば、ある程度のレベル差なんて飛び越えて簡単に全損させられてしまう。

 この超至近距離では、<体術>による反撃も不可能だ。拳をにぎるために指先を動かした瞬間、彼女は容赦なくナイフを突き刺すだろう。

 私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、なるべく彼女を刺激しないように口を開いた。

「なぜ、こんなことを……?」

 真後ろに立つヒナタさんの顔を窺うことは、当然ながら出来ない。それでもなぜか私には、彼女がどのような表情をしているのかが容易に想像できた。

「なぜですかって? キサラさん、本当に甘ちゃんですね~。もし……もしもですよ、私が<オレンジ>ギルドの一員……だとしたら?」

「っ!」

 その一言で、一瞬息が止まる。

 私はおびき寄せられた、のだろうか。犯罪者ーー<オレンジ>プレイヤーがソロで活動することは少ない。

 彼らの多くは徒党を組んで行動し、善良な一般プレイヤーから資源を搾取している。理由はいくつか考えられるけど、集団行動による罪悪感の希釈と『狩り』の効率化……が大きいとされる。

 <圏外>で一度でも他プレイヤーを傷つけた者は、タグが鮮やかな橙色に染まりひと目で犯罪者と分かるようになる。

 故意にしろ過失にしろ、<オレンジ>になったプレイヤーに好んで近づこうとする者は少ない。それは『狩る側』の彼らにとっては不都合極まりないことである。

 そこで彼らは、自分たちのギルドのなかに何人かの<グリーン>プレイヤーを残しておくことを思いついた。

 強奪行為には直接参加させず、一見善良な偽<グリーン>メンバーを街なかに送り込んで獲物を誘い出す。

 PK行為が可能な<圏外>にさえ連れ出せればこちらのものだ。あとは囲むなり痛めつけるなりして金品を奪うだけでいい。

 ヒナタさんは自分がその囮役であることを示唆しているのだ。罠にかかった間抜けな獲物は、この私。

「のこのことついて来ちゃって。こんな所、誰も来ませんよ?」

「く……」

 悔しいが、彼女の言うとおりだ。ここは決して入り組んだダンジョンの奥部ではなく、見晴らしの良い草原ではある。

 逆に言えば、めぼしい施設が何もない空白地帯なのだ。第1層はSAOの数ある大地の中でも最も広いから、各施設を結ぶ『街道』ともいうべき最短ルート以外で他プレイヤーとすれ違うことは珍しい。

 開始当初の全プレイヤーがこの層にいた頃ならともかく、である。

「……あのお客さんを探すというのも、嘘だったということですか」

「もちろん。迫真の演技だったでしょ~? キサラさんだけを連れ出すつもりだったのに、邪魔者がついてこようとしたから少し焦っちゃったけど」

「なぜ私を? ヒナタさん、貴女の狙いは何なの……?」

「狙い、ですか。そうですね~、強いて言えば」

 私のお腹を押さえていたヒナタさんの片手が、するりと上に動く。フィールドに出るとき装着した胸当ての隙間に滑り込ませーー。

 

「ひゃあっ!?」

「……いたずら目的、かな?」

 ぎゅむ、と私の胸が掴まれる感覚。思わずすっとんきょうな声が出てしまう。

 逃れるため身をよじろうとするも、眼前のナイフが気になって思うように抵抗できない。

 彼女はそんな私の反応が楽しいのか、クスクス笑いながらも手を動かし続ける。

「おおっ? これは思ったよりも……。キサラさんって着痩せするタイプ?」

「な、なに言って……!」

 おそらく今の私は、羞恥に顔を赤く染めているだろう。

 SAOでは異性間で過度の身体的接触が発生した場合、システムがそれを感知しハラスメント防止のための警告ウィンドウを表示させる。

 これは握手程度の軽い接触では発生しないものの、肩を抱き合ういわゆるハグくらいの行為になると違反と判定されてしまう。

 男女混成パーティで強力なモンスター討伐に成功し、その嬉しさで皆がハグしたところ警告ウィンドウが開き興奮に水を差された……などとはたまに聞く話だ。

 しかしこれにはいくつか抜け道があって、例えばハラスメント判定そのものを停止させる<倫理解除コード>なるコマンドなども存在する。

 またこの判定はあくまで異性間では厳しいが、同性間ではそこまでハードルが低くない。

 先に述べたように、強敵を倒したりレベルアップしたときにハグや胴上げをすることを想定しているためだと言われている。

 そして今回、私がされているセクハラもシステム的には『スキンシップ』の一環と見なされているわけで……。いやそれにしても、判定緩すぎじゃない!?

「ちょ……っ!」

「うりうり~♪」

 いつの間にやらヒナタさんはナイフを格納し、両手を交差するかたちで触ってきている。

 がっちりとホールドされているので、振りほどくこともできない。なにより私の身体は、慣れない刺激を受けて力が入らなくなりつつあった。

「やっ……」

 確かに以前、学校の友だちとふざけてお互いに触りあったりしたことはあった。それでもその時はここまで執拗にまとわりつかれることはなかったのだ。

 腰が抜けてその場に両手両膝をつくも、ヒナタさんは解放してくれない。背中に密着し、のしかかられる。

 ……あー背中に柔らかいのが当たってるヒナタさん私のをどうのこうの言ってるけどこの感じからすると本人だって相当ご立派なサイズなんじゃないかなーこんなに可愛くてスタイルも良かったらそりゃあ軍曹みたいな人は放っておかないよねそう言えば先生も前にカレン相手にデレデレしてたしやっぱり男の人って大きいほうが好ーー。

「じゃなくてっ!」

 あまりに非現実的な体験に数秒間意識を霧散させられていた私は、不意に自分を取り戻した。気づけばすでに私の身体は完全に地面に伏せっており、ますます逃れるのが難しくなっている。

 ばたばたと手足を振り回すも、しがみついたヒナタさんはなおも身体を密着させてきた。

「放してええぇ!」

「だ~め~♪」

 その後数分間にわたり、私は彼女にもてあそばれることとなった。

 先ほどとは180度意見を変えるけど、ここが人通りのない空白地帯で良かった。こんな光景を誰かに見られていたら……。

 そしてやっぱり、軍曹は置いてきて正解だった……と改めて思う。

 

「や~、楽しかった~。ありがとね、キサラちゃん!」

 ぐふふふ、と彼女の顔に相応しくない邪悪な笑い声が聞こえる。憔悴しきった私は地面に座り込み、呆然と肩を落としていた。

 なんだろう、この疲労感は。命の危険は去ったと思われれるのに、全然心が休まった気がしないんですけど。

「……」

「どうしたの~? 大丈夫だよ、もう襲ったりしないから~」

「……結局」

「ん?」

「結局貴女は、何者なんですか……」

 顔を上げるのも億劫なくらいの疲れのなかで、ようやくその一言を口にする。

 商人プレイヤーを装い、軍人である私に近づき。犯罪者の常套手段を駆使して<圏外>にまでおびき寄せ、やろうとすれば可能だったPK行為を寸止めに終わらせる。

 あまつさえシステムのハラスメント判定ギリギリ圏内(私はそう思えないが)で人の身体を弄び……。

 おそらくは凶悪なプレイヤーではない、けれども……ある意味危険人物ではあると思う。このヒナタと名乗る美少女は何者で、なんのために私に接触してきたのだろうか。

「知りたい~?」

 動物に例えるならやんちゃな子猫のようにキラキラと瞳を輝かせ、彼女はこちらを覗きこんできた。

 あれだけ抵抗したのに、まったく疲労の色が見えない。見かけによらずたくましい女の子だ。

「それなら一緒に来て欲しいな。安心して、今度はちゃんと街なかだから」

 私の手を引き、立ち上がらせてくれるヒナタさん。ここから<はじまりの街>まで、それなりの距離がある。

 正直なところ歩いて帰るのは精神的につらいのだけど……。

「え~と、……あったあった」

 そんな私の心情を察したわけではないのだろうけど、彼女はポーチからあるアイテムを取り出した。

 青く輝く八面柱型のクリスタル、転移結晶だ。それも2つ。

「はい、キサラちゃん。1コあげるから、私と同じ街に転移してきて」

「え、ええ……?」

 片方を私に手渡し、いたずらっぽくウィンクする。転移結晶はたいへん高価なアイテムだ。ある程度レベルが高いプレイヤーならいくつか持ち歩いているものだけど、基本的に安々と人に譲れるような品物ではない。

 それを惜しげも無く使えというヒナタさんに、私は呆気にとられてしまう。その表情が面白いのか、彼女はまたクスクスと笑った。

「大丈夫だよ、キサラちゃん。私いろいろキサラちゃんに嘘ついてるけど、商人をやってるのは本当なんだ~。だからお金には少し余裕があるんだよ」

「そ、そうですか」

「うん。それじゃ、行くよ! 転移……<アルゲード>!」

 彼女が口にした街の名前に一瞬驚きながらも、私はクリスタルを掲げて同じ地名を指定した。

 いったいこれから、なにが起こるのだろう……。不安と期待にどきどきしつつ、私は全身が青い光に包まれるのを感じるのだった。

 

 第50層主街区<アルゲード>は、一言で表せば『混沌の都』だ。

 広さは<はじまりの街>に及ばないものの、複雑に入り組んだ路地が縦横無尽に張り巡らされており、そこには小規模な店舗が無数にひしめき合う。

 雰囲気としては現実世界での東京にある電気街とか、東南アジアの繁華街に似ているのだという。まあ私はそのどちらにも行ったことがないので、ピンとこないのだけれど。

 円形の広場にある、高さ5メートルはありそうな金属製の転移門から出てきた私たちは、ヒナタさんの案内で近くにある屋台の席に座った。

「ここには、私たちのギルドの本部があるの。ヘンテコな街だけど、探せばいろいろ美味しいお店もあるんですよ~」

「そうなんですか。……ちなみに、この屋台は何のお店なんですか?」

 昼食を摂っていなかった私たちは、彼女の提案でまずは食事にすることにした。

 着いた屋台の席は直径1メートル程の円形テーブルで、中央に湯だった鍋が埋め込まれている。イメージとしてはしゃぶしゃぶ屋さんが近い。

 周りを見ればプレイヤーやNPCがお皿を持って歩きまわり、あるテーブルでひょいひょいと何かを盛っている。

 あれは……焼き鳥?

 串に刺さった肉や野菜を自分の席に持ち帰り、鍋に満たされた熱湯にさっとくぐらせる。どうやらセルフサービスで食べる店らしい。

「なんとかボートとか言って、あの串を好きなだけ食べられるの! ちなみに10本1コル」

「安い!」

 あのサイズからして、たぶん2コル分も食べられればいい方だろう。それにしても、つい最近似たようなものを食べたような。

「本当はラーメンみたいなもの屋さんもあるんだけどね~。あそこはちょっと、遠いから」

「ラーメンみたいなもの、ですか」

 断言を避ける言い方が少し気になったものの、今は目の前の料理が優先だ。ちょうど空腹だったし。

 私たちはお互いに交代しつつ、串を取りに行った。串の種類は思いの外多く、迷ってしまいそうだ。

 ひと通り見繕って席に戻ると、ヒナタさんは宙に指を走らせていた。どうやらメニューを操作しているらしい。

「おかえり~」

「お待たせしました。ではいただきましょうか」

 両手を合わせて一礼すると、食べ始めた。

 

 ヒナタさんおすすめの、『なんとかボート』。屋外のテーブル席で食べる串茹で料理は、街の猥雑な雰囲気にマッチしていた。

 この<アルゲード>はアインクラッド全階層のちょうど中間ということもあり、数多くのプレイヤーで賑わっている。

 最前線で戦う攻略組や、私のような中層プレイヤーに下層からの観光客もいるようだ。また、彼らを目当てにした店を開く職人プレイヤーも多いのだという。

 ガヤガヤと喧騒の中で屋台にいると、現実世界での夏祭りを思い出す。料理も美味しいし、いい街だと思う。ただし……。

「お姉さんたち、彼氏いないのー? よかったら一緒に食べようよ」

 およそ20分に1度の頻度で声をかけてくる下心丸出しの男性プレイヤーさえいなければ、だけど。

「はぁ……」

 これで何度目だろうか。雑多な色彩があふれるこの屋台街にあっても、ヒナタさんの輝くブロンドヘアーは人目を引くらしい。

 最初のうちは丁寧に断っていた私たちだけど、さすがに回数が重なってくるとそれも億劫になってくる。

 私はいかにも『不機嫌ですよ』といったオーラを放ちつつ、声をかけてきた2人組の男性プレイヤーを睨みつけた。

 ちなみにヒナタさんに至っては完全無視を決め込んでいる。

「邪魔しないでください」

「うっ……」

 私の雰囲気に毛筋ほどの勝機もないことを悟ったのか、彼らはすごすごと引き下がっていった。まったく、おちおちヒナタさんと話すことも出来やしない。

 まあそれでも、私が軍服を着ているぶんいくらかナンパの頻度も下がってはいるのだ。

 私たちのテーブル近くをうろうろ歩いて様子を窺ってくる男性諸氏のうち、実際に声をかけてくるのは中層以上と思しきプレイヤーのみ。

 下層からの観光客らしき人たちは私の服装を見るや<アインクラッド解放軍>の人間であることを察するようで、そのまま去っていった。

 ありがたいことだけど、やっぱり中層以上にはまだ軍の存在が浸透していないことを実感させられてしまう。

「……ヒナタさん、そろそろ移動しませんか? ここは人が多くて」

 茹でたソーセージを食んでいたヒナタさんは、私の言葉に小首を傾げた。

「え~? まだいいじゃないですか。普段このお店で食べてるとナンパがうざいけど、今日はキサラちゃんが追い払ってくれるし」

 笑顔でのたまうヒナタさん。

 ……なんだろうこれ。ひょっとしてまた私騙されて、利用されてる?

「それに、ここで待ち合わせしてるんですよ~。来るまでもう少しだと思うから、ちょっとだけ我慢して。ね?」

「待ち合わせって……」

 いつの間に連絡をとったのだろうか。そういえばさっき私が料理を取って来る時、メニュー操作をしていたような。

「それなら仕方ありませんけど。でもヒナタさん、そろそろ貴女のことについて聞かせてもら……」

「やあ、リーシィ。ここにいたんですか。探しましたよ」

 ヒナタさんを問い詰めようとした時、背後から男性の声が聞こえた。なんというか、軽薄そうな声音だ。またか……。

 どうせ待ち合わせ相手と間違えて声をかけた、とかなんとか言ってナンパに持っていくのだ。その手法はここに来てからの2回めですでに学習している。

 私はガタン、とわざと音を立てて席を立ち、背後を振り向いた。こういう手合は出鼻をくじくに限る。

「人違いじゃありませんか? 私も彼女もリーシィなんて名前じゃ……」

「え?……き、キサラ!?」

「え、は……。ええっ?」

 そこにいたのは、長身の男性。青みがかった黒髪に赤い瞳の、何度となく見上げた顔……。

「先生……?」

 呆然と見つめあう私と先生をよそに、ヒナタさんは食後のお茶を楽しんでいた。

 

 先ほどまでは2人で座っていたテーブルに、今は3人が着席している。

 テーブルは円形なので、それぞれ等間隔に三角形の頂点の位置にいる……と思いきや、なぜか私を除いた2点の位置が無闇に近かった。

 というか、私の対面に座った先生の真横にヒナタさんがいる。まるで恋人同士のように肩を寄せあっていた。

「ハイド~遅いよ~」

 猫なで声で先生の腕にからみつくヒナタさん。それを受けている先生は額に脂汗を浮かべている。

 前回の別れ際が少々ぎこちない形であったためか、私も先生も言葉を発せずあさっての方向に視線を彷徨わせていた。気まずい。

「えーと……」

 沈黙に耐え切れなくなったのか、先生が口を開く。

「僕はリーシィに呼び出されてここに来たのですが……。なぜキサラがここに?」

「……」

「あの、キサラさん?」

「それはねっ、ハイド! 私が呼んだの」

 さも楽しくて仕方がない、といった様子で先生の腕に身体を押し付けるヒナタさん。

 私が身を持って感じた抜群のプロポーションをほこる肢体を、惜しげも無く提供している。

「……っ!」

 なんだろう、胸がざわざわする。2人のそんな姿を、私は直視できない。

「キサラちゃんのことは、前々からハイドに聞かされてたでしょ? だからその子がどんななのかな~って気になっちゃって」

 なるほど。いまさらのことだけど、104小隊と私のことを彼女に話したのは先生らしい。ノイズが走り回る私の思考のなかで、そこだけが妙に冷静に働いている。

「待ってください、リーシィ。きみはそんなこと僕には一言も……。というか、そろそろ離れて下さい。人目もあるし……」

「やんっ」

 苦い顔で彼女を引き剥がそうと試みる先生。しかしヒナタさんはそんな彼の手を器用にかいくぐり、なおも身体を密着させる。

「!……い、いいかげんにして下さいヒナタさん! 先生が嫌がっているじゃないですか!」

 堪忍袋の緒が切れた、というやつだろうか。怒りが何に対してのものかよく理解していないまま、私は怒声を上げていた。

 ーー数秒の間。

 その静寂が、周囲の耳目を集めてしまったことを私に自覚させる。

「あ……」

 急激にクールダウンした頭のなかで、後悔の波が押し寄せる。やってしまった……。

「あはは。赤くなったり青くなったり、キサラちゃんは面白いな~。……しょうがない、離れてあげるよ」

 無邪気に笑うヒナタさんが、ようやくその腕を解いた。解放された先生は急いで椅子ごと席を移動し、私とヒナタさんの中間に座る。

「ふぅ……。しかしリーシィ、なぜ『そっちの名前』を名乗っているのです? ルール違反ですよ」

 襟元をつかみ、ぱたぱたと風を送りながら先生が咎める口調で言う。

『そっちの名前』とはなんのことだろう。そういえばさっきから先生はヒナタさんのことをリーシィと呼んでいるような。

「先生、リーシィって……?」

「ああ、キサラ。リーシィというのは、この子の正式なプレイヤーネームですよ。きみが呼んでいる方の名前は、その……」

「私のリアルネームだよ! ちなみにハイドのはタ……」

「こらっ!」

 ぽこん、と控えめな擬音とともに先生の握りこぶしが振り下ろされる。げんこつをもらったヒナタ、もといリーシィさんは不満気だ。

「ハイドのけち~。いいじゃない、別に減るもんじゃなし」

「そういう問題ではありません。……まったく、貴女は」

「あはは……」

 まるでコントのようなやり取りを繰り広げる2人に、場の空気が和む。なんというか、リーシィさんの方はともかく先生は彼女のことを妹のように扱っているように見える。

 ……ん?

 小さな違和感。さっきリーシィさんはなんて言った? 聞き間違いでなければ、まるで先生のリアルネームを……。

「それじゃあキサラちゃん、改めて自己紹介するね。私はリーシィ、ハイドとは同じ<警務庁救命係>に所属してるよ」

「あ、はい。<アインクラッド解放軍>所属、第104小隊副隊長のキサラ中尉です。よろしくお願いします」

 編んでいたおさげをほどき、ふわりと髪を広げるリーシィさん。ずっと編まれていたからか、彼女の金髪はゆるいウェーブがかかっていた。

 その優雅な仕草に思考を途切れさせられたが、挨拶された以上はこちらも返すのが礼儀だ。ぺこりとお辞儀する。

 それにしても、<警務庁救命係>。常々会いたいと思っていた先生のギルド仲間に、こんなかたちでお目にかかるとは。

……いや、そもそも最初に気づくべきだったのだ。少しだけ注意深く見れば、彼女の頭上には先生のものと同じデザインのギルドタグが1つ浮かんでいた。

 最初に軍曹を止めるのに焦っていたり、フィールドで襲われた時には必死になっていたとはいえ、これは痛恨の落ち度だ。

「あの、リーシィ……さん。なぜ偽名を?」

 先ほど先生が発した疑問と同じものを問うてみる。彼女の場合、むしろ『リーシィ』の方が偽名にあたるのだろうけど。

「ん~、怒らないでね。……キサラちゃんを試したかったからなんだ」

「試す?」

 彼女の説明によれば、私のことは常々先生から聞かされていたのだという。元来好奇心の強い質であるというリーシィさんは、そこで私に興味をもった。

 百聞は一見にしかずということで、司令部を通じて私に接触することにしたのだ。

 しかしそこでプレイヤーネームを出せば、自分の正体に気づかれてしまうかもしれない。

 実際にはそんなことはなかったのだけど、先生がリーシィさんのことを私に話している可能性もあったからだ。

 一計を案じたリーシィさんは髪型と話し方を変え、名前も偽名ーーであると同時に本名というややこしい話なのだけどーーを名乗り黒鉄宮を訪れた……というわけだ。

 まあ容姿と名前はともかく、慣れないキャラを演じていたのは少々無理があったらしく段々と地が現れていったようだけど。

 

「もしかして、先生。この前<セルムブルグ>で先生と会ってたのって」

 リーシィさんの話を聞いた私の脳裏に、閃くものがあった。

「ええ、そうです。このリーシィなんですが……。どうですか、僕が言ったとおりだったでしょう」

 あの時先生はリーシィさんの事をこう評していた。『年は近いが、性格的に正反対』、それと確か……。

 まあ反対かどうかはとにかく、私には彼女の型破りな行動は真似出来そうにない。

「ふ~ん、少しは私の事、話してたんだね。でも、キサラちゃんもハイドが言ってた通りのコだったよ! 素直でいい子で……」

「いやぁ……」

 散々振り回されたけど、こうして褒められると悪い気はしない。照れながらも私が頬をかいたとき。

「ホント、すぐだまされそう!」

「……な」

「り、リーシィ!」

 先ほど彼女が言っていた先生の評価というのは、どこまでにかかっているのだろう。素直でいい子、までなら褒め言葉だけど、すぐだまされそうというのはちょっと……。

 疑惑の視線を先生に向けると、彼は慌てた様子で弁解し始めた。

「ぼ、僕が言ったのは前半部分だけですよ!? ただ……」

「え~? 言ってたじゃないの~。『キサラは悪者からすればチョロい性格してる』とかなんとか」

「捏造するなあっ!!」

 チョロいって……。

 たしかに今日の一件を考えれば、否定は出来ないんだけど。その……、心身ともに弄ばれてしまったし。

「はぁ……」

 傷をえぐられるかのような言葉に私は撃沈し、テーブルに突っ伏す。……うん、これからはもっと慎重に生きよう。

 トラブルメーカー・リーシィ。

 先生の言っていたことが少しわかったような気がした。

 

「……さて、そろそろ僕たちは行くとしますか」

 先生が立ち上がった。気づけばすでに時刻は夕方近い。

「え? もうこんな時間?」

 すっかり長居してしまった。楽しい時間はあっという間に過ぎるものだけれど、今日のそれはどちらかと言えばリーシィさんにかき回された結果だと思う。

 隊の方へも連絡し忘れていたし、軍曹たちも心配しているかもしれない。

「キサラ、今日はリーシィの相手をしてくれてありがとうございました」

「い、いいえ。私の方も楽しかったですし。……それに、先生とも会えましたから」

「キサラ……」

 下手をすればいつものレベル上げより疲れたかもしれない。それでも、ぎくしゃくしていた先生との関係が少しでも修復出来たのは嬉しい事だ。

 リーシィさんにもちょっとだけ感謝を……。

「ふ~ん」

 その時、抑揚のない声が聞こえた。見ればリーシィさんが頬杖をついてこちらを見つめている。

「キサラちゃんは、ハイドのことを『先生』って呼んでるんだね」

「え、ええ。それが何か」

 この屋台に先生が現れてから、私はずっとそう呼んでいたはずだ。それを今、リーシィさんが指摘する意図はなんだろう。

「別に~? ただ面白いな~って。……そうだっ!」

 ぽん、と両手を打ち合わせるリーシィさん。

 お気に入りの玩具で遊ぶ子猫のように、瞳を輝かせていた。この顔は……なんだか嫌な予感がする。また何か思いついたんじゃないだろうか。

「私もこれから、ハイドのこと『先生』って呼ぶことにする!」

「はい!?」

 黙って成り行きを眺めていた先生が目を丸くする。

「いや、リーシィ……。いきなりなにを……」

「むっ。キサラちゃんには良くて、私はだめなの?」

「そういうわけでは……。ただ、周りの目もありますし」

「今さら恥ずかしがることでもないでしょ~? ……私とハイドは一つ屋根の下で暮らしてるんだし」

「なっ……!」

 ガタッ。

 思わず私は椅子を蹴って立ち上がった。先生が焦った様子で見上げてくる。

「ご、誤解を招くような言い方をするんじゃありません! ……ああキサラ、違うんですよ。一緒に暮らしていると言っても、その……。そうそう! つまりギルドハウスのことで」

「あ……。そ、そういうことですか」

 ギルドに加入しているプレイヤーには、大抵そこのギルドハウスに個室を用意されているものだ。

 現に第1層の黒鉄宮には隊舎として私の部屋があるし。先生たち<警務庁救命係>が拠点を持っているなら、リーシィさんの『一つ屋根の下』という表現も間違いではない。間違いではないのだけど……。

 しかし次の瞬間、そんな私のモヤモヤした気持ちを吹き飛ばす爆弾のような一言が、リーシィさんの口から投下された。

「え~? それだけじゃないでしょ? リアルでだって隣同士のベッドで……」

「は……?」

「これ以上話をややこしくしないでくださいっ!」

 先ほど感じた小さな違和感が再浮上する。

 ……間違いない。リーシィさんはSAO内だけでなく、リアルでも先生と知り合いなのだ。その証拠に、先生は否定しなかった。

 それならば2人がお互いのリアルネームを知っていたことに説明がつく。

 しかも、なに? ベッドが隣同士って。それってつまり……。

「へ、へー……。お2人は、そういうご関係で……」

 喉から飛び出した声は震えていて、まるで自分のものではないかのよう。

 見ればテーブルに載った食器類もカチカチと音を立てて震えている。……いや、これは卓上についた私の手の震えが伝導しているのか。

 いつの間にやら私は台の縁を力いっぱい握りしめていた。

 徐々に頭まで血が上り、顔が火照っていくのが実感として分かる。

「ああもう……! キサラ、違うんですよ。リーシィの言っていることは……」

 先生が両手を振って弁解しようとするけど、それも耳に入らないくらいに思考に最大級のノイズが走る。

 ……嫌だ。

 嫌だ、嫌だ。……考えたくない。

 もうこれ以上、この場にいたくない。先生が心配げに覗きこんでくるけど、視線を合わせてしまえば抑えきれない感情が爆発してしまうかもしれない。

「……私、帰ります。時間も遅いし」

 ぼそり、と自分でも驚くくらい低い声が出た。

「キサラっ!」

 私は一礼し、そのまま回れ右をすると足早に歩き始めた。背後から先生が何度も名前を呼んでくるけど、かまうもんか。

 幸い、この屋台街は転移門前広場からほど近い。このまま振り切って門に飛び込んでしまえばーー。

 

「待ってくれ!」

 しかし私がゲートをくぐる直前、後ろから強い力で腕を掴まれた。

 その瞬間、視界に紫色のウィンドウが開く。ハラスメント警告ダイアログだ。即座にこれが出たということは相手は男性。まあ今この状況で私を追ってくる人なんて1人しか考えられないんだけど。

「……離して下さい」

 私は振り返ることなく言った。街の出入口である転移門周辺には、多数のプレイヤーが集まっている。

 道の真ん中で立ち止まっている私たちを避けながら歩く彼らから、迷惑そうな視線を投げかけられているのを感じた。

「キサラ、きみは誤解している。僕とリーシィはそんな関係じゃ……」

「もう、放っといてよ!」

 振り解こうと身を捩るも、先生の握力は強く離してくれない。

 叫んだことをきっかけに、堰を切ったかのように激しい感情があふれだす。同時に、涙が頬をつたう感覚。

「……なんで私を追いかけてきてるんですか!? リーシィさんを置き去りにして! あの人と恋人同士ならずっと一緒にいればいいじゃないですかっ!」

「だから、それが間違いなんですって」

「間違い? リアルで知り合いで、しかも向こうでもベッドを並べてるような人たちがただのお友達だなんて……。そんなわけないでしょう!?」

 たぶん今の私の顔は、怒りと涙にまみれひどく醜いものになっているだろう。絶対に先生には見せたくない。

 視界のすみで警告ダイアログが操作を促すように点滅しているのが、煩わしくて仕方ない。

「ひゅー、痴話げんかかー?」

「お熱いのはいいけどさー、ここでやんないでくれるー?」

 遠巻きにやり取りを眺めていた通行人の何人かが、冷やかしのヤジを飛ばしてくる。

「っ!……キサラ、まずはここから移動しましょう。今からきみの腕を解放するから、逃げないで下さい。いいですね?」

 先生の確認に、無言で頷いて返す。

 ほっと息をつく雰囲気が伝わり、掴まれた手からゆっくりと力が抜けていくのを感じる。

 同時に警告ダイアログのウィンドウも消失し、視界が少し広くなった。

 先生はそのまま私の肩にそっと手を乗せ、人目につきにくい細い路地の方へと先導する。

「……キサラ、落ち着いて聞いて下さい。その……僕とリーシィがベッドを並べているというはある意味では正しい。でも、それは同棲しているとかそういう話じゃない。きみが男女のそういった話題を嫌うのは知っていますが……」

 曲がり角を折れ、周囲に誰もいないことを確認したらしい先生が口を開いた。

 私はまだ先生と正対する勇気もないので、彼に背を向け壁に片手をつける体勢でそれを聞く。

「……ちがう」

「え?」

 私が心をざわつかせているのは、結婚していない男女が同じ寝室で寝ているのが不純であるとか、そんな古びた一般論的な理由ではない。

 先生はどうやらそこから間違っているらしい。確かに私はそういった情事にあまり免疫がないし、さっきもそんなことを言った気がする。でも、私が気にしているのは……。

「違うというのは、何がです」

「……」

「キサラ」

 沈黙する私にしびれを切らしたのか、先生は半ば強引に私を振り向かせた。思わず後ずさり、壁に背をつける。

 先生はそんな私の正面に立ち、壁に両手をついた。前後左右が封鎖され、逃げ場がなくなる。

 これは、まるでアレだ。少女マンガでよく見かける、あのシーン……。

「あ……」

 先生の顔が、近い。

 先ほどとは別の理由で心拍数が上がり、呼吸が苦しくなる。

「キサラ、説明させて下さい。僕とリーシィの関係を」

「……はい」

 ぐずぐずになった顔を隠すことも忘れて、私は真剣な先生の瞳を見上げていた。


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