「ロブ……。どうしてここに」
驚愕に見開かれた目で彼を見つめながら、ディーネが呆然と呟く。
僕とキサラも同じ心境だ。彼は酒場でクエストを依頼したあと、自宅に戻ると言っていたはずだが。
「剣士様にきみを探すように頼んだ後、僕も自分で見回ることにしたんだ。やっぱり心配だったから。……ここに来たのは、その時剣士様方を見かけたから着いてきたというわけさ」
恋人の身を案じる男としては自然な行動だが、それは今回裏目に出てしまったようだ。深い疑惑の表情を浮かべたロブの様子からすれば一目瞭然である。
「ディーネ、どういうことだ?……きみは僕を騙していたのか」
「ろ、ロブ!聞いて欲しい。私は……」
彼がどの段階からディーネの話を聞いていたのかは定かで無い。彼女が弁解しようと口を開くが。
「灯台の種火を奪うために人間に化けて、僕に近づいただって?か弱いふりをして同情を引こうなんて……」
「違う!……その、確かに最初はそうだった。でも私は本当にそなたのことが……!」
「黙れよっ!」
しどろもどろと説得しようとしたディーネをロブが一喝する。いつの間にか、彼の目には涙が浮かんでいた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!ロブさん、落ち着いて下さい!聞いていたでしょう、彼女はあなたを愛して……」
慌ててキサラが2人の間に割って入る。このまま成り行きに任せれば溝が開く一方だと察したのだろう。
しかしロブはそんなキサラにも敵意のこもった視線を向け、吐き捨てるように言った。
「……剣士様。この『亜人』に何を吹きこまれたのか知りませんが、信じてはいけません。昔から彼らは僕たち人間を排除するためには手段を選ばない連中なのです」
人魚であるディーネを『亜人』と言った時、ロブには明らかに彼女を蔑むような雰囲気があった。
先ほどディーネから聞かされた昔話からすると、どうやらこの層では人間との戦争に敗れた人魚たちは劣等種族として扱われているのかもしれない。
「ディーネを探す依頼をした時に少しお話したかと思いますが……。僕の母が死んだのは、ただの事故ではなかったのです。母は奴らに舟を沈められたんだ……」
沈痛な面持ちでうつむくロブ。つまり彼のディーネに対するあからさまな態度の硬化は、種族間の対立に加えて彼個人の事情にもよるのだろう。
「で、でももしそうだとしても犯人は別の人魚かもしれないじゃないですか!少なくとも、ディーネさんが関係してたわけじゃないでしょう!?」
「どうだか。いずれにせよ、彼女が正体を偽って僕に近づいたのは事実です。種火を奪うためにね!」
キサラの弁解にも耳を貸そうとしない、もはや彼は疑心暗鬼の状態だ。
「ふ……ふふ、あはははは」
膠着状態になった海岸に、静かな笑い声が響く。
僕でもキサラでも、ましてやロブでもない。声の主はディーネだった。
振り返って見た彼女の手にはいつの間にか小振りのナイフが握られており、それを指先でくるくると弄んでいる。
「ディーネ……さん?」
キサラが訝しげな声とともにディーネに近づこうと踏み出したその時。
「そうだよなぁ……。今さら信じてもらおうなどと、虫が良すぎるよなぁ」
うつむいたディーネの表情は読めず、虚ろな独白は海風に流されて聞き取りにくい。
人魚の放つ、異様な雰囲気にうろたえたロブが砂を踏みしめ後ずさりする。
しかしその瞬間、ディーネの手から一条の光が放たれた。弧を描くでもなく、機械的な直線軌道が闇を切り裂く。
「ぐっ……!?」
呻き声を上げたロブに視線を向けると、彼の肩には先ほどまでディーネが手にしていたナイフが突き刺さっていた。
「あの動きは……」
間違いない、ソードスキルだ。おそらくは〈投剣〉カテゴリに属する〈シングル・シュート〉。
モンスターならばともかく、NPCである彼女が使えるとは。
「ディーネさんっ!?」
「……剣士よ。1つ、言い忘れていたことがある」
恋人に武器を向ける凶行に、キサラが驚愕する。そんな彼女に対して、ディーネはあくまでも冷静だ。
「私はそなたたちに言ったな、私が王から命じられたのは宝玉の奪取であると。……命令は、もう1つあったんだ」
「なにを……」
「宝玉を取り返すのは、人間たちの使う航路を絶ち混乱をもたらすため。もしもそれが露見し、失敗した場合には別の手段で打撃を与えよ、と。つまり……!」
再びディーネの手が閃き、今度はロブの足にナイフが刺さる。
「あっ!」
肩を押さえるのに必死だった彼は飛んできた刃に対応出来ず、その場に尻餅をついた。
「……人間の指導者を亡き者とし反撃の芽をつみ取れ、とな」
「でぃ、ディーネ……」
手足から微細なダメージエフェクトを散らせながら、ロブは呆然と恋人を見つめた。
自身に起こったことが信じられない、といった様子だ。
「やめてください、ディーネさん!」
キサラが叫び、2人の間に割って入る。僕もストレージから盾を取り出すと、ロブを守るために構えた。
「それがきみの本性なのか、ディーネ……!あの出会いも笑顔も、僕の気持ちに応えてくれたのも、やはり全て偽りだったと言うのか!?」
「あのままだまし続けていられれば、そなたの命を奪うはめにはならなかった……。残念だよ、ロブ」
三度ナイフを取り出し、振りかぶるディーネ。その手からロブに向けて魔弾が射出されるーー。
「っ!」
しかし、なかなかその瞬間は訪れなかった。掲げたままの手は小刻みに震え、悲しみに歪められた瞳からは涙が溢れ出す。
おそらく、ディーネは迷っているのだ。彼の愛を受け入れたのは偽りとはいえ、先ほど彼女は言っていた。『ミイラ取りがミイラになった』と。
いつしか演技のための仮面が心に張り付き、それが本心となったのだと。
愛した恋人を自らの手にかけるというのは、いくら王の命令とはいえ簡単にできることではない。
「ど、どうしたディーネ……。僕を殺すんだろう?やってみろよ、僕の母を殺したようにな!」
半ばやけになっているのか、ロブは裏返った声で叫んだ。僕の立ち位置からは見えないが、彼もまた泣いているのだろう。
「うっ……。くっ」
それでもディーネの手は振り下ろされなかった。僕とキサラで彼女を取り押さえ武器を奪えればいいのだが、そうすれば彼女の均衡は崩れ悪い結末を引き寄せかねない。
どうすればいい……?
キサラと目配せを交わすが、彼女もまた人魚からは遠い位置におり動くことが出来ない。
僕たちが行動を決めかね迷っていると。
カラン、と乾いた音を立ててディーネが岩の上にナイフを取り落とした。
空いた両手で顔をおおい、その場で泣き崩れる。
「出来ない、出来ないよ……。ロブ……」
「……ディーネさん」
恋人の命と、王の命令。その2つを秤に掛けたディーネはその決断を下すことができなかった。
彼女が攻撃の意志を捨てたことでほっと息をつき、警戒を解いた僕たちだったが。
「……宝玉を取り返せず、次代の指導者を殺めることもできない。ならば……!」
「なっ!?」
次の瞬間、ディーネは取り落としたナイフを拾い上げーー。
「ぐぅ……っ!」
僕たちが止めるまもなく、それを自身の胸に突き立てていた。
心臓にあたる位置から激しい火花が散り、苦痛に顔をしかめている。
「せ、先生!」
キサラの声を背に、僕は弾かれたようにディーネへと走り出す。ポーチから取っておきの回復結晶を取り出し使用しようとするが。
「……無効化!?」
結晶を助け起こしたディーネの胸にあて発動コマンドを叫ぶも、ピンクのクリスタルはうんともすんとも言わない。
「そんな……」
追いついたキサラが愕然とした様子でのぞき込むが、ディーネは僕の腕の中で力なく横たわっている。
SAOにおける各種結晶アイテムは高価なぶんその効力も絶大だが、特定のダンジョン内などにある〈結晶無効化空間〉では真価を発揮せず、ただの石ころ同然となってしまう。
このような〈圏内〉で無効化されるという話は聞いたことがないので、これはこのイベント進行上使用が禁じられているということなのだろうか。
「ディーネさん、これを!」
そんな僕の推測をよそに、キサラは自身のポーチから回復ポーションを取り出して飲ませようとするが、ディーネはそれを手で制した。
「……よいのだ、剣士よ。私にはもう、こうする道しか残されていない。任務に失敗し、おめおめと海に帰ろうものなら、どちらにせよ待っているのは王の粛然だけだからな……」
息も絶え絶えに言葉を紡ぐディーネの顔には、不思議と安らぎが浮かんでいた。
「ロブ……。ロブはいるか?」
「ディーネ……。僕はここだ」
弱々しく恋人を呼ぶ声に、いつの間にか近くまで這ってきていたロブが応じた。
彼の顔にはもはや怒りの色はなく、ただ困惑だけが浮かんでいた。
「ディーネ、なぜこんな……」
僕は彼に場所を譲り、一歩引いた位置でことの成り行きを見守ることにした。
「なあ、ロブ。信じてはくれぬだろうが、私は本当に嬉しかったよ。そなたが私を家族同然に扱ってくれたのは……」
「ディーネ……」
「私には、家族がいなかった。親にも捨てられ、物心ついたときにはいつも1人だったんだ。だから……」
「も、もういい。しゃべらないでくれ……」
この場にいる者のうち、僕を除いた3人が涙を流していた。他と同じように身を引いたキサラも、両手で口をおおい嗚咽を漏らしている。
「……ありがとう。いっときとはいえ、私はそなたに愛されて幸せだった。どうか、憎しみに心を囚われることなく我らの一族と共存する道を探して欲しい。虫のいい話だが、それが私の最期の願いだ」
「そ、そんな……。僕は……」
ロブがディーネの手を握りしめる。まるで許しを請うように額に押し付け肩を震わせていたが……。
「……さよなら」
「ディーネーーッ!」
カシャーン、と儚い破砕音とともに人魚は砕け散った。空に溶けていく泡沫のような光を、僕たちはただ黙って見上げていることしか出来なかった。
鉱石アイテム『人魚の涙』。
それが僕たちが得た、このクエストでの報酬だった。薄い青で透き通ったブルートパーズにも似た宝石は、ディーネが座っていた岩の上で発見された。
アイテムとしてのレベルが高く、これを装飾品にするには<細工>スキルが熟達したプレイヤーに依頼するしかないだろう。その分、効果も期待できそうだが。
「……」
しかし今の僕たちには、高層フロアで手に入れたレアアイテムの喜びにひたる余裕はなかった。
船着場に向かう道中、どちらも言葉を発することがない。入江に残してきたロブが少々気がかりだが、彼は何度話しかけても『放っておいてくれ』とつぶやくだけだった。
親の仇を愛してしまった自分を悔いているのか、あるいは愛した女性に騙されていたことと、その彼女を結果的に見殺したことが辛いのか。
非常に後味の悪い結末だが、これがこのクエストのシナリオなのだろう。ディーネの秘密を受け入れられなかったロブだが、それを責めることは誰にもできなかった。
「……どうすればよかったんでしょうか」
道のりの3分の2を過ぎた頃、キサラが顔をうつむかせたまま呟いた。
「私がディーネさんの歌に気づかなければ……。そうすればディーネさんが見つかって、死ぬようなことには……」
僕はそんな彼女のセリフには応えず、無言でストレージからタバコとライターを取り出した。
タバコを口に咥える僕にキサラは目を丸くしたが、それには構わず2回ほど紫煙を吐き出す。
「……キサラ。きみは自分を責めているようですが、それは間違いです」
「え?」
「あの時点で、こんな結末になるなんて誰にも予想など出来なかったでしょう。少なくとも、あの時きみは恋人を探すロブのために考え、行動した。最後はああなってしまいましたが……。最善の行いが、最良の結果を生むとは限らない。ただ今回の件がそうだっただけです」
それは現実世界でも、このSAOにも往々にしてあること。ましてやこのシナリオを書いているのは、悪名高き茅場晶彦なのだ。
プレイヤーの善意を無下にする展開など、掃いて捨てるほどあるだろう。
しかし冷淡な僕の言葉が逆に堪えたのか、キサラはますます肩を落としてしまう。
「で、でも……。私はディーネさんがナイフを投げた時、動けなかった。あの時彼女を止められていれば……」
ついに立ち止まり、肩を震わせ始めるキサラ。足元に水滴が落ち、それはすぐさま『表現』の役目を終えて消えていく。
「キサラ。穿った見方をしてしまえば、あの2人はNPCです。誰が関わっても、シナリオ……運命は変わりませんでしたよ」
「私にはっ!……私には、そんなふうに考えることは出来ません。ディーネさんは本当にロブさんを好きだったと思う!それなのに……ううっ」
しゃくりあげ始めたキサラをなだめるために、僕は右手で彼女の頭を胸にかき抱いた。そっと髪を梳る。
「っ!」
「……それなら、思いっきり泣いてあげなさい。そうすることが、きっとディーネへの供養になるでしょう」
彼女のようにNPCを人間として見られる感性を、僕は少し羨ましく思う。
『いかにこのSAOのキャラクターがリアルに見えても、所詮は仮想の世界』。そんな余計なことを考えずに物語へ没入できるのは、10代の特権だ。
心のみずみずしさに、社会人生活で掠れた感性は惹かれずにいられない。
「せ……先生……」
おそらく今、彼女の視界にはハラスメント警告を促すメッセージが展開されているだろう。
キサラがYESボタンをクリックすれば、僕は海へと弾き飛ばされる。せっかくカッコつけたが、それも台無しだ。
しかし彼女はそれを選択せず、僕の胸に顔をうずめて泣き始めた。
最初は声を殺して、そのうちに声が漏れ始め。
「う、うう……。……うわああああーーっ!」
人気のない砂浜に響き渡る慟哭に、返すさざ波の音だけが重なっていた。