2022年11月6日 SAO(ソードアート・オンライン)サービス開始日
スタート地点、はじまりの街西部に広がる緩やかな草原で、私は青いイノシシ<フレンジー・ボア>と向かい合っていた。
「やあっ!」
でたらめに振り回した私の剣は、狙った青イノシシにあっさりと回避され空を切った。
お返しとばかりに、青イノシシが体当たりをしかけてくる。
「わっ」
思いがけない衝撃に私の体は吹き飛ばされ、草原を転がった。
「痛いなぁ……こんなの当たるわけ無いよ!」
剣を放り出し、わしわしと頭をかきむしる。
風に揺れる金髪がきらきらと光を反射した。
「キサラさん、キサラさん。相手の動きをよーく見るんです。相手が攻撃を終えた時、大きなスキができます。そこを狙うんです」
「でも先生ぇ……さっき先生がやってたみたいな光る技はどうやるんですか?あれだったら一撃で倒せそうだったんですけど」
「あれはソードスキルという、いわば必殺技のようなものです。格闘ゲームとかでもそうですけど、大技は小技を積み重ねて最後にズバーンと撃つものです」
私より背の高い男性プレイヤー、『先生』が近づき、私の手をとって立たせてくれる。
青イノシシは体当り後方向を変え、こちらを見据えている。
「特にキサラさんはVRゲーム自体初めてなんですから、まずは体をうまく動かすことから始めた方がいいですよ」
「うー……」
「敵の動きを見て、通常攻撃で動きを封じる。そして、ここだ!という所でスキルを発動させれば……!」
再び突進してきたイノシシに、剣を構える先生。体当りをひらりとかわし、軽く斬りつける。
イノシシは不快そうに身をよじり、バックステップ。
と同時に先生の剣が青く光り、鋭く振り下ろされる。
バックステップ直後で態勢を崩していたイノシシはそれをかわせず、斜めの軌跡を描いた剣に両断された。
「このように、無傷で倒すことも可能なのです。……ちなみに今のは<スラント>という基本的な技です」
「難しい!」
「まあ、慣れは必要ですね。私はベータテストにも参加しているので、キサラさんより2ヶ月ぶん先を行っていることになります」
ニヤリ、と得意げな笑みを浮かべる先生に、私は頬をふくらませた。
「ずるいですよ!そんなのがあったなんて」
「ははは……だからその分、私はこうしてあなたのような初心者に教える役をしているのです。利益還元、とも言いますか。キサラさんが半人前になったら、次の教え甲斐のある初心者を探しますよ」
「それでも半人前……ですか」
「ネットゲームの醍醐味は、分からない者同士でああでもないこうでもないと、相談しながら進めるものだと私は考えています。私がキサラさんを一人前までにしてしまったら、その楽しみが半減してしまいます」
「その、パーティ?も組めるか心配なんですけど……」
「大丈夫ですよ。このSAO自体、VRMMOなんて世界初のジャンルなんです。言わば皆が皆初心者ですから、ネチケットさえ心がけていれば友達もすぐに出来ますよ」
「ネチケット?」
「古い言葉で……簡単に言えば自分がされて嫌なことを人にするな、ということです。この基準はひとにより左右されますが……キサラさんなら、まあ大丈夫でしょう」
私がこの先生ーーハイドさんと知り合ったのは、今から3時間ほど前のことだ。
父が買ってきたナーヴギアと、すさまじい幸運によって入手したSAOのパッケージ。
いい歳をした父が喜色満面で帰宅し、ナーヴギアを家族全員が使えるようセットアップし、さあいよいよ鋼鉄の城に飛び込もう……というところでその幸運は尽きたらしい。
このゲームのために有給休暇申請を出し、三日三晩寝ないでプレイする計画は、職場からの呼び出し電話によりあっさりと崩壊した。
ふてくされた子供のような顔で家をでる父をなだめつつ見送るとき、父は言ったのだ。
『オレが帰るまでならSAOやっててもいいぞ』と。
正直私はゲームが父ほど好きではないし、それほど興味がなかった。
しかし昼食をとりながら偶然観た報道番組で、SAOの人気ぶりとその美麗な世界に心を惹かれた。
1万人しか手にすることのできなかった幸運が、我が家にある。
どうせこれからは父がナーヴギアもSAOも独占するのだから、今だけ触ってみてもいいのではないか。
そう考えた私は食後さっそくログインし、およそ1時間をかけて納得の行くキャラクターを作り、アインクラッドに降り立った。
はじまりの街は初心者のためのNPCが多数存在しているが、カーソルの色にも意味があることを知らなかった私はPCもNPCも(この言葉も先生に教わった)区別がつかず、人の行き交う往来をぼーっと見ていたのだ。
そんな時、黒い髪と青い瞳を持つ男性プレイヤーに声をかけられた。
『きみ、初心者でしょう?基本的なこと教えてあげるから、ちょっとそこの喫茶店に行きませんか?』
なんてことだ、リアルなら16年間生きてきて一度しかされたことのないナンパだ。
やはり1時間かけて作ったキャラクターは相当に出来がいいらしい。生まれて30分で1ナンパとは。
当然、見知らぬ他人にいきなり声をかけられた私は慌て、どう断ろうかと相手の顔を見た瞬間あっけに取られた。
似ていたのだ。他ならぬ、2時間前に見送った父に。
背格好はほぼ同じ。瞳の色こそ違うものの、全体の雰囲気はほぼそっくりだった。
『は、はあ……。じゃあ、お願いします』
思わず私はそう口にしていた。
思えば私には、少々ファザコンの気があったのかもしれない。
これが他の男性プレイヤー、たとえばチャラチャラした装身具や、似合わないかぶりものをしたお兄さんであったなら、確実に断っていたはずだ。
だけど最初の印象に反し、ハイドさんはナンパ目的ではなく、純粋に初心者にいろいろと教えたいだけだったらしい。
RPGの用語からオンラインとオフラインゲームの違い、SAOとナーヴギアの技術的な話。
これらをわかりやすく教えてくれたハイドさんに、私は感服した。
思わず『先生と呼んでいいですか』というと、ハイドさんは快諾してくれた。
そして座学が終わり、いよいよ実地訓練……という段階で、私はつまづいていたのだ。
「キサラさんは飲み込みが早いですからね。ちょっと練習すればきっとスキルも出せるようになります」
「そうですか……?まったく実感がわきませんが」
「なにより、モンスターを前にひるまないのがいい。私はベータの時、最初脚がすくんでしまって……」
「それはまあ、たしかにちょっと怖いですけど。でも、やられても実際に死ぬわけじゃないわけですし」
「それでも、その胆力はなかなかのものです。もしかしたらキサラさんは人をまとめる立場に立つのがいいのかもしれませんね……そうだ」
そういって先生は手をぽん、と打ち合わせるゼスチャーをした。
「キサラさんは、なるべく大きなギルドに入ってみるといいかもしれません。大きなギルドにはいろんな人が集まります。いい人も悪い人も。そういう人との付き合いでロールプレイしてみるのも楽しいですよ」
「ロールプレイ……ですか」
「ええ。なんと言ってもここはVRロールプレイングゲーム、ですからね」
「それなら、私はこのまま先生と生徒のロールプレイをしたいなぁ」
「もちろん、いつでも付き合いますよ。……そうだ、この機会にフレンド登録をしましょうか」
「フレンド登録?」
私は首を傾げた。
先ほどの座学には出てこなかった言葉だ。
「よく遊ぶ相手をフレンドとして登録すれば、メッセージのやりとりや位置情報の送受信など、便利な機能が使えるんです」
「ケータイのアドレス交換みたいなものですね」
先生は頷き、右手をふってメニュー操作を始めた。
さっ、さっ、となれた手つきで操作をしている。とーー。
「おや?」
「?」
先生の手が止まった。
「うーむ、ちょっと重いなぁ……やっぱりラグっちゃうか」
「ラグって……?」
おとがいに手を当て、考える仕草をする先生。
「ラグというのは、サーバー……中央と個人の端末の情報のやり取りに障害が発生した状態のことです。原因としてはサーバーの処理速度をオーバーした負荷がかかったとか、回線の混雑などがあるのですが……」
「先生は違うんですか?」
「ええ。私の場合、おそらくはナーヴギア本体の不具合ですね。なにせこの日が待ち遠しくて日々酷使していましたし……実は先ほどログインする前、嬉しくてはしゃいでいたらナーヴギアを床に落としてしまったんですよ」
「ぷっ」
思わず笑ってしまった。想像したごついナーヴギアを抱えて狂喜乱舞する先生の姿は、自然に父のものと重なった。
「とりあえず一旦ログアウトして、ナーヴギアを再起動してみます。そうしたら今度こそフレンド登録しましょう」
「はい!」
先生はのろのろと動いているらしいメニューを操作しながら、およそ45分後ーー午後6時に待ち合わせする場所を指定し、ログアウトしていった。
「さて、どうしようかな……」
このまま練習を兼ねて狩りを続けるか、一旦ログアウトして父にナーヴギアの貸出しをねだるか。
ふと見れば草原には私の他にも何人かが青イノシシ相手に戦闘の練習をしていた。
向こうのほうでは赤い髪に変なバンダナを巻いた男性と、それを見守るファンタジーアニメに出てくる主人公のような男性の二人組が見える。
と、バンダナを巻いた男性が手にした剣を光らせ青イノシシを一閃。
青イノシシは一瞬動きを止め、細かいポリゴン片と化した。
「うおっしゃあああ!」
バンダナさんが叫んでいる。どうやらソードスキルで青イノシシを倒したようだ。
「ああいう人に声をかけられてたら、絶対お断りしてたろうなあ……」
顔のつくりは相当りりしいのだが、なにぶん服のセンスが悪く軽薄そうに見える。
そういう意味では、先生と会えた私は幸運だったろう。
だが、おそらく私と同じく初心者であろうバンダナさんがソードスキルを発動させたことは事実だ。
知らず、対抗意識が高まる。
「お父さんには事後承諾してもらえばいいか」
自分を納得させるようにつぶやき、練習を続けることにした。
ーーそして私は、この時の選択を以降1年半にわたって後悔することになる。
『……以上で<ソードアート・オンライン>正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君のーー健闘を祈る』
消える赤いローブ。響く怒声。
私の周りに立つおよそ1万人ものプレイヤーが口々に戸惑いの声を上げる。
「嘘だろ……なんだよこれ、嘘だろ!」
……ログアウトできない?ゲームで死んだら本当に死ぬ?
なにそれ。マンガみたい。
あの茅場とかいう人はゲーマーの間では天才として祀られていると先生は言っていた。
バカと天才は紙一重?
天才って嘘つかないんだっけ……。
「こんなの困る!このあと約束があるのよ!」
……約束。そう、約束だ。
このゲームとナーヴギアは父が仕事から帰ってくるまでの期間限定で借りたもので、返す約束をしていた。
普段は優しい父だが、約束をやぶるとすごく怒る。とても怖い。
ましてやこのゲームは三日三晩寝ないでやるつもりだったのだ。
私が独占などしてしまったら、間違いなくへそを曲げてしまう。
場合によっては今月のお小遣いも減らされてしまうかもしれない。
それは困る。だって、今月は学校の友だちとレジャーランドに遊びにいく約束をしていた。
あそこは今、期間限定のイベントをやっていて、それは今月末で終わってしまう。
今の残金では、家から待ち合わせ場所のランド前駅までを往復する交通費だけでほとんど消えてしまう。
「あっ…」
そこで思い出した。待ち合わせ、午後6時。先生。
視界の隅に常時表示された時計を見ると……今は午後6時5分。
すでに過ぎてしまっている。
先生は初心者に優しいから、私が現れずにいたら他のプレイヤーの面倒を見はじめるかもしれない。
それはそれで先生の教え子として嬉しいのだけど、この異常な状況では1人でも知り合いが欲しい。
「そうだっ……メッセージ……!」
慌ててメニューを操作しーー改めてログアウトボタンが消失していることを確認しつつーーフレンドリストを開く。しかし……。
<empty>。
私のフレンドリストには、誰も登録されていない。
それはそうだ。初めての知り合いは先生で、その先生とフレンドになるために待ち合わせをしたのだから。
先生と別れてからの時間はずっと戦闘の練習をしていて、おかげでソードスキルこそ出せないもののアバターはうまく操作出来るようになった。
しかし集中していたためか、その間誰にも話かけず、かけられず……。
「待ち合わせ場所って、たしか……」
思い出す。先生のログアウト直前に口にした言葉。
『では、はじまりの街、中央広場で午後6時に。あそこは広いですけど、皆が皆あそこに集まったりはしないでしょうから、すぐに見つかるでしょう』
ここだ。私の立っている、ここがはじまりの街中央広場。
ここには今、おそらくほほ全てのプレイヤー1万人が集まっている。
この中からただ1人を見つけ出す。
しかも、今の私は髪こそ先ほどと同じ金色だが、手鏡のせいで人相は変わってしまっている。
おそらく先生もそうだろう。
……できるわけない。
使い古された表現だけど、砂浜から1本の針を掘り出すようなものだ。
「先生、どこですか!?……先生ーっ!」
名前を呼んでも同じように叫ぶ他プレイヤーの声にかき消されてしまう。
「先生……早く見つけてよ……」
人混みに揉まれ、呆然と呟くことしか、私にはできなかった。