ようやく泣き止んだキサラに、僕はほっと息をついた。彼女のために温かい紅茶を注文する。
「……ありがとうございます」
運ばれてきたカップを両手で包みながら、彼女は言った。
「すみません、取り乱して。これで先生に恥ずかしい所を見られたのは2回目ですね」
先月の『再会』時のことを言っているのだろう。あの時も僕は泣き出したキサラが落ち着くまでの間、ずっと見守っていたのだ。
「とりあえず、なにがあったのか聞いてほしい。それでもキサラが怒るのなら、それは仕方のないことだから」
「……はい。たぶん大丈夫です。聞かせて下さい」
そして僕は、浴場での顛末を説明した。
堂々たる美丈夫ジーゼルに、その付き人カレンとアイリ。彼らの『慰安旅行』に巻き込まれたことによって僕の身に降りかかった事故と……まあ、少し幸運な出来事を。
無論、細部はぼかした上での説明だったのだけれど。
「……そういうことでしたか。そのアイリさんには、私もお会いしました。きれいな方ですよね、スタイルも良くて」
キサラは僕の話を聞いても、先ほどのように怒り出すことはなかった。あの激しい感情の浮き沈みは、なんだったのだろう?
「うん。もう一人のカレンもタイプは違うけど、美人で姿勢が良かったことは共通点だね」
普通に会話できる状態になれたことが嬉しくて、キサラの言葉に相槌を打つ。
カレンの均整のとれた肢体が脳裏に浮かび、ややにやけそうになる顔を必死に繕った。
「……先生はやっぱり、ああいう女性が好みなんですか」
「や、その」
女のカンというのは恐ろしい。それは未だ成人していないキサラとて同じのようで、的確に弱点を突いてくる。
焦った僕は、とにかく話題を変えることにした。
「んん、その美人を2人も引き連れているジーゼルという男は何者だろう?かなりの高レベルプレイヤーだったように感じたのですが」
「……そうですね、『慰安旅行』と言うからには普段から一緒に行動しているのでしょうけど」
やや強引な路線変更に冷たい視線を送って来ながらも、キサラは僕の考察に付き合う気になってくれたようだ。
人差し指を立て、言う。
「少なくとも、同じギルドには所属しているはずです。ウィンドウに見覚えのあるタグが付いていたので」
「へえ。どこのギルドです?」
特に何も考えずにした僕の質問に、キサラは軽くため息をついた。
「先生、本当にカレンさんのカラダしか見てなかったんですね。……やらしい」
「い、いやそれは……。とっさのことだったから」
キサラのジト目が突き刺さる。彼女は僕の動揺などお構いなしに、立てた人差し指をさらに天に突き上げた。そこには彼女のウィンドウが浮かんでいる。
「司令部、黒鉄宮の紋章……。彼らは、少なくともアイリさんはですが。おそらく<アインクラッド解放軍>所属のプレイヤーです」
キサラの指は、自身のウィンドウにただ一つ浮かぶギルドタグを示していた。
ジーゼル達が、軍の関係者。
あの破天荒さに『軍人、イコール、キサラのようなまじめっ子』な僕のイメージは全く一致しない。
失礼ながら、むしろオレンジすれすれのプレイヤーだと言われた方が納得できる。
まあ僕の場合、軍の関係者で親しいのはキサラだけなので偏った見方なのは否定できないのだが。
「軍の関係者が、なぜこんな所に?」
「さあ、そこまでは。一口に軍と言っても組織が大きすぎて、誰がどこで何をしているのか、皆把握仕切れていないのが現状ですから。この前も……」
そこで区切ったキサラは、何か良くないことを思い出すかのような顔をした。
「いえ、その話はまたの機会にしましょう。……ジーゼルさん達が来たのだって、案外先生と同じ理由なのかもしれませんよ」
「温泉旅行、ってこと?」
「……そうはっきり言われるのも微妙なんですけど。本人たちもそう仰ってたんですよね?」
「まあ、確かに」
仮にジーゼルたちが他の目的でこの層に来ているなら、あの性格からして隠すとも思えない。
どちらにせよ、当人抜きであれこれ推測を並べても実入りのない議論であることは明らかだ。同じ宿に泊まっているのだし、明日にでも会えたら尋ねてみればいいことである。
幸いキサラの興味も僕の女性問題から逸れてくれたようだし。
「明日会えたら、それとなく聞いてみるとしますか。……ところで、例のクエストなんですが」
「あの男の子の、ですね」
クエストの期限は受注から48時間。明後日のキサラの軍務のことを考えると、実質探索に割り当てられるのは明日の夕方までが限度だ。
「何か助ける手立てはないのでしょうか」
「とはいっても、NPCから得られる話で怪しいところは全部回ってしまったし。情報屋から買った話ではそもそも助けること自体難しいようだし」
「……それでも、あの子は生きているんです。助けられる命なら、私は助けたい」
キサラを含め、現在のSAOプレイヤーにはこうしてNPCに感情移入、というか彼らを本当の人間として見なす者が少数派ながらも、いる。
SAOに捕らわれてからすでに1年半、ここで長く暮らした人間は彼女のような感覚を持つことも、ありえる話なのだ。
「命、か。SAOプレイヤーは本当に命をかけて戦っているわけだけど……」
「誰だって同じです。例えNPCでも、私でも。先生だってそうでしょう?」
「……うん。そういえば、そうだったね……」
キサラはカウンターの各席に設置された、光源オブジェクトとしての燭台を指し言った。
「みんな、このロウソクの灯のように命を燃やして生きているんです。なにかあればすぐに消えてしまう、儚い光ですけど」
「命の……灯」
つぶやいた瞬間、僕の脳裏にある考えが浮かんだ。
命の火。
空に浮かぶ鬼の住処と、そこにあった無数の光。
幼いころ、祖父から寝物語に聞かされた昔話。……天のロウソク。
「キサラ、お手柄です。……もしかしたら僕達は、あの少年を助けられるかもしれません」
「……先生?」
怪訝な顔をするキサラ。
いつぞやの蛇討伐のときと同じように、僕は彼女に微笑んだのだった。
「本当に、あるんでしょうか?」
翌朝、僕たちは宿の食堂で朝食を取りながら本日の作戦会議を開いていた。
この村は温泉地ということで、それを利用した温泉卵が名産だという。
主食はあいにく食パンだったが、卵単品でも充分美味い。
「ええ、おそらく。このクエスト自体、その昔話をモチーフにしているように思えます。ですから、あの少年の名前……ええと、なんでしたっけ」
「……セッタ、ですよ。もう」
「そうそう、そのセッタ君の名前が書かれたロウソクを見つけて起こしてやれば……」
昔話『天のロウソク』。
地方によってタイトルや話の細部は変わるかもしれない。僕が祖父から聞いたのはこんな話だった。
ーー昔々あるところに、正直者の男の子がいた。男の子は毎日父の畑仕事を手伝い、家を助けていたがある日父が倒れてしまう。
大黒柱の父が働けなくなり、一家は困窮にあえいだ。蓄えもなく、医者に診せることもできない。
男の子は毎晩神様にお願いした。『どうか、父を助けて下さい』と。
その願いが届いたのか、ある夜男の子は夢を見た。
夢の中で、男の子は大きな鬼の住む屋敷に忍び込んだ。鬼の寝床には無数のロウソクが燃えており、一本一本に人の名前が書いてある。
よくよく見ると、そのうちの一本が床に倒れ、灯が今にも消えそうになっていた。
そのロウソクに書かれていたのは父の名前。男の子が父のロウソクを真っ直ぐに立てると、灯は勢いを取り戻し赤々と燃え始めた。
男の子は鬼に気づかれぬよう急いで家に帰ると、そこには元気になった父の姿があった、という夢である。
翌朝さっそく鬼の屋敷を探す男の子だが、人里近くにそうそうあっていいものではない。
途方に暮れる男の子の目の前に、一本の綱が天から垂れ下がってきた。
男の子が意を決して綱を登るとその先は雲の上に繋がっており、そこには夢で見た鬼の屋敷があった。
男の子は夢の通りに行動するも、最後の脱出の段になって鬼に気づかれてしまう。
命からがら地上に戻ると、直後に綱は鬼によって断ち切られ雲の上には行けなくなってしまった。
これで父が元気になっていなければどうしよう、と不安を抱えて帰宅すると、男の子を笑顔で迎える父がいた。
あの夢のとおり、父はすっかり元気になったのだ。
健康になった父は、男の子の勇気と行動を讃え、それからは一家全員幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
こんな具合である。
「あの部屋には、沢山のロウソクがありました。探し出すのは骨でしょうけど、鬼の攻撃もそれほど激しくなかったし何とかなるでしょう」
「……そうですね。どちらにしても、もう打つ手もありませんし。試す価値はあるかも」
僕たちは朝食を終えたらすぐに出発することにし、準備のためにそれぞれの寝室に戻った。
支度を終え待ち合わせ場所である宿屋の番台前に赴くと、そこにはすでにキサラと……なぜか赤い髪の女性プレイヤー、カレンが立っていた。
「先生!」
「……ハイドか」
途端、顔を見合わせる2人。
ううむ、この組み合わせは……よろしくない予感がする。
「……ハイドって。あなた、先生をご存知なんですか?」
「そっちこそ。待ち合わせ相手というのは、この男なのか?」
険のある視線を送るキサラと、対称的に余裕綽々なカレン。
「ええと……。おまたせ、キサラ」
何食わぬ顔で2人の中間に入り、交差する目線の火花を遮ろうとしたのだが、それは失敗に終わった。
「先生、この方を知ってるんですか!?」
「え、ええ。それは」
「よーく知ってるとも。ハイドとあたしは、お互いの肌を見せ合った仲だからな」
ーーおいおいおいおい!
よりにもよって、なんて言い方をするのだ、この女は。
確かに間違いではないが、言葉に悪意が山盛りにされているぞ。
案の定、キサラを見ると彼女は顔を真っ赤にし、こちらを射殺すような視線で睨んでいた。
「……そーですか、そーですか。ハイドさんは、私に隠れてこんな美人とい、いちゃいちゃしてたんですね」
「あ、あのですねキサラさん。この女性は昨日の……。というかカレン!なに笑ってるんですか!」
見ればカレンは楽しくて仕方ないといった含み笑いで僕たちを観察していた。昨夜に少し思ったことだが、彼女はサディストだ。間違いなく。
「か、カレンって。……お互い呼び捨てにする位の仲なんですか」
頭に血が上っているのか、キサラは昨夜聞いたはずのカレンの名を口にしても
気づかない。
「ああもう……!どうすればいいんだ、コレ!?」
頭を抱えて座り込みたくなった僕の耳に、聞き覚えのある美声が届いたのはその時だった。
「あら、カレンにハイドさま。それに昨夜のお嬢さんも。いつの間に仲よくなったのですか?」
結い上げた青黒い髪。華奢な身体に不釣り合いな鎧を纏って現れたのは、アイリだった。
そしてそのすぐ後ろにはーー
。
「おう、ハイド!奇遇だなァ、こんな所で」
獅子のたてがみのような金髪をなびかせながらこちらに歩いてくる、ジーゼルの姿があった。
「ははははははッ!やっぱり面白いなァ、お前さんは」
豪快に笑うゼルに、僕は頭が痛くなりそうだった。
僕たち5人は今、朝食を取った食堂に再び来ていた。大きめのテーブル席を囲み、ジーゼルたち3人と僕たち2人が向かい合っている。
昨夜のことと先ほど起こった衝突未遂事件を、改めて話し合っていたのだ。
「笑い事じゃないですよ……。おかげで仲間にも誤解されそうになったんですから。ね、キサラ?」
「……昨夜ははだ、裸を見たとか、言ってませんでしたけど」
キサラさん、再びのお冠である。
今回の冒険はどうやら女難の相が出ているらしい。
小さくため息をついた僕に、ゼルが言った。
「それにしても、ハイドもオレと同じように連れがいたんだな。……お嬢さん、申し遅れたがオレはジーゼルという。こっちの2人はカレンとアイリだ」
女性2人を指しながら紹介するジーゼルにも、キサラはそっぽを向いたままだ。
「知ってます。同じギルドなので、名前は見える設定になってるみたいですから」
「同じギルド?……おお、たしかに。まさか同業者にこんな所で会うとはな」
言われて気づいたのか、ゼルはキサラの頭上に浮かんだウィンドウを見やった。
僕をのぞいた4人には、<アインクラッド解放軍>のギルドタグが付与されているのだ。
「礼儀なので、一応名乗っておきますけど。私は解放軍所属のキサラです。階級は……」
改めてゼルに向き直った彼女が自己紹介を始めると、受けた本人が待ったをかけた。
「いや、そこから先は言わなくてもいい。オレたちは旅先で偶然出会い、友人となった。それでいいだろう」
ゼルらしい、と思った。
おそらくゼルは軍内部でもそれなりに高い地位にあるのだろう。お互いにそれを明かし合えばまじめなキサラのことだ、立場を考えて萎縮してしまうに違いない。
対等な友人として付き合ってくれるつもりでいる彼の洞察力の鋭さに、僕は舌を巻いた。
「ところで、ハイドよ。お前さんたちは今日これからなにをするんだ?」
今度は僕の方に向かって質問を投げかけてくるゼル。
「オレは1日中風呂に浸かっているつもりだったんだが、コイツらが退屈だと言い出してな。なにか面白いイベントか、狩りはないものかな」
「ええ、僕も本当なら……」
ずっと温泉に浸かるつもりだったんです、と言いかけて隣のキサラの視線に気づく。
朝の涼しい空気同様、とても冷えたものだった。
「んん。ええ、僕たちには昨日から挑戦しているクエストがありまして。情報屋でも扱っていない解決方法を思いついたので、それを試しに行こうと思ってます」
「ほほう」
ずい、と身を乗り出してくるジーゼル。その瞳は好奇心にあふれ、キラキラと輝いていた。
これは、次に言い出す言葉は……。
「面白そうだな。よければオレたちも一緒に……」
「だめです」
ゼルの言葉を遮ってのは、むっつりと押し黙っていたキサラだった。
彼女の口元は堅く結ばれ、『絶対にイヤ』と自己主張しているかのようだった。
「キサラ?」
「だ、だって……。危険じゃないですか。同じ軍人とはいえ、どんな戦い方をするのかも分からないし。一緒に来てもらっても、足手まといになるかも知れませんよ」
普段温厚な彼女がここまで他人を攻撃的に評価するのも珍しい。ゼルやアイリの装備品から、彼らがそれなりに修羅場をくぐって来た猛者であることは分かっているだろうに。
「でも、キサラ?君も言ってたじゃないですか。例え相手がNPCだとしても、救える命は救いたいと。それなら人手は少しでも多い方がいいのではないですか?」
「それは、そうなんですけど……」
見ればキサラは、チラチラと2人の美女ーー主にカレンの方に視線を送っていた。
戦い方云々は二の次で、彼女と一緒に行きたくないだけなのは明白である。
それに気づいたのだろう、カレンは獲物を見つけた猛禽のごとく獰猛な笑みを浮かべ、言ってきた。
「……面白いな、お前。あたしたちがお前のような小娘に戦力で劣るだと?」
「え、SAOでは外見は関係ありません。あなたがどんなにその、……立派な身体をしてようが戦闘力に影響はないはずです」
この2人は、水と油だ。まじめなキサラと、それをからかって楽しむカレン。
キサラの方にもう少し柔軟性があれば、むしろつき合いやすい組み合わせだとは思うのだけれど……。
いや、それを言うならあんな出会い方をさせてしまった僕も悪いのか。
「……よし、そこまで言うなら見せてやろうじゃないか」
と、そこでゼルが割り込んできた。
瞳には新しく玩具を手に入れた子供のような輝きが宿っている。
「ちょっとゼル。こいつはあたしが……」
「下がれ、カレン」
「……っ」
役割を横取りされたカレンが抗議しようとするが、ゼルの有無を言わせない口調で退けられる。
先ほどまでの竹を割ったかのような性格の、あっけらかんとした声とは明らかに違う声質。まるで人が変わったよう。
「……キサラといったな。こうしよう、オレと君が決闘を行い、オレが勝てば君たちのクエストに同行を許可してもらうのだ」
「もし、私が勝ったら?」
「その時は同行を諦めるさ。……まあ、あり得ないがね。なんなら賞金を付けてもいい」
「大した自信ですね」
挑発と受け取ったのか、キサラの瞳にも闘志が燃え始めている。
ゼルの付き人2人は『またか……』といった感じで苦笑いだ。
「いいでしょう、受けます。ルールは<初撃決着モード>でいいですか?」
「いや、それではすぐに終わってつまらん。<圏内>でのノーダメを使った模擬戦闘ではどうだ?どちらかが負けを認めるまで、存分に闘える」
「……承知しました」
キサラが頷く。彼女の態度に満足したのか、ゼルはニカッと笑い右手を差し出した。
「交渉成立だな」
「ええ。……決闘ということですので、改めて申し上げます。私は<アインクラッド解放軍>第104小隊で副隊長を務めている、キサラ中尉です」
握手を返しながら、キサラは名乗った。一方のゼルは、少々不満顔だ。
「ふむ。そう名乗られては、こちらも応えるしかないか。……オレはジーゼル。この3人で結成されたギルド<天境線>のギルマスだが、君と同じく<アインクラッド解放軍>にも籍を置いている。役職としては……」
そこで間を取るかのように、言葉を止めた。
ギルド<天境線>。
確かにゼルたち3人のウィンドウを見ると、キサラと同じギルドタグの他にもう一つ、地平線から昇る太陽を図案化したシンボルが貼りつけられている。
ゼルは真顔になり、続けた。
「……第08小隊、隊長。階級は中佐だ」