2024年5月 第43層 空に浮かぶ島の館
部屋の中は薄暗く、天井まで見通すことができない。
部屋そのものは体育館なみに広いのだろうけど、奥行きもぼんやりとした明かりの中でははっきりとしない。
窓が無く、光源は床に無数に立てられたロウソクの明かりのみ。時と場合が違えばロマンチックな光景ともいえる。
僕たちは今、この部屋で一匹の巨大な鬼ーー固有名<the guardian>と対峙していた。
守護者、ということは何かを守っているのだろうけど、今の段階ではそれがなんなのかは分からない。
ともかく今できるのは、この2人の戦力でもってコイツを倒すことだけだ。
「キサラ!こいつの攻撃は僕が受け止めます。きみはいつものようにタイミングを見計らってスイッチをお願いします」
「はい、分かりました!先生」
僕の相方、<アインクラッド解放軍>中尉キサラは元気よく返事すると、僕の斜め後ろで槍を構えた。最近ではこの位置取りが僕たちの基本フォーメーションだ。
鬼は昔話でも標準装備している鉄の棍棒を振り上げるとソードスキルを発動、僕たちに襲いかかってきた。
「お前の相手はこっちだ!」
スキル<威嚇>を発動し、注意をこちらに向けさせる。効果は敵ヘイト値の上昇。
敵の放った棍棒スキルを受け流し、出来たスキに縦斬り<バーチカル>をお見舞いする。3段に重なるHPバーの1本が5分の1ほど減った。
鬼は叫び、棍棒をブンブン振り回す。個人を狙う技ではなく、範囲攻撃なのだろう。回避は容易だ。
「そこっ!」
鬼の攻撃が出し切られたタイミングでスキル<シャープネイル>を発動。3連撃の軌跡が爪痕のように鬼の腹部に刻まれる。
「行きます!」
それなりに強力な技なので発動後の硬直が大きい。僕の空白時間をカバーするようにキサラが前に飛び込んできた。
下段2連撃<グラスフェル>。運良く転倒によるスタン状態が発生し、キサラは追撃する。
石突きを振り上げ打撃を与えると、穂先を振り下ろし同じ箇所を切り裂く。縦2連撃<ダブルファング>。
すでに敵HPバーの1本目は消失している。
「先生、思ったより楽にいけそうですね」
再度僕の斜め後ろに戻ったキサラが言う。確かに、以前の大蛇のような難敵ではなさそうだ。
「ええ。しかし、油断はしないように。攻撃パターンが変わる可能性もあります」
僕の言葉に頷くキサラ。鬼は立ち上がり、充血した目で睨みつけてきた。
半日前。
僕たちはこの層の南端にある村で、あるクエストを受けていた。クエスト名は<少年の天命>。曰くーー。
村には生まれた時から病弱な少年が住んでいる。
少年の両親は彼の病気を治そうとあらゆる手段を試してきた。村にすむ祈祷師にまじないをかけてもらったし、大きな街の高名な医師ーーこれは主街区の神父のことだーーにも治療を依頼した。
しかし少年の症状はよくならず、次第にその生命力も衰えていった。もはやこれまで、あとは天に召されるのを待つしかないのか……。
そこで村を訪れたのが旅の剣士(例のごとくプレイヤーのことだ)である。
両親は藁にもすがる思いで病の治療法を探すよう、剣士に依頼する。果たして旅の剣士は少年を救うことが出来るのかーー。
バックグラウンドとしての話はこんな所である。
僕が今回この層を選んだのは、ここが湯治に効く湯が湧くという設定から、SAOでは数少ない温泉に入るためだった。
SAOのプログラムを走らせているナーヴギアは液体の表現が苦手で、SAOでも入浴や水泳をしても違和感が拭えない。
それでも、やはりたまには足を伸ばしてゆっくり湯に浸かりたいと考えるのが日本人というものだ。
ちょうどキサラも今回は1泊2日の予定が組めるという話だったので、この機会に温泉旅行と洒落込んだわけだ。
たまたま入り込んだ民家のおばさんの頭上に、クエスト起点を知らせる金色の『!』マークが浮かんでいなければ僕たちは今もまだ温泉に浸かっていたはずである。もっともその場合、キサラには今回の目的を伝えた時同様、白い目で見られ続けていただろうけど。
クエストを開始した僕たちは、この層のあらゆるところを回った。幸い村や主街区で、病気の治療に関する有益そうな情報を数多く聞けたので行き先に迷うことはなかった。
万病に効くという、霊峰ナトークス山頂に自生する薬草。
魚が好物であるという少年のため捕まえた、素早く泳ぎ回る『うまい川魚』。
地下の鍾乳洞の奥、鍾乳石から滴る『生命の雫』。これを手に入れるときには雫を舐める低級悪魔型モンスターを倒した。
いずれも病に効果はなく、それならと少年宅の裏庭にいた青い鳥を捕まえてみたものの、彼は『幸せって気づかないだけで、近くにあるんだね』と世界名作劇場のワンシーンめいたセリフを口にしただけで、快方には向かわなかった。
こうなっては奥の手だーー。
そう思った僕は情報屋からこのクエストに関する資料を買い取り、検証を始めた。
しかし残念なことに、この件に関しては先駆者たる上層プレイヤーも匙を投げていたらしい。
結局少年を助ける手段はなく、クエスト名通り<天命>の尽きるまで待つことで両親からは一応の報酬が得られるそうだ。
『そんなのおかしいです』。これに異を唱えたのが解放軍中尉であるキサラ。
根がまじめな彼女は、このクエストにも少年を助ける選択肢があると主張したのだ。
僕としては先駆者の解答を信じ、湯の中で『その時』を待ちたかったのだけど、ここで彼女1人に攻略を丸投げしては信用がガタ落ちだ。
仕方なく僕はとっておきのアイテム<ミラージュ・スフィア>を使用し、天に浮かぶこの島を発見した。
<ミラージュ・スフィア>はフィールドの詳細マップを立体画像で投影するアイテムだ。運良く手に入れたものだが、本来はもっと入手が難しい品だという。
キサラはその説明を聞いたとき何故か『店売りじゃなくて良かった』などと呟いていたが。
ともかく僕たちは、いかにも怪しい『浮かぶ島』にたどり着きそこに建てられていた館に入った。
ここに病を治すアイテム、あるいはフラグがあると信じて。
ちなみに島には1本の縄ばしごがかけられており、落下ダメージに怯えながらの登頂である。帰り道のことは考えたくない。
そして見つけた大扉の奥に待ち構えていたのが、先の鬼というわけである。
「とどめだ、キサラ!」
すでに鬼のHPバーはレッドゾーンだ。僕の声を受けたキサラはスタン状態にあった鬼に<体術>スキルを発動。
至近距離から抜き手を突き刺す零距離攻撃技<エンブレイサー>だ。
キサラの腕が引き抜かれると同時に鬼は一瞬の硬直。間もなくポリゴン片となって爆散した。
「お疲れさまでした!」
「おつかれー」
僕たちは互いの健闘と勝利を称えるハイタッチ。
「しかし……」
「なにも、出ませんでしたね」
ボス撃破の報酬として紫色のウィンドウに表示されたのは、それほど手強くはなかった鬼の強度に相応しい値の経験値だけ。
リザレクトなんちゃらとか、どこそこの葉っぱといったそれらしいアイテムは手に入らなかった。
「……どうしましょう?」
「とりあえず、村に戻ってみよう。ここのボス撃破がフラグになっているかもしれないし」
「そうですね」
僕たちは主が不在となり、ロウソクの灯火だけが儚く揺れる広間を後にしたのだった。
「……おにいちゃん、僕のために色々してくれてありがとう。でも、もういいんだよ……」
ベッドの上で青白い顔をした少年は、出発前と変わらない姿だった。
「だめかー……」
どうやら鬼を倒してもフラグは立たなかったらしい。買った情報によればこのクエストは受注から48時間で少年が息を引き取る展開になるとのことなので、まだ時間はあるのだが……。
考えてみれば、例え<ミラージュ・スフィア>が無くてもあんな目立つ浮島が未発見のはずがない。鬼を倒して少年が救えるなら、その情報はすでに出回っているはずなのだ。
「とりあえず、温泉に入ってじっくり考えませんか?」
「まったく、先生はテキトーなんだから……」
呆れ顔をするキサラだったが、さすがに浮島からの帰り道で肝を冷やしたらしい。肉体的だけではなく精神的に疲れた状態を癒すため、宿に帰ることを承諾してくれた。
「それじゃあ先生、また後で」
宿に着いた僕たちは、早速温泉に入ることにした。当然ながら浴場は男女別々で、僕とキサラは入り口で別れることになった。
「僕は2時間ほど浸かるつもりです。キサラもゆっくりしてきてください」
「……男性の長風呂って、珍しいですね」
「せっかくの温泉ですからね。上がったら冷えたビールで1杯やるのが楽しみなんです。あ、でもキサラはだめですよ。未成年ですから」
「本当に道楽者ですね……」
今日何度目か分からないキサラの呆れ顔に見送られ、僕は脱衣場に入った。
SAOでは服を脱ぐときも右手のメニュー操作で行う。画面右側の装備フィギュアから衣服を解除すればいいのだ。
僕は素っ裸になり、タオル1本を持って浴場に向かった。浴場は露天風呂だ。すでに夕方ということに加え、もうもうと立ち込める湯気によって視界はよくない。
「キサラ、もう入りましたか?」
おそらくは女湯があるはずの方向に声をかけてみるが、返事はない。この仕切りは声の通らない設定なのだろう。
僕は手早く体を洗うと岩で囲まれた湯船に向かった。と……。
「ん?」
湯気の向こうに、人影がある。NPCか、他の宿泊客だろうか。
目をこらすと、人影に緑色のカーソルが出現した。どうやらNPCではないらしい。シルエットはこちらに半ば背を向けて立っている。
「こんばんは。いやあ、すごい湯気ですね。他に人がいるとは……」
そこまで口にしたとき、僕の脳は危険信号を吐き出した。
細い肩、丸みを帯びた臀部。ウエストは引き締まり、その上に存在するふくよかなアレは。
ーー女性プレイヤー!?
確かに僕は男湯に入ったはずだ。それは間違いない。とすれば、考えられるのはこの温泉が入り口だけ男女別で、中でつながっているパターン……。
「き、キサラ……さん?」
恐る恐る声をかけると、女性のシルエットはこちらを振り向き言った。
「……誰だ?お前」
髪は長く、燃えるような赤色。前髪の奥に覗く瞳は攻撃的にややつり上がっている。
身体も成熟した女性のそれで、全体的な雰囲気はキサラとは似ても似つかない。
それでもこちらを見据える冷めた視線だけは、今日の間に見慣れたキサラのものとそっくりだった。