ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ──
激しいノイズ音が耳鳴りとなって襲い掛かり、他の音をシャットアウトして平衡感覚を著しく狂わせる。
今立っているのか座っているのか、それとも寝ているのかすら定かではない状況のまま、士道はとある声を聞いた。
──今度こそ、■■■■の願いを──
ノイズは視界にまでおよび、今まで見たことのないはずの景色、映像までも映し出した。
視界に一瞬だけ映ったのは流麗な金色の髪と輝く金の瞳。
そして、神々しく輝く一本の剣を──その眼ではっきりと視た。
●
千璃は美九に手短に説明したのち、〈フラクシナス〉へと移動した。七罪の治療のためだ。
加えて、士道が倒れた。
緊張感が続いているせいもあって立ち続けていたが、本来人の身で『天使』の使用など自殺行為に等しい。〈鏖殺公〉の力をそれなりに引き出していたようだし、最悪何かが削れている可能性だってあった。
状況は極めて悪いと言わざるを得ない。
十香は攫われ、真那はやられ、士道も倒れた。ほかの精霊たちは比較的軽傷であるものの、このまま十香奪還に動けば失敗するのは目に見えている。
DEMも相当な被害を受けているはずだが、エレンがいまだ健在ならば幾らでも立て直しが効く。リコリスシリーズと銘打っているからにはあれ一つということはないだろうし、実際DEMの日本支社にはあったはずだ。
千璃の奥の手である"鋼鉄の腕"を使えば対抗は可能だが、奥の手というだけあってなるべく使いたいものではない。
ため息を吐きつつ、休憩用の小部屋の中で千璃は虚空へと言葉を投げかけた。
「……あんたに全力出してもらうことになるかもしれない」
『私としては構わないが、その場合のリカバリーを考えているのかね?』
「ある程度までなら大丈夫でしょうね。ただ、度が過ぎると一度隣界に戻らなくちゃいけなくなる」
隣界における精霊の状態は"休眠"だ。何のために戻るのかと言われれば、それは精霊である彼女たちがこちらの世界にとって"不自然"であるからに他ならない。
元は人間である千璃や琴里と言った面々はさておき、純粋な精霊ならば一定周期で隣界に戻る必要性が出てくる。
世界の許容範囲を超えて行使される異常は、世界によって排除される。
隣界という場所が存在する理由はまさにそれから逃れるためだ。もっとも、これは隣界が存在する理由の一つに過ぎないが。
士道とキスすることによって霊力を失った精霊は隣界へ行く必要はなくなるが、霊力を取り戻すことがあればまた同様に隣界へ戻らなければならない。
「精霊と士道君にさえ被害が出なければいいわ。それ以外に考慮すべき点はない」
『良いだろう。夜刀神十香を取り戻すために最低限それだけ留意しておけばいいのだな』
「日本支社には二葉もいないはずよ。精霊の妨害はないでしょうね」
当然、この会話は艦橋にいる琴里たちにも筒抜けであるはずだ。彼女たちも十香奪還には賛成であるため、口をはさんでくることはないだろう。
問題があるとすれば今後のことだが、保険をかけておくに越したことはないかもしれない。
そう考え、盗み聞きしているであろう琴里たちのいる艦橋へと足を運ぶ。
艦長席に座っていた琴里は実に不機嫌そうだった。美九以外の精霊は医務室で治療を受けており、美九はここで詳しい説明を受けている最中だったのだ。
「……それで?」
「まぁ、簡単に言えば君らに士道君を保護してほしい訳だ」
無論の事ながら、〈ラタトスク〉の目的は平和的に精霊を大人しくさせることである。そのために士道の力は必要不可欠であり、千璃の庇護にある間〈ラタトスク〉は実質開店休業状態だった。
だが、ここにきて事情が変わる。
最悪の場合、千璃が数十日から数か月の間姿を消す可能性がある。その間DEMに対抗するにはそれなりの規模か質で対抗するほかに術など無く、成し遂げられるのはそれこそ限られる。
千璃の場合は電子的な妨害から始まり狂三の妨害が今なお影響を残しているのである程度はどうにかなっていた。これからのことを考えるなら、〈ラタトスク〉にその身を預けるのが最善だ。
不承不承の判断ではあるのだが、仕方ない。
「ちょっと無理することになるし、私が少しの間姿を消すかもしれない。その間はよろしくね」
「……そこまでする意味があるんですかー?」
美九はどうにも理解出来ないという顔で千璃の方を見て言った。琴里はどちらかといえば千璃が姿を消すという方に疑問を覚えているようだが。
「当たり前よ。士道君は
「わかりませんねー。代えなんていくらでもいそうですけど」
「あんな特異な人間がそんなにいるわけないでしょ。気質ならまだいくらでも矯正が効くけど、霊力を封じる器としての力はあの子以外持ちえない」
もちろん予備──次善の策もあるにはあるのだが、千璃とて好き好んで失敗の可能性を高めたいわけではない。
そもそも士道の力を詳しく知っているわけではない以上、下手なことをしたくない。彼が霊力封印の力を持つに至った理由はそれを指示した身として知ってはいるが、能力そのものはまだ謎が多いのだ。
なんとなく理解した、という感じで頷く美九。
会話が途切れたところで琴里が口を開いた。
「姿を消すっていうと、どうなるわけ?」
「しばらく隣界にいるってこと。こっちで派手に力を使い過ぎるとその反動が飛んでくるからね」
「……隣界に?」
「そう。元は人間でも一度新調した肉体だしね。"切り札"も一度は切ったわけだし、ここらで一度隣界に戻って調整し直すことになるかもしれない」
あくまでも可能性の一つに過ぎないのだが、相手が相手である以上ほぼ確実と言ってもいい。
だから、他の誰かを連れて行くと安全を確保して戻ってくることが出来ない。
「……一人で行くつもりなのね」
「それが最善。負傷してる上に全力すら出せない精霊なんて連れて行っても邪魔になるだけだしね」
「そう判断したのなら私は何も言わないわよ。十香の救出だけはタイミングを見計らってやるけど」
「そのために乗り込むんだし、当然よ」
士道至上主義者である琴里にとっては都合の良い話だ。いずれ戻ってくるにしても、千璃がいない間に土台を固めることは出来る。
今の琴里にとって〈ラタトスク〉などどうでもいい。士道からの信用を得て、彼の一番傍にいることこそが至上命題。それ以外の有象無象は二の次だ。
ウッドマンには確かに恩義もあるが、最悪士道を殺さなければならない組織になどいる気はない。彼の目の前では猫を被って頷いていたが、たとえ士道を殺さなくてはならくなったとしても、琴里は士道以外の人間を殺しつくすだろう。
士道が千璃を信用しているわけではないというのはわかっている。ウッドマンはそれ以上に信用できないから〈ラタトスク〉と手を切ったのも理解している。
だから琴里は自分と〈ラタトスク〉を切り離して考えさせることで士道を千璃から引き剥がそうと画策しているのだ。
「それじゃあ、あまり時間もない。夕弦ちゃんと耶倶矢ちゃんに関しては美九ちゃんに抑えてもらうとして、士道君が目を覚ましたらここから出さないようにね」
「私は構いませんよー」
「私も構わないわ。出るときは士道じゃなく私が出る」
「それもそれで面倒が起きそうだけど、今のところ霊力を完全に引き出せるのが君だけだからねぇ」
千璃が軽く笑って艦橋から出ていこうとしたとき、誰かが入ってくる。クルーも含めて全員の目がそちらに向き、そして驚いた。
先程倒れたはずの士道が、酷い顔色のまま艦橋へと入ってきたからだ。
顔色は酷くとも足取りはしっかりとしており、出ていこうとしていた千璃の目の前に立つ士道。
「……千璃さん、十香を助けに行くんでしょう?」
「そうだよ。だけど君は駄目だ。『天使』の力を引き出し過ぎたせいで体がぼろぼろだから、今は休むべきだよ」
「嫌です。俺も、十香を助けに行きます」
「わからない子だね。君じゃ足手まといだって言ってるの」
「それでも──十香を助けに行くなら人手があった方がいいはずです」
「それを逆手に取られる可能性があっても?」
仮にもDEMの支社だ。魔術師はそれなり以上の数がいるし、士道の"価値"は抽象的ながらもウェストコットはわかっている。むやみに乗り込んでいけば逆に捕縛されて千璃の手間が増えるだけだ。
唯でさえ悪い状況なのだから、これから更に状況を悪化させるようなことはしたくない。
狂三でもいれば話は別なのだが、彼女は或美島への修学旅行以来ぱったりと消息を絶っている。分身体を天宮市に置いているのは千璃とてわかっているが、相手に話す気がない以上問い詰めても同じだ。
「ならば、我らが共に行けばよいのだろう!」
「同意。士道の身は私たちで守ります」
所々に包帯を巻いた夕弦と耶倶矢が破れたメイド服のまま艦橋へと入ってきた。
二人には美九の『天使』が効いているはずなので、彼女たちを傷つけたくないというところには同意している美九へと視線を送って抑えてもらう。
『二人とも、無茶を言わずにここで休んでくださいー』
「いや、こればかりは姉上のお願いでも聞けぬ」
「共闘。私たちは士道への恩があります。先ほどのリベンジも含め、DEMへ強襲をかけるというのはチャンスなのです」
一度は効いたはずの美九の"声"が通じない。それに疑問を覚えた美九と千璃だが、千璃はある程度の仮説を立てることが出来た。
今は破れたメイド服に紛れて霊装を展開している。やはり美九の"声"は霊力を持った生物には通用しないと考えていいだろう。士道に封印されているからこそ通じていた、とするのが最も自然か。
それでも普段よりはずっと美九のいうことを聞きやすいはずだが、二人は意思を曲げない。
じっと睨みあう千璃と耶倶矢、夕弦に士道。何が何でも退く気のない意思を感じ取ったのか、あるいは士道の覚悟に折れたのか、千璃は軽くため息を吐いて告げた。
「いいよ、それじゃあついてくるといい」
「っ……恩に着ます!」
「礼はいらないよ。言われるようなことじゃない」
死地になる可能性のある場所へ赴こうというのだから、礼を言われたところで返事に困るだけだ。
美九はそれを見て、思わずと言った様子で声を荒げる。
「どうして……どうして、そんな必死になれるんですか!」
美九は人の悪意をよく知っている。下卑た欲望のためにいくらでも手を汚す下種を知っている。
士道もどうせその類で、十香が綺麗だから、可愛いから助けたいだけの屑だと思い込もうとしている。
美九の力をもってすればどんな容姿の女でも手中に収められる。これで諦めるだろうとそう問うてみれば、士道の答えは実に単純だった。
「十香に代わりはいないんだよ。当然、
だから、大切なんだ。
「な……」
恥ずかしげもなく当然だとばかりに告げた士道は、それ以上の問答をやっている暇などないとばかりに艦橋から出ようとする。
千璃を先頭に出ていく様子を美九は拳を握ったまま見続け、頭の中でぐるぐると先の言葉を反芻させていた。
裏切られ、見限られ、騙され、貶められてきた彼女にとって男とは信用出来る存在ではない。
それでも、士道は──目の前の"男"は何かが、どこかが違う。
認めたくないと思いながらも、士道の気質に影響されているのか目を離せない。
程なくして美九は艦橋から出ていった。琴里はそれを冷めた目で見ていたが、そんなことよりも──艦橋から出ていくときに千璃の口元が弧を描いていたことの方が気になった。
●
ウェストコットは実にご機嫌だった。
〈プリンセス〉夜刀神十香の誘拐を無事に達成し、エレンの傷もある程度処置を済ませたころ。彼は十香を閉じ込めた独房の前にいた。
分厚いガラスの向こうには雁字搦めにされた十香の姿。
隔離室にいる彼女は現在眠らされ椅子に座らされているままだが、その宝石のような美しさが損なわれているわけではない。強いて言えばエレンと戦闘した際の傷が幾らかあるくらいか。
だが、ウェストコットはそんなことはどうでもよかった。
「こんなところにいたのですか、アイク」
「おや、エレン。傷の方はいいのかい?」
「のんびりもしていられません。どうせセンリがこちらに乗り込んでくるでしょうから、最低限の処置だけ施しました」
「そうか。彼女もまた精霊の力を狙っているのだろうからね」
ウェストコットは少なからず千璃の"遺産"に目を通しているため、その目的をある程度は推察することが出来る。
常識という壁を正面から打ち壊す、いっそ冒涜的とまで言える論文。置き土産の空間震によって千璃の"遺産"はそのほとんどを消失してしまったものの、少なからずウェストコットの手元に残っている。
「──さて、世界の理をひっくり返すためにはあとどれほどかかるのだろうね」