何も見えず、何も聞こえず、何も感じず、何もわからない。
視覚聴覚嗅覚味覚触覚──五感全てに機能不全を起こした肉体は最早何の意味もなさず、それに付随して起こる空間認識能力の消失に怖気が走る。
時間経過もわからないため、どれほどの時間をそこで過ごしたのかは想像もつかない。
ただわかるのは、初めからこうではなかったのだということ。そして、時間が経つごとに体の内側から作り変えられていく感覚を味わったこと。
得体のしれない何かが体の中を這いずり回り、内側から自分が自分でなくなっていく。いっそ発狂してしまえれば楽だったのだろうがそれもなく。五感が働くことのない現状でも、この刺激だけは味わい続けていた。
なぜなら、これは肉体に依存する感覚ではないからなのだろう。動き続ける思考は冷静に答えを告げていた。
「いっそ死んでしまえれば」
そう呟こうとしても、耳も聞こえなければ筋肉を動かして声を出すという感覚も消失している。
だが、そう考えた後には必ずこうも考えた。
「今死ぬわけにはいかない」
それが何故なのか、流れゆく時間の中で理由さえも消失していく。
あいまいになっていく理由を、しかしそこに在る『彼女』は忘れるまいと願った。
それは最早願いというよりも妄執、怨念の類ととられても差し支えないほど、『彼女』の思いは強くなっていく。それに付随して自分の存在が確固としたものになっていく。誰にも気付かれぬまま、『彼女』は人知を超えた存在へと成り上がってしまうほどに。そうなってでも、目的を果たすために
もとは確かに人であったのだろう。だが、その思いの強さは人として誰よりも超越的だった。
原因は確かにあった。しかし『彼女』はそれを覚えていない。
今『彼女』にあるのは、ただ一つ。あまりにも深い、渇望と呼んでも差し支えない願い。
それをもって、『彼女』は現界した。
●
士道は<フラクナシス>の指令室へと戻り、何も変わらない現状を見て嘆息する。先ほどの青年の言葉は論外とはいえ、一つの手段ではあるのだろう。それ以上に青年が怪しすぎるため、あまり協力したいとも思えない。
依然として動かない精霊。監視を続けるAST。ASTの目を気にして手を出しあぐねている<ラタトスク>。
大人の理由などというものでどうにも動かせない現状は、誰にとっても不利益で損しかない状況であるといえた。
だからこそ、直後に起こった出来事が切っ掛けとなり得る。
──ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ──
けたたましい音が艦内に鳴り響く。いや、鳴り響いているのは艦内だけでなく、町全体、引いては県一つ分ほどの範囲で鳴らされていた。
これは警報だ。空間震が起きることを感知した機械が、自動的に鳴り響かせる緊急避難のためのサイレン。
「空間震!? どういうことよ、また新しい精霊が現れるっていうの!?」
「不明です! ですが、警報のなっている範囲は先の<サイレント>現界の時と同規模と予想されます!」
「まさか、彼女が……意識が無いんじゃなかったの!? 無意識のうちに空間震を引き起こしているとでも……ッ!」
琴里が叫ぶように言う。
実際、精霊が現界したあと、精霊の意思で空間震を起こすことは不可能ではない。二人の精霊が同規模の空間震をぶつければ相殺できる、という研究結果も出ているが、現状で<サイレント>と同規模の空間震を起こせる精霊などこの場にいないし、いたとしても被害が倍になる可能性も秘めている以上は試すことができない。
幸いと言えるのは、民間人が全員避難済みの状況で空間震が起きたこと、だろうか。
だからと言って安心できるわけもない。当然、広域に発生する空間震は<フラクシナス>をも呑み込んでしまうのだ。出来る限り距離をとり、空間震の被害を免れなければならない。空中にいるとはいえ、<サイレント>の引き起こす空間震の規模はこれまでとはわけが違う。胡坐をかいていれば被害を受ける可能性は大きかった。
「総員、行動開始! 空間震の範囲から可及的速やかに離脱するわよ!」
『了解!』
現状を動かす一つの切っ掛け。それがたとえどんなものであろうと、あの青年が言った「手引き」である可能性も存在するわけで。
どうするべきか、と悩む士道。どのみち移動を始めている<フラクシナス>から飛び降りるわけにもいかないため、今は諦めるしかないだろう。
ここにいてもどうしようもないし、今日の検査が終わっているであろう十香のところへ行くと琴理に告げ、部屋を出る。
推進力がかかってわずかに揺れるが、対して気にするほどではない。
十香はどこにいるかな、と考えて数歩進んだところでまたも背後から声がかかった。
『ASTは追い払った。監視の目も今ならないだろう。……先も言ったが、これが最初で最後のチャンスだ』
「ここから移動する手段が無いし、第一、保護する側の説得をする前に事を起こしちゃ意味ないだろう」
『心配には及ばん。<ラタトスク>の目的を考えれば、むやみやたらと精霊に危害を加えるわけにもいくまい』
「そりゃそうだろうけど……」
ふと、この状況を客観的に考えてみる。
名も知らぬ青年と親しげに話す。精霊がらみで、という時点でだいぶ危ういことをやっているのではないかと思う。具体的に言うと裏切ったんじゃないかと思われそうだ。加えて先ほど急に消えたり現れたりと、人間とは思えないこともやっている。
まさかとは思うが──この青年も精霊なのだろうか?
空間震を起こさない静粛現界と呼ばれる現象も確認されているし、仮に青年が精霊であるとすれば、いきなり消えたり現れたり空間震を引き起こしたりといった現象にも説明がつく。
同族を救おうとしているのか? そういった考えも浮かんでくるが、青年の貼り付けたような笑みからは何も読み取れない。
だからと言って、青年の口車に乗せられては何が起こるかわからない。十香は違ったが、人類を敵視する精霊がいないとは限らないのだから。
青年に対して警戒はしすぎるということはないだろう。
徐々に距離を離し、反転してどこかへ逃げ込もうとした刹那、腕を捻り上げられて立ち止まる。
『では行こうか。心配せずとも、勝手に外に出ることくらいは可能だし、空中に放り出されても私がいればなんとでもなる』
「な、何を……ッ!?」
『仕方あるまい。チャンスは今しかないのだ。これを逃しては面倒極まりないことになる──本来、私がここにいること自体予定が狂っているのだがね』
士道の言葉も聞かずに艦体下部まで連れていき、強制的にハッチをこじ開けてパラシュート無しのスカイダイビングを開始する。
ああ、なんか一か月くらい前にも同じことあったなぁ。などと冷静な考えを浮かべる士道。慣れたかといえばそうではなく、バタバタとうるさくはためき続ける服だけが現実味を与えている。
まぁ、端的に言って現実逃避をしていた。
眼下に広がるのは空間震によって受けた災害の傷跡。まるで隕石でも降ってきたかのような巨大なクレーターの真中へと、誘導されるように横合いから風が吹いてくる。
崩れ落ちた高層ビル。砕け散った商店街。士道の通う来禅高校もまた、空間震の被害を受けて廃墟と化している。
ここまで来た以上は覚悟を決めるしかない。こんな風景にはしたくないし、精霊に『現れるだけで迷惑がられる災害』という扱いをさせないためにも。
やるしか、ない。
『ほう、最悪失禁や失神でもするかと思えば。肝は据わっているようだな』
すでに一回体験済みだよ、と言いたくても口を開いた瞬間に入ってくる大量の空気で上手いことしゃべれない。
数度もごもごと口を動かした後、しゃべることを諦めて青年のほうを見る。
青年は下から受ける風圧で長い金髪が逆立っている。両手両足を放り出さずとも姿勢が安定しているのはどういうわけか気になるが、スカイダイビングに詳しい訳でもない士道は思うだけでとどめる。話す余裕がないのもあるが。
『そろそろ地面だな』
青年がそう呟くと同時、下からの風圧が劇的に強くなる。まるで士道の体を上空に押し返そうとしているようだ。
思わず目を瞑ってしまい、どうすべきか悩んでいるうちに士道の足が地面についた。だが、ついた先はボヨンと沈んでしりもちをつく士道。トランポリンみたいだ、と思ったが、目を開けたら本当に体の下にトランポリンがあった。
どういうことだ、と思って青年を探してみれば、わずかな笑みを浮かべたまま士道を見ている。
「さっきのは……?」
『風。というよりは爆風と言ったほうが正しいだろう。私の力を使い、落下の衝撃を和らげた。トランポリンはおまけだ』
まぁ、あの状態でいきなり着地しろというのもどだい無理な話なので、トランポリンは実にありがたい配慮だった。無理やり落とされなければこんなことにはならなかったが。
落ちた場所はクレーターの中心部。最も深く、地面が壁のように囲われている場所だった。
十香の時にも見たことがあるが、この場所はあれ以上に深く、そして広大なクレーターだ。何せ、外側の景色が一切わからない。十香の時はまだ高層ビルが残っていたりしたものだが、完全に破壊されてしまっているらしい。
立ち上がって服を叩く士道は、そこでようやく携帯が鳴っていることに気付く。やはりというべきか、相手は琴里だ。
青年のほうを見れば、首を横に振っている。今は青年の指示に従った方がいいだろう。この状況では、電話に出ようとした瞬間に携帯をひねりつぶされかねない。マナーモードにしたのち、胸ポケットに携帯を仕舞う。
『よろしい──さぁ、ここからは君の出番だ』
青年が話し終えた後、視線を変えてどこかを見る。つられて士道も其方を見れば、虚ろな瞳で宙を見ている女性の姿があった。
近くで見るとずいぶんと大きい。
身長は確実に士道より高く、体格もまた士道よりも良い。全身を覆う灰色のライダースーツのようなものでよくわからないが、顔に余計な肉がついていないあたり、おそらくスーツの下にあるのは余分な脂肪ではなく筋肉なのだろう。
肌の色はずいぶんと白い。顔立ちは日本人とは思えず、絵画のように美しいその貌は能面のような無表情を形作っていた。
『彼女を助ける気はあるかね?』
「ここまで連れてきておいて今更何を……あるさ。あるにきまってる」
別にきれいな女性だから助けるというわけではない。霊力を封じる手段が手段だから、出来れば男は遠慮したい。それだけの話だ。こればっかりは士道も男なので譲れない。
いざとなればやるしかないだろうが、出来ればキスをするなら女性のほうがいいものである。
それはさておき、青年のほうを向く士道。
「……ところで、結局彼女の名前はなんていうんだ?」
『おっと、私としたことが。うっかりしていたよ』
笑みを浮かべる青年だが、どうにも士道にはその笑みが胡散臭く思えて仕方なかった。
とはいえ、彼女の身を案じる側としては信用出来るかどうかわからない相手に名前を明かしたくなかった、ということだろうか。
自分が連れてきておきながら、ずいぶんと勝手なものだと思う。
『彼女の名は千璃。
「樋渡、千璃……」
繰り返す士道は女性の前に立ち、虚ろな瞳をまっすぐに見据えて言葉を紡いだ。
それこそ彼女を救う手段なのだと確信して。誰に何と言われようとも、彼女を救う。意識のない彼女に意識を取り戻させて、安心して生活できるようにしてあげたい。
名前を呼ぶだけでいいのなら、幾らだって呼ぶ。
「樋渡、千璃──!」
●
どれほどの時間をそうやって過ごしたのだろう。
外部からの刺激は一切合切遮断している。それは自身の意思でやっていることではなく、肉体と魂が正しく合致していないからこそ起こる不和だ。
何者も犯すことのできない内部領域。誰も知ることの出来ない深奥。
純然とした輝きを放つ彼女の魂は異物と化した己が肉体の中で時を待つ。じっと耐え忍び、時を経て、その時を待つのだ。
何を待っているのかさえ、異物が己が肉体を侵す刺激を受け続ける中で忘却してしまった。いや、あえて忘れてもいいようにしたというべきか。自身が覚えている必要はなく、その時が来れば勝手に終わる。そういう風に誘導した。
そんな時だった。
魂が、肉体が何かに引っ張られる。わずかに歪む世界を彼女は感知したが、しかし魂のなじまぬ肉体では外部からの刺激を受け付けることはない。
歯車がどうしても致命的なまでにかみ合わない。あと一ピース。あと一つの切っ掛けさえあれば。
「樋渡、千璃──!」
誰かが己が名前を呼んだ。
いや、それが己の名前だとどうして断言できる? 誰とも知れぬ他人ではないと何故言い切れる。
それ以前に、それが"私"へと向けられた言葉だといえるのか? 肉体と魂がかみ合わず、五感全てが消失しているというのに。
──だが、どうせ動かぬ肉体だ。戯れに手を伸ばしてもいいだろう。
ただその程度の考えで、錆び付き変形した歯車を動かすように手を伸ばす。それだけの行動がどこまでもゆっくりで、しかしはっきりと動かしている感覚があることに驚いて。
「私、は──」
歯車が重なる。噛み合った波長は全身くまなく活力で満たし、己が肉体であるという事実を確信させる。
なぜ動かせるのかなどとは言わない。これが待ち続けた"時"なのだ。
今この瞬間を迎えるために、"彼女"は隣界にいた。己が肉体を異物と化した。その魂を輝かせ続けた。
誰のために、何のために、自問自答を続けた彼女の脳は今、答えを出した。
──すべては、この場所に戻ってくるために。
●
変化は劇的だった。
虚ろな瞳に光が宿り、氷のように動かなかった肢体がわずかに脈動する。
それはまるでエンジンに熱を加えているようなもので、ギアの入った肉体は人としての機能を取り戻し、精霊としてあるべき状態へと変質する。
「は────ぁ、───ッ!」
千璃の胸が上下し、大きく呼吸していることが見て取れる。
起こるはずだった空間震の前兆である空の歪みは既に消失し、背後に立っていた青年もまた姿を消していた。
徐々に焦点が合ってきた瞳は士道を捉え、ジッと見つめる。その眼には、困惑と疑問が渦巻いているようだった。
「……君が、私の名前を呼んだの?」
「あ、あぁ。……俺は五河士道。君は樋渡千璃、でいいんだよな?」
「えぇ……センリ。樋渡千璃。その名前で呼ばれるのも何時振りかな」
昔を思い出すようにつぶやく千璃。それに対して、士道は今後どうするかを彼女に聞いた。
このままここにいるのはまずい。移動しなければASTと呼ばれる存在が精霊である君を殺しに来る、と。
最初はキョトンとした顔で聞いていた千璃だが、話を一通り聞き終えた後で考え込む。その表情は今後のことを憂いているというより、面倒くさいことになったなぁ、という感じであった。
「……<ラタトスク機関>ねぇ。それに私たちを狙うASTと。敵が多いわね」
「少なくとも<ラタトスク>は味方だ。俺も一応その組織に組み込まれてる……と思う」
計画の要である士道は組織に組み込まれていて当然なのだが、実際所属しているからどうこうというのはあまりない。精霊関連で呼び出されることはあれど、それ以外のことは全く知らないのだ。
自信無さげにいう士道に対し、千璃は腕を組みながら説教を始めた。
「それは良くないな。自分が所属している組織のことはよく知っておくべきだ。特に上司なんかはね」
「あ、あははは……」
「それに、他人なんて何時か裏切るよ。血を分けた兄弟姉妹でもそうだし、何より親密になったはずの間柄でも切っ掛けひとつで簡単に関係は崩れて裏切られる。組織なんて碌なもんじゃない」
それは、まるで自分がそうであったかのように感じられた。あまりにも実感が込められていて、リアリティが感じられたからか。
彼女自身が誰かに裏切られたのだろうか。それとも、彼女自身が誰かを裏切ったのだろうか。
彼女の過去は士道にはわからないが、つぶやかれた言葉からは怨念にも近い何かを感じてゾッとした。
「まぁ、それはいいわ。それよりも君、五河君だっけ」
「士道でいいよ」
「よし、それじゃ士道君。君、年上に対して敬語を使おうとは思わない?」
「いや、だって……はい、すみません。以後気を付けます……」
「よろしい。最低限の礼儀は必要だと思うよ、私は」
精霊の年など士道にわかるわけもなし、敬語を使うのもなんとなく距離が遠い気がしたので使わなかったのだが、怒られた。
とはいえ、千璃も言った通り最低限の礼儀としての敬語だ。それほど距離が遠くなったというわけでもないだろう。現に態度は先ほどと全く変わらない。
満足げな表情をする千璃は、そのまま言葉を紡ぐ。
「さて、私は今のうちにとんずらするとしようかな」
「え……向こうに帰る、んですか?」
「敬語は早めに慣れたほうがいいと思うよ。あと、どうでもいいけど私隣界に帰れないっぽいんだよねー」
「帰れないって、どういうことですか?」
「さぁ? でもまぁ、問題ないわ。なんとかするから」
カラカラと笑う千璃。それこそ<ラタトスク>の保護が必要だろうに、そんなものははなからあてにしていないという。
隣界に帰れないというのも問題だろう。確かに現界するさいに発生する空間震はなくなるだろうが、代わりにASTが追ってくる。
命を狙われ、追われる日々というのは精神をすり減らすだろう。彼女はそれでもいいのだろうか? 人知を超えた力を持つ精霊とはいえ、精神は人のそれと同じだ。十香の時に強くそれを感じている。
だから、出来ることなら力になりたい。そんなことが表情に出ていたのだろうか、千璃が苦笑しながら士道の目の前に佇む。
「ふふ、心配そうな顔ね。私のことをそれだけ心配してくれる王子様には、これを渡しておきましょう」
千璃の手にあったのは青いスマートフォンだ。しかも士道が持っているものより型が新しい。
それを士道に手渡し、ニッコリと微笑む。
「これがあれば、どこからでも私に繋がるわ」
「……心配になったら、これを使えってこと、ですか?」
「そそ。私、結構精霊のこととか詳しいんだよね。だからさ、取引をしよう。──私が助けてほしいときは君に連絡する。君が助けてほしいときは私に連絡する」
ただし、この取引のことを誰にも話さないこと。それだけは絶対条件だと言って、千璃は士道から離れた。
基本的には誰も信用しないが、彼女の身を案じる士道のことを少しだけ信じてみることにした。そんなところだろうか。表情に出やすく、腹芸が出来そうにないと踏んだこともあるだろう。
グッと背伸びをした千璃は、軽く体を動かし始めた。高く昇った太陽を見て眩しげに眼を瞬かせ、一息つく。
「これからどうするんですか?」
「知らないわ。目立たず騒がずひっそりと、なんてのは性分じゃないけど、必要ならそうするつもり」
「何も持ってないのに?」
「まずはお金を稼がないとね。士道君ってばまだ学生でしょ? そんな君にお金を借りるわけにもいかないからね」
学生であるといった覚えはないのだが、どうやって見抜いたのだろうか。それに、十香は『学生』という存在を知らなかったはずだ。それを、彼女は知っている。
──精霊の間でも、知識の保有量に個人差があるってことか?
可能性はある。だからこそ、千璃は大丈夫だと言っているのだろう。
他の精霊よりも知識を持っているから、この現代社会でも溶け込めると。
「■■■■──」
ノイズがかったような言葉を紡いだ直後、千璃の目の前に灰色を基調とした大型バイクが現れた。右手には鍵、左手にはゴーグルもある。
慣れた様子でバイクにまたがってエンジンを点火させ、ゴーグルをつける。着ている服装も相まってとてもかっこよく見えたのは余談か。
一連の様子をすぐそばで見ていた士道は、驚いてあんぐりと口を開けていた。
「な……なんだ、それ……?」
「私の『天使』よん。あ、バイクじゃないからね。これを作ったのが私の『天使』ってこと」
「そんな天使があるのか……」
「敬語外れてるよ、士道君や。まぁいいわ。折角のお誘いだったけど悪いわね、私は一匹狼なのだ。今度はデートにでも誘ってよ──じゃあね」
何やらよくわからない操作をした後、千璃はバイクを動かしてそのまま進み始める。
しばらくは大丈夫でも、進んだ先には空間震でできた鼠返しのようなクレーターの壁があるのだが、ものともせずにバイクで上っている。なんというか凄まじい光景だった。
パッと見バイクが壁を走っているような感じだったのでなおさらだ。
「さて」
千璃を見送った後で、士道は途方に暮れた。
携帯を再度確認してみれば、琴里からひっきりなしに電話がかかってきていた。というか、今もかかってきている。
どう説明したもんかなと思いながら、士道は<フラクシナス>が回収してくれるのを待っていた。