老人はあまりの屈辱に、敵にしてはいけない人間を相手にしてしまったことにそのときは気が付かなかった。
老人は人前で妻に向かってどなり散らしてしまったのだ。
これから続くだろう粘着質な小言、いつ終わるともしれない長さの中でも決して変わらない的確なその手腕、急所を突いては引き、突いては引きを繰り返し、怒鳴り返せば罪悪感にとらえられダメージを受けるという包囲網。
男はその程度のことは気にしねえもんだ! と気炎を吐いて現実から逃げる池波金太郎はかなり必死だった。
争いの焦点はすでに雇ってしまった店員にあった。
古本屋の店主である彼、池波金太郎は実を言うと今日、1月22日に退院予定であり、当然妻のミサエもそれを知っていた。知っていて、彼女は夫から仕事を奪ったのだった。とはいえ本の補充などに関しては彼の指示が必要なのだが、その程度では満足できないのだろう。
彼はいつも通りの仕事を欲していた。それよりなにより気に入らない。
10年ちょっとしか生きていない小娘に自分の店を任せるなど彼には到底承服できたものではなかった。古本屋として何年も修行し、その時に自転車にうずたかく積んだ本をくくりつけて坂を上って転んだときの痛みを、彼はいまだに覚えている。師匠に、自分なりに値段をつけて本を買い取ったときぶん殴られて泣いたのを覚えている。
妻はしばらく骨休めをしてからにしろというが、待てない。待てないのだ。早く、早く、早くと老人の全細胞があの店の中で読み、話し、笑い、愚痴ることを欲している。
そして、池波金太郎は一計を案ずることにした。
***
昨日と同じように、呼び鈴を鳴らす。
「は~い」
「入ってこい!」
その大きな声に疑問を感じないではなかったが、俺は「おじゃまします」と言ってそのまま中に入った。
「おはようございます」
「お前が新田泉か。外人見てえな面しやがって」
「あんたは黙ってな」
「うぉぁ!」
おばさんは容赦なく腰を叩いておじいさんを黙らせた。
「いえ、事実ですし。そちらの方は?」
横になってダメージ回復に努める彼は、なぜだか俺を睨みつけている。
「あぁ、これがうちの亭主さ。ほら、あんたさっさと起きるんだよ! あたしが留守にしてるからって悪さするんじゃないよ? 泉ちゃんに迷惑かけてみな、その腰に六法全書を叩きつけるからね! わかったかい!?」
「けっ、わぁったよ!」
……金太郎さんは入院していたはずじゃあ。
「じゃあいってくるよ。泉ちゃん、お願いね?」
「はい。お気をつけて」
おばさんが行ってしまうと、俺たちは次にどう動いていいのかわからずにしばし視線をさまよわせた。
とりあえず腰をおろして、俺は机に向かった。
忘れないようにとのことなのか、目立つよう、机には傘が置かれている。昨日のどかちゃんが忘れていったものだ。手にとって、次からは話しに熱中しすぎないようにしようと反省する。
「おい、嬢ちゃん。昨日、忘れ物がどうとかいってたらしいが」
しゃがれた声に頷きを返す。傘を持って、彼に向き直った。
「はい。昨日、本を買っていった宮崎のどかさんがこの傘を忘れていってしまって……金太郎さんはのどかさんのことはご存知ですか?」
「お、おぉ。知っとる。ついでにのどかちゃんがよくいくところもな」
「なら、教えていただけませんか? 俺が直接持って行きたいのですが」
「は? あ、あぁ!」
やはりこの容姿で、「俺」という一人称は不自然だろうか。ここまで金太郎さんをうろたえさせてしまうとは思わなかった。
「条件がある。それさえ飲めるなら今から行って来てもいいし、給料も通常通り払おう。どうだ? まぁ、断れば俺が動けるようになった瞬間クビだがな」
「……やりましょう」
「そうこなくちゃな。何、簡単なことだ! 俺の言うヒントだけを頼りに今日中にのどかちゃんを探し出せればお前さんの勝ち! 負ければクビ、勝てば正式採用。ただのそれだけだ! 偶然やヒント以外でのどかちゃんを見つけても給料はなしだがな!」
「わかりました」
「その意気やよし!」
***
――ヒントはシラタキだ。
そう言って、金太郎は不適な笑みを浮かべたのだった。
実際は「シラ」と言ったところで立ち上がろうとしてうめき声をあげたので「シラうぐぅタキ」なのだがおそらくシラタキで間違いないだろうと泉は傘を抱え、その言葉を頼りに街を練り歩いている。
――結局、入院の件は聞けずじまいだったな
「はぁ」
おばさんに頼まれたのに、金太郎さんが言い出したとはいえそれを止めることもせずに街に繰り出すなんて……と彼女は悩んでいるようだった。
だがそんなことよりも彼女は金太郎の条件の方を気にするべきだった。
あくまで金太郎が知っているのはよく見かける場所に過ぎず、そこにのどかが確実にいるとは限らない。ましてや今日は平日。学校に行っている彼女がこの時間帯からその場所にいるなどありえないし、一度会った泉でもわかるぐらい控え目な性格の彼女が果たして平日に街へ出歩いたりするだろうか。
泉はまず、素直にスーパーでシラタキを見つめることにしたようだった。
シラタキ自体に手掛かりなどあろうはずもないのに、彼女は愚直なまでにシラタキを探し続ける。そしてやはり三軒のスーパーを訪ね歩いて知ることができたのは値段の平均であり、どこが一番安いかだった。
赤信号を待つ間、彼女は立ち止まって現状の整理を始めた。
しかし考えるといってもヒントが「シラタキ」ではどうしようもないのも確かである。あっても困るだろうが、シラタキ自体には何の仕掛けも見当たらないのだ。
信号が青に変わる。泉は傘を抱え直して、また歩き始めた。
通りがかったコンビニを見て、ここが自分の降って湧いた場所なのだろうかと、彼女は辺りを見渡した。駐車場にはトラックが一台と、長ランにリーゼントという古めかしい不良が座りこんでいるばかりだ。
「何か、残っているはずも、ないか」
首を振って立ち去ろうとする彼女に、野太い声がかけられる。
「おい、あんた!」
「なんでしょうか?」
にこりともせずに返事を返す泉に少し気遅れした様子の彼はしかし、すぐに気を取り直し、突っかかるように彼女を指差す。
「あんた、宇宙人か!?」
「……一応、人間だと思います」
「本当か?!」
「え、えぇ」
「あんな風に登場するもんだからてっきり」
「見たんですか!」
今度は泉が突っかかる番だった。
外見は妙齢の美人である彼女に顔を近づけられ、彼は顔を赤くしながら何度も頷いている。
「教えて、いただけますか?」
「あぁ、けどよ」
「けど?」
こてんと首をかしげる彼女にこんなことを尋ねるのはバカバカしいと思いつつも、彼は言わずにはいられなかった。
「アブダクション、しねーよな?」
「しません」
**
「それ、もしかしてのどかちゃんじゃあ」
「あいつのこと知ってるのか?」
一部始終を聞き終えて、彼女は初めて自分が全裸でこんなところに横たわっていたことを知った。少し赤面しながら傘を彼に見せて、今、忘れ物を返しに行く最中だと大雑把に説明する。
「それならよぉ、これ、渡しといてくれねえか?」
「これは?」
テランセラを押し花にした栞を手渡され、泉は促すように彼を見つめる。
「落とし物だ。そういやあんた、名前は?」
照れ隠しなのだろう、早口でまくしたてる彼に泉が微笑んだ。
「新田泉」
「俺は豪徳寺薫。うん? 新田……」
「父は麻帆良学園で教師をやってる」
「あぁ! あのやろぉ、」
「えっ?」
「おぉーぉーいや、なんでもない」
自分に誤魔化すのは無理だと悟って、彼は背を向けた。
「じゃあ、もういくわ」
「本当に、ありがとう」
「気にすんな。じゃあな」
泉は手を振って、彼が見えなくなっても、そこに立ちつくしたままでいる。
「困ったな」
ここから逃げ出すことはもう出来そうにないと諦めかけている自分に、彼女は首を振る。
そしてそれ以上に、自分は初めから思っていた以上に恵まれていたのだとようやく理解して、その温かさに、泣きそうになっている自分が怖くて、彼女は無理やりに、捜査を再開することにした。
***
街を練り歩く途中、ふと、泉はある喫茶店に目をとめた。「喫茶池波」。金太郎と同じ名字である。泉もいい加減気疲れしてきていたので、ほとんど迷うことなくその木製のドアを開いた。
外からは見えなかったが、客は一人もいなかった。
テーブル席が二つ、カウンター席が6つの小さな喫茶店で、ところどころにいくつか大きなクマのぬいぐるみが散見される中、かかっているBGMが50年代のジャズという一種独特な落ち着きをかもしだす空間だった。
マスターである妙齢の、やる気なさげな美人はそのタレ目で泉を見るだけで「いらっしゃい」の一言も吐かずにいる。それに対してさほど戸惑いも見せずにカウンター席についた泉に水の入ったグラスを差し出し、それきり彼女は元の位置に戻って天井を見上げる態勢に戻ってしまった。
礼を言って、泉は水を飲みながらメニューを手に取った。
コーヒーが150円とあったので、彼女は懐具合をあまり気にせずに済みそうだと安堵した。そして注文しようとしてマスターを見ると、彼女は泉をじっと見つめていた。まぁ、なにはともあれ注文だと、泉はコーヒーを注文する。
「コーヒーね、了解……ふむ。君、新田泉?」
「はい」
「私は池波雫。それと勝負は君の勝ちだからコーヒーは奢りにしておこう。のどか嬢には私から連絡する。彼女はここの常連でね。私の個人的な友人……でもないな。まぁ、後でケーキも出すから、ちびちびとやっていてくれ」
泉は一瞬驚きで声も出なかった。
「……ここが?」
「イエス、イエス、オーマイゴッド」
***
連絡を終え、雫がケーキ皿を持って奥の仕切りから姿を現した。
「そういえば答え、気になるかい?」
「気になります」
「あれは、我が父なりの精一杯の叙述トリック(笑)なんだが、答えはこうだ。この喫茶店の両隣にそれぞれ白石和菓子店と滝本文具店がある。それでシラ、タキ、つまりまぁ白―滝なわけだ。シラとタキの間に何かわざとらしい間を挟まなかったかい? それも伏線のつもりだったんだろうね」
解答を聞いて泉はがっくりと肩を落とした。
――確かに寄り道もしたし、実益を兼ねた調査だった、だったけれども!
「わかってたまるかっ」
「君、もしかしてシラタキを探したりしたの?」
「……………………………………………………………………はい」
「これが若さか」
忍び笑いを漏らすマスターを恨めしげに睨みすえながら、泉は差し出されたケーキを受け取って遠慮なく食らうのだった。
「父の入院の件だが」
「入院は、していたんですね?」
「あぁ」
敬語で話してはいるが、泉のその口調にはもう同い年の人間に語るような気安さが窺えた。この場においては気安さが敬意に優先することを、泉はなんとなく理解している。
「あれは母が画策したことだ。なんといっても父はあの年だし、その上いつになっても自分は頑丈なままだと思い込んでいる。だから母は君を先に雇って、無理をさせないようにしたんだろう。ちなみにぎっくり腰の原因は君の試験に使われたシャッターだ。あれを持ち上げられないと開店できないからね」
「そう、ですか」
「母は随分君のことを気に入っているらしい。それと敬語はなしでいいよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
一旦沈黙した後、雫は、言葉を整理するようにまた話しだした。
「あぁ~だから、だ。母は今日抜け出したことに関しては気にしなくていい、と君に伝えて欲しいと私に言っていた。これでチャラにして欲しいとも」
「わかった」
「……お人好しめ」
「生活費のためだ」
そうやって二人が低く笑い合っていると、古ぼけた緑のドアが軋み、一生懸命にそれを開こうとする少女が二人の目の端に映りこんできた。
すぐに泉が立ち上がり、開きかけたドアをさっと開ききってやるとその少女、のどかは恐縮したように深々と頭を下げた。面と向かい合うと、少し安心したように泉に笑いかけ、前髪の向こうの目をきちんと泉と合わせた。思わず目を伏せようとしかけるのをなんとか堪えている様を見て、泉は微妙に罪悪感を感じている。
「こ、こんにちは」
「こんにちは、のどかちゃん」
***
「傘、ありがとう、ございました。泉さん」
「いや、あのときは俺も悪かった。話に熱中しすぎていた」
「そ、そんな、泉さんは悪くないです!」
「あぁ、それと。豪徳寺君にはなんとかして、俺から伝えておくよ」
「お、お願いします」
傘を手渡され、ケーキとリンゴジュースを眼前に、右隣には泉、左目の真中に雫を映したのどかは、なぜだか無性に傘を持っている自分が恥ずかしくなり、慌てて傘を背もたれに引っ掛けた。うまく引っ掛かったことに安堵してようやく落ち着いたのか、誤魔化すように、助けを求めるようにリンゴジュースを飲むことで視界から泉を遮断し、会話の続きをどうしようかと考える。言葉は浮かんでくるが、それをどうするべきなのかはわからない様子だ。
「それと、俺とのどかちゃんは同い年なんだし、さんづけはなしにしてくれないか?」
「ふぇ?」
「本当のことだよ、のどか嬢」
「えぇええええええええええ!!!!!?」
――まぁ、戸籍上の話だが
「それにもしかしたら同じクラスになるかもしれない。中等部にいくんだろ?」
「は、はいぃ!」
「落ち着け」
さすがに外見が子持ちの若奥様だと――そうは見えないとはいえ――この反応も仕方がないのかと苦笑しつつ、驚きが収まって羞恥心で赤く染まりだしたのどかの頬をわざと無視し、泉は言葉を続ける。
「ダメか?」
「で、でもっ」
「嫌なら、」
「嫌じゃないですっ!」
「お、おぉ」
騒がしい二人を前に、一気に空気と化したマスターは隅っこで不貞腐れていた。
***
「私は、私は背景になる! さらばだ迷探偵! せいぜい私ののどか嬢を調教していろ! く、悔しくなんかないんだからね!?」と俺たちにケーキを三皿押しつけて、雫さんは去って行った。この妙に気まずい雰囲気の中に俺たちを置いていくとはそれでも喫茶店のマスターだろうか。
「い、泉は、いつから、働いてるの?」
「……昨日からだ。丁度、のどかが一人目の客だったんだ」
「そ、そうだったんだ」
「そういえば、金太郎さんとは知り合いなんだろ? 前からあそこに通ってたのか?」
「え?」
「ん?」
違うのだろうか。
「わ、私、店長さんに話しかけられなくて、だから本を買えなくて、その」
「……たぶん、雫さんから話を聞いていたんだろうな。よくここにも来るみたいだし、そのときにのどかを見たのかもしれない」
金太郎さんは強面、というほどではないが愛想を振りまいたり出来るタイプではないし、読書中は話しかけるのを躊躇うほどに集中するそうだから、のどかにはハードルが高いだろう。今朝の金太郎さんの様子からすれば、のどかに対して悪感情を抱いているとは到底思えなかったので少し、金太郎さんが可哀そうな気もする。話しかけて欲しかったのかもしれない。
「あれ? ならなんで俺は」
「い、泉さっ……泉は女の人だったから」
「……男性恐怖症?」
「そ、そんな感じかな」
俺も愛想がいいとはいえないタイプだし、実際、男みたいなものなのだが。
「今さらだけど、大丈夫か? この通り俺は女らしいとはいえないし、無理をしているのなら」
「泉が女らしくない、なんて、ことはないと思う」
「…………」
これは喜べばいいのだろうか。
「そ、そういえば、さっき、雫さんが泉のこと、探偵だって、言ってたけど?」
「あ、あぁ~と……まぁ、な。金太郎さんが問題を提供して、それを俺が解いた。偶然な」
そういえば偶然に頼るのは反則だったような……今更か。
「それで、探偵? ど、どんな問題だったのっ?」
「うっ」
のどかはミステリが好きなのか、やけに目を輝かせている。何だろう、この罪悪感は。
「その、のどかがどこにいるのか……一つのヒントを手掛かりに探すという趣旨の勝負だったんだけど」
「うんっ」
言えない。ヒントがシラうぐぅタキだったなんて言えない。
***
受話器を耳に押し付けて、空いた方の耳で二人の会話を聞きながら、雫は律義に父の声に答えていた。勝負に負けた父をフルボッコにしていたともいう。
「ご褒美にケーキとコーヒーをタダにしてあげたよ。もちろん父の財布から出るんだがね代金は」
「お、おい!」
――そういえば、金太郎さんとは知り合いなんだろ? 前からあそこに通ってたんだ?
――わ、私、店長さんに話しかけられなくて、だから本を買えなくて、その
「まぁそれはいい。それより泉君にのどか嬢のことを知り合いだといったようだね?」
「そ、それがなんだ!」
「店長が怖くて話しかけられなかったそうだ」
「う、うぉおおおおお!」
「母にはもうこのことは伝えておいたから、帰ってくる前に店は閉めておいた方がいい」
「ぐぉおおおおおおおお!」
「うるさい黙れ」
そう言って、無情にも雫は電話を切った。
***
いや、言い繕うのはやめよう。素直に白状すればそれで済む。もしかしたらクスッと笑ってくれるかもしれない。そうすれば店長さんって、面白い人なんだね……と金太郎さんの印象も少しは上向く、だろうか?
「そこの二人。盛り上がっているところ申し訳ないがそろそろ時間だ。のどか嬢は早めに寮に戻った方がいい。呼びつけておいてなんだが……あぁ、泉君。のどか嬢を送っていってやってくれ。その後は今日はそのまま家に帰りなさい」
「わかりました」
唐突にかけられた声に、俺は思わず安堵した。物欲しそうな目で見つめてくるのどかを気にしないようにしながらなんとか立ち上がる。
「あ、ありがとうございました」
「ではまた来週」
「また来るよ。今日はありがとう」
「あぁまたな。友だちいなさそうな俺っ娘年齢詐称」
「ほっといてくれ」
俺はわたわたし始めたのどかの手をつかんで、小さく礼をして外に向かった。今回は忘れ物がないかどうか、きちんと確認している。傘はもうなくなっていない。
のどかと手をつないだまま、外に出た。17時15分。夕方というより、もう夜だった。