戸籍、保険証などの身分証明書一式を抱えて、新田は帰り道を歩いていた。
まるで事前に用意していたとしか思えないスピードで、学園長は滞りなく彼女の書類を用意し、入学の便宜まで図ってくれた。つまりこれで形式上、彼女、新田泉は彼の娘となったわけだ。
――あの女性が「娘」、か
今の彼女自身がそうではないとはいえ、その身体は夫を持ち、子をなしたものと変わりはない。非常に若く見えるといっても、彼女は10代前半とは思えない外見だった。
この先うまくやっていけるのかと、新田が不安になるのは当然である。
妻がなぜあのように確信を抱いて行動できるのか、彼には全く訳が分からないでいる。
***
「かなえ、お前は不安じゃないのか?」
泉が先に寝室へ行き、二人きりになったところで、新田は妻に尋ねた。
「泉ちゃんの母親が、できるかどうか?」
「そうだ」
彼女はその太い眉に人差し指を当て、何かを否定するように首を振った。
「私はそれより、あの子をこのまま放りだしてしまうことの方が、不安なの。だってあなたが用意してくれるまで、あの子はこの世界に、私たち以外に何の足がかりも持っていなかったのよ? あのまま外に出て、あの子が真っ当に生きていけるわけがないわ」
「そうかも、しれないな」
彼女は一度席を立って、飲みかけのワイン瓶と二つのグラスを手に戻ってきた。
「それに、話しをしてみて思ったのだけど」
酒を飲みながら彼女が言うのを、新田は黙って聞いている。
「あの子は、まだ子供なのよ。自分が女なのか、男なのか、誰なのか、どこにいるべきなのか、どこへいくべきなのか、そんな風なこと全部、何も分からずにいるのよ。放っておくなんて、できないわ……それにあの子、綺麗じゃない? 私、あんなお姫様みたいな娘が欲しかったのよね」
「香夏子が怒るぞ」
「うん……私は、ただ寂しいだけなのかもしれない。香夏子がいなくなって、やっぱり寂しくて……そんなときに、あんなに手のかかりそうな子が来てくれて……手を伸ばさずには、いられないだけなのかもしれない……でも、私は、自分勝手な女だから……同情だってするし、利用だってするのよ」
「そうだな」
「そーこーは、否定しなさいよー」
そこで会話は途絶えた。新田は酒を飲まずに、ただワインを飲み続ける彼女の息遣いに耳を澄ましている。
そして彼は考え始める。娘とは何だろうと。
――彼には一人、娘がいる。率直に言って、彼との仲はそれほどでもない娘が
母に似て美しく、父に似て視力の弱い香夏子という女性。
彼にとって彼女は産まれてきた瞬間から娘であり、そこに疑問の余地はない。しかし香夏子にとっての父が生まれたのはいつ頃からだったのだろう――生まれ落ちてきた赤子が家族関係を理解することなど不可能なのだ――そう思うと新田には娘というものが何だかよくわからないもののように思えてくる。
彼は一度整理してみた。娘とは、父が娘と思い、その娘が父を父だと思うような女性である。彼はそのように定義した。
ならば現状、新田春夫と新田泉は親子ではないことになる。彼自身、彼女を娘だと思うことには自信がない時点で。
ふと彼が正気に戻ると、いつのまにか机に寝そべって妻が眠っている。ひとまず思考をうっちゃって、彼は彼女を抱いて、二階の寝室へと上がっていく。
眠る泉を起こさぬように、彼は慎重に妻を横たえた。
一人、彼は酒を飲みながら思い続ける。
彼は思い出す。娘が花壇に火をつけてしまった時のことを。
夏からどこかに隠していたのだろう、夜、一人で彼女は100円ライターを用い、花火をした。
幸い大事にはならなかったが、花壇は全滅。
そのときに激怒した自分を、新田は覚えている。その怒りは、妻が大事にしていた花壇のためだったろうか。「違う」と彼は口に出して否定する。
「違う。許せなかったんだ」
――許せなかった? 一体、何を?
やはり、考えても分からないなと、新田は首を振る。
同時に明日、泉と話をしてみようと彼は決心した。
***
珍しくまだ起きてこない妻の代わりに、新田はコーヒーを入れていた。
トーストが焼きあがるまで、あと30秒ほどである。
「おはようございます」
「おはよう」
彼が振り向くと、泉は所在無げに立ちつくしていた。
そんな沈黙する二人を動かそうとするようにオーブンのタイマーが鳴り響く。新田は素早く蓋を開け、二枚の皿へそれぞれトーストを並べた。
「コーヒーを入れておいてくれないか」
「わかりました」
静かに、朝食の場が整っていく。
香ばしい匂いに腹を鳴らしながら、新田はジャム瓶とマーガリンを冷蔵庫から取り出す。そして席に着こうとして、座らずに待っている彼女を見て、何かを言おうとして……とりあえず座りこんだ。
「……待たなくてもいい。座りなさい」
「ありがとうございます」
なぜこんなに不機嫌な声を出したのかと、彼は心内で首を傾げる。
「…………」
どうやって口火を切ろうかと考えながらジャムを塗りたくっている彼へ、先に泉が声をかけた。
「俺が出て行くと言ったら、どうしますか?」
本当は出て行きたいのだと、その言葉で彼は悟った。
「止めてから、事情を聞くだろうな」
そのせいか、益々彼の声は不機嫌に低くなる。
「なぜ……なぜ、こんなによくしてくれるんです。俺は、」
「娘だからだ」
「お言葉ですが、そんなことは、戸籍上のことに過ぎません」
あぁ、そうかと、新田は納得した。
許せないのだ。妻が愛している者、愛そうとする者が、危険な目に会うのが。そのせいで彼女が悲しむのが、許せないのだ。
「許せないのだよ」
「えっ」
「いや……妻は、君を愛そうとしている……精神が不安定で、身寄りもない君はひどく手のかかる子ども同然だ。妻は、香夏子が、娘が去って行った寂しさを君で埋めようとしているんだ。無論、それだけでもないがね」
バカなことを言っているなと、新田は熱くなった頭の中でぽつりと呟いた。
「大体、君はここから出て行ってどうするつもりなのかね?」
「それは……」
「傷つくだけだ。そんなことをしても」
「ですが。俺はあなたたちに何も返せない」
いい子なのだな、と新田は思う。出て行こうとするのも、自分たちに迷惑をかけないよう考えてのことなのだろうと。
「返す必要はない。その代わり、私たちが泉を愛することを許して欲しい。できれば、妻のことを、母と呼んでやって欲しい」
「そんなことっ」
「まぁ、許して貰わなくても、私たちはそうするのだがね」
苦しそうに、泉が口をつぐんだ。
「食べなさい」
「……はい」
彼女がもそもそと何もつけずにトーストを食べ始めるのを見て、彼はタメ息をついた。
「泉」
「なんでしょう?」
「なにか、つけたらどうかね」
「は、はい」
ジャム瓶に手を伸ばす彼女に、先は長そうだと再びタメ息をつきながら、彼がまだ起きてこない妻の心配を始めた矢先、「おはよう」という明るい声が食卓に響いた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日も綺麗ね泉ちゃん」
抱きついて酒臭い息を吐きかける彼女に、泉は意を決するように新田に向かって頷き、言い放った。
「ありがとうございます、母さん」
わざとらしいその返事に、彼の妻は感極まったように震えている。
最初はそれでいいのだと、彼は思う。それを重ねて行けば、いつかは重みを増していき、本物と変わらない響きを持つようになるだろうと。
「も、もう一回! もう一回言って!?」