アヴァロンの落とし子   作:ktomato

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閑話 遊びに行こう(上)

***4月17日(火)***

 

 立ち止まらず、今日はいい天気だなと彼女は窓の外を仰ぎ見た。太陽を横切る小さな雲の白さにさえ薄く、青が滲んでいる。庇をつくるように手を掲げて、彼女は目を細めた。

 

 振り向いて、廊下の向こう。軽やかな音、やってくる吸血鬼の影を見据えて、目を合わさず。泉は軽く会釈するだけでやり過ごした。

 エヴァンジェリンは立ち止まってその背中が遠ざかるのを見ていた。そのことに、泉も気が付いていたろう。エヴァは軽く眼を閉じて、下を向いた。夕暮れ時。金糸の髪がキラキラと淡く輝いている。徐々に、靴音が小さくなっていく。けれど結局エヴァンジェリンも、何も口にしなかった。

 

 ノックを一つ。老人の声がして彼女はドアノブをひねる。

 

「失礼します」

「座りなさい」

 

 重たいカーテンのせいで薄暗い室内を、蛍光灯の貧弱な明かりだけが照らしている。声のした方を向いて、彼女は頭を下げた。

 彼女が来る時間をわかっていたみたいに、学園長はもう湯気立つ茶飲みに口をつけていた。泉は頷いて帽子を取り去って腰を下ろし、膝に手を揃えた。赤い髪が落ちかかる。ジーンズに使い古した革のジャケット。普段の彼女の印象からは程遠いボーイッシュな出で立ちは奇妙に、その長い髪に覆われた彼女の脆い鋭さを一層深めている。

 

 少女の事務的な笑みに、老人はにこりともしない。

 

「頼みが、あるとかいっておったの」

「はい」

「言ってみなさい」

 

 湯呑を置いて、近衛はゆっくりと背筋を正した。彼女はとくに躊躇うこともなく口を開く。

 

「俺を、魔法世界へ送ってもらえないでしょうか。出来るなら留学という形で、誰の手にも届かぬ場所へ」

「朝倉君のことなら、お主の責任ではない」

「いいえ。これは俺の責任です」

「そうだとして、お主はどうしようというのじゃ」

 

 こたえず。微笑を絶やさない泉に、近右衛門は首を振る。彼女は口端を微かに歪めることもせずに、あっさりと頭を下げた。

 

「お願いします」

「泉君。君は覚えておるかね」

 

 視線を上向けてドアの向こうを見つめ、老人は声を低めた。真面目に取り合おうとしていないのが分かったのか取り繕った笑みを払い捨てた彼女に、困ったように彼が顎鬚をさする。

 

「何の罪もない生徒を、ワシは学園最強の魔法使いを用いて傷つけた。ワシは重い罪を負ったわけじゃ」

 

 老人が新田泉を見据えた。表情を乱すこともできず、彼女はあっさりとその言葉を引き出そうと口を開く。

 

「ですが、それは」

 

 手を大きく開いて押し出して、彼は視界の中の彼女を覆い隠した。何故だかそれ以上進んではいけないような気がして、泉は少しの間、躊躇ってしまった。

 

「フォフォ。生徒を守るのはワシらの仕事じゃ。お主のものではない。それがおぬし自身であってすら。そしてその責任は、決してお主のものではない」

 

 疲れたように息をついて、彼はソファに身を沈める。気の抜けた音がして、老人が深々と頭を下げた。泉は彼の目元を見つめた。深い皺が歪められて一層老いを濃くしたそれを。死は、どこにでも漂っている。彼女は軽く目を閉じてそれを振り払おうとする。泉の底で、かすかに折れた鶴嘴の音が響いている。

 

「決して、決してじゃ」

 

 

 

 

「馬鹿が」

 

 

 

***4月20日(金)***

 

 

「さぁ、今日はピアノ、弾いてみよっか」

 

 そういってメトードローズを振り回す女教師に元気よく、クラスの皆が答えた。うんざりしたように息をつく千雨はふと、珍しく返事をしなかった泉をみやった。彼女の眼はグランドピアノに釘付けになったまま微動だにしていない。見た目通り、こういうことも嗜むのかねと千雨は愚にもつかないことを心内で弄びながら、プリントの楽譜に目を落とす。

 

「はい! じゃあ、弾きたい人!」

 

 

 

 

「先生」

「あん?」

 

 昼休憩となり、誰も彼もが出ていく中油断していたのだろう。女教師は蓮っ葉な口調で問いに答えた。しまったといったように教材をぎゅっと抱いて、彼女は端正な顔を軋ませる。

 

「もう少し、弾いてみても?」

 

 しかしそれに気が付いた風もなく女生徒は遠慮がちに言葉を続けた。

 

「勿論!」

 

 思わず大声で頷いて、彼女は勢いよく女生徒の肩を数度叩いた。嫌な顔もせずに泉は礼儀正しく、頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

「構わないよ」

 

 笑顔の泉にこいつ、こんな顔もするんだなと意外そうに口をすぼめてから、人のこと言えた義理じゃないかと教師は苦く笑った。

 

「はい、鍵。終わったら職員室まで返しに来な」

「はい」

「教材は好きなのを使えばいい。じゃ、後でな泉ちゃん」

 

 教室を出て、彼女は廊下の壁に体を預けた。拙いメロディーが聞こえてくる。先週までろくに音符も読めなかった生徒にしては悪くない。誰かに教えてもらったわけでもないのだろうに、彼女はそのメロディーをなぞることができている。

 

「楽しそうに、弾くなぁ」

 

 煙草でも吸いたい気分になって、こりゃだめだと彼女は立って踵を返した。当分新田泉に付き合わないといけないのだろうなという確信に彼女が溜息をつく気になれなかったのはなぜだったろう。小さく、邪魔をしないように口笛を吹きながら彼女は足早にその場を去った。

 

 

***5月1日(火)***

 

 

 自然、息が上がるのを泉は止めることができなかった。

 朝焼けもまだ空を覆わない真っ暗闇。最初と比べれば大分慣れてきたこともあって足を滑らせて刹那に助けてもらうなんてことはない。そよぐ風の低い音が木々の高さと密度を伝えている。舗装されず、ならされてもいない急な山道。彼女には、それがいつまでも続いているように見えていた。

 

「大丈夫ですか、泉」

「あぁ」

 

 振り返らずに問う刹那に泉がしっかりと頷いて見せる。

 すでに膝小僧は泥だらけだし、そこには血が滲んでいるが傷はもうない。泉は帰ったらジャージを幾らか増やそうと決意して、彼女の背を追う。

 

 登っていくにつれて彼女の息は絶え絶えになっていった。慣れぬ山道はそれだけで鍛錬になる。刹那もそれを見越してのことだったから、それについては何も言わなかった。手助けもしなかった。ただ前を向いて、自身には別の方法で負荷をかけながら、ついてくるのを待っていた。

 

 

**

 

 

 チャイムが鳴って、席を立つ泉を千雨は胡乱げに眺めた。弁当箱を持って彼女は駆けるようにどこかへ向かっていく。

 

「気になる?」

「そりゃあな」

 

 話しかけてくる朝倉を見上げることもせず、彼女は渋々首肯した。相手がにやついているのが雰囲気で分かって彼女は益々不機嫌になる。

 

「音楽室でピアノ弾いてるんだってさ」

「あぁ、そういや」

「そういや?」

「楽しそうに弾いてたもんな、あいつ。下手なりに」

「うん。ちょっと意外だったけどさ」

 

 その言葉とともに千雨の机に弁当箱を置いて、朝倉は持ってきた椅子に座り込んだ。

 

「そうだな。ガキの頃からやってそうなナリしてるし」

「だよね。まぁ「俺」なんて言ってるから、意外でもないのかな」

「似合わないよなぁ。ほんと。「私」じゃだめなのかよ」

「泉に言ってよ。私もそう思うけど」

「変なとこで頑固だからなぁ、あいつ」

「千雨ちゃんが言ったらすんなり変えちゃいそうだけどね」

「なんだよ」

「なんでも?」

 

 弁当箱を開いて、二人は手を合わせた。

 

「けどさ、あいつ最近妙に疲れてるよな」

「というか寝てないんじゃない?」

「あぁー」

「朝というか深夜にどこかへ行ってるし、ピアノやるのが楽しいのか夜中まで教材読んで音、でないように机叩いてるし。そのくせ授業の復習もきちんとやって、テストの対策までしてる」

 

 なぜそこまで知っているのかという問いを、千雨はすんでのところで押し留めた。

 

「……外面がいいというか、鉄面皮というか。体力ありすぎだろあいつ」

「そうでもなかったと思うんだけどねぇ。シャトルランやったとき、千雨ちゃんとどっこいどっこいだったでしょ?」

「そうだったか?」

「覚えてないの?」

「死にそうだったからな」

 

 照り焼きをつまんではしたなく、千雨が朝倉に振り向ける。それに気が付かないふりをして彼女は黙々と咀嚼を続けた。ため息をついて、千雨も照り焼きを口に含んだ。

 

「気に入らないんだろ?」

「そんなこと、ないけどさ」

 

 表情もなく、目もあわさず、珍しく――いや、もうそうでもないかと首を振って分かりやすい様子をした朝倉に、千雨も遠慮なく顔をしかめてみせる。全くもってため息をつく気にもならないと咀嚼を続け、しばらくして千雨は箸をおいた。

 

「なら、そういうことにしといてやるよ」

 

 この程度の気休めに明るい顔をして見せる朝倉を見て、千雨は内心息をついた。

 

 

**

 

 

 呆れたようにため息をついて、いやいや関心すべきところだろうと彼女がこめかみを揉み解す。

 

「先生、次はどのようなものを弾けばいいのでしょう?」

「あぁ、うん」

 

 教室の本棚にはそれなりに充実した教本が備え付けられているのだ。ここは学校だし、しかも麻帆良学園はそれなり以上にいい学校だ。学ぼうとする人間には優しくその懐の深さを見せつけてくれる。メトロノームにデコピンを食らわせて、彼女は唸り声を上げた。彼女からすれば一週間で一冊もやれば上等どころか拍手喝采してもいいくらいのものが、ここには何冊も据えつけられていた。だというのにこの少女は独力でそのすべてを一月足らずのうちに消化してしまっている。仕上がりも上々だ。ケチのつけようはあるが、今の段階ではそれほど意味がない。

 

「新田、いや泉君。これからは君に楽譜を上げよう。だから、それを弾きなさい」

「はい。ありがとうございます」

「あぁー。普段はどういう風に練習してるのかな?」

「教本をみて、机をたたいて、足でリズムをとって、です」

「うん、そりゃ、何より」

 

 簡素な練習法を恥じるように声を小さくする彼女に待つよう言って、女教師はそそくさと奥の備品室へ引っ込んでいった。早足で駆けるようにそこへ逃げ込んで彼女は埃をかぶったキーボードを見つけ出す。年期は入っているが悪くない音を出す電子ピアノ。貸し出し用の書類に型番を書きつけて、思い出したように机の下から備え付けのヘッドフォンとキーボードケースを引っ張り出して小脇に抱え、彼女はえっちらおっちら泉のほうへ戻っていく。

 

「おーい、泉君」

 

 

 

 

 早速、彼女はそのキーボードを抱いて寮へ戻った。彼女の脳裏では始業ベルも鳴り響くのをやめてしまっていた。今が昼休みであることもおそらく記憶の彼方だろう。男の呆れ顔が掠めすぎても、彼女は気がつきもしなかった。

 

 壊れてしまわないよう慎重に、彼女はそれを机に置いてコンセントを差し込み、素早くヘッドフォンのプラグを差し入れた。

 

「あ、あれ?」

 

 しかし、鍵盤を押しても音が出ない。焦ったように周りを見渡して、彼女は今千雨がここにいないことぐらいわかっているのに、彼女のベッドを見て俯いて、深くため息をついた。網戸にカメムシがぶつかる音がして、外から甲高い鳥の声が響いて消えて、秒針の音が速やかに部屋を満たしていった。そして唐突に泉が顔を上げ、その勢いで振り乱された髪が小さくない音を立てる。

 

「士郎」

 

――なんだね?

 

「音が出ないんだ。どうしたらいいと思う?」

 

 顎に手をやってにやりと笑って見せる衛宮士郎に、泉はもう安堵したように息をついていた。

 

――ふむ。専用の端子が必要だな。コンバーターとでもいおうか。イメージを送る。そう値の張るものでもないから、電気屋へ行って買ってきなさい。

 

「ありがとう」

 

――フッ。どういたしまして。

――しかし、泉。

 

「うん?」

 

 早速財布を持って駆け出していこうとする彼女に、彼は控えめに常識的な指摘をなした。

 

――授業はいいのか?

 

 一瞬固まってから泉は答えを返さず頷いて、即座に席を立ち、走り出した。

 

 

 

***5月5日(土)***

 

 

 

 デニムのワンピースの上に薄いカーディガンを羽織り、彼女は鏡の前に立った。寝ぐせはないし、目にクマもない。「よし」と小さく呟いて視線を切り、眠っている二人の方を窺い起さなかったかどうかを確かめる。

 

「いってきます」

 

 

 電車から降りて、彼女は曇り空を眺めた。寝不足のせいか灰色がくすんで、夜の前みたいに見えた。傘を握りしめて今日は雨が降らないかなと、彼女は緩慢な動きしかみせない雲を見送った。

 

 古本屋に着くころにはもう大雨だった。ゆっくりとした足取りで軒下へ身を隠して、彼女は名残惜しげに傘を畳んだ。

 バッグと傘を小脇に抱え、彼女は鍵を手にシャッターへ向き直った。鍵を差し入れ、回して開けて。彼女は取っ手に手をかける。そしていつも通り思い切り力を入れようとしたのだが、何故だか上手く力が入らなかった。それでもなんとか力をこめようとした。けれど指先が滑り、その勢いに後ろ足を踏ん張ったところで彼女の身体は完全に弛緩し、よろよろとシャッターを支えにしながら前のめりにずれ落ちた。その拍子に罅割れた爪の痛みよりも、傘を傷つけてしまわなかったかどうかが気になって、彼女は思わず傘に縋り付いた。

 

 立ち上がらなければ。ひどい音を立ててしまった。そう思考しながらも彼女は数分間身を起こすことが出来なかった。

 

――泉、君は

 

「言わなくて、いい。分かってる」

 

――……そうか。

 

 

 

 

 体の心配をしてくる池波夫妻に礼を言いつつ振り切って、彼女はシャッター前に横付けにされた車へ乗り込んだ。運転席に座した父が金太郎に会釈する。母もそれに倣い、姉は軽く手を振るだけで済ませた。

 

「久しぶり、泉ちゃん」

「そうでもないよ、母さん」

 

 車が動き出す。景色が緩やかに流れ始めた。雨は止んでいる。うすぼんやりと夕暮れの中へ月が顔をのぞかせていた。もうすぐに、夜だ。

 彼女は少し痩せたように見える母に笑いかけた。満面の笑みでそれに答えて、助手席から身を乗り出そうとする彼女を冷たい声が制止をかける。

 

「むしろそれは、私のほうだと思うのだけれど」

「そうですね。お久しぶりです」

「……あぁ、そうだったか」

「えぇ」

 

 父がそれ以上何かを言う前に、母が明るく話題を切り出す。春夫もそんな彼女をみた後に口を開くことはなかった。

 

「今日は、何が食べたい? 香夏子、泉ちゃん」

「あなたは?」

「俺は、そうですね。シチューが、食べたいです」

 

 母は声を出さず、しばし黙り込んだ二人の鏡像を見上げていた。正確には顔をしかめて泉から目をそらした、香夏子の横顔を。

 彼女らのうちに、髪を短く切りそろえていること以外の共通点を見いだすことはとても困難なことだった。黒と赤。細く引き締まっているというよりは肉付きの悪い身体。フォーマルな紺のスーツを着て、冷え性予防の黒タイツを履いた見慣れた姿。対して細身な上に豊満、理想的に過ぎる肢体。母からすれば香夏子は冷たい感じのする美人で、泉は雑誌とか映画でも滅多にみかけないレベルの美人だった。

 

「そう」

 

 長くなりそうな間を嫌ったのか。言い出せない躊躇いの裏に照れがあるだけのことで、大した重みのある沈黙ではないことを察したのか、新田春夫はステレオのスイッチを入れ、ボリュームを上げる。そして昔のヒットソングの影に隠れるようにして、香夏子がぽつりと、窓に向かって呟いた。

 

「気が合うわね」

 

 

 夕ご飯ができるまで上にでもいっておいてと言われ、二人は自分の部屋に上がった。香夏子は泉がまさか自分についてくるとは思わず何度か振り返り、父母も意外そうにそれを見つめていたのだが、泉はそのどちらにも応えることなく歩を進めた。

 

「あぁ、そういえば。今は、ここはあなたの部屋だったわね」

「はい。使わせて、貰っています」

 

 壁に接したベッドへ腰掛けて、香夏子は本棚を眺めた。何冊か見知らぬタイトルが混じっている。けれど変わったところはそれぐらいのものだ。義妹が持ってきたのだろう――いつのまに、どうやって?――黒いキーボードケースから目をそらして、彼女は胡乱げに椅子へ座る泉を見つめた。

 

「今日は、泊まっていくの?」

「はい」

「寮って、外泊出来たのね」

「そういえば、他の子がそういうことをやっているのを、見たことはありません」

「そういえば、結構融通きく方だったわね、あそこは」

 

 ベッドに身を投げ出して、彼女は天井を見上げた。

 

「それで、何か悩み事?」

「どうして、そう思うのですか?」

 

 のろのろと身を起して、彼女は壁に背中を預け、足を延ばした。さらに離れた距離のために彼女は少しばかり声を張り上げる。

 

「あなたが一週間に一度、こんな風に父と母に会うことをどんなに楽しみにしているか、案外、私、知ってるのよ」

「そう、なんですか」

「あなたが思うほど、私は泉に興味がないわけじゃないわ」

 

 首を振って、語調が強くなる自分を戒めるように彼女は数瞬口を閉ざした。

 

「出会いが、あんなだったから、ね」

 

 明るすぎる照明に目を眇めて、泉はわずかに背もたれから身を起こした。窓の向こうからはまだ淡い夕陽が差し込んでいる。古い本の匂いがしていた。この部屋は元々父の書斎だったのだと以前、母から聞かされたことを泉は思い出す。

 

 打ち明けられないことが出来てしまったのだ。泉はそのことを口に出さず、ただ再確認する。彼女の過去を知っていた父と母は、もういない。変わらずにここにいてくれる姉の方が、今の彼女には気安かっただけなのだ。

 

――いいのかね

――よくない。けど、

 

「臆病ね、あなたは」

 

 心の動きを鷲掴みにされた感覚を覚えて、泉は無意識に拳を握りこんだ。それを目の端で捉えながら、香夏子は気だるげに手招きをする。

 

「ごめんなさい」

「いいのよ。私も、人のことはいえないもの」

 

 姉の誘いに応じて、彼女は立ち上がる。そしてベッドに上がり、彼女は姉の隣に座り込んだ。

 

「学校は、どう」

「楽しいです」

「そう。ピアノ、好きなの?」

 

 取り留めもない会話を続けているうちにふと、声が途切れた。香夏子は肩に降りかかってきた軽い重みに思わず中腰になった自分に、自嘲の息をついた。眠っている泉を起こさぬよう、彼女は慎重に体を離す。そうして義妹を横たえてタオルケットをかけてやってから、香夏子は背を向け、ベッドサイドに腰かけた。中空を凝視しながら彼女は何かを確かめるように、その囁きを漏らした。

 

「ねぇ、泉。私の妹」

 

 

 

***5月6日(日)***

 

 

 

 母から貰ったレシピを頭に叩き込んで泉は、早速二人にそのシチューを披露することにした。だからだろう、いつも通りPCを弄っている千雨が時折こちらをみやるのを、彼女はシチューのせいだと誤認していた。

 

「できたぞー」

 

 その声に、二人はのそのそと立ち上がり、食器入れへと向かっていく。シチューのいい匂いにひどく空腹を刺激された千雨は頭の中が少し霞んできていて、何はともあれまず飯だと粛々と食卓を整えていった。

 

 丸いテーブルの中央には泉がどこからか貰ってきた花が活けられている。蛍光灯に晒されて妙な光沢を放つその花を取り囲むようにして三人は床に坐し、手を合わせた。

 熱々のシチューを口に運んでは飲み込みを繰り返して、人心地つくまでに彼女らは結構な時間を要した。

 

 

「今度、遊びに行こうぜ」

 

 

 そして息をついて唐突に、彼女はなんでもないことのようにそういった。

 二人はまじまじと千雨をみやり、口の中のシチューを嚥下してから口々に率直な反応を言葉にする。朝倉に至っては怪訝というよりは心配そうにして。

 

「どうしたの千雨ちゃん。大丈夫? 何かあったの?」

「長谷川さん?」

「お前らなぁ」

 

 「いくら私が引きこもりだっていっても誰かと遊びに行くぐらいたまには、本当にたまにはやる、やるかもしれないだろ」と抗弁になってもいない抗弁を述べ立て、彼女はぐりぐりと米神を人差し指で押さえつけた。

 

「いやでも、泉はバイトあるでしょ」

「それが、な」

「何かあったの?」

「あぁ、ちょっとな。今度から二週目と四週目だけ働くことになった。今月は、全休」

「なら、問題ないだろう」

 

 まずもってその「何か」からして問題だったが、今は千雨もそれには触れようとしなかった。大体、予想はついたからだ。朝倉にしても調べるまでもなく、知っていたことだ。だから少し不機嫌そうに肘をついて頬を支えるだけで彼女もひとまず、踏み入ることをせずにすませた。

 

「それと、新田、いや、泉。いい加減に名前で呼べ。私もお前のことは泉って呼ぶ。これからな」

「どうしたんだよ、長谷川さん。今日は、何か変だぞ」

「ほんとにどうしたの、千雨ちゃん」

 

 そんな二人の疑義に米神へ当てていた手を下して、全身を戦慄かせながら彼女はすっくと立ち上がった。

 

「うがぁああああ! うるさい! 柄にもないことやらせるなバカこのバカ!」

 

 思い切り地団太を踏みつけてもまだ怒りが収まらないのか、うろうろと冬眠前の熊みたいにそこら辺を回り始めた彼女を、しばし自失していた二人がようやく止めに入った。

 

「ち、千雨ちゃん落ち着いて!」

「お、おかわりはまだあるからさ、な!」

「違うわぁあああ!」

 


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