***4月7日(土)***
老人が机の上に本を置く。慎重に、ゆっくりと。
「これを、頼めるかな」
草臥れたグレーのスーツに真新しい色鮮やかなスカーフ。外された帽子の下の白髪はまだまだ豊富だが、異様に顔色が悪い。微笑に窪んだ頬はひどく削げていてそれは微笑になり損ねた何かのように映る。
頷き、彼女は最後のページに挟まった値札を素早く千切っていく。少し動きを止めて再度合計を確認し、彼女は老人に値段を告げる。
「参ったな」
財布の中身を眺めながら、彼は唸る。しとやかに無言を貫く彼女は机に積まれた大きな古書を一冊ずつ並べていく。老人はその一冊一冊に目を合わせながら、小さく唸り続ける。
「どうしたものか」
「お取り置きをなさっては、如何でしょうか」
「いいのかい」
「えぇ」
晴れやかな笑みを浮かべ、老人は一冊の小説を取り除ける。『モモ』という小説の初版本。それなりに状態のいい原書ではあるが、その他の古書に比べればずっと安いものである。
「孫に、ね」
「はい」
「今度、孫と来ることにするよ」
照れくさそうにする老人に、何故だか嬉しくなって彼女は口元に笑みが浮かぶのを抑えきれない。年甲斐もなくその笑顔に見惚れて、すぐ我に返った老人は声を上げて低く笑う。
「ありがとう。座っても?」
「どうぞ。お名前を伺っても?」
ダークブルーの丈の短いリゾートドレスと、黒いストッキング、黒いパンプス。長く、赤く、美しい髪。整いすぎた顔の造作、柔らかな赤い瞳、子供のような笑顔、熟れた肢体。「綾瀬泰造」と丁寧にメモ書きしていく彼女を老人は不思議そうに見つめる。これは少女なのか、女なのか。孫と同じほどの年のようにも思えるし、自身より遥かに上の年代にも、若い女性にも思える。
机の下の取り置き棚へ『モモ』を据え置き、彼女は古書をそれぞれ紙袋へ詰め、手提げ袋にまとめていく。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
立ち上がり、席まで商品を持ってきた彼女に老人は不躾な強い視線を向ける。彼女は気づかなかったふりをして、席へ戻る。その靴音の響きに老人は時計の針の音さえ忘れていた自分に思い至る。素晴らしい本、美しい店員。息をついて老人は呆れたように首を振る。
沈黙が漂う。居心地の悪そうな老人に気を使って、彼女は当たり障りのない質問を投げかける。
「小父様は、哲学を?」
「あぁ。ここにも私の本が何冊かある程度には、偉い研究者だったよ、私は。だけれど遠慮は不要だ。私には飾り気のない君の方が心地いい」
「恐縮です」
「連れないねぇ」
存外愛想のない彼女の様子に、老人は益々上機嫌に笑い始める。
「だけど、私は夢を叶えることは出来なかったのさ」
少し目を細めるだけで何も言わない店員に微笑んで老人はコーヒーを催促する。それを受けて、彼女はゆっくり奥へと引っ込んだ。
美味しそうにコーヒーを啜り、彼女の手作りクッキーを齧りながら、老人は訥々と話し始める。
「孫は私のことを偉大な哲学者だという――賭けてもいいが、私の孫は世界で一番可愛らしい少女だ。絶対に間違いなく――確かに私は成果を上げることは出来た。それは私の誇りだ。生涯を学究に捧げ、ある一部門において、その小さな世界を能う限り掘り下げていった。私は幸運にも、誰より深くそれを掘り進めることが出来た」
「だが、それだけだ。そしてそれはもっと奥へと進んでいくべきものなのだ」
息を吐いて、何かを悔いるように老人は呟く。
「孫は、私はすごいのだと言ってくれる。この上なく本当に嬉しい言葉だ。だけど、なぁ。私は、もっと偉くなりたかったのだよ。もっと、すごいことが出来ると、思っていたのだよ」
何といっていいのかわからなくて、店員はじっと彼の話に耳を傾ける。
「私は体系を打ち立てることが出来なかった。世界を、「私」の認識を徹底的に追及し続ける、そのようなことが、出来なかった。そんなことをしても私はありきたりな結論、先人たちが作り上げたもの以上のそれに、達することが出来なかった。私は、私の世界さえ、つくり上げることが出来なかった。私はどこまでいっても、単なる穴掘りに過ぎなかった。そしてもうこの鶴嘴も折れかかっている。もう。もう、私は私の仕事を続けることさえ」
中空を見つめ、沈黙する老人は失われてしまったものを思っている。泉は同じ方を見ることもせず、老人に端的な要約を告げる。
「つまりあなたは偉大な研究者であっても、哲学の巨人ではありえなかった」
「その通り。どうにも、年寄りは話が長くなっていけない」
「いいえ、小父様」
コーヒーのお替りを注ぎながら、彼女はそうきっぱりと否定する。あなたの話は下らない長話などではないのだと。
「ありがとう、あぁ、」
「新田、泉です」
「君のような見知らぬ美人にしか、こんなことは話せないものだから」
「きっと、お孫さんは真正面から受け止めてくださいます」
「バカみたいな話だが、格好をつけていたいのさ」
戸惑ったように曖昧な笑みを浮かべる泉へ、老人は気障ったらしく帽子をかぶり、ウインクをする。
「そろそろ、失礼するよ」
***4月21日(土)***
掃除用具を直して、泉は椅子に引っ掛けていたグレーのジャケットを羽織った。
時計を見て開店時刻までまだ間があることを確認し、彼女は息を吐いた。そしてその音が思ったよりずっと大きく響いて、思わず彼女は後ろのガラス戸を見やる。今は暗く、そこで動くものは何もない――二人がいないと、ここはこんなにも寂しいところになってしまう。
肩にかかった赤い髪を払い、彼女はジャケットの袖をまくる。
素足にダークブラウンのパンプス、仄かに青いグレーを塗したティアードスカートに少しよれたシャツというラフな姿が、ここで過ごした彼女の時間の長さを、その分だけ開いた心を思わせる――とはいえこのコーデは暇を持て余した衛宮士郎によるものであるが――そして何をするでもなく、彼女は待ち続ける。いつもなら本を読んでいればすぐに過ぎていく時間が、今の彼女には幾分重たく感じられた。
「カラオケかぁ」
頬杖をついて、彼女は小さく呟いた。
**
「で、結局閑古鳥がカァーカァーかい?」
カウンター席に両手をついて足を延ばし、店主は客のコーヒーを眺めていた。もう湯気が消えかけていて彼女からすると如何にも死にそうなコーヒー。
「しょうがないだろう。わざわざ朝から古書を見に来る人はそんなにいない」
テーブル席で一人、泉は昼食を食べていた。
「君を見に来る人ならいるだろうけどね」
「嫌だなぁ」
手に取ったサンドイッチを見つめ、彼女は心底からそう漏らす。「いたんだ」という雫に彼女は仕方なく小さく頷き、首を振った。
「髪でも切ればどうだい?」
何故かカウンターの下から幾本もの鋏を取出し、店主は何がそんなに嬉しいのかにんまりと笑って見せる。髪をつまんで少し黙考する泉に冗談だと、店主は鋏を足元に戻した。
「HEROのマスター、格好良かっただろう。それでね」
「元々通販が好きだったクチだろう?」
「ち、違うし。そんなことないし」
「ほう」
「というかドラマなんて見るのか君」
「俺だって木石じゃあない。あれぐらい流行っていれば、いやでも目に付くさ」
「どうせ母君の録画を一緒になって見ただけだろうに」
「そうだが?」
「ちょっとは恥ずかしがろうよ。そういうお年頃でしょうよ君」
「そうかもな」
「他人事だね。おっと、ご到着」
ドアの鐘が鳴るのと同時、彼女はカウンターの向こうにひらりと飛び去り、二人のお客へ「いらっしゃい」を言う。小声で、いかにも今気づきましたといった風を装いつつ、サンドイッチとジュースの準備を始めながら。
軽く手を振ってすぐ近寄ってくるのどかが言う。
「遅かったかな?」
そんなことはないと首を振って、泉は二切れのサンドイッチを指差した。笑って対面の席について彼女は足元にバッグを下ろす。
そしてマイペースに歩を進め、店内の音楽に耳を澄ませては首をひねる綾瀬がようやっとテーブルに到着する。
「こんにちは、です」
「こんにちは」
のどかの隣へ座り、彼女は膝にバッグを据え置いた。
「あの、雫さんは」
「あぁ、奢ってくれるそうだ」
「いいのですか?」
「いいんじゃないか。大体、断っても持ってくるぞあの人は」
そう言われてちらりと雫の背中を眺めて、それきり興味を失ったのか綾瀬はバッグから本を取出し、読み始めた。
それを見て泉が困ったように微笑み、隣の席に置いたWill you please be quiet, please?を取り上げる。申し訳なさそうに目礼をして、のどかも足元から『美しき喪失』を取り出した。コーヒーを啜り、泉は意識を切り替える。
「へいお待ち」
意識が浮上し、泉は自分のサンドイッチが冷めてしまったことを一瞬、悔やんだ。
二人は本を閉じて雫に頭を下げた。そしてさっさと立ち去ろうとして、何かを言おうとしてどうしようかと悩む綾瀬に、雫は首を傾げる。綾瀬は観念して人差し指をスピーカーの方へ向けた。
「あぁ、これ? フラナガンのオーバーシーズだよ。知ってるのかな?」
「聴いたことがあるです。おじい様が、よく」
「ふぅむ、えぇと、何ちゃんだっけ」
「綾瀬です」
「あぁ、君が! こほん。ありがとう。私は池波雫。君のおじい様のことなら、多分知ってるよ」
「ご存知、なのですか」
「たまに寄ってくれるからね。それに私は本は駄目だけど、レコードの趣味が結構あうものだから」
「そうなのですか」
「そうなのです」
嬉しそうにわけもなく頷く綾瀬に背を向け、店主は奥へと引っ込んだ。
いつのまにかもそもそサンドイッチを咀嚼し始めた泉を見て、二人が言う。
「いただきます」
「いただきます」
**
ドアノブからランチタイムの札を取り外して、泉は鍵を開けた。二人を手招いて泉は今日のために持ち出してきた椅子へ綾瀬を座らせ、いつもの席にのどかをやった。
「ちょっと待っててくれ」
ガラス戸を開け、居間を横切り、キッチンで彼女は用意してあったクッキーとジュースを冷蔵庫から取り出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
「あ、ありがとです」
そうしてから席につくと、泉は先ほどの続きを読み始めた。まるで後は好きにしろとでも言わんばかりに。少しばかり取り残されたような気持ちになってジュースを啜っていた二人はすぐに思い直してクッキーを食べ、泉がわざわざ用意してくれたおしぼりで手を拭き、席を立った。のどかは二列目の文学の棚へ。綾瀬は一列目の哲学の棚へ。
目の端で二人を追いながら、泉はページを繰っていく。
――Mrs. Slater is a winner. No strings.
年季の入ったハードカバー、手に持つとふらつくほどの重さ。綾瀬はそのような哲学書を熱心に、席へ戻ることも忘れ、読み耽っている。
――I am here even to do your mattress, Mr.... You'll be surprised to see what can collect in a mattress over the months, over the years.
席に戻り、のどかはカバーのない赤い装丁の小説を読み始めた。泉の記憶が正しければそれはおそらく佐藤春夫の『蝗の大旅行』である。彼が書いた童話を集めた、ほんのり優しく残酷な短編集。
――Every day, every night of our lives, we're leaving little bits of ourselves, flakes of this and that, behind. Where do they go, these bits and pieces of ourselves?
そして時計の針が3時を指す頃、そろそろ泉が店を閉め、金太郎の元へ、古本市の寄合へ出かけようかという頃、綾瀬のポケットの中で、携帯が震えはじめる。
集中の度合いが深くに過ぎて、彼女は初め、その振動に気が付かない。けれどその執拗なまでの震えは彼女の注意を引かずにはおかない。内心で舌打ちを一つ、綾瀬は携帯を開いて「もしもし」を言う。
この空間をかき乱したくなかったのか、綾瀬は外へ出て会話をしようと歩を進めていく。けれど出口へたどり着くことはない。彼女は過ぎ行きていく車を呆然と見つめながら、電話の向こうの声に耳を傾ける。信じられなくて、彼女は強く首を振る。聞き返しても、やはり相手は同じ内容を告げる。
取り落とされた携帯の短い音。震え、蹲り、苦しげに呻く綾瀬に二人が駆け寄る。
のどかが彼女を抱き起そうとするのを見て、泉は携帯を拾い、先方に事情を尋ね始める。綾瀬の祖父が亡くなった。だから、そこへ迎えをやろうと思う。そのような言葉に、泉はすぐさま古本屋の住所を告げ、挨拶もそこそこに、会話を打ち切った。
縋りつくのどかにも気が付かない風に、静かに、激しく泣き始めた綾瀬を抱え上げ、泉は彼女を強く抱きしめる。床に座り込み、彼女の顔を胸に掻き抱いて、背中をさする。
「もうすぐ、迎えが来る」
抱いた頭に、泉はそう小さく囁きかける。綾瀬が、声を上げて泣き始めた。ぽつねんと立ち尽くすのどかに、泉は手招きする。そして綾瀬の背中をさすってやれとジェスチャーし、泣きそうな顔をしているのどかになんとか微笑んでみせた。
その小さな背中に、のどかはひどく悲しくなって、泣き出してしまう。背中をさすろうにも目が霞んで、手が震えて、どうしようもなくなってしまう。
そんな二人を思いながら、泉はあの老人のことを思い出す。彼女の腕の中で泣いている女の子のために、『モモ』を取り置いていた彼のことを。折れてしまった鶴嘴と、叶わなかった夢の話を。
泣き疲れて眠ってしまった綾瀬を背中に抱え、俯き続けるのどかの手を引いて、泉は外へ出た。雲一つない青空は、気持ちが悪くなるほどに澄んでいた。
**
残された二人は、一旦店に戻る。泉はのどかを席につかせると金太郎へ事情を伝え、今日は帰るという連絡を、寮にも綾瀬が帰ることが出来ないという話をテキパキと伝え済ませ、さっさと閉店の準備を進めていく。食器を片づけ、おばさんへのメモも書き終えた。そうして最後に、彼女は取り置き棚に手を伸ばす――「取り置きがあったろう。それは、出来りゃあお孫さんに渡しておいてくれねえか」――ガラス戸の向こうで自分が交わした会話を、彼女は本を掴み取りながら反芻する。
「いいんですか?」
「俺がそう言わなきゃあ、お前さん。ありもしねえ金かき集めて、買っていっちまうんだろう?」
「いえ、ですが」
「いいんだよ。全く、あの人が亡くなるなんてなぁ」
大きく息を吸って吐いて、彼女はまた泣いてしまいそうになる自分を叱咤する。
拳を握り、俯いたままの友人へ小走りに近づいて、泉は膝をつき、彼女の素顔を見上げた。血が、噛みしめられた口端の傷から滴り落ちている。ジャケットの裾を押し当て、彼女は焦ったように繰り返す。
「のどか。のどか?」
「うん」
「帰ろうか」
「うん」
手を握り、泉は戸を開いて鍵を閉め、シャッターを下ろし、鍵を閉めた。
元気のないのどかをこのまま帰らせていいのか。青空の下で泉はそればかり考えている。表通りへ出るまであと少しというところで、ふと彼女は雫の話を思い出す。逡巡もそこそこに泉は駅とは反対の方向へ歩き始めた。のどかは何も言わない。のどかはもう自分が今、どこをどう歩いているのかもわかっていないのだ。その指先の感触に安心感を抱き、それに身を委ねるばかりで。
「おうお帰り」
「ただいま」
ひとまずテーブル席にのどかを落ち着かせ、泉は一通り事情を雫に知らせる。表情を変えず、彼女はきついコーヒーを入れ始めた。
「鋏、貸してくれないか」
「構わないよ」
カウンターの下へ手を伸ばし、彼女は散髪用具一式を抱え、のどかの元へ歩み寄る。
「のどか、のどか」
「うん」
「髪を、切ってくれないか」
「えっ?」
「俺の、髪を、切ってくれないか?」
自失したままの彼女に理解させようと、泉は幾本もの鋏が差し込まれたホルダーから一本を抜き去り、躊躇いなく髪を切り取った。それを指でつかんでひらひらさせる真顔の泉を見て、のどかは慌てて、彼女が本気だということを、なんとか自分を元気づけようとして頓珍漢なことをやっているのだと、ようやっと理解する。
「で、でも、でも」
「頼む」
困惑のあまり口ごもるのどかを置いて、泉は場を整えていく。
「髪を切ってもいいか?」
「あぁ」
無理やり鋏やら剃刀やらをのどかに握らせ、古びた鏡と対面になるように椅子を一つ置き、泉はそこへ座ってマントのような覆いを被る。
「希望を言ってもいいかな美容師さん」
「う、うん!」
「じゃあ、ショートカットでお願いしようか」
けれど立ち尽くしたまま、のどかは鋏をじっと見つめるばかりで、その長い髪に触れることすら出来ずにいる。本当に切ってしまっていいのか、それに、やっぱり自分ではなくプロの人にやってもらった方がいいのではないか、そういった逡巡が見て取れるぐらい、前髪に隠れた表情はひどく揺れ動いていた。
「お嬢さん、コーヒーは如何?」
突然鼻先に現れたカップにびっくりして、のどかはひっくり返ってしまう。それを片手で器用に受けとめ、ついでとばかりにホルダーを足でトラップし、雫は得意げな笑みを浮かべた。
「し、雫さん」
「ほら、グイッと、グイッと」
「は、はい」
熱く、濃いコーヒーをつっかえつっかえ飲み干して、彼女は大きく息を吐いた。
「心配いらない。この俺っ子ならスポーツ刈りでも文句はいわないさ」
「いやそれは勘弁してほしいんだが」
「バリカンもあるよ?」
「のどか、可及的速やかにお願いする」
笑いながらホルダーを手渡され、のどかも無理やりな笑顔で答えた。
「うん。ま、任せておいて」
まず泉が無造作に切り取った部分を手に取り、その空白を起点に彼女はイメージする。短く赤い髪の、優しくて変にどこか抜けている女性の姿を。
「こう、だ。そう。腕の角度はそのままで、切っていけばいい」
手を添えてレクチャーする雫の言葉に一々頷いて、のどかは真剣にその赤を切り取っていく。
「泉、変だったら、言ってね」
「あぁ」
やることがなくなって暇になった雫はカウンターに腰かけて、しばらく二人を見つめている。けれど思い直し、ターンテーブルの傍に寄った。フラナガンは相変わらず、軽快にピアノを弾き続けている。スピーカーの前に座り込んで、彼女はそっと目を閉じた。
手を止めて、のどかは一歩引き下がり、鏡の中を見つめた。
「どう、かな?」
「すっきりした。ありがとう」
何故か嬉しそうにモップを持ち出し、床の髪を片づけていく雫をしり目に、彼女は鏡の中で思い切り首を振ってみせる。
「ふふっ。どういたしまして」
「わ、笑うことはないだろう」
「ごめん。おかしくって」
鏡から目を逸らすだけで、泉はその声が震えていることを指摘しなかった。
掃除を済ませ、のどかにコーヒーのお替りを注いでカウンターにやってから、雫は泉のマントを剥ぎ取りシャンプーとバスタオルを手渡した。
「すっきりしたねぇ。さっ。洗ってきなよ」
「ありがとう」
「いやいやトイレじゃなくて」
躊躇いなく手洗いへ向かおうとする泉を引き留め、彼女は慌てて泉を勝手口へ連れて行く。
「君ねぇ」
「すまない」
気遣うような視線に耐えきれず、泉は早足で雫の風呂場へと向かう。それを見送り、雫は大きく息を吐いた。泣き虫のくせに、泣かずに我慢し続ける子供を相手にするのは、分かりやすく悲しむ子供を相手にするよりも余程疲れるものなのだ。
「のどか嬢」
「はい」
「ケーキ食べる?」
「は、えぅ?」
**
「じゃあ、ありがとう」
「ありがとうございました」
「はいはい、早く帰りな」
照れくさそうに手を振り、すぐに背を向けてカウンターへ引っ込んだ雫に、二人はもう一度頭を下げた。
ドアを開けて、外へ。夕焼け空に目を細めてから、泉は歩き出した。
のどかも急いで後を追う。普段ならこんな風に、誰かを置いていくことはない彼女がのどかには少し気がかりだった。無理をしていないはずがなかった。泉がそこまで強い人間ではないことぐらいのどかにだって分かっている。年相応どころか、のどかより脆いところがあることさえ。
今度こそ、二人は表通りを駅の方へ歩いていく。
すぐにのどかを気遣って歩調を緩めていた泉は、先ほどからしきりにバッグの中身を気にしている。それを目の端で捉えながら、のどかは落ち着いてきた悲しみをもう一度整理する。自分は何故あんな風に取り乱したのか、彼女はポツリポツリと、独りごとのように呟き始める。
「私、悲しむことも出来なかったんだ。綾瀬さんが悲しむのが、悲しくって、でも、私、おじいさんがいなくなったことを、悲しむことも、本当には、おじいさんのことを、思うことも出来なかった」
自嘲するように首を振るのどかに、泉が足を止めた。どうしたのかと彼女の方を見ると、のどかへ泉は一冊の本を差し出している。
「綾瀬の祖父が、取り置きを頼んだものだ。それも綾瀬にプレゼントするつもりだった、本だ」
「えっ」
それをなぜ自分の方へ差し出すのかさっぱりわからず、のどかは泉をじっと見つめた。
「そんな、苦しそうな顔をしなくてもいい」
頬に伸ばされた手を、のどかは抵抗せずに受け入れる。無意識のうちに強張って少し歪んでいた表情がその温かさに解されていくのを、彼女ははっきりと感じている。そうして、また涙が溢れ出してくるのも。
「でも、私は何もできなかった」
「あのときは、そうだったかもしれない。けれど帰ってきた後、どうするか。きっとそれが肝心なことなんだよ。俺には、出来ないことだ。だから、これはのどかが受け取ってくれ」
目を乱暴に拭って、のどかは力一杯頷く。それを見て、泉は「ありがとう」を言い、微かに笑った。
「泉」
本を受け取ったのどかから目線を切り、泉はもう見えてきている駅の方を向いた。
「行こうか」
「違うよ、泉」
「え?」
「ありがとうをいうのは、私の方」
振り返り、その心底からの笑顔を見つめた泉は、何故だか呆然として、棒立ちになって、無意味に強く拳を握りしめた。彼女の中で張りつめていたものが切れていく音を、それらはのどかへ明瞭に伝達する。
「ありがとう、泉。だから、もういいの」
「あ、ぇ、」
近づいてくるのどかへ後退ることも出来ず、彼女の口は意味をなさない言葉しか漏らせない。
「行こう?」
「あ、ぁ、ぁあ」
右手で顔を覆い、ようやく泣き始めた泉のバッグと左手を取って、のどかは歩き出す。往来の人たちから彼女を守るように、のどかは早足で一直線に駅へ向かっていく。必死に噛み殺したその嗚咽が、のどかにはひどく悲しかった。
**
隣で目と顔を真っ赤にして、自分と目を合わそうとしない彼女に何といったものか、のどかは考えていた。
平日の通勤者を欠いた電車は程よく空いていて、話し声も電車の立てる音以上に大きなものはない。窓の向こうには夕焼け空。見知ってはいるけれどよく知らない街並が通り過ぎていくのを二人はぼんやりと眺めている。
電車の待ち合わせのために、景色が止まる。随分弱弱しくなった夕陽のせいで駅には一足早く夜が訪れている。
見栄を張り続けて、泣き疲れて、朝の鍛錬で肉体的にも余裕がない泉は、段々とウトウトしてきて、もう、身体を真っ直ぐに保つのもやっとという有様だった。それを見てとってのどかはどうしようかと思い悩み、結局思い切って彼女の身体を引っ張った。
「おぉう?」
奇声を上げてなすがままの泉の頭を膝に乗せ、のどかはそのまま動こうとしない泉をあえて見ないで、窓の向こうを向いた。電車は、まだ来ない。
「いきなり、ごめんね」
「い、ぃゃ」
わけもなく囁き声になった泉の額に手を当てて、のどかは軽く微笑んだ。
「泉。友達って、難しいね」
「のどか?」
穏やかな声が静かに響く。見上げてくる泉に目を合わせ、のどかは柔らかな笑みを浮かべる。
「お母さんにやるみたいに甘えてちゃ、そんなの友達って、言えないんだと思う」
「そんな、そんなことは」
自分のことを言っているのだと分かって、狼狽える泉の額に手を当てて、彼女は悲しそうに言う。
「だからせめて苦しい時ぐらい、あなたに手を伸ばしてあげたいよ」
「のど、か」
「泉、苦しい時は、助けてって言えばいいんだよ。私は、あなたのことを友達だって、思ってる。好きだって、感じてる」
「俺、俺は」
「きっと、私だけじゃないよ。だから、そんな風に無理しないで」
「守るって、決めたんだ。そのために、強くなるって。だから、だからっ」
「うん。でも、私も、ううん。私たちも、泉を守ってあげたいよ」
もうそれ以上何も言わせず、のどかは優しく泉の瞼を閉じさせた。鳴り始めた信号音、電車の遠い音が近づいてくる。そしてすぐに電車は通り過ぎる。遠い音も消えていく。ドアが閉まる。
「おやすみ、泉」