アヴァロンの落とし子   作:ktomato

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「そして人間にとって意識されない部分の記憶こそが、自我の礎であり、それが「常識」と呼ばれるものだ」
(『心の社会』、マーヴィン・ミンスキー)


第十一話 新田泉

***4月20日(金)***

 

 

 公園を取り囲む煉瓦道に、軽快な足音が響いている。未だ過ぎ去らない柔らかな寒さに居残ったホトトギスが、高らかに喉を鳴らしている。一度鳴き、間を空けてもう一度。鳥が何度か口を開くたび、それは同じリズム、同じ重さで何度も葉桜の下を行き過ぎていく。

 

――「まず、走りましょう。新田さんには……いえ、ゴホンッ! い、泉。あなたには体力が足りません。走って、走って、走りましょう」

 

 今朝は長髪をポニーテールに、体育の時間に履くシューズとジャージを着て、泉は晴空の下を走っていた。

 彼女は汗の一滴も零さず息を乱してさえいないが、本当に生きているのかわからないぐらい真っ青な顔をしている。きっと今の彼女は横合いから飛びかかった猫の一撃で昏倒してしまうことだろう。元々が、体力のある方ではない。

 

 気にしないようにしていた靴裏の熱さの高まりに、彼女は少し顔をしかめた。

 あまり丈夫ではないゴム底はここ数日、ピンポイントに規則正しく負荷をかけ続けられたおかげでもうその中身を守ることを放棄しようとしている。

 

――すぅと息を吸う。首を振って、痛みで乱れそうになる集中を無理矢理に研ぎ澄ました。

 歩幅を半歩大きく。顎を引き、腕を振る。真っ直ぐに前を見て。少し霞んだ視界のために思い切り眼をこする。頬を撫でる風にもう以前ほどの冷たさはない。少なくとも今の熱を静めてくれるような冷たさは――早く、早く帰って朝食を作ろう。そうして、二人におはようを言おう。今日は、新しいジャムを試してみよう。朝倉の好きなブルーベリーの。それに、この間おばさんにもらったセイロンの茶葉で、ミルクティーも作ろう。長谷川さんのカップにはたっぷりとハチミツを入れよう。

 

 それから、それから

 

***

 

「ねぇニッター、どうするよ?」

「ニッターじゃない新田だ。俺はこの、サンバと、ノエル・ルージュを二つずつでいいと思うが?」

「えぇー、せっかくだしこっちの高いヤツをどーんとさぁ」

 

 色とりどりのケーキを収めたショーケースの前で、一人は遠慮がちに、もう一人はズケズケと意見を主張している。高畑はいつものように、口元に微笑を貼りつけたままそんな泉と春日の交わす暗号に耳を傾けている。

 ふと、彼と店員の目があった。何かを咎めるようなその視線に首を傾げ、彼は無意識の内にポケットからタバコを出していたことに気がついた。やんわりと手を振って、二人に気づかれぬよう、彼は小さくため息を付いた。「女性」二人の相談はまだまだ終わりそうにない。ふと、彼は店内を流れる場違いなまでに軽快なロック・チューンに耳を澄ませた。どこかで聞いたことがあるような気がするが、曲名までは思い出せない。

 

「春日は、イチゴが好きなのか?」

「新田ちゃんは何でもイケる口?」

 

 段々と話が弾み始めた二人に、彼はさりげなく腕時計を眺めてみせた。店内にかかった女性たちの時計など信用出来ないとでもいうように。

 けれど彼はその会話を止める気にもなれずにいる。本性を明かすことのできる相手がまだほとんどいない春日美空と、「こちら」側の友人が少ない新田泉。本来は活発で悪戯が大好きでいい加減で、だけど本当は面倒見のいい心優しい少女である春日ならば、そのような彼女をきちんと受け止めることのできる泉ならば、きっといい友人同士になれるだろう。

 

 頃合いを見計らって高畑は彼女等の隣に並び、ショーケースをざっと見渡す。そんな彼を見て「しまった」と固まっている泉に笑いかけ、すぐに頭を下げようとするのを遮った。

 

「二人とも、好きなケーキを一つずつ選びなさい。少しここで休憩していこう」

 

 泉の肩を抱いて歓声を上げる春日を他所に、それほど甘さのないケーキをさっと選んでコーヒーを注文し必要なだけの金銭を二人に渡すと、高畑は店内に併設されたカフェへと逃げ込んだ。

 

「だからさーここで自腹切ったらデスメガネの面子丸つぶれなんだって」

「だが……」

「よっし。なら私が二つとも」

「すみません、このオペラを二つ」

「ニッターー!」

 

 もう少し、時間がかかりそうだな。

 そう独りごちてコーヒーをすすり、彼はフォークを手にとった。時間はまだある。こんな休日出勤ならいつでも歓迎なんだが、そう考えて首を振ると、なぜか先ほどのロックチューンがまた頭のなかで大きく鳴り始めた――あぁ。そうだ。確か、こんな曲名だった。

 

「怒るなよ。冗談だ」

「ニッターのは冗談に聞こえないよ!」

 

***

 

 これから教会に用事があるといってすぐに背を向け、器用に半身で手を振り振り、春日が走り去っていく。そのあまりの速さに泉は微苦笑を浮かべ、先生の前で廊下を走るなよ、と小さく叫び返しながら軽く手を振った。

 

「さて」

 

 窓枠に手をついて、彼は静かに泉を見つめる。授業が終わってしまったからなのか、今日が土曜であるからなのか、廊下にはほとんど人影がない。窓外から聞こえてくる姦しい誰かの声がやけに大きく響いている。微笑さえ浮かべず泉を凝視するタカミチの、その試すような、なぜだか心配そうな目。泉は瞬きもせずにそんなタカミチを見返し、続くはずの言葉を待っている。

 

 そのような静寂の合間を縫って早足で、桜咲刹那は姿を表した。

 野太刀を下手に握り締め、眦を鋭く引き締めた彼女に泉は何事かとそれまでの何もかもを忘れて向き直る。彼女はまず礼儀正しく高畑に会釈し、上ずった声で泉に声をかけた。

 

「泉。準備が整いました」

「えっ?」

「山籠りです!」

「あ、あぁ……?」

 

 音もなく至近へよって力説しはじめた刹那の勢いに押され、泉は思わず後退る。それに気づいた風もなく刹那は彼女の両肩を掴んで壁面へ追い込み、もう一度重々しく「山篭りです」という。混乱しつつも泉がしっかりと頷いたのをいいことに、彼女はその手をとった。

 

「行きましょうか」

「す、少し待ってくれないかな刹那君」

 

 その声で我に返ったのか、一瞬固まった刹那はすぐさま泉の手を放して深々と頭を下げた。彼女の脳裏には唖然とした二人の顔がこびりついて、離れない――なぜこんなことにも気づけなかった? 大体山籠もりだなんて、泉のような女性が喜ぶはずがない。私が勝手に、突っ走っていただけじゃないか……まるきりの阿呆、冷えた声で刹那はそう独りごちた。頬に手を当て、まるで収まる気配のないその熱に彼女は小さく首を振る。

 

「申し訳ありません」

 

 ばつの悪そうな顔をするタカミチをひとまず無視して、泉はあえて彼女の傍へは寄らずにその場へ突っ立ったまま、つっかえつっかえいい放つ。

 

「ありがとう。その、色々と、考えてくれたんだろう?」

 

 何を偉そうなこと言ってるんだ俺は、そんな風に思う自分を無視して、彼女は軽く息を吸う。

 

「――すごく嬉しい。だから、刹那が謝ることなんてない」

 

 後頭部に感じる痛いぐらいの視線に根負けして、刹那が面を上げる。案じるように細まったその目に居たたまれなくなって、さらに赤くなった肌の熱を感じて俯いて、何か答えを返さなければと考えるがうまくそれを言うこともできない。その様子に頷いて泉は少し考えた後、タカミチに話の続きを促した。

 

「先生、先ほどのお話ですが」

「……泉君、実は僕も君の特訓先を探していたんだ」

 

 目の端でまだ俯いたままの刹那を捉えながら、彼女は心内でかすかに首を傾げる。礼を述べながらも困惑している泉に、タカミチは苦笑する。

 

「どうやら、もう必要なさそうだね?」

「申し訳ありません」

 

 きっぱりとしたその言葉に、刹那は僅かに肩を震わせた。

 

「だがまぁ、顔を合わせるだけ合わせてもらえないかな。彼女は君の護衛でもあるから」

「エヴァンジェリン、A・K・マクダウェル」

「知っていたのかい刹那君」

 

 無理やりに体勢を整えて彼女は平時の怜悧さを取り戻す。柄を握る手は緩やかに、相手の呼吸を読み、四方の場と合わせ、自身の次を直感で抉り出す。泉を守るように前へ。

 

「お言葉ですが、彼女と泉を引き合わせる必要があるとは思えません」

 

――血に濡れた制服を思い出す。普通の「人間」ならば死んでいてもおかしくない出血量。

 突然、肩へ触れた手に振り向いた。泉は大丈夫だというように首を振る――馬鹿な。闇の福音に、今でも害意を持っているだろう真祖の吸血鬼に会うことに問題がない? そんなわけがないでしょう!――それなのに、クラスメイトに会うだけだからとでもいうように軽く笑ってさえ見せる泉、やはり何も答えられない自分、いつも通りに微笑するだけの先生。そんな風な事どもが、なぜだかひどく気に触った。

 

「わかりました。一度、伺います」

「泉」

 

 肩に置いた手をすぐに離して、彼女は刹那の前へ出た。そして首だけで振り向いて、からかうように目を眇め、人の悪い笑みを浮かべる。何を言うつもりだと身構えた刹那を見て、彼女は益々口角を釣り上げた。

 

「そんなに凄んでも、顔が真っ赤だと可愛いらしいだけだぞ? 刹那」

「なぅっ!?」

 

 そんな彼女をさっくりと無視して、泉は先生の手を引き、歩き出した。

 

「バイバイ刹那、また明日」

 

 

**

 

 

 誰かがドアをノックしている。無骨な、脂が染みついてはいるがきちんと手入れされた男の手。

 そのタバコ臭い手の甲に顔をしかめ、彼女はうつ伏せになっていた面を上げる。まだ眠いのだろう。右目をこすりこすり、霞んだ視界の中に映ずる現在時刻に、彼女は首を振って、今度は仰向けに寝そべって、息をつき、何事もなかったように目を閉じた。

 

 ドアを叩く音は段々と大きくなっている。そこには不吉な軋みが混ざりはじめ、そろそろ訪れるだろう限界を声高に知らせている。不意に、音が止む。彼女の眼にはポケットの中に手を入れ微笑する男の姿がありありと見て取れた。

 舌打ちを一つ、エヴァンジェリンは悪態をつきながらベッドから飛び出した。クローゼットからテキトウなイブニングドレスを取出し、鏡の前でさっと髪を整える。慣れた手つきで着付けを終え、ベッド下に脱ぎ捨てられた黒いバレエシューズを履いて、彼女は部屋を出た。

 

 一階のソファに深く沈み込み、慎ましやかにあくびを一つ。彼女は文言を口の中で囁き、玄関ドアのロックを解いた。

 

「やぁ、エヴァ。お邪魔するよ」

「失礼します」

 

 応えず、彼女は顎で向かいのソファを指し、目を閉じた。

 一人がどっかりと座り込み、もう一人が静かに席へつく。そして彼女はそういえば「朝食」をとっていなかったなと、タカミチが何か言っているのを手で遮り、気だるげに言う。

 

「新田泉、朝食を作れ。茶葉はコンロの向かいにある棚だ。他は任せる」

 

 困惑しつつも首を縦に振る泉に、エヴァンジェリンはさっさと行けと薄目で睨み付ける。

 

「それとだ、敬語はやめろ。貴様のそれは虫唾が走る」

「了解した」

 

 席を立って、泉は慇懃に頭を下げ、音も立てずにキッチンへ消えた。

 

「で、何をしに来た」

「報告かな。ほら、頼んだろう?」

「あぁ、覚えている」

 

 そのおかげでこの様だと毒づきたくなるのを抑えて、彼女は軽くこめかみを抑えた。

 

「断りに来た」

「は?」

「すまない。さっき泉君に断られてしまってね」

 

 心底すまなさそうに息をつき、珍しく冷や汗をかいたその姿に彼女は怒りよりも頭痛を覚えた。今すぐにベッドへと戻りドレスも脱がず眠りにつきたい。彼女がそう思ったとき、焼ける卵の匂いが、軽快に切り刻まれる野菜の音が漂い、響いた。盛大に嘆息しながらも結局留まってくれたエヴァンジェリンにタカミチは安堵の笑みを浮かべ、もう一度すまないと呟いた。

 

 サンドイッチと入れたての紅茶とコーヒーをトレイに乗せた泉を見て、エヴァンジェリンは何かを堪えるように額へ手のひらを添える。

 

「貴様は数も数えられないのか?」

「えっ?」

 

 トレイには三つの紅茶とコーヒー、そしてエヴァンジェリンには多すぎる量のサンドイッチが並んでいる。泉自身もなぜ自分がそんなミスを犯したのか理解できないのだろう、呆然とカップを見つめている。それをとりなすように、さっとトレイを泉から受け取ってタカミチが食器を並べていく。すぐに手伝い始めた泉に微笑みかけて、彼は残ったティーカップをエヴァンジェリンの隣へ据え置いた。

 

「ありがとう、泉君。頂くよ」

「まったく最近の若い者は」

「すまない」

 

 文句を言いながらサンドイッチを次々と口内へ放り込んでいく彼女に、泉は身を縮こまらせて頭を下げるばかりだ。随分小さな姑もいたものだと軽口を叩きそうになるのを抑えて、タカミチもこっそりとサンドイッチに手を伸ばす。

 

「エヴァ?」

「……」

 

 じっと隣席を見やるエヴァンジェリンはすぐになんでもないというように軽く首を振り、カップに口をつけた。

 

 

「さて」

 

 結局ほとんど一人でサンドイッチを平らげ、紅茶を三度おかわりした彼女は棘の減った声で涼やかに告げる。

 

「新田泉。貴様は私を師と仰ぐつもりはないのだな?」

「はい」

「ならば私がこれから貴様に施す魔法は脆弱で臆病で間抜けで頼りない貴様のお守りをする、仕! 事! を楽にするためのものだ。それ以上の意図はない。いいな?」

「えっ」

「い い な」

「……了解した」

 

 身を乗り出さんばかりの勢いで口走るエヴァンジェリンに、彼女は厳かに頷いた。

 

「分かればいい。では問おう」

 

 肘掛けに手をついてエヴァンジェリンはバレエシューズを脱ぎ捨てた。ポケットの中へ仕舞い込んでいた魔方陣を手早くトレイの上に展開するのに、タカミチが思わず眉をひそめる――それは魔方陣というよりはどこか淫猥で奇妙な絵画だ。月の仮面で顔面を覆った裸体の女が二人、太陽の仮面を被った男の裸体が二つ。黒い湖の傍で円卓の上に立ち、喪服に身を包んだ女性の胎の中で、彼らはじっと見つめあっている。

 

 次いで人差し指の肉を軽く食いちぎって血を捧げ一応の準備を整えて、彼女は問いを待つ新田泉に、目を合わせた。

 

「貴様は、なぜ龍宮真名の記憶改竄に憤らなかった?」

「――龍宮に非はないからだ。俺が甘かったから、そうなった」

「新田泉が生まれ落ちた瞬間を知り、新田泉が、新田泉自身として生きてきた時間を知る彼奴らを深く、手ひどく傷つけた龍宮真名を許せるほどに、貴様は強者であったと?」

「違う。誰も血を流してなんかいない。龍宮は、誰も傷つけてはいない」

「本当にそうか? 貴様は恐怖から目を背けているだけではないのか? 彼奴らの記憶が、彼奴らの知る新田泉が今現在どうなっているのか。いなくなってしまった本物を、歪んでしまったそれらを知るのが、恐ろしいのではないのか?」

「……怖いさ。怖いよ。けど、だから、俺は決めたんだ」

 

 真っ向から自身を見返す新田泉に、エヴァは表情を変えることなく魔方陣に不備がないか、術式に穴がないかをチェックしていく。

 

「ふむ。ならば重ねて問う。貴様は何者だ? 新田泉。生後一年足らずの「人間」たる貴様はなぜそのような確固たる自我を持ち得ている? 例の二人と同一性を保つことさえできずにいる貴様が?」

「それは、検査で?」

 

 肯定も否定もせず、エヴァは続けた。

 

「一体貴様は何なのだ? 衛宮士郎の猿真似を続け、アイリスフィール・フォン・アインツベルンの所作を真似続ける貴様は。それは、本当に新田泉という「人間」なのか?」

 

 答えようとして、答えられず。彼女は逃げるようにかすかに、目を逸らした。空回りする思考、かすかに口を開いてみても適切な答えは出てこない。彼女は知らず、きつく口端を噛みしめる。

 

「では、耐えてみせろ」

 

 唐突に立ち上がったエヴァにつき従い、泉も慌てて席を立った。

 

≪黄金の眠りよ

 いざ、来たれ≫

 

 幾筋の黒の奔流、絵画から飛び出したそれらにタカミチは思わず右手で泉を庇った。突風が巻き起こり四つのカップがテーブルから転げ落ちた。重たい影は彼らの頭上で幾層にもかさなりあい、見る見るうちに肥大し、その黒を深めていく。

 

≪12時を指す銀時計よ

 湖底に沈み目を閉じよ

 

 過去潜む双龍の星

 殺された時の尖塔

 去り渡る未来の王

 

 軋み

 歪み

 叫べ

 

 失われた金色の名を≫

 

「Caliburn」

 

 か細い泉の声に応え、一陣の風が吹く。ポットが宙へ舞い、衣擦れのような音を鳴らして闇が一息に解け散り、彼女へと、一斉に降りかかった。抵抗する間もなく、タカミチが助けに入る隙もなく、それは泉だけに覆いかぶさり幾重にも幾重にも黒を重ねていく。縛るというよりは、包むように。

 

≪汝、円卓の月≫

 

 冷たくも心地よく、どこか懐かしい闇の中で、彼女は徐々に、自身の意識が遠ざかっていくのを感じる。絶対に手の届かないぐらい遠い場所へ。それに恐怖することもなく、舞い上がったポット、漏れ出た紅茶の匂いに、キッチンへ残してきた手土産のマドレーヌを思い出し、全部が全部、台無しにならなくてよかったと泉は笑みを浮かべた。

 

≪黄金の鞘を抱きしめよ≫

 

 その文言とともに魔方陣が砕けた。鈍く、些細な破砕音は蠢く闇の律動にかき消える。破片が最後の影に乗って泉の震える繭へ向かい、ふらふらと漂い降りていく。それらは繭に付着するとむき出しの巨大な血管となり、その音をさらに大きくする。タカミチは不安げな眼差しをエヴァに向けた。彼にはこの魔法が何なのか、この繭が何なのか、さっぱり検討もつかない。しかし彼女にそんな彼を相手取る気はないのか、何事かを自身に言い聞かせるよう、ひとりごちた。

 

「夢は、貴様を否定したりは、しないだろう。

 眠れ。出来るなら、眠り続けろ」

 

 

**

 

 

 白磁の如き手が湖面に触れる。しばしの間、それは惑うようにその冷たさを確かめている。鞘を離した後も、その手は湖面に触れたまま動かずにいた。

 

 落下はひどく長い時間続いた。すでにして湖面から射す光は消え去り、ただ沈んでいること以外何もわからない。

 

 三日が経ち、ようやく鞘は湖底へと横たわった。そこには魔女があつらえたのか死んだ珊瑚礁の群れがある。それらを褥に、鞘はその身を横たえていた。

 

 通常このような事態に立ち至ったなら悲嘆にくれるところであろうが、鞘はどこまでいっても鞘に過ぎない。それは思考しない。しかしアヴァロンは「志向」する。

 

 かの聖剣を、気高き王を。

 

 誰かが、何かが、いつか自分を持ち出して行ってはくれまいか。そんな風に気楽に、気長に、それは待ち続ける。微睡むこともせず、夢も見ずに。 

 

 そして長い時間が過ぎた。円卓が消え、中世の秋が過ぎ、科学が錬金術にとって代わり、ついに神秘は表舞台から降り去って行った。

 

 もう、人々は夜を恐れない。人の死が人口の増加を上回ることもない。

 

 それだけの時間が過ぎても、鞘は未だそこにあった。けれど魔女の湖はひどく小さくなり、もうそれを隠すには適さなくなっていた。いつのまにか珊瑚礁はどこかへ流されていて、その鞘はただひとつきりで、そこに横たわっている。その孤立した湖は、もはや単なる泉に過ぎなかった。

 

 それは真夜中のことだった。湖面に影さえ映らない深い夜の日だ。静かに、何体もの人形がそこへ押しかけた。それらは無造作に順繰りに水面へ飛び込んでいく。人形たちは淡々と水中で影に貫かれ、機能を停止してはまた別の人形が身を投げる。

 

 ひと月が経つと人形の骸が水底で鞘を取り囲んでいた。形はどうあれ届くはずのない鞘の元へ、それらは届いたのである。時間は魔女の呪いさえ打ち破ったのか?

 否。

 鞘は志向し続けていた。聖剣を。気高き王を。だからそちらから伸びてきた手を取らない理由など、なかったのだ。

 

 持ち出された鞘は記憶している。ひんやりとした人形の手と、老いさらばえた皺の手を。そして衛宮切嗣と、アイリスフィール・フォン・アインツベルンを。彼女が子をなすために耐えた痛みを、喜びを。そんな彼女たちを見捨てた、彼の理想の酷薄さを。

 

 それは取り返しのつかないぐらい暗く、血で濡れてしまっていた。そこにあったはずの輝きは、とうに、失せていた。

 

 そして■■士郎はそのような血を流していた一人の人間だった。

 

 黒い太陽が輝き、聖杯の泥が「祝福」を齎した日。彼は泥に飲み込まれた。彼の家族は泥の中に消え失せた。彼の家は瓦礫と化し、あったはずの勉強机も、食卓も、車も、全て燃え失せた。友人も、親類も、思い出も。そして自身の名前の半ばまで。

   

――死体の群れを覚えている。熱い泥の中を歩いていた。死はとても近くにあって、逃げようとか、そんなことは思わなかった。ただただ、歩いていた。痛みや、失ったものとかで苦しいはずなのに、涙は止まらないし、息は絶え絶えになっているのに

 

 ■■士郎にはどうしてもわからなかった。その悲しみも、苦しさも。そのようなものを感じるべき主体を既に、粗方それは喪失していた。当然のように情念というバイアスを、それは失くしてしまっていた。そこには泥が巣食い、虚無が深く染みついていた。

 

 そんなものの中へ衛宮切嗣は鞘を押し込んだのである。

 

 ともあれ押し込まれてしまったものは仕方がない。いつもそうしていたようにただそこにあればよい。が、そういうわけにもいかなかった。聖杯の泥は鞘を冒しうる危機であったのだ。もう王は去ってしまったというのに、鞘はまた重い腰を上げなければならなかった。

 

 平時の鞘は聖剣を、王を癒すための道具である。もう少し正確にいえば聖剣という媒介を通して王を自動修復する装置である。つまり通常、肉体の修復には聖剣が必要なのだ。だから鞘は■■士郎の中で聖剣を復元しようとした。

 

 まず■■士郎の中を探してみるが聖剣はどこにも見当たらない。仕方がないので同化によってそれの起源を剣に置き換え、二本あった魔術回路を無理やりに増やし、それを媒介のデバイスへ仕立て上げる。当然ながら、聖剣に到底及ばないその「剣」を通しては本来の役目など果たせない。そしてそれは剣というよりは王の剣を探し求める、鞘に似ていた。求めて、決して届かないところまで。それでも鞘は泥を押しとどめ、徐々に浄化する程度のことはやってのけた。

 

『こうして、衛宮士郎は生を受けた。過去の■■士郎が理解できなかった自分自身を、その悲しみを、苦しさを、衛宮士郎は思うことが出来る。君がそうであるようにだ、新田泉』

 

 見渡してみると、そこには黒い泉があった。

 風が吹いている。靡く牧草の涼しげな様子が当たりを取り囲んでいる。空には太陽もなく、月もない。ただ真っ黒な夜空があるだけだ。

 

『聞こえているのかね?』

「聞こえている」

 

 男、衛宮士郎は何故か水面に佇んでいた。生前と何ら変わらないその姿は、或いは彼が死人でないことの証左であろうか。

 

『泉、と呼んでも?』

「構わない」

『なら私のことは士郎と』

「わかった、士郎」

 

 士郎の近くで話をしようと泉に歩を進めた。不可思議な話だが、俺はそこに足を踏み入れることを全く躊躇しなかった。もう少しで俺はそこへ永遠に沈み去っていくところだったのだが、彼が乱暴に俺の体を抱き留め、陸地へと舞い降りてくれた。

 

「ありがとう」

 

 頬に手を当て、自身の身体がどうなっているのかを確かめる。鞘ではなく、女の頬である。衣服は直前まで身に着けていた制服。普段通りの新田泉。そして二人のいない、剥き出しの。

 

『死ぬ気かね?』

「そんなつもりはない」

 

 本当にそうだったろうか。本当にそうでなかったのか。よくはわからない。ただ、あの泉はひどく懐かしい感じがする。とても冷たくて、忌々しいが王を待つには丁度いい……けれど、そうしてはいけないような気もする。

 

 そんな俺の手を取って、士郎は泉を足早に離れていく。俺は首だけで振り返っていつまでもそれを見つめていた。

 

「痛い。士郎」

 

 そういうと、彼はさっと手を放した。あたりには古い椅子が二つ、テーブルが一つ。もしかすると彼が用意した物かもしれない。

 

『座るんだ』

 

 頷いて、俺は席についた。彼がてきぱきとどこかから取り出したティーセットでお茶会の準備を整えていくのを、俺はただ眺めていた。

 

 

「おいしい」

『中々の出来だと自負している』

 

 マドレーヌを紅茶に浸し、ちびちびと啜るように齧った。二つ食べても籠の中身はまだまだ満杯。おいしい。

 

「士郎はすごい」

『そんなことはない』

 

 きっぱりと首を横に振る士郎はそれ以上、そういっては欲しくないようだった。俺は黙々とマドレーヌに集中する。カップが空になると、彼はすぐにおかわりを注いでくれた。

 

『……喜んでくれるのは嬉しいが、少し話を聞いてもらえないかね?』

「?」

『それを、食べてからでいい』

 

 頷いて、俺はゆっくりと咀嚼し、こくんこくんと飲み込んだ。

 

『わかっているだろう?』

 

 一体何を、そう問うことが出来ればよかったのだが。

――ノイズが混ざる。父と母の妙に遠い呼び声、何故だか少し歪んでいる友人たちの肖像

 距離がある。俺とそれらには、常に幾ばくかのズレがある。

 アイリスフィール・フォン・アインツベルン、衛宮、士郎。

 首を振って、席を立った。背を向けて、空を見上げた。

 

「俺という人格は、衛宮士郎、アイリスフィール・フォン・アインツベルンに比べ、あまりにも希薄だ」

 

 溜息をつくのが聞こえる。沈黙が、ひどく長く感じられる。泉の方へ向かって、駆け出していきたくなる。目を瞑って、ただ耐えた。

 

『泉、取り繕うのはやめることだ。君に猿真似は似合わん。第一、毛ほども似ていない。君では衛宮士郎の偽物にさえなれまい』

「できない」

 

 首を強く振って、駆け出そうとする俺を、士郎が引き留めた。とても強い力で手首が握りしめられる。痛い。無理やりに振り向かされて、士郎の顔がすごく近くにまで迫る。突き返そうとして、もう片方の手も受け止められてしまった。

 

「痛い」

『自分自身を信じるのが、そんなに怖いのかね』

 

 見つめてくる士郎に、俺は考えた。そうだったのだろうか? 

 

「そうかも、しれない」

 

 俯いて、俺は考え続ける。

 友人たちは勿論、父や母や義姉にも、俺は、俺は……信じられなかったのは、どちらだったのだろう。俺自身なのか、彼らなのか。馬鹿げた問いかけだ。新田泉が彼らを信じられないなんて、ありえない。ありえるわけがないじゃないか。

 

「――もし俺自身が偽物で、大切だと思ったり、守りたいって気持ちが、本当は、嘘だったら? 「俺」自身なんて嘘で、感情も、言葉も、涙も、この「俺」の何もかもがアヴァロンのシステムに、過ぎなかったとしたら? こんな風な悩みさえ、それさえ、そうだったとしたら?」

 

 士郎が何か言っている。でも今は返事をすることはできない。

 

「そんな、そんな空虚な化け物は、「自分」の何を信じればいい? どこに「自分」と呼べるものがある? 「俺」は、アヴァロン以外の何物かなのか? 本当に、新田泉なんて、呼べるものなのか?」

 

 右手で右目を覆って、零れそうになる涙を抑えつけた。だが左の視界も霞んでしまって士郎と目を合わすことが出来ない。カタカタと口の中が鳴っている。それを止めようと歯を食いしばり、左手をきつく添えた。いつのまにか歩み寄っていた士郎が俺を抱きしめた。逃げ出そうとめちゃくちゃに頭を振った。そんなことはお構いなしに士郎が俺の髪を梳き始める。逃げ出したかった。ひどく温かくて、今すぐにでも走り出さないと本当に壊れてしまいそうだった。

 

『泉、君が逃げたなら、君の大切だというものは置き去りにされてしまうのだぞ? それが偽物であれ、あるいは君が偽物だとしてもその事実は変わらん。記憶を弄ろうが、何をどう取り繕ったところで』

 

 彼の胸に両手でしがみ付いて、顔を隠した。返事をしようにも出来なかった。震えが、長い時間続いた。俺はこんなにも、恐れていたのだ。彼らと向き合うことを。信じていると思いながら実のところ利用するばかりで、本当には、信じることさえ出来ずに、いつも取り繕ってばかりいたのだ。

 

 俺が落ち着くまで、彼はずっとそうしていてくれた。

 

 そしてその手を止めて、彼が言う。

 

『泉、君は確かに築いてきたはずだ。君自身を。短い間だったかもしれないが、それは嘘ではありえない』

「嘘が、多すぎる」

『少なくとも泣き虫な君は、本当のことだろう?』

 

 唐突に手を離して、彼は席に戻った。カップに口をつけて何事もなかったようにくつろぐ姿に、俺も恐る恐る席についた。そしてカップを置いて、彼はマドレーヌを手に取った。

 

『第一人間は生まれ落ちたとき、自分自身など持っていない。ちっぽけな空白を持ち合わせているだけだ。それを埋めるように、周りに影響されながら自我は少しづつ築き上げられていく。空虚故に、私たちは個人となる。だから、生き始めて間もない君がそんな風に悩むことは、嘘ではない。例え君が我々を元手に作り上げられた何かだったにしても、君はアヴァロンにひどく近しい何モノかであって、決して、それ自体ではない――君は泣きもすれば、笑いもする。おいしいと無邪気に呟きもするし、大切な人々を、恐れたりする。アヴァロンにそんな機構は備わっていない。いるはずもない。君は、アヴァロンから生まれ落ちた何モノかに過ぎない』

 

『そしてその名は新田泉という』

 

 彼はそれを軽く紅茶に浸して、こちらに差し向けた。

 

『偽物の専門家である私が言うのだ。少しは信じてもいいと思うのだが?』

 

 受け取って、俺はありがとうを言おうとして、口ごもった。下を向いてマドレーヌを口にする。見なくても、士郎が苦笑しているのがわかる。

 

『さぁ、行くんだ』

 

 彼が指を鳴らすと初めからそこに何もなかったように、手の中のマドレーヌだけを残して、全て失せてしまった。悲鳴を上げてしたたかに打ち付けた腰を撫でる俺を、士郎は笑って見つめている。文句を言おうとして、まだ止まろうとしない涙を拭った。きっと、彼はもう行ってしまうのだ。士郎の目を見上げる。そこには何も滲んでいない。何かを隠しているのが丸わかりだ。嘘がへたくそで、優しい人。

 

「ごちそうさま……ありがとう」

 

 彼はまた軽く苦笑して、目を伏せた。風が凪いでいる。士郎の言葉以外、ここには何も響いていない。ひどく、静かだ。

 

『何かあれば、今度は呼びかければいい』

 

 

 息をついて、目を閉じる。続きを、語らなければならない。本当はもっとはやく、こうするべきだったのだ。

 

 地面に横になって、息を深く吸う。

 過去へ。無時間に浸された、セピアの記憶の只中へ。

 

 音もなくせり出した黒土に覆われ、押し込まれ、俺は地底へと墜落を始めた。熱く暗い泥が身体を強く締め付ける。ほとんど間をおかずに五体が裂けた。血が吹き出し意識が黒く塗りつぶされる。

 

 そして微塵になった身体が語る。「俺」が生まれた日のことを。父と、母を。二人の姉を。

 

 

 衛宮士郎がそのことに気がついたのは随分後になってからのことだった。

 

 初めての子供を失い、もう子を育むことの出来なくなった妻。夫とさえ顔を合わせず、引き籠ったまま出てこない。

 

 遠坂凛はとっくに気が付いていた。『おそらくは』その時が来れば夫は迷いもなく我が身を捧げるだろうと。それを止めるには温かな家庭が必要なのだと。誰かを助けようとして、脳裏によぎる我が子の影が。それも無駄なあがきかもしれない。けれどきっと自分だけでは、そんな夫を大好きになってしまった自分では駄目なのだと、分かっていた。

 

『……泉。これは必要のない話だ。もう、終わったことだ。私は、死人なのだ』

 

――妻は、そんな夫を殺した。ギリギリのところで誓いは守られたが、誰も幸せになれなかった。

 

 異世界。それは並行する数多の現実ではない。決して交わることのない世界。本来ならどのような因果関係も持ちえない平行世界。そのような世界へ、魔法使いは夫を投げ入れた。

 

 完全消滅を目論んだ彼女の全力に、さすがの鞘も溜息をつきたくなったことだろう。世界からの拒絶反応。真名解放なしにそんなものは防ぎようがない。ならばどうするべきなのか。刻々と四肢を崩壊させていく衛宮士郎の中で、それは検索する拒絶反応の小さい衛宮士郎を。

 

 ■■士郎、ヒット。しかしこれは小さいというに過ぎない。これでは隠れ蓑には脆すぎる。時間も空間も突っ切って、根源を真っ逆さまに落ちていく身体、悲鳴さえ上げられない痛みはもう完全に麻痺している。無慈悲な鞘はそんな彼を無理やりに個として引き留め続ける。

 

 そして暴走する魔術回路から溢れる魔力と、根源の渦を元手に、復元を開始した。かつての空白を。並行して検索を続行。何かが切れる音が断続的に続いている。衛宮士郎のような同化では足りない。紛い物の剣では、鞘では足りない。ヒット。アイリスフィール・フォン・アインツベルン。復元、衛宮士郎が途切れた。デバイスが必要。空白を、彼女を。

 

 結果として、エラーに塗れたアヴァロンは奇怪な人型を作り上げた。或いは、鞘の鞘を。ともあれ鞘はそれの中に深く、深く沈潜し、自身をあの泉の底へ横たえていた。『そして私もまた』

 

 二つの眼球が始まりを知覚する。我々が訪れたのはコンビニの駐車場。そこではどこにもつながっていない携帯電話を耳に当てた男性と、女の子に栞を渡そうとしただけなのに逃げられた少年が対峙している。

 

 まず驚いた男性がこちらに近寄る。裸体からできる限り目を逸らしながら上着をかけた。息をしていることは上下する乳房が布地越しに告げている。同時にその形をも。男は首を振り、頭を利き手でかきむしった。

 

 携帯で、おそらくは妻に事情を話し、少年に何事かを言い置いて男は今夜のつまみを乱暴にポケットへと押し入れた。息をついて腰に力をいれ、男はそれを担ぎ上げる。そうして出来る限り揺らさないようゆっくりと、彼は歩を進めていく。

  

――はっきりと思い出すことが出来る。この背中を。その温かさを

 

 両の手を、動かしてみる。徐々に激しくなっていく彼の息遣いに、この過去に、耳を澄ませる。そしてあの家が近づいてくるのが分かる。

 

 よく手入れされた花壇には色とりどりの花が咲いていた。玄関には、彼女が今か今かと夫を待ち伏せているだろう。

 

 そんな彼女に急かされて、彼は娘の部屋にそれを横たえた。軋むスプリング、手で、そのベッドの感触を確かめてみる。息を切らした男が妻におやすみをいう。足音が、遠ざかる。

 

 静かになった視界に、白く小さな手が浮かび上がる。おそらくは男の妻が差し伸べた手。身体に被せられた上着を取り去り、それは汗を拭いた。熱がないかどうか確かめようと、手が額に当てられる。安堵の息をついて、女は枕元に座して眠るそれを見守っている。時折顔を歪めるそれをあやすように彼女はその頬へ慎重に、手を伸べる。

  

――冷たくて、ひどく冷たくて、何故だか、涙が出るほど安心した。

 

 立ち上がる。両足を踏みしめ、屈みこみ、母の手を握る。動かなくなった影は依然としてこちらを見守っている。

  

――死体の群れを覚えている。熱い泥の中を歩いていた。ただただ、歩いていた。

 

 本当は、帰りたかったんだ。振り返ればあったはずなのに。いつだって帰ることが出来たのに。もうその家がどんなだったか、彼らがどんな人たちだったのか、思い出すことは出来ないけれど。

 

「トレース、オン」

 

 俺の胎の中へと影が失せていく。温かくて、ひどく冷たい。奪い孕んだもののために、俺は目を閉ざす。

 

 それほど裕福とは言えない幼少期。駄菓子屋に行くのは一年に数回あるだけの贅沢で、少年は勉強をすればたらふく菓子を食うことが出来るという母の言葉を信じて、勉強に励んだ。励み続けた。

 

 何不自由なく育った、走ることが好きな女の子。体も丈夫な方で、風邪をひくことすらほとんどない。母はそんな彼女をとても愛していたし、彼女だって母を愛していた。けれど物心ついたころにいなくなっていた父のことを思い彼女は時折空を見上げる、そんな癖が大人になっても消え残っている。どこへ行ってしまったのか、なぜ会いに来てくれないのか。

 

 手を胎の中へと突き入れた。子宮内を探り、続いていく記憶たちを両手でやんわりと握りしめ、引き抜いた。鮮血とともに手のひらから光が溢れ出し、辺りを照らし出す。

 

 雨の音。薄暗い廊下。突き当りの角、若き新田准教授の研究室。その前で、俺は手持無沙汰に何かを言い争う三人の言葉を聞いていた。

 

 冷やかな新田香夏子の声に、父が冷静とは言い難い声で抗す。それを取り持とうとする母に、彼女は鋭い舌鋒を向ける。父がそれに、さらに激して。険悪な空気も長くは続かない。すぐに父が退出し、躊躇いながら母もそれを追いかけた。帰るぞ、そう乱暴に言い捨てて行ってしまう父と母を、俺は呆然と見送った。

 

 開け放されたままのドア、中を覗いてみると彼女は椅子の上で片膝を抱え込み、じっとこちらを見やっていた。室内の電気は切れている。灰色のカーテンが覆う窓から雨の日の、薄い光が差し込んで、ぼんやりとスーツ姿の怜悧な女性を浮かび上がらせていた。

 

「失礼します」

 

 その姿は当たり前だが、とても母に似ている。近くでもっと見てみたい、その欲求に従って俺は彼女の傍のパイプ椅子に腰を下ろした。長い時間、互いに互いを見つめていた。父と母はどこへ行ったのか、戻ってくる気配もない。

 

「ごめんさいね」

「え?」

 

 目線を逸らして、俯いて、彼女は言う。 

 

「私、ううん。なんて、いえばいいのかしら。泉……泉。私はこの名前が苦手なのよ。だって産まれる前に死んでしまった妹のことを、思い出してしまうもの。それは確かにあの子の名前だった。私たちにとって、それはあの子の名前だったのよ」

 

 顔を上げて、香夏子さんは乾ききっていない涙の跡を強くこすった。

 

「ねぇ、それを奪い取られたら、一体あの子に何が残るの?」

 

 俺は首を振って、わからないと答えた。香夏子さんは溜息をついて立ち上がり、窓際のカーテンの隙間から雨を見上げた。雨の音ばかりが、響いている。

 

 新田、泉。俺は記憶だけでなく、名さえ、あの人たちから、いや、この人たちから奪い、素知らぬ顔をしていたのだ。

 

「香夏子さん」

「なぁに?」

 

 振り向いた彼女は静かに涙していた。俺は何かを言おうとしていたのに、思わず、彼女を強く抱きしめていた。胸に彼女を抱いて、慎重に、背中をさする。

 

「どうしてこんなことを?」

「……あなたが、とても悲しそうだったから」

 

 彼女が俺の腰に手を回す。彼女が抱きしめ返すのが、わかる。父と母は、一体どこへ行ってしまったのだろう。香夏子さんは何も言わない。時計の針の音が俺たちの息遣いを覆い、隠している。

 

 ドアの外で急ぐ誰かの足音が響いて、通り過ぎて行った。雨の音はもうほとんど聞こえない

 

「怖い?」

 

 何を、と聞き返そうとして、何故だか震えている自分に気が付いた。

 

「ごめんなさい」

「いいのよ」

 

 するりと抜けだして、彼女は俺の頭を引き寄せ、自身の胸に押し当てた。彼女の心臓の音がひどくはっきりと聞こえてくる。

 

「ごめんなさいね」

 

 首を振ろうとして、香夏子さんの腕がそれを押しとどめた。身体の震えが、大きくなる。俺はもう一度「ごめんなさい」と呟いて、彼女の胸にしがみついた。

 

「いいのよ」

 

 

 灰色の光の中で、拳を握る。気がつくと、俺は泉の傍に立っている。隣には士郎がいて、じっと俺を見つめている。

 

『これでも君は自分をアヴァロンだといういつもりかね?』

 

「剣ではなく、理想でもなく、この空白に生った新田泉を希求し続ける自己。確かにこれは、アヴァロンとは、いえないな」

 

『泣き虫だな、君は』

 

「うるさい」

 

 

 瞬きを一つ、両腕で繭を突き破った。一気に開けた視界に向かって、俺は叫ぶように言った。驚いたように目を見開く彼女に、俺は思わず微笑んだ。

 

「ありがとう、マクダウェル」

「……礼はいらん。片づけもいい。とっとと帰れ」

「うん。そうした方がいい。もう19時過ぎだ」

「え゛っ」

 

 安堵の息をつく高畑先生に慌てて会釈し、彼の差し出す腕時計の時刻を見やる。19時33分。不味い。長谷川さんに何も言っていない。今日に限って作り置きもないし、大体何かあったんじゃないかと思って、長谷川さんは待っているはずだ。

 

「す、すいません。今日はこれで失礼します」

「もう来なくていいぞ」

「送るよ、泉君」

「ありがとうございます。先生、あの、申し訳ないのですが、」

 

 その先を言わせず、先生はポケットを探り携帯を取り出した。

 

「使いなさい」

「ありがとうございます」

 

 ボタンを間違えないよう、一つずつ、思い出しながら入力する。何度も、何度も。

 

「泉君?」















「も、もしもし? もしもし、長谷川さん?」

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