4月15日(日)
棚の側面にかけられた時計が刻む規則的な針の音、繰られるページの紙の音。
鳴り響くのはそれくらいではあるが、時折隣の惣菜屋から元気のいい声が聞こえてくる。段々とその頻度が高まりつつあるのはもうすぐ昼時だからだろう。けれども泉は空腹に気がついた風でもなくピンと背筋を伸ばして本を読み進める。意識の片隅でガラス戸を開けてやってくる誰かを思いながら、とても静かに。
「泉ちゃーん、もうお昼よー! 休憩しなさい!」
「了解しました」
読みかけていた本に栞を挟んで泉は、机の下に手を伸ばした。
何冊かの古本が置かれた取置棚の手前、二つの弁当箱が入ったトートバッグを掴んで引き寄せた。そして素早く立ち上がり、彼女は「いってきます」をいう。
「いってらっしゃーい」
おばちゃんがいるのでシャッターを閉めるでもなく、ガラス戸の出っ張りに「休憩中」の札をさっとかけるだけ。そして音も立てずに戸を閉めて、彼女は外へ出た。曇天の空は嫌に黒ずんで今にもポツポツと雨が降ってきそうだ。傘を持たない彼女はお弁当の中身を気にかけながら、歩を速めた。
角を曲がって喫茶池波が見えてくる頃には、もう空は雨模様だった。
バッグを抱きかかえ、店内へ駆け込んだ泉にリーゼント頭の少年が手を挙げ、年若い店主はそそくさと奥へ引っ込んだ。
彼の隣のカウンター席へ座り込んだ濡れネズミの彼女は、なんとか雨から守りぬいたトートバッグを膝上にゆっくりと降ろす。少しすると奥から雫が姿を現し、泉に向かってそっとバスタオルを差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ごしごしと髪をこする泉を、豪徳寺は微妙な表情で見つめている。なんと声をかけるべきか迷っているのだろう。もうちょっと丁寧にやったほうがいいんじゃないか、とか。傘持ってないのか、とか。そういう他愛のないことを誰かに話しかけられないほど度胸のない彼ではないのに。
「あぁ、すまない。先に食べててくれ」
それに気がつき彼女がお弁当を取り出すのを見て、さすがに彼も口を開いた。
「いいから。ゆっくりやれ」
「……ありがとう」
口元をほんのわずかに緩める泉と意味もなく水に口をつける豪徳寺、そんな二人をじろじろと表情もなく見つめる店主に、彼らはなんとなく気まずそうに沈黙する――頬を伝う水滴を拭い、彼女はまだ湿ったままの髪と服を放ってバスタオルを返そうと席を立った。
「調子は、よさそうだな」
「今にも風邪を引きそうな君に比べると、そうともいえる」
躊躇いがちな泉から無理やりバスタオルを奪い取り雫はふらふらと奥へ引っ込んでいった。一瞬追いかけようとして、彼女は立ち止まる。肌にまとわりつく衣服の水気が彼女を少し震わせる。4月とはいえ濡れてしまえば少しは寒い。豪徳寺は、相変わらず何も言わない。池波雫はまだ来ない。外からは、かすかに雨音が響いてくる――そして豪徳寺が制服の上着を脱いで立ち上がろうとしたとき、雫がようやく姿を見せた。
刹那刹那、視線がすれ違う。口元に、自身へほんのかすかに微笑を浮かべた雫を見て、豪徳寺は口端を軽く噛み締める――そして泉は顔を雫の間近に近づけて、彼女をつぶさに検分する。先日倒れた人間にしてはひどく血色がいい――何かを振り切るように豪徳寺は勢いよく立ち上がる。そうしてかけられた制服の主に振り向いて「ありがとう」をいい、彼の制服が濡れてしまうことを心配する泉に、豪徳寺は首を振ってそれ以上、何も言わせない。今の彼女には大きすぎるその服を彼女はぎこちなく、しかし丁寧に整えていく。
「似合わないぞ。俺っ子よ」
「あたたかいからいいのさ」
余った裾を胸の前に掲げて、彼女は無心に笑う。
「そんな風に笑ったりもできるんだねぇ、君は」
「俺だって人の……いや、俺だって笑うさ」
誤魔化すように背を向けた泉に何も言わず、雫はさっさと持ち場に戻っていった。
――チェット・ベイカーはとても静かにマイ・ファニー・バレンタインを歌っている
豪徳寺に軽く会釈をして席についた泉はすぐにトートバッグの中身を取り出す。小さな赤いお弁当箱と、二段重ねの青い弁当箱。後者を豪徳寺へ手渡す様子に雫は、気遣うように背を向けたままでいる。そして礼を言って彼は早速フタを開く。千草焼きに筍のおひたし、キャベツとトマトのサラダに付き添うオーソドックスな唐揚げなど色とりどりの内容である。
「ヘイオマチ」
手を合わせて「いただきます」をいう二人に、雫が熱い緑茶を差し入れる。
「で、私にはないのか俺っ子よ」
「……食べるか?」
すでに昼食を貪っている豪徳寺を横目に雫は首を振る。そうしてまた奥へと引っ込んで、彼女は彼らを静かに見つめる――小さかった近所の薫君が美人の女友だちを連れてきた。それもとびきり上等の。ひどく、何かが間違っているような光景――自分もそれなりに年をとったのかなと、彼女は小さくため息をついた。
「今日のは、どうだ?」
「美味い」
「そうか」
機嫌よさ気に頷いて、彼女も千草焼きをつつき始める。
もう最後の唐揚げとご飯を咀嚼し終わった彼は弁当箱の前で手を合わせ、彼女に小さく頭を下げた。やることもなくなり、彼は彼女の横顔を眺め始める――口を少し開いて、彼女は卵を咀嚼し始めた。行儀よく閉じられて最低限の動きしか露わにしない小さな口。慎ましく箸を動かし、泉は上品にこくりこくりと飲み込んでいく。彼がそれを眺めているうちに、いつのまにか彼女は唐揚げを残すのみとなっている。そして垂れ下がった赤い髪の紗幕越しに先程よりも大きく開いたその口が唐揚げを咥え、飲み込むその動きにかすかに、彼は年頃の男らしい劣情を抱く。そうして同時に罪悪感も。
――ちょっとどうかしてるな
「……? どうした?」
「いや、なんでもない」
新田泉は友人としての豪徳寺薫を求めている。それを彼も十分に理解している。彼女には何か事情があるのだということも、さっきの雫との何気ない会話の中でふと、彼にはわからないその「事情」にぶつかり口篭もることからも、それがわかる。けれど彼は徐々に、新田泉という女性に惹かれていく自分を止めることが出来ない。
お弁当を食べ終わった彼女に、豪徳寺は気負いなく声をかけた。
「また、今度ここへ食いに来るか」
「また、ここでか?」
ここでなら誰かの邪魔は入らない。加えて池波雫はこんな風な彼を茶化す人間でもない。時折の微笑以外、ただ疲れたように細めた目を向けるだけで。
「雫さん! いいか?」
「いいともー」
「よし。じゃあ、頼む」
「食費を頂けるのでしたらいくらでも」
「てやんでい。もってけ泥棒」
千円札を大げさな身振りでカウンターに軽く叩きつけ、彼は席を立った。
「そろそろ、時間だろ?」
「あぁ」
「じゃあ、またな」
「あぁ。また今度」
**
『普通のカレー・ライスと違って、實に美味しく頂けます』という文言を信じて、泉はその古本のレシピを採用した。結果は上々、珍しく千雨がこたつから出てキッチンの様子を見にきたほどだ。
「もうすぐ出来るのか?」
「あと30分もかからないと思うぞ」
「なら、大丈夫か」
千雨はケータイを取り出し、時間を確認する。PM6:35、恒例の停電まであと一時間半。
「朝倉から、何か連絡はあったのか?」
「いや。早めに帰ると今朝言ったきりだな」
30分経ってカレー・ライスが完成しても朝倉が帰る気配はない。千雨が電話をかけても、出ない。随分前に止んだ雨がまた降りだした。二人はそわそわとロウソクを用意したり、懐中電灯をセットしたりする。そうこうしている間に一時間半が過ぎて、室内の明かりが途絶えた。薄明かりの中、激しい雨の音が響き渡る。
「もう先に食べてようぜ」
「いや、でも」
「あいつだってこれ以上お前を待たせたなら、すまないと思うだろうよ」
ロウソクの明かりは意外と強く、配膳には何の問題もなかった。電源のついていないこたつに入って、二人は粛々とカレー・ライスを口に運んでいく。
晩御飯が終わり、二人がシャワーを浴びてしばらくしても、朝倉は帰って来なかった。
「部室に様子を見に行ってくる」
そう言って聞かない泉に、千雨はため息をついてこめかみを強く抑えた。そうしている間に制服に着替え、足早にリビングを横切る泉を追いかけようと千雨は上着を引っ掴む――部室へ行こうにも学校のカギは閉まっているし、第一電車が止まってる。歩いてあそこまでいくのは結構骨だ。それもこんな夜更けに、よりによって停電の夜に、この女は一人で雨の中朝倉の様子を見に行くという。そこに朝倉がいるかどうかもわからないのに。
「はぁ。全く。私はついていかないからな」
「すぐ、戻ってくる」
「……傘、持ってけ。懐中電灯も。ほら」
余程焦っていたのか、泉はそのどちらも持たずにドアノブへ手をかけようとしていた。その二つを抱えたまま自分を見つめる彼女に首を振って背を向け、千雨は廊下を戻っていく。
「じゃあ、先に寝てるからな」
「ありがとう」
それだけいって、泉は部屋を出た。
**
「残念だけど、ちょっとそれはできないなぁ」
「申し訳ありませんが、そこをなんとか」
「だからさぁ」
若い警備員はさした傘を逸らさないよう懸命に身体をよじってポケットの中身を取り出し、雑多な物品を掲げてみせる。
「カギが無いんだよ。俺じゃあ、開けられない」
そして閉じた校舎の玄関口を指さし、雨音に負けないように大声を張り上げる。
諦めきれない様子の泉はこうなったら裏から入って窓を破り、破った窓は投影で誤魔化してしまおうか、などとよからぬことを企み始めている。その様子に何か嫌な予感でもしたのか、警備員はため息をつきそうになるのをこらえてなんとか気を落ち着けようと今晩の夕食のことを考える。今日も彼を不可思議に不味い彼女のスペアリブが待っている――そしてそんな虚ろな目が激しい雨の向こうに白いスーツを捉えた瞬間、彼はそれに向かって大音声を張り上げ、猛然と走りだした。長靴に跳ね上げられた泥水が、泉の頬に飛び掛る。彼女はそんな警備員の豹変に驚いて、思わずそこに立ちすくんでしまう。
「どうしたんだい?」
「お疲れ様です高畑先生。どうもさっきからあの子が……」
そんなことを話しながらこちらに向かってくる二人に、泉はもう一度頭を下げた。
「なら、僕が開けよう。彼女はこちらで引き受けるから、君は持ち場に戻るといい」
「ありがとうございます! いやぁ、助かりました! ではよろしくお願いしますね?」
嬉しそうに去っていく警備員にちらとだけで視線を向けて、彼は泉に向き直った。
深々と頭を下げて彼女は謝意を表する。嬉しそうではあるが焦ったように横目で校舎を見据え続ける彼女に、高畑は笑ってポケットから鍵束とハンカチを取り出した。それを見て先を急ごうと早足で歩きはじめた泉に軽々と追いすがり、彼は彼女の頬を伝い落ちる雫をさっと拭きとった。そして鍵束を振って音を鳴らし、高畑教諭はニッコリと微笑う。
「じゃ、いこうか」
「お願いします!」
**
「本当に、ここまでで大丈夫かい?」
「はい。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「カギは明日、返してくれればいい……何を忘れたのかは知らないけれど、急いだほうがいい」
朝倉がもし本当に部室で寝こけていた場合、今日は先生に知られると不味い。そんな泉の考えを、高畑は見通しているのだろうか。火をつけていないタバコを咥えて静かに微笑む彼は、その内心を少しも漏らそうとしない。
「ありがとうございます」
丁寧に礼をしてからすぐさま廊下を駆けていく彼女を、高畑は見えなくなるまで見送った。
急いで部室に入り、電気をつけようとして泉は今日が停電の日であったことを忘れるぐらい、自分が焦っていたことに思い当たる。頬をパンと叩いて、彼女は勢いよく首を振った。そして髪を整えもせず真っ直ぐにソファへ向かっていく。手前のソファで、朝倉は横になって眠っていた。制服の上に何も羽織らず、とても静かに。
「朝倉?」
返事はない。そして息をする音さえほとんど聞こえない。それほど寝相のいいタイプではない朝倉がソファの上から転げ落ちることもなく、どちらかに傾くこともなく「とても静かに」横たわっている。
「おい、朝倉」
肩を掴んで引き寄せて、泉は突然の事態に少し指先を震わせながら、彼女に囁く。返事はない。
パニックになって彼女はエミヤやアイリスフィールに頼ることさえ忘れてしまっていた。どうしよう、どうしようと朝倉を抱きしめたまま、彼女は無意味に頭を回転させる。そしてふと、彼女はどこか、何かがおかしいと唐突に思い至る。何かがおかしい? おかしなことばかりじゃないかと即座に切って捨てようとして、彼女はもう一度朝倉をじっくりと見つめてみる。本当にかすかだが、確かに違和感がある。「いつもの」朝倉とは何かが違う。
人間の身体は日々変化するものだし、朝倉和美は正真正銘の中学一年生。その変化はほとんど急激といえる。そのような変化と勘違いした結果ではないのかと、彼女は自身を疑った(そもそも新田泉は完全に朝倉和美を知っているわけではない)。しかしそれは「いつもの」朝倉の変化だ。例えばこけて膝をすりむいた朝倉の変化はそのような変化から逸脱しており、そのときも泉には「違和感」となって発露した。なら、どこか怪我をしているのか?
それから泉は悪いとは思いながらも朝倉の身体を徹底的に調べてみたが、外傷は全く見当たらなかった。彼女の解析の結果からすると何かの病気という風でもない。ならば何が原因なのだ。泉は行き詰まり、再びどうすればいいのかわからなくなる。そして今度はすぐに思い当たる。彼女に頼ってみようと。
「クラスメイトの誼だ。食券10枚で手を打とう」
「ありがとう。本当に」
受話器を下ろし、泉は次いで千雨に連絡を入れる。当然のように、彼女は眠らずに待っていた。
「あいつ、どこか悪いのか?」
「いや。身体が悪いとか、そういったこととは違うさ」
「……そうか」
「遅くなると思う。先に眠っておいてくれ」
「言われなくてもそうする。お前もあまり、無理はするなよ」
「えっ?」
「じゃあな。また明日」
急いで電話を切った千雨に、泉はまた「ありがとう」をいう。そして朝倉を抱きかかえ、部屋を出た。
**
泉がチャイムを鳴らそうとボタンに指を伸ばした途端、部屋のドアが素早く開いた。
腕だけをにゅっとつきだし、軽々と朝倉を奪い取った巫女服姿の龍宮は駆けるように来た道を引き返していく。泉も、小走りに彼女の後を追った。
「失礼します」
彼女が部屋についたときにはもう、朝倉はベッドに横たえられていた。
膝に朝倉の頭を乗せて、以前泉にやったようにその「目」を朝倉に向けたまま龍宮は微動だにしない。泉はただ、心配そうにその様子を見守っている。
「あの様子では、すぐには終わらないでしょう」
二段目のベッドから飛び降りて、刹那は泉と目を合わさずにポツリと呟いた。
「そうか」
「えぇ。一旦、お帰りになったほうがよろしいのでは?」
「いや。悪いが、ここで待たせてもらう」
「何も悪くなど、ありませんよ」
「ありがとう」
ストレートにそう言われて刹那は、訳知らず刀の柄を握りしめた。そんな刹那を他所に泉はじっと朝倉に目を注いでいる。
彼女だって別段、新田泉という得体のしれない「何か」に警戒心を抱いていないわけではない。だから泉にそんな風に言われると彼女はどう反応すればいいのか、よくわからなくなる。上司の頼みにただ応え接するべき相手なのか、そうではないのか。
室内はテーブルの上に据えられたランプのおかげで、ひどく明るい。19世紀のガスランプのように思えるそれはおそらく魔法世界のものだろう、薄く自然な緑の光の粒子が燦々と舞い上がり、部屋全体を照らしている――気を取り直して刹那は泉に声をかけ、テーブルのイスを引いた。軽く会釈をして席についた泉を見て彼女も対面の座につき、刀をテーブルに立てかける。
「雨が、ひどいですね」
「あぁ」
気遣うように声をかけてくれる彼女に泉はやっと向き直った。白いパジャマを着た彼女はきっと、もう眠ろうとしていたのだろう。
「警報は出てないか?」
「出ているのかも、しれません」
突然、雷が落ちた。ひどく近くに落ちたのか、窓の向こうではほとんど光と音が同時に生じて、すぐに消えていった。
「心配ですね」
頷いて、泉は朝倉を見やる。刹那も一緒になって、彼女を見つめ始める。
**
三時間近い検査が終了し、途中、救援に駆けつけた大柄な魔法生徒に朝倉の看護を任せて三人はテーブルを囲み、協議を始めた。彼女等の手元には刹那の入れた緑茶が置かれている。湯気立つ茶に口をつけ、まず龍宮が口火を切った。
「結論から言うが、朝倉は記憶を弄られている。それも極めて巧妙に」
「何?」
「朝倉さんが、か?」
自然、表情が険しくなる泉に龍宮は若干呆れたような視線を向ける。
「正直に言って、新田、お前が指摘しなければ私は絶対に気が付かなかったよ」
「それほどか」
「よくわからないんだが、それはどういう類の巧妙さなんだ? 朝倉に何か悪影響があるのか?」
「いいやそれはない」
「……よかった」
心底安堵したように息をつく泉を尻目に、龍宮は話頭を引き継いだ。
「朝倉は以前にも記憶を消されたことがある」
「まぁ、朝倉さんはああですから、そういうこともあるでしょうね」
「その痕跡は簡単に見つかった。魔法先生の処置だ」
「何か、知ってはいけないことを、知ってしまったわけか」
首を縦に振る龍宮に、刹那が口を挟む。
「それで、今回は誰の仕業だった?」
「わからない」
「わからない?」
信じられないというような顔をする刹那に、龍宮は肩をすくめる。
「言っただろう。「極めて巧妙」な手口だと」
茶をぐいと飲み込んで、龍宮は小さく息をついた。
「普通、記憶の部分消去のためにはその記憶がどこにあるか大体の当たりをつけて消去し、代替記憶を他の記憶領域から既製魔法でミキシングして補完するだけだ。その魔法の種類によって結果が決まってくるから、大方の見当はつけられる。しかし今回の相手はピンポイントに記憶消去を行い、他の記憶領域から抜き取った記憶を巧みに組み合わせてその日の記憶を違和感なく再構成させている」
「それは、そこまで凄まじいことなのか?」
やけに深刻な語調で語り続ける龍宮に、刹那はよくわからないと言った風に問いかけた。
「まず消したい記憶を、相手を害することもなしに正確に探りだすなんて真似からして不可能に近い。現今の記憶の部分消去に用いられる魔法群はほとんどもう発展の余地がないとされている、それぐらい完成された魔法群だ。実際人間の広大な記憶領野に検索をかけることはかなりの負担を要するし、念入りにやれば結構な時間もかかる。相手はそれをほとんど時間もかけずに完璧にやりおおせ、それと並行して他の記憶領域を探って補完用の記憶をピックアップし、部分消去を行ったころにはもう補完準備が完了しているといった具合だ。記憶魔法に関しては一級以上どころか革命的だといってもいい」
「そ、それはすごいな」
よくわからずに冷や汗を流す刹那は逃げるように泉を見やった。そして――なぜそのような記憶操作に、新田泉は気がついたのだ?――彼女の冷や汗はすぐに引っ込んだ。再び募り始める警戒心に刹那は少し安堵する。
「あぁ。そして、本当に厄介な相手だ」
「まるでお前の敵のような言い方だな」
「敵だからな。なにせ相手はおそらく、新田を狙っている」
「なんだと?」
低く、何かに怒ったような声で泉が言う。何事かと魔法生徒が振り向くのを龍宮が手で制した。
「学園長から聞いていなかったか? 新田、お前の護衛は私だ。もう一人は……あとのお楽しみとするか」
「聞いていない。今はいい。それよりなぜ、そいつが朝倉を狙っていると判断した?」
真っ直ぐに射抜くような視線を受けて、龍宮は平然と答えを返す。
「なぜ、わざわざ朝倉を狙ったか。可能性としては1年A組に含まれる魔法世界における重要、あるいは危険人物の情報を狙ったか、もしくは麻帆良学園の情報を狙ったかといったことが考えられる。しかし後者は別段朝倉である必要はないし、今の彼女以上に麻帆良を知っている一般人はいくらでもいる。ここまで巧妙な手口を使うにしては筋の通らない話だ。前者なら、まだわかる。しかしそれならば、例えば新田先生のような一般の教師を狙い定めるなりなんなりすればいい。わざわざ朝倉を狙う必要はない。ならばなぜ?」
「それで、俺か」
「そもそも朝倉を知っていた時点で他の人間の記憶も弄っている可能性が高い。その上で彼女を狙ったと考えるなら、新田泉と同室で、新田泉の情報を探っていた彼女を狙ったのだと言う方が自然だろう。あくまで可能性の話にすぎないが、警戒するには十分な推測だ」
「ちょっと待て。なぜ朝倉がそんなことをしていたとわかる」
「私が護衛対象にとって危険となりうる情報を掴んでしまった人間を、そのまま放っておくとでも? まして、公衆の面前でそれをいってしまいそうになるような」
「誰の記憶を消した」
「黙秘権を行使する」
「答えてくれ、龍宮」
両手のひらを組んで祈るように額を押し付け、泉はかすれた声で懇願する。そんな彼女を、刹那は横目に注視する――私は、こんな風に友達のために苦しむクラスメイトを、義務感と利己的な理由のためだけに接し、警戒心を言い訳にして、遠ざけたままにしておくのか?
「朝倉和美、豪徳寺薫、宮崎のどか、新田春夫、新田かなえの計五名だ」
「……そうか」
悔いるように、噛み締めるように泉は言う。
「責めないのですね」
「龍宮は、何も悪くないさ」
俯いたまま、なんとか言葉を吐いていく彼女に刹那はそれ以上声をかけられない。
そんな二人をテーブルに残して龍宮は席を離れた。魔法生徒に声をかけて朝倉を医務室へ届けてくれるよう指示し、彼女がテキパキと担架に保護魔法をかける様子から龍宮は目を逸らす。そして黙ったままの二人を見て、彼女は思い直したように魔法生徒に承諾を得て、二人に声をかけた。
「朝倉を医務室へ運んでくる。刹那、新田を頼む」
それからすぐに彼女たちが行ってしまってから、耐え切れなくなった刹那は立ち上がってキッチンへ逃げ込んだ。いつもよりも長い時間をかけて、彼女は緑茶を丁寧に入れる。ようやくテーブルに戻った頃には泉は表面上、いつもの表情に戻っていた。そこには悔恨も怒りも悲しみも窺えない。
「どうぞ」
「いただきます」
茶で舌を湿しながら、刹那は彼女に向ける言葉を必死に考え続ける。だが一言だって口をついて出てきはしない。そんな彼女を気遣い、泉は自分の方から声を出した。
「俺は、無防備でいることで無害な危険人物であろうとしていた。そうすれば、自分が害されるだけで済むと思っていた」
いつものように無表情で、授業で高畑先生に名指されて答えを返すのと変わらない声で、泉は言い続ける。
「でも、そうじゃなかった」
首を振って、軋みそうになる何かを彼女は必死に振り払う。
「甘かったんだ」
「新田さん、違います。あなたが悪いわけではない」
小さく頷いて、囁くように「ありがとう」をいい、彼女は刹那に顔を見せないように俯いて、震える声で言い募る。
「やっぱり、俺は、黙って見ているなんて、出来ないよ」
「泣いて、いるのですか?」
雨の音とは違う、水音がかすかに響いている。刹那はそんな泉に手を伸ばそうとして、中途で押し留めた。代わりに息を思い切り吐いて、気を整える。そして背筋を綺麗に伸ばし、凛とした表情で刀を握り、立ち上がった。
「誰かを守りたいと思うことは、間違ったことではないと、私は思います」
「桜咲さん……?」
「そしてそれはひどく難しいことで、私たちの手では、やり遂げられることではないのかもしれません」
「でも、」
「そうです。それでも手を伸ばすべきなのです。だって……だって私はお嬢様のことが大好きなのですから」
自嘲するように口端を噛んで、刹那は泉に背を向けた。いつのまにか俯くのをやめて、泉はそんな彼女を見上げている。
「自分を鍛えたいと思うのなら、私が手伝いましょう。でも、今日はもう帰って眠ってください。もうすぐ、四時になりますから」
「どうして、」
「分かりません」
刹那は「おやすみなさい」と言い残して、梯子を登り、二段目のベッドに戻っていった。少ししてから、泉も立って電気を消し、彼女に「おやすみ」をいい、音を立てないようにして外へ出た。
**
開いたままのカギに首を傾げながら泉が部屋に戻ると、ロウソクの火はまだ煌々と揺らめき続けていた。そしてその中央、こたつに足を入れて目をこすりながら大して読みたくもないマンガのページを彼女が乱暴にめくっている。
「随分、遅かったな」
「……長谷川さん」
「朝倉は、どうだった?」
「大丈夫。心配ない。明日からは授業にも出られるさ」
「そうか。じゃ、もう寝ろ」
「長谷川さんは?」
「キリのいいところまで読んだら寝るさ」
大きくあくびをして、千雨はひらひらと手を振った。
泉は軽くシャワーで身体を洗い、彼女の言うとおりにすぐベッドへ横になった。しばらくして彼女が梯子を登る音が伝わってくる。眠っていると思い込んでいるのか、千雨は少し泉の顔を覗き見て、訝しげな顔つきをしたまま通り過ぎていった。
けれど泉は眠ることが出来ない。時間は6時前。もうカーテンの隙間から日差しが入り込んできている。
彼女は起き上がり、カーディガンを羽織って外へ出た。ゆっくりと、彼女を起こさないように注意して。
そして廊下の端にある公衆電話の前まで来て、少し悩んでから、彼女はテレフォンカードを差し入れた。受話器を上げ、彼女はその番号をプッシュする。まもなく、相手が受話器を上げる音がする。
「はい、もしもし?」
「もしもし」
「……泉ちゃん?」
「あぁ。起こしてしまって、すまない」
「どうしたの? 何かあったの?」
「いや、あの。なんとなく、電話を、したくなったんだ」
「あら嬉しい」
そして、それきり言葉が出てこない泉をおいて、かなえは独り言のように語り始めた。
「ねぇ。覚えてる? 泉ちゃんがこの家を出て行った朝のこと」
「覚えてる」
「私たちはね、本当は泉ちゃんを寮にやるつもりは、なかったの。ここであなたを育てていくつもりだったのよ。でも、やっぱり出来なかった」
「えっ」
「だって私たちじゃ、あなたを守ってあげられないもの」
「そ、そんなこと」
「ごめんね。変なことをいって……ねぇ、泉ちゃん。学校は楽しい?」
「あ、あぁ! 楽しいさ。すごく、すごく楽しい」
「それならいいの」
泉は受話器に強く耳を押し当てる。できるだけ、彼女の声に近づけるように。
そして、彼女の息遣いが伝わってくる。ゆっくりと言葉を選ぼうと、何度か腕を組み替えるその動きも。小さく息を吸い、空いた左手で髪をすくそのかすかな音も。
「――大好きよ、泉ちゃん。ごめんね。うまく言えなくて」
「……俺、俺は」
「ふふっ。もう、眠りなさい。いい子はとっくの昔に、寝てなくちゃいけない時間よ」
「あぁっ……そうだな。おやすみ」
「おやすみ、泉ちゃん」
かなえが受話器を置き、もう声が聞こえなくなると、泉も静かに受話器を置いた。
振り向いて、窓から射し込んだ陽の光に彼女は目を瞬かせる。そしてグイッと目元を拭い、小さく、何かを誓うように呟いた。