基本的にインドア派の長谷川千雨にも、たまには外に出てぶらつきたくなる日がある。
無愛想な店主が営む喫茶店に入り、本を読むでもなくちびちびとグレープジュースを啜る。どこへいくでもなく、窓越しに服を見たり、電化製品を見たりする。けれど大抵店には入らない。それは商品を勧める店員を追い払ったりするのが面倒だからでもあり、「いらっしゃいませ!」というような大きな声を聞くのがなんとなく嫌だからでもある。だからこそ、彼女はその物静かな喫茶店を好んだ。
ゲームを買うにしてもネットでなんとかなるし、同人誌ならなぜか図書館島に所蔵されている。そうなれば彼女がわざわざ人ごみにまぎれて秋葉原へ行く必要もない――根が引き籠りである彼女の外出はこのような、気楽に孤独なものだった。
「ふーん。こんな本が一万円ねぇ……」
そんな彼女にも前述の喫茶店のような付き合いのある店がある。友人のバイト先の古本屋だ。その友人はこんな風に呟きを漏らしても反応しない種類の人間であるので――あるいは千雨がそれを嫌うことを知っているからなのか――気兼ねなく立ち寄ることができた。
狭苦しい間取りの中にはこれでもかと本棚が並んでいる。
彼女はテキトウに一列目の棚から一冊の本を引き抜いた。北村初雄という詩人による詩集、お値段二万円。呆れたように「こんなゴミみたいなものが」と言いそうになるのを堪えて、彼女はパラパラとページをめくっていく。そうして自序を飛ばし、最初の詩「秋」を読んだ。
姉上よ、
朝晝のさかひに、
帽を振るなり。
手を取りて、
窓に
(入江、
船の数)
海藻は
風にひらひら、
ものゝ八日。
姉上よ、
我等、
日を算えにき。
その他の詩をいくつか流し読みして、彼女は本を閉じた。
別に悪くないが高すぎると内心で毒づきながら友人の前を横切り奥の本棚へ。そこには画集や絵本、その他マンガに同人誌、文庫本などが雑多に並んでいて、どれもビニール袋で包まれてもいず立ち読みし放題だ。じっと本を睨んで彼女は横へ縦へ書名を順々に辿っていく。そして丸尾末広という見知らぬ漫画家の本が彼女の目に留まる。少しばかりその『少女椿』をパサリ、パサリとめくったかと思うと、彼女は勢いよく本を閉じた。
「エロ本より性質が悪いぜ……」
本当に嫌そうな顔をしながら、彼女は鶏に目玉を啄ばまれた女、その女に首を食い破られた鶏その他もろもろを忘れ去ろうと首を振る。素早く振りかえり、壁面の棚――和洋問わずたくさんの絵本がぎっしりと詰まった――に目を向けた。とにかくなんでもいいと目についた絵本を手に取って、彼女は再び友人の前を横切っていく。
「席、借りるぞ」
「どうぞ」
少し顔を上向けるだけで千雨の方を見もせずに、彼女はそれだけいって本の続きを読み始めた。まったくご立派なバイト様だと口端を歪め、彼女は角に据えられた椅子に腰を降ろした。
千雨は本当になんでもよかったらしいのだが、その絵本"The Lost Thing"(Shaun Tan)が英語で書かれていることは予想外だったようである。しかしものは試しだ女は度胸、打倒アメリカホームランと妙に意気込みながら彼女は絵本を開いた。
ケータイ内蔵の英語辞書を駆使しながら、彼女はなんとかかんとか絵本を読み進めていく。
意外と文章量の多いその奇妙な絵本にしり込みしながらも、彼女は読むのを止めなかった――主人公は趣味で缶のフタを集めている、眼鏡をかけたオタクっぽい細身の少年だ。彼は日頃から街で、学校で、海でと缶のフタを拾い集めるのに余念がない。だから当然その日も彼は、フタを集めるために街をぶらついていた。けれどその日彼は缶のフタではなく奇妙なものを見つける。触手の生えたポットというかなんというか、とにかく妙な赤い物体だ。けれどこの目立つ物体に誰も気がつかない。暇人の主人公だけがそれを直視している。それが"The Lost Thing"であるというわけで、彼は好奇心からそれを家に持ち帰る。しかし当然親はそんなもの捨てて来なさいと嫌な顔をする。子供である彼はその通りにせざるをえない。けれど彼はモノ好きなことにその物体の持ち主を捜しまわり始める。だがどうしても見つからない。見つかるのはこの何かをゴミとして処分してしまう場所だけ。
千雨は息を吐いた。大分『少女椿』の余韻が減殺され、満足したのだろう。もう面倒だと絵だけを見ながら颯爽とページをめくっていく。
「ふぅー」
本を返しに立ち上がると、見るともなく友人の手元の本が目に入った。ブックカバーをしてはいるものの、それは少しく意外なことにマンガである。何を読んでいるのかとちょっと覗いてみるとブロッケンJr.が右肩に食いついたミスターカーメンを自身の肩もろとも投げ飛ばしていた。
「何ゆえに『キン肉マン』……」
「早乙女さんに借りた」
それ以上何かいうつもりはないのか、泉は千雨に構わずペラリとページをめくった。
千雨もさっさと泉を通り過ぎて絵本を棚に戻し、窓際の特価本コーナーを漁り始める。三つのバケット籠に詰み込まれた本はどれもボロボロであるが読むのに支障はないというものばかりで、本の背にはぺったりと値札が張られている。
まとめて取り出した本を脚立に一旦置いて、彼女は顔を横向けた。パッと目についたのは『人類の星の時間』500円、『虚数の情緒』700円、『消えるヒッチハイカー』400円。彼女は一番安い『消えるヒッチハイカー』を手にとり、目次に指を添えた。アメリカの都市伝説の本なんて買ったって仕方がないかと籠に戻し、もう一つのバケットから中身を取り出しにかかる。
最終的に残ったのは、余程読みこなせなかったのが悔しかったのか『絵本翻訳教室へようこそ』150円と、最近は珍しいゲームブック『送り雛は瑠璃色の』100円の二冊だった。「ぐぬぬぬ」と小さく唸りながら彼女は本を開いては閉じ、開いては閉じを繰返す。しかしそれでも決められないのか一旦二冊を脇に抱えて、彼女は確かめなくても分かっている財布の中身を確かめる。
喫茶店に寄らなければよかったと後悔しながら、彼女は『送り雛は瑠璃色の』を渋々籠に戻した。
「これをくれ」
「150円になります。はい。ありがとうございます」
泉が手慣れた手つきでファンシーなピンクの紙袋に本を入れ、テープで留める様を千雨はぼんやりと眺めていた。エプロンをつけた他人のような友人の姿は少し冷やかで、いつもより遠いもののように感じる。けれど彼女には不思議とそれが気安かった。
「ありがとうございました」
紙袋を受け取り、千雨は古本屋を後にした。
入ったころにはいい具合に曇っていた空はバカみたいに晴れ渡っていて、陽射しが痛いぐらいに眩しい。彼女は俯き気味になって早足で歩き始める。脇に抱えた紙袋の感触が温かい。その温かさになぜだか彼女はすぐテープをはがして中身を取り出したい衝動に駆られる。
赤信号に捕まって横断歩道で立ち止まったとき、彼女は堪え切れずにテープを引き剥がした。必要もないのにきっちりと紙袋を畳んでポケットに入れ、彼女はゆっくりと最初のページを開いた。
信号が青に変わり、彼女はふらふらと横断歩道を渡っていく――ポケットの中に感じる紙袋の温度、排気ガスの重い匂い、日射しに渇いた口の中――汗を拭いもせず、自販機に目もくれない彼女はどうやら本に熱中して、外にいることを少し忘れているようだった。