ヘルマプロディートスの恋   作:鏡秋雪

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第4話 感謝と祈り【コートニー2】

 キーン! そんな甲高い音と共にリトルネペントは爆散した。

 目の前に今の戦闘で獲得した経験値と獲得金額が表示された。

「やったー」

 僕は小さくガッツポーズすると、前衛を務めているジークが微笑みながら手を高らかに上げて近づいてきた。

 パーンとハイタッチ。

 僕は笑顔をジークに向けると、ジークの表情が凍りついた。

(え?)

「だれだよ。お前」

 ジークの目が冷やかに僕を見つめている。

「な、何を言ってるの? 僕はコートニーだよ」

「お前、男じゃないか」

「え?」

 僕は両手を見る。変化がよくわからない。ジークを見ると彼は僕にあの茅場の手鏡を手渡した。

 手鏡には頼りなさげな線の細い男の子……僕がいた。

「私を……騙していたのか?」

 ジークの声が怒りのために震えている。

「だ、騙してたわけじゃ。そんなつもりじゃ……」

 膝がガクガクと震え全身の力が抜け、僕は思わずその場にしゃがみ込んでしまった。

「私を騙して、こんな危険な場所に……危険な前衛に立たせていたのか!」

 ジークは怒りの絶叫を上げた。

「違う……違う……」

 僕はその声に罪の意識が沸き起こり心を握りつぶされ震えた。おずおずと見上げると、ジークはソードスキルを発動しまさにそれを振り下ろそうとしていた。

「死ね!」

 ソードスキルに輝く刃が僕の身体を切り裂いた。

 

 僕は目を覚ました。

 鼓動が早鐘のように脈打っている。夢……だったんだ……。

 夢とは違って穏やかな部屋の風景だった。僕の部屋ではない。昨日、ジークと一緒に泊まったソードアート・オンライン内の宿屋の部屋だ。視界の隅を見ると七時三〇分の表示があった。いつもならこの時間に起きて学校への支度を始めるところだ。

(夢……か)

 寝返りをうってみると、一緒のベッドに寝ていたはずのジークの姿はない。

 目を閉じると再び睡魔が覆ってくる。八時まで寝てしまおうか。

 しかし、脳裏に怒り狂ったジークの姿がちらついた。もう、今日は眠れそうにない。起きよう。

 僕は起き上がって周りを見回した。

 ジークが部屋の壁に設置された鏡で自分の姿を見ている。

 茅場の手鏡によって姿を現実に戻されて、このアインクラッドという仮想空間に閉じ込められているのだ。自分の姿を確認したくなる気持ちはとても理解できた。

「おはよう」

 僕はそうジークに声をかけた。

 嫌な夢を見たせいか体が熱い。僕は布団を一気にめくりあげてどかした。

「おはよ……」

 ジークの柔らかい声が急に止まって、鋭い叫びに変わった。「コー。ちょっと。ちゃんと起きて! 服を整えて!」

 僕はベッドの上の白い美しい太ももと白い下着を見つめた。

 自分のアバターだけどこれは艶めかしすぎる! 恥ずかしすぎる!

「回れ右!」

 僕はジークへ叫んだ。

「はいっ!」

 ジークは軍人のようにきびきびした動作で僕の言葉を実行した。

 その間に僕は右手を振り下ろしてメインメニューを呼び出して革鎧に着替えた。

「OK。こっち見ても大丈夫。まったく、油断も隙もない!」

 あきれたのか、ジークが僕の言葉にため息で返してきた。彼はちょっと怒っているかも知れない。

 つい、夢の中の怒り狂ったジークが頭に浮かぶ。いつか、あんな日が来てしまうのだろうか? あんな事になるなら今のうちに自分が男性である事を伝えた方がいいのだろうか。

 そんな事を考えながら僕はジークの横をすり抜けた。「行こ」と短く彼に言う。

 その時、さっきジークが見ていた鏡が目に入った。

 僕は鏡に近づいて覗き込む。

 儚げな長い黒髪の少女が僕を見つめていた。

 本来の姿であればこんな気を遣う事はなかった。でも、この姿だからこそジークと一緒にいられる。そのジレンマが僕の心でぶつかり合って、思わずため息がこぼれた。

 僕は身をひるがえして部屋の扉を開けた。

 

 村にある武器屋に向かう間、僕はずっと無言で考え続けた。

 今のうちならちゃんと打ち明けてジークとの関係を再構築できるのではないか。

 盗み見るようにジークの表情を伺うと浮かない表情をしている。朝の出来事でちょっと怒っているのかもしれない。

 武器屋の前で僕は意を決した。ちゃんと話そう!

「ジーク。あのね!」

 ジークは僕の言葉に振り向いて優しい瞳で見つめてきた。僕はその瞳を受け止められなくて頭を下げた。

(言え、言うんだ)

 僕は自分を叱咤激励した。でも……言えなかった。

「ごめん。ジークはなんにも悪くない。だから……これからも一緒に狩りをしよう? 僕はジークをとても頼りにしてるんだよ」

 口から出た言葉は朝の出来事の謝罪と一緒に戦ってほしいという思いだけだった。

「大丈夫。気にしてないよ。その期待に応えられるように頑張るよ」

 おずおずと僕が頭を上げると、ジークは優しい微笑みで迎えてくれた。

 その優しさがちくりと僕の心を突き刺す。

 ジークは武器屋の扉を開けて中へ入って行った。

 僕は武器屋のNPCに昨日の戦利品≪毛皮≫や≪オオカミの牙≫を売った。昨日の戦闘ではポーションはほとんど使っていない。このお金でジークの盾を買ってあげれば、彼はワンランク上の鎧が買えるはずだ。

 僕はカイトシールドの金額を確認した。買ってもまだ残金に余裕がある。カイトシールドはこの時点でかなりいい装備だ。これがあればジークの戦いはだいぶ楽になるだろう。

 隣を見ると、ジークが早くも防具を買おうとしていた。

「待って。僕、お金に余裕があるから盾を買うよ。ジークはリングメイルを買って」

 僕は今にも装備を買ってしまいそうなジークの右手を握って止めた。

「でも、次に戦うのは≪リトルネペント≫でしょ? 耐久がバリバリ減っちゃうからもったいないよ」

 ジークは顎に手を当てて考えた。リトルネペントは植物型のモンスターで時折、腐食液を吐き出す。確かに浴びればヒットポイントと装備の耐久が大幅に減ってしまう。

「大丈夫。ちゃんと、避ければ!」

 僕はそう言いながら、カイトシールドを購入してジークにトレードで渡した。

「いいの?」

 ジークがなかなかトレード受領のボタンを押さずに申し訳なさそうに言った。

「貰うのが嫌なら出世払いにするよ?」

 僕は冗談めかして言う。

「ありがたくいただきます」

 ジークは頭をかきながらトレード受領のボタンを押した。

 こんな他愛のない、やり取りに思わず笑みがこぼれてしまう。ジークを見ると彼も笑っていた。

 そんな彼を見て僕の心にほっとした空間が広がった。

 ジークは購入した装備を身に着けた。

 防具はリングメイルにカイトシールド、武器は初期装備のショートソード。防御面で言えば第一層の迷宮区の直前まで通用する装備だ。武器の方はこの村で受けられるクエスト≪森の秘薬≫の報酬≪アニールブレード≫を手に入れればよい。それまでの辛抱だ。

 ジークの表情は満足感と不安が入り混じっていた。きっと、装備がよすぎて大事に使わなければなどと考えているのだろう。けれど、装備は使ってなんぼだ。装備が傷むのを恐れて死んでしまっては本末転倒だ。

 僕は昨日から温めていた提案を口にすることにした。

「あのさ、これは提案なんだけど。嫌なら断ってね。断っても、僕は怒らないから」

 僕はそう前置きして慎重に言った。「レベル2になるとスキル枠ふえるじゃない。それを≪鍛冶≫にしない?」

「ああ、なるほど」

 ジークは瞬時に僕の考えを理解して頷いてくれた。「いいね! それ!」

 そう、鍛冶スキルを取れば武具の耐久回復をすることができる。たまに失敗することがあるけれど、使いつぶすよりかなりマシだ。

 そして、ジークは隣の道具屋で回復ポーションと解毒ポーションを購入した。僕が買ってあげてもよかったかも知れないが、遠慮深いジークの事だ。断固拒否してきそうなのでやめる事にした。

「準備OK?」

 僕はタイミングを見てジークの顔を覗き込みながら聞いた。

「うん」

「じゃ、クエスト受けに行こ」

 僕たちは村の奥にある民家にむかった。そこが≪森の秘薬≫クエストを請け負う場所なのだ。

「こうやって、ちょっと無理をしていい装備で戦えば、死ににくくなるよ」

 その民家に向かう途中、僕は両手を後ろに組みながら言った。脳裏に今日見た悪夢がよみがえる。『私を騙して、こんな危険な場所に……危険な前衛に立たせていたのか!』そう言う夢に現れたジークに心の中で謝る。

「そうだね」

 ジークは頷いてちょっと考え込んだ後、足を止めて僕に言った。「コー。あまり私に気を遣わないで。思っている事をぽんぽん言い合おう?」

「うん。ありがとう」

 僕は笑顔を返して、すぐに俯いてしまった。

 僕が思っている事……。僕は実は男なんだよ。そんな事を言ったらジークは……。

 何気ないジークの優しい言葉は僕の心を傷つける。でも悪いのはジークじゃない。全部僕だ。

 

 

 民家に入ると台所で鍋をかき混ぜているNPCが最初に入室したジークに振り向いて言った。

「おはようございます。旅の剣士さん。お疲れでしょう、食事を差し上げたいけれど、今は何もないの」

 これがクエストスタートの合図だ。ここから会話を進めて≪リトルネペントの胚珠≫を持ってきてほしいと依頼を受けるまでうんざりするほど長い。

「始まったね。僕も受けられるかな?」

 僕はベータテストの嫌がらせを思い出した。

 確か、ベータテストの時は一人がクエスト受けを始めると誰も受けられなった。妙なところでリアルなソードアート・オンラインらしいところだ。だが、それを悪用してクエスト受けの途中で放置する嫌がらせが流行した。ベータテストの間に不具合として多くのプレーヤーがGMコールしたはずだが、正式サービスの今はどうだろうか?

「やってみるしかないよ」

「うん」

 僕は頷いて、NPCに話しかけた。「おはようございます!」

「おはようございます。旅の剣士さん。お疲れでしょう、食事を差し上げたいけれど、今は何もないの」

 NPCは僕にクエストスタートと同じように語り始めた。以前は『おはようございます』と返事を返すだけだったような気がする。

 これは脈ありかもしれない。これでジークが話しかけてクエスト進行が止まっていなければ修正されている事になる。

「何かお困りですか?」

 と、ジークがNPCに語りかけるとNPCの頭上に【?】の表示が現れた。

「剣士さん。実は私の娘が……」

 NPCは続きを話し始めた。

 どうやら、複数の別々の人が話しかけてもクエストが進行するように修正されているようだ。これは良アップデートだ。

 ソードアート・オンラインのクエストの導入部分は凝りすぎていてどれも長い。昔ながらのモニター型のゲームなら連打でメッセージを飛ばせるが、ここではそうはいかない。こういう部分もリアルさを求めた結果なのだろう。初めて体験する時は新鮮だが、私たちはベータテストに続き二回目だ。もう、いい加減にこのシステムには嫌気がさしている。

 僕たちは長いクエスト導入部分をようやくクリアして同時にクエストを受けるとパーティーを組んだ。視界の左上の自分のヒットポイント表示の下に≪Siegrid≫という表示と彼のヒットポイント表示が追加された。

 僕たちは≪リトルネペント≫の湧く森へ向かった。

 途中、村の大工屋が目に留まった。

 ソードアート・オンラインでは自分専用の家を購入することができる。もちろん、それはだいぶ先、かなりの金額をため込まなければ不可能だが……。大工屋はその購入した家の家具を買うことができる。そういった自宅のカスタマイズもこのゲームのセールスポイントだ。

 ふと、僕の頭にあるアイディアが浮かんだ。

「あ、ごめん。ちょっと買い物」

 僕はそう言い残して大工屋に飛び込んだ。

「商品を見せて?」

 僕はNPCに話しかけた。

「いらっしゃい。お嬢さん。色々あるよ!」

 そうNPCは返事をして、僕の目の前に取り扱っている家具類がメニューとして並んだ。

 僕は四人掛けのダイニングテーブルを買って、すぐに外に待っているジークの所に戻った。

「何買ったの?」

 怪訝そうにジークが聞いてきた。

「秘密ー」

 作戦がうまくいったらいいな。僕はうまくいった時の事を考えると笑みがこみ上げてきた。

 

 僕の狩りはいつも地形調査から始まる。

 僕は狩場近くの地形をぐるぐると歩き回り状況を確認する。こうすることで逃げて行ったら行き止まりでした。とか、逃げて行ったら別のモンスターの湧きポイントに飛び込んで袋叩きにあってしまう。なんていう事がなくなる。それに、僕の投擲スキルを生かせるような地形を探すという目的もある。効率は悪いかもしれないけれど嵌れば途方もない稼ぎが得られる方法だ。ついでに投擲用の石を集めるという目的もある。

 僕は地面に落ちているものに視線を走らせながら適当な大きさの石を見つけてはひょいひょいと拾っていく。視線の先の木の根元に見慣れないものがあった。あれは……。

「あ! あれ! リトルネペントの胚珠じゃない?」

 僕は声を上げて指差した。

 この胚珠を手に入れるにはリトルネペントを狩り続け、たまに湧く≪花つき≫と呼ばれるレアを狩らなければならなかったはずだ。地面に落ちているものじゃない。けれど現実に目の前に……。

 これを拾えば一人分のクエスト達成だ。

 僕は何も考えずに走り始めた。

「コー気を付けて!」

 後ろからジークの声が飛んできた。

 ああ、そうか。罠って事もありうる。これを拾った瞬間に襲いかかってくるとか。でも、拾ってみなくちゃ分からない。

 僕は胚珠を拾い上げた。その途端、胚珠はカシャーンという音がして砕け散った。どうやら、耐久度がたった今ゼロになってしまったらしい。

 ソードアート・オンラインのアイテムのほとんどは耐久度というパラメータが存在する。野外に置かれたアイテムの耐久度は時間が経つにつれて減少し、ゼロになった時点でこの世界から消える。つまり、胚珠も長時間野外に放置された故に消えたのだろう。

「どういう事だろ?」

 僕はジークに聞きながら首を傾けて考えた。

「誰かがここに置いたんじゃないかな? 何時間か前に」

「結構、レアだよ。胚珠ってなかなか出ないじゃん」

「たまたま同時に出て、置いてったとか?」

「確かに一人一回しか受けられないクエストだけど……。でも胚珠をプレーヤーに売ればいいじゃない」

「それもそうだね……」

「ま、いいか。すごい残念だけど」

 ここに胚珠を置いた本人に聞かない限り、結論は出るわけがない。ものすごい残念だけど、消えてしまったものをいつまでも嘆いても戻ってくるものじゃない。要は狩りをして胚珠をゲットすればいいのだ。

 僕は次の手ごろな石を見つけて歩き始めた。

 

「よし。ここにしよう」

 僕が戦う場所に選んだのは袋小路だった。

 人がようやく通れる細い通路の奥にちょっとしたスペースが広がっている。ここを拠点して戦う事にしよう。細い通路を利用すれば数の差が出にくくなる。一度に三、四体ぐらいに追われても何とか戦えるだろう。

 僕は道すがら拾い集めた石の約半数を実体化させて足元に積み上げた。こうすればいちいちアイテムストレージから石を取り出す手間が省ける。

「わかった」

 僕が石を積み上げている後ろでやや緊張したジークの声が聞こえた。

 振り返ってみるとジークは気合の入った表情で振り上げたショートソードを青く輝かせていた。

『死ね!』

 僕の頭の中で夢の中のジークとバチンと重なった。

(殺される!)

 膝が震え、心臓が激しく脈打つ。全身が熱くなり何も考えられなくなって、恐怖だけが僕の身体を支配した。

 気合の声と共にジークはショートソードを振り下ろした。

「え?」

 ジークはきょとんとした表情で僕を見た。

「びっくりしたー。殺されちゃうかと思ったよ」

 僕は大きく息を吐き出した。全身の力が抜けてその場にぺたりと座り込んだ。まだ、膝がガクガクしている。

「ごめん」

 ジークは慌ててショートソードを鞘に納めると、僕の目の前に膝をついて両手を取った。

 つい、びくっと僕の身体が震えた。まだ、恐怖心が心の隅から消えて行かない。ジークは優しくて、とてもいい奴なのに。

「ちょっと素振りをしただけ。今日が初めての戦闘だから」

 真剣に、そして申し訳なさそうにジークは優しく僕に語りかけた。

「うん。分かってるよ。勝手にびっくりした僕が悪い。気にしないで」

「コー。私は絶対、君を裏切らない。何があっても。信じて」

 それは本当に誠実な、一点の曇りもない宣誓だった。僕の心に温もりが広がって行く。

「僕も……絶対ジークを裏切らないよ。約束する」

 僕も反射的にそう答えて、誠実さであふれるジークの瞳を見つめた。

「うん。ありがとう」

 静かに心を落ち着かせてくれる優しい響きだった。

(ジークを裏切らない? 始めから裏切っているのに)

 そういう思いが湧きあがり僕の心を締め付けた。ジークに申し訳なくて涙があふれてきた。

 すると突然、ジークは頬を赤く染めて立ち上がって僕に背中を向けた。きっと、照れくさくなってしまったのだろう。本当に紳士だ。

 僕は涙を拭くと立ち上がった。

 ジークの真摯な心に応えるにはどうするのが一番なのだろう。僕が一人で勝手に罪の意識に振り回されることが彼にとって幸せだろうか?

 そんな思いが頭にひらめいた。

 もし、仮に僕が男であることを宣言したとして、このアバターに変化は訪れるだろうか? 否。それはありえない。戻されるチャンスはあの時だけだろう。

 それに、男であることを言って、ジークを納得させられたにしても、ジーク以外の他の相手には? いちいち説明していくのか?

 それならいっそ、ジークの想いを打ち砕かないように僕はコートニーとして生きて行こう。そしていつか、ジークが僕を必要としなくなる時が訪れたら、その時にそっと打ち明けよう。

 そこまで考えた時、僕は自分の都合のいい考え方に苦笑した。

 僕はエゴイストだ。自分が生き残るためにジークと一緒にいる事を望んでいる。けれど、一緒にいたいのはジークだけだ。もし、他の人と組むことで生き残る確率が上がるとしても、僕はジークを見捨ててはいかない。僕はジークという男を気に入っている。……うん、大好きだ……。

 しばらく、僕はコートニーを演じよう。いつか、僕とコートニーの間の壁がなくなる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。先の事なんてわからない、とにかく、進んでみよう。

 僕はそう結論を出してジークを再び見た。

 ジークはよっぽど恥ずかしかったのか、まだ僕に背中を向けて何やら呪文のようにぶつぶつ呟いている。本当に面白い奴だ。

 僕の口からクスリと笑いがこぼれた。

「さ、狩りを始めよ!」

 そう言いながら僕は握りこぶしでそっとジークの背中を叩いた。

「うん」

 そう返事をしながらも、ジークは振り向かない。

「ここでちょっと待ってて。ちょっと実験するから」

「無茶する気じゃ……」

「大丈夫。一匹ここに連れて来るだけ!」

 僕はジークの背中に声を投げかけて、スリングに石を一つセットするとぐるぐると回しながら袋小路から出た。

 僕は索敵スキルを使いながら適当な敵をみつくろった。ちょうどよさそうな群れからちょっと離れたリトルネペントに狙いを付けた。

 スリングを握る手に力が入り、回転が上がってくる。投擲スキルが立ち上がりスリングは青白く輝いた。

「えい!」

 掛け声とともにスリングから放たれた石は青白い航跡を描いてリトルネペントに突き刺さった。

 シュウシュウというリトルネペント特有の音が近づいてきた。植物型で二本の蔦を腕のように振り回している。その中央には捕食用の口がバクバクと動き、腐食液がよだれのようにそこから垂れている。かなりキモい。

 僕はすぐに第二投目を命中させ後ろに下がりながら槍に持ち替える。

 リトルネペントの足は見かけによらず意外に速い。追いつかれそうになると僕は槍スキルを叩きこみノックバックで足を止めて再び距離を取る。そんな事をしながら僕は袋小路に走りこんだ。

 そして、振り向きざまに先ほど大工屋で購入したダイニングテーブルを実体化させて通路にどんと置いて、後ろへ飛んだ。

「え?」

 左を見上げるとその声の主ジークがきょとんとした表情でいた。

 リトルネペントはウツボをぐっと膨らませた。腐食液を吐き出す予備動作だ。

「避けて!」

 僕の声にジークは素早く反応して左に飛んだ。僕はそれを見て右に飛び、さっきまで僕たちがいた地点に腐食液が降り注いだ。

 僕は通路の方を見た。

 リトルネペントはシュウシュウという音をだしてその場にとどまっていた。僕が設置した机のせいでこちらにやってこれないのだ。知能が高いモンスターなら机を壊したり、どけたりするが、リトルネペントにはそんな知能はない。

「へへへ」

 思わず、得意げな笑いが口から洩れた。僕は武器を槍からスリングに持ち替え、先ほど積み上げた石を拾った。「さ、ジークも攻撃して。腐食液に気を付けてね」

「うん!」

 ジークはソードスキルを立ち上げてリトルネペントの懐に飛び込んでダメージを与えた。

 僕は投擲によって後ろからリトルネペントにダメージを与える。

 ジークは器用にリトルネペントの二本の蔦による攻撃を盾と剣でさばいて、効果的にダメージを与えて行った。リトルネペントのヒットポイントバーはあっという間に真っ赤に染まりその幅を失った。キーンという甲高い音と共にリトルネペントは爆散した。

 目の前に獲得した経験値と金が表示された。

「やったね! 初勝利おめでとう!」

 僕は祝福の言葉と共に右手を高く上げた。

「ありがとう!」

 ジークはショートソードを鞘に納めて、僕の右手にハイタッチした。

 一瞬、朝の悪夢がよみがえる。僕はそれを気取られないようにすぐに視線をジークから外した。

「これは奥の手ね。≪実つき≫をついやっちゃった時の保険」

 僕は机を指差しながらジークに説明した。

 リトルネペントは狩り続けるとレアモンスターの≪花つき≫リトルネペントと≪実つき≫リトルネペントが湧く。クエスト達成条件の胚珠をドロップするのは≪花つき≫のほうだ。一方、≪実つき≫はその実を破壊すると大きな音と嫌な臭いをふりまき、その音を聞いたリトルネペントが実を破壊した者をターゲットして襲いかかってくるという恐ろしい罠だ。

 ベータテストの時に何度かそれで死んだことがある。今回は死ぬことは許されない。この手段があればおいそれと死ぬことはないだろう。

 だが……。本当に良かったのだろうか、こんな所にジークを連れてきて……。彼ははじまりの街で安全に暮らす事を主張していたのに……。

「コー。大丈夫。慎重にやろう」

 僕のそんな考えを読み取ったのか、ジークはポンポンと僕と頭を優しく叩いて微笑んだ。

「了解!」

 僕は明るくジークに敬礼で返事を返した。

「よし、行こう」

 ジークの力強い言葉に背中を押されて、僕たちは狩りを始めた。

 

 それからの狩りは順調だった。多くても二体以上のリトルネペントからターゲットされないように慎重に僕たちは狩りを続けた。

 他のプレーヤーが近づいて離れて行った。狩場の重複を避けたのだろうか? これから、時間を追うごとに他のプレーヤーは増えていくだろう。今のうちに狩れるだけ狩っておこう。狩場が重なると嫌な人間同士のいざこざが起こる。特にデスゲームとなった今はシビアなぶつかり合いになってしまうだろう。そんなのはごめんだ。

 狩りを続け、ジークがレベル2に、僕はレベル3に上がった。

「やった!」

 僕はレベルアップのファンファーレを聞いてガッツポーズした。

「おめでとう!」

 ジークが笑顔で祝福してくれた。

「ありがとう。ジークもおめでとう!」

「ありがとう。あとは花つきが来てくれればいいな」

「うんうん」

 ≪花つき≫リトルネペントの湧く確率は確か1%ぐらいだった。今日中には無理かも知れない。でも狩り続ければいつか、明日でも明後日でもチャンスはあるだろう。

「ちょっと休憩しよう」

 ジークはそう言って、ショートソードを鞘に納めて一つ息を吐いた。

「そうだね」

 前衛は神経をすり減らすポジションだ。疲労度は相当のものだろう。次からは僕は槍で交代で前衛をした方がいいかもしれない。

 そんな事を考えた瞬間、『バァンッ!』と乾いた音がした。

 僕たちの間に緊張が走った。これは≪実つき≫の実が割られた音だ。フィールドにばらばらに沸いているリトルネペントがその音に向かって一斉に移動を開始した。

 音がした方角を見ると、そこには先ほど狩りをしている私たちに近づいてきたプレーヤーがいた。きっと、彼が誤って実を割ってしまったのだろう。

 その男はこちらに向かって走ってくる。でも、その表情が異様だ。なんだか楽しそうだ。

 ベータテストでもこんな奴に出会ったことがある。……こいつはMPKだ。モンスターを利用して僕たちを殺す気なんだ!

 僕はスリングから槍に持ち替えた。モンスターに取り囲まれるような乱戦は槍でないとさばききれない。

「コー!」

 ジークの声に僕は「うん」と短く応える。

 しかし、あのMPKは最終的にどうやってモンスターからのターゲットを外すつもりなのだろう? いや、外す必要もないかも知れない。リトルネペントはターゲットに向かって移動している最中でも攻撃可能対象がいるとちょっかいを出してくる。あれだけの大軍だ。僕たちの周りにリトルネペントを何度かぶつければ僕たちはヒットポイントを削られ……死ぬだろう。

「さっきの袋小路に行く?」

「だめ。机をあいつがどかしたら、僕たちは……」 

 僕はジークの提案を否定しながら、彼の左隣に移動した。

 二人で背中合わせで戦えばほぼ全周囲の攻撃に対応できるはず。僕たちの活路はそこにしかない。

 でも、こんなところでもし死んでしまったら……。ジークに申し訳ない。彼は危険を避けてはじまりの街に残る事を主張していたのだ。それを無理やり僕が連れてきた。

「ごめんね、ジーク。やっぱり、危険だったね。はじまりの街にいれば……」

 僕は迫りくるリトルネペントに恐怖を感じながらジークの顔を見上げた。

「大丈夫。私たちなら。負けない!」

 強く、本当に力強いジークの言葉が僕の心を震わせた。僕は力がみなぎるのを感じた。

「うん! 僕たちは絶対、生き残る!」

 信じよう、ジークの言葉を。信じよう、自分の力を。

 僕は槍を構えてスキルを立ち上げる。槍の穂先が白く輝く。

 そんな私たちの近くを通ってMPKは下卑た笑いを浮かべながら袋小路へ走って行った。

 その後を追ってきたリトルネペントたちが僕たちの近くを通過しながら蔦を振り下ろしてくる。

 槍で薙ぎ払い、叩き落とし、振り払い。次々と襲い来る蔦をさばいていく。時々、防御を突破した蔦が襲い僕のヒットポイントを削って行く。

 ちらりと自分とジークのヒットポイントバーを確認する。ジークの方はほとんど減っていない。これならあるいは生き残れるかもしれない。問題はあのMPKがどのような手段をとるかだ。

 ターゲットを外す手段はいくつかある。転移結晶で戦場から離脱するのが一般的なやり方だが、昨日が正式サービス初日である。第一層に転移結晶は売られていないはずだからその手段は使えないはず。それ以外の手段も色々な制約があるから使えないだろう。

 恐らくMPKは僕たちの周りを走り回り間断なくリトルネペントをぶつけてくるのだろう。こうなったら根競べだ。

 と僕が考えた、その瞬間。MPKの男が袋小路に入ると消えた。一瞬、リトルネペント達の動きが停止した。

 ≪隠蔽≫スキル? 転移結晶なら『転移!○○』と発声コマンドが聞こえるはずだ。

 MPKはスキルによって隠れる事でモンスターのターゲットを外そうとしたのだ。残されたモンスターは当然、近くに残された私たちを狙うことになる。でも、リトルネペントに隠蔽スキルは効かない。あのMPKはそんな初歩を知らなかったというのか……。

「大丈夫だよ」

 隣で呆然としているジークに僕は声をかけた。「あれが隠蔽スキルならターゲットは彼に戻る」

 その言葉を合図にしたかのようにリトルネペントは再び動き始めた。モンスターたちはMPKの男が隠れている袋小路に向かって次々と突入していく。その中にあろうことか、花つきもいた。

「だって、リトルネペントは視覚で僕たちを認識してるわけじゃない」

 と、僕が低く呟くと袋小路から男の悲鳴が聞こえ、再び姿を現した。

 リトルネペント達は男に蔦を振り下ろし、腐食液を吹きかけ、殺到した。あれでは彼は助からないだろう。

「コー。今のうちに逃げよう!」

「待って、今なら!」

 僕は全力で走り始めた。

 MPKにターゲットが向いている間に出口を机で封鎖できれば、あの花つきを倒すことができる。

 袋小路の入り口まで来た時には男のヒットポイントバーは赤く染まり数ドットしか残されていなかった。

「なぜだああああああ!」

 男の絶叫と共に彼の身体は細かいポリゴンとなって砕け散った。

 次の瞬間、リトルネペント達のターゲットが一斉に僕に向いた。数匹のリトルネペントがウツボを膨らませ腐食液の発射体勢に入っている。

 僕は両手をフリーにしてアイテムストレージから机を実体化させ、通路に置いた。

 どうする? 後ろ? 横?

 僕はどちらに退避するか一瞬躊躇した。

 後ろに飛べばリトルネペントの蔦攻撃は食らわない、けれども腐食液は食らう。横に飛べばその逆だ。

「てや!」

 僕は気合の声をあげて後ろに飛んだ。その瞬間、僕は後悔した。

 僕は横に飛ぶべきだったのだ。机にさえぎられ、蔦による攻撃が可能なのは二匹がせいぜいだろう。一方、腐食液は射程が長いから数匹から食らってしまう。判断ミスだ。

 しかし、もう飛んでしまった。後は生き残る可能性を少しでも高めるしかない。

 着地してすぐにメインメニューから回復ポーションを取り出そうとした時に腐食液が僕を襲った。

 思わず、悲鳴が口から漏れてしまう。メインメニューの操作もキャンセルされてしまった。

 全身をちりちりとした不快感が包む。ヒットポイントバーが一気に緑から黄色に変わりながらどんどんその幅を減らしていく。僕はもう一度メインメニューから回復ポーションを取りだし口にしながら腐食液の射程外へ飛んだ。

「コー!」

 ジークの絶叫が僕の耳に届いた。

「大丈夫!」

 と、返事をしながら僕はヒットポイントバーが減り続けるのを見つめた。

 腐食液程度で死ぬはずはない。回復ポーションも飲んだ。そう自分に言い聞かせる。でも、もし、ベータテストから腐食液が強化されていたら……。僕の心に霜が降りた。

「今のうちに逃げよう!」

 ジークの言葉が飛んできた時、ようやく回復ポーションの効果が表れ、じわじわとヒットポイントは増え始めた。

「戦おう! 見て! 花つきが中にいる!」

 僕はほっとしながら、首を振って袋小路を指差した。

「分かった!」

 ジークは頷くと盾をかざしてソードスキルを立ち上げた。「うおおおおお!」

 気合の声と共に白く輝く剣先を向けてリトルネペントへ向かって行く。その力強い姿に僕はとてつもない安心感を覚えた。

 

 袋小路に閉じ込めた最後のリトルネペントを倒した時、僕たちはハイタッチをするどころか疲れでしゃがみ込んでしまった。辺りは日が傾き、夕焼け色に染まり始めていた。

「やったね。ジーク」

「おつかれ。コー」

 お互いに健闘をたたえあった後、僕は力を振り絞って立ち上がり、今回の一番の立役者である机をアイテムストレージに格納すると再び座り込んだ。

「コー胚珠は?」

「僕は持ってない」

 僕は右手を縦に払ってアイテムストレージを確認して答えた。

「私二個持ってるから、これで二人ともクリアだね」

 その声と共にジークからトレード申請があり、受諾すると≪リトルネペントの胚珠≫がアイテムストレージに追加された。

「ありがとう、ジーク」

「村に戻ろう。こんなところをPKに襲われたら今までの苦労が水の泡だ」

 いつの間にか立ち上がっていたジークがしゃがみ込んでいる僕に優しく手を差し伸べてくれた。

「うん。帰るまでが遠足だよね」

 僕はその手を握って微笑んだ。

「なに。これは遠足?」

 ジークは笑いながら僕をグイッと引っ張り上げた。

「ナイスツッコミ!」

 僕はぴょこんと立ち上がって笑いながらジークを指差した。

『カシャアン』

 モンスターが死んだ時とは少し違う破砕音がして僕の目の前に光のエフェクトが舞った。

「え?」

 光のエフェクトが消え去った時、ジークの表情と体が凍りついた。

 自分の姿を確認すると、そこには下着姿の自分の姿があった。そう言えば、あの後も何度かリトルネペントの腐食液を食らう場面があった。革鎧はもともとそれほど耐久度は高くないし、装備は着ているだけで耐久はわずかに削れていくが今なくなってしまうなんて。

 現実の裸を見られたわけじゃない。これはアバター。恥ずかしくなんてない。そう、頭で理解していても羞恥心となぜだか怒りが湧きあがり僕は震えた。

 ジークを見ると彼はぎゅっと目を閉じている。本当に紳士だ。でも……この羞恥心と怒りはどこにぶつければよいのだろう。

 僕は右手でメインメニューを操作して初期装備のワンピースを身に着けた。

「これは、僕が装備の耐久度を確認しなかったミス……」

 恥ずかしさと憤りで、僕の声はまったく抑揚がなかった。「今日の宿代と夕ご飯を僕におごって……それでチャラ」

「あ……ああ、はい、わかりました」

 ジークが了承したので少し溜飲が下がった。

 僕は男なのになぜ、女子のような態度になってしまうのだろう。コートニーというキャラクターが僕を浸蝕しはじめているのだろうか? コートニーを演じていくうちにだんだん、僕という存在が消えてコートニーだけになるのだろうか? そうしたら、ジークは喜ぶだろうか? ジークのような男が喜ぶなら、僕という存在はいない方がいい……。

 そんな事を考えながら僕は村へ歩き始めた。

 

 村に戻って僕たちはクエスト報酬の≪アニールブレード≫を手に入れた。そうすると、さっきまでの怒りはどこかに吹き飛んでいた。

 その後、二人で宿屋に併設されている食堂に入った。席に着くとNPCがやってきた。

「メニューを見せて」

 僕はメニューを見るためにNPCに話しかけた。

「いらっしゃいませ。お嬢さん。ウチはなんでもおいしいよ!」

 恰幅のいいコック姿のNPCは明るく返事をすると、目の前においしそうな写真のメニューが浮かび上がった。

「私にも見せて」

 ジークもNPCに語りかけた。

「いらっしゃい。旦那。いっぱい食ってくれよな!」

 NPCは僕の時と違うセリフをジークに言った。色々な会話パターンがある所がソードアート・オンラインのいいところだ。

 メニューの値段と写真を見比べていた僕はメニューの向こう側から恐る恐るこちらをうかがっているジークの視線に気付いた。

「めちゃくちゃ注文されたらどうしよう。……なんて考えてる?」

 そんなジークがおかしくて、僕は笑いながら問いかけた。

「ちょっとだけ……」

「そんな事しないよ」

 僕は小さく鼻を鳴らして肩をすくめた。もう、先ほどの怒りは消え去っている。もっとも、おごってもらう事を変えるつもりはないけれど。「でも、ちょっとだけ贅沢しよ。アニールブレードは手に入ったし。二人ともレベル5になったし」

「そうだね」

 と、ジークが同意してくれたので僕は注文を始めた。ちょっとだけ贅沢だけど、これぐらい許してくれるだろう。

 しばらくすると私たちの間にNPCがクリームシチューや白パン、サラダなどを並べていった。

 並べられていく食事をみて僕はお母さんがテーブルに食事を並べていく姿を思い出した。

 僕の両親はクリスチャンだ。食事の前には必ず神への祈りを始め、それが終わってから食べ始める。

 僕はその習慣が大嫌いだ。特に父は真面目で些細な感謝の言葉やら日頃の社会情勢を嘆いて神に助けを祈ったりして十分以上祈り続けていた。僕にはそれが偽善にしか思えなかった。

 神という存在が本当にいるのなら、嘆きも祈りも不要な幸せな世界にすればいいのだ。

 ある時、僕はお母さんにこの思いをぶつけた。激しく怒られると思っていたが、お母さんは優しく僕の頭を抱いて言った。

「そう思うなら、祈らなくていいのよ。ただ、本当に神様に感謝したくなった時にそのやり方が分からないと不幸だわ。その時のためにお祈りの仕方だけは忘れないようにして」

 僕はその日から食事前の祈りをやめた。お母さんは父を諭していたのか、厳格な父はそんな僕に何も言わなかった。

 たった一日なのに今日は何度も死を意識した。生き残れたこと、そして、何よりもジークがいてくれた事に感謝の気持ちが湧きあがってきた。

 神様がいて、ジークを用意してくれたわけじゃない。そんな都合がいい話はない。そんな事は分かってる。

 けれど、それでもジークがそばにいてくれる事を感謝せずにはいられなかった。

 僕はいつの間にか手を強く握り合わせて目を閉じて俯いた。

(神様。……本当にありがとうございます。こんな嘘と罪にまみれた僕にジークという存在をご用意してくださって……)

 もう、主の祈りなんて思い出せない。ただ、単純な感謝の気持ち。それだけだった。ああ、お母さんが言っていたのはこういう事なんだと思った。

 僕は目を開けてスプーンを手に取った。

 前を見ると今まさにシチューにスプーンを差し込もうとしながら、僕を見て固まっているジークがいた。

「あ……」

 食事前の長い祈りはクリスチャンでない人には奇異にしか映らない。僕は何度もその経験があったので、ジークの戸惑いは理解できた。「ごめん、びっくりした?」

「ちょっとだけ。どうしたの? 調子が悪いの?」

「全然違う」

 僕は両手を左右にブルブルと振って否定して、自分が取った行動を説明した。「えっと。僕の両親。クリスチャンなんだ。だから、食事の前のお祈りをしたんだよ」

「そうなんだ」

 僕は根ほり葉ほり聞いてこないジークはやっぱり紳士だなって思った。だから、正直に今の気持ちを伝える事にしよう。

「でも今、人生で初めて真剣に食事前のお祈りをしたよ」

「え?」

「今まで、ずっと嫌だったんだ。この習慣。でも、今日はね……心から神様に感謝したくなった」

 僕はちょっと照れくさかったけれど気持ちをしっかり伝えたくて、ジークの瞳を見つめながら言葉を紡いだ。「今日は本当にありがとう。ジークが勇気づけてくれてとても心強かったよ」

「そんな……。私もコーに感謝してるよ。コーがいなかったらきっと私は死んでたよ……」

 すると、突然、僕から視線を外してジークは叫んだ。「もう、やめよ!」

「え?」

 こんな重い話をしたのがまずかったのか。僕はちょっと後悔した。が、どうやらそういうわけではないらしい。

「すっごい、照れくさいから」

 ジークはシチューの中でスプーンをぐるぐると回した。顔全体が赤く染まっている。

 そんな仕草がとてもかわいらしくて、僕はちょっと笑ってしまった。

「でも、これからも『ありがとう』って思った時に、僕はちゃんと言う事にするよ」

 僕はそう言いながら、ジークがかき混ぜ続けているシチューを見つめた。結構、気になる。

「そうだね。私もそうする」

「それと、注意しあうことも必要だよね?」

 ジークはシチューをかき混ぜるのをやめない。もう、駄目だ。超絶、気になる。

「そうだね」

「じゃあ、言うけど。ジーク。食べ物で遊んじゃいけないよ。いくらゲームの中でも……」

「分かった……」

 ぐるぐるとシチューをかき混ぜていたスプーンが止まった。僕はとてもすっきりした。

「すごく、おいしい!」

 ジークはそのスプーンでシチューを口にして叫んだ。

「ほんとだ!」

 僕もシチューを口にした。確かにとてもおいしい。思わず笑みがこぼれてしまう。

 ジークはまるで太陽のようだ。僕の心を温めてくれる。こんな暖かい雰囲気の夕食は久しぶりだ。できる事なら、明日もジークと一緒に幸せな食事がとれますように。

 僕はそっと神様に祈った。




ふうせんかずら「あー。とうとう始めちゃいましたね。姫プレイ。ネカマへの道一直線ですよー」

腐ってやがる。

腐った話を最後まで読んでくださりありがとうございます。
一つのストーリーを両方の視点で書くのは多分これが最後です。お互いの気持ちの出発点が明らかになりましたから。

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