ハッと目を覚ますと僕は見知らぬベッドでぬくぬくと過ごしていた。
そして、“目を覚ます”という行為のおかげで今まで意識がない状態にあったことを知った。
胸にあったはずの千切れた鎖はなくなっていた。
「おはよ」
「わっ虚もどき!」
「……一応ネロって名前があるんだけど」
「え、黒?」
「一瞬で日本語訳にされた!?」
そりゃあだって、ネロがイタリア語で黒だってことは周知の事実ですし。
ジッリョネロが黒百合って意味だってことはもはや常識ですし。
「まあそれはいいや。ねえ、ここはどこ?」
「ここはあんたの家よ。あんな昔のことは覚えてないだろうけど、あんたは転生したのよ」
「どこの世界に?」
「二次元転生が前提なのね……」
二次元中毒者を舐めてはいけない。
「……はい。そんなわけでリボーンの世界です」
「……ほう」
「あれ、反応薄くない!?」
別に薄くはないと思うよ。
だってリボクラだもの、転生は何度夢に見たかわからないさ。
でもね、なんていうかね、色々と段階をすっ飛ばしすぎてる気がしてならんのですよ。
それに転生したら何したいってことも考えないままに転生しちゃったからねえ。
「そんなあんたに朗報です。明日から並盛中学校に通ってもらいます」
「ゑ?」
「前世はともかくとして義務教育はちゃんと受けてもらうよ。ちなみに時期としてはGWが終わったばっかり。中学一年生が腑抜け始める頃だね」
いや、あの、そういう問題ではなくてですね。
抑々、家の外の人を従姉妹と先生以外に知らない僕が他人と話せるとでも?
無理無理、絶対に無理。
下手したらどこぞの誰かさんみたいに†静寂と孤独†を愛しかねないから本当に無理。
「†静寂と孤独†」
「復唱するな」
「それはそうと、一応あんたの前世を知ってるし私と出会った時の反応を知ってる身から言わせてもらうと、あんたは他人とやっていける子だよ。大丈夫だからちゃんと自信持って」
「わ、わかった。とりあえず遠巻きでツナとか山本とか見てニヤニヤしてることにする」
「それ不審者……」
**********
翌日。
ネロが用意してくれた並中の制服を身にまとって僕は若干というかかなりビビりながら学校に向かった。
楽しみだったのか緊張していたのか或いは両方か、昨夜は全くと言っていいほどに眠れなかった。
これもまたネロが用意してくれた並盛町の地図を持ったままふらふらと働かない頭で町を徘徊しているのが現状である。
初めて感じる外の空気に戸惑い、初めて歩く並盛の町並みに戸惑いながら、30分というとんでも時間をかけてようやく学校にたどり着いた。
並盛中学校とは漫画やアニメの中で何度も目にしてきたけど、やっぱり本物は違う。
何かって、何かが。
僕に語彙力を求めてはいけない。
もちろん校門前には風紀の腕章をつけた学ランリーゼント集団がわらわらしてる。
なんで風紀委員はいくら群れても咬み殺されないのか甚だ疑問である。
そろっと彼らの脇をすり抜けて、僕は職員室に向かって一直線に急いだ。
「し、失礼します。えっと、今日から転入することになってる霞です……」
とりあえず言っときゃ何とかなる、とネロに入れ知恵されたセリフを言ってみる。
というか完全にノリと勢いだけで職員室まで来ちゃったけど、これで合ってたのかなぁ……。
しかもなんでか知らないけどみんな見て見ぬ振りというか、そんな気がするというか、なんか変な空気。
思わず入り口付近で縮こまった。
「ああ、もしかして霞恭華さん?」
「え、あ、はい」
そんな僕にようやく声をかけたのは、ブラウスにズボン姿の女の先生。
「せっかく来てくれたのにごめんね、担任の先生、ちょうど部活の朝練の時間でいないのよ。ここで待っててもいいけど、教室に行っちゃっても大丈夫よ」
「教室……?」
「ああ、そっか、そうよね。転入初日なのにクラスもまだ聞いてないんだっけ。それじゃあ案内してあげるわ。私は1-B担任の三枝よ、よろしくね」
「よろしくお願いします、三枝先生」
明るい茶髪をボブカットにした三枝先生はすごく元気っ子って感じの人だ。
担当科目は数学だと予想してみる。
理由は適当。
そんなわけで三枝先生のおかげで無事に1-Aの教室に到着しました。
わーい1-Aだー。
ツナたちを見ながらニヤニヤするぞー。
あ、京子ちゃんを見ながらニヤニヤするのもありかな?
イヤイヤ、そんなことをしたら十中八九花ちゃんから白い目で見られることになる。
やめておこう、よしよし。
「さすがに席はわからないからここまでの案内になっちゃうけど大丈夫かしら? この時期の転入って馴染むのが大変かもしれないけど、頑張ってね」
「はい、ありがとうございました」
三枝先生が隣の教室に入っていくのを見届けてから、僕は改めて自分のクラスの教室を見た。
早くも遅くもない時間帯、中にはそれなりの人数がおしゃべりに興じている。
時折こっちに向けられる好奇の視線がすごく怖いものに感じる。
なんだか息苦しくなる。
教室に入る1歩を踏み出す勇気が出てこない。
無意識のうちに、思わず逃げるように2、3歩ほど後退した。
その時、ちょうど後ろから来た誰かにぶつかってしまった。
もとより非力な僕はその衝撃だけで盛大に倒れることになった。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
床とのキスをかろうじて腕で防いだ僕の目の前に手が差し出された。
声からして男の子だというのがわかる。
人生で一度も会話をしたことのない、男の子。
どうするか一瞬迷って、その手を借りずに1人で起き上がることにした。
埃のついてしまった新品のスカートを軽く払ってから相手に深々と頭を下げた。
「あの、ごめんなさい」
ぶつかってしまった恥ずかしさと転んでしまった恥ずかしさから顔を上げることができず、相手の顔をろくに確認もしないままに教室の前から立ち去った。
とにかく今はこの場から逃げ出したかった。
行くあてもないというのに、ただ来た道を引き返していった。
**********
「今の人、誰なんだろう……」
俺は、今しがたぶつかってしまった人が向かった方をぼんやりと見つめていた。
腰よりも下へ伸ばされた長い黒髪、ワンポイントのような赤い眼鏡。そして何より浮世離れした存在感。
顔と声は一瞬すぎてあまり記憶には残らなかった。
あんな生徒、うちの学校にいたっけ……?
「おいダメツナ、今の奴って知り合いか?」
「えっ。いや、全然知らないけど」
教室の窓からひょっこり顔を出して声をかけてきたクラスメイトにぶっちゃけビビった。
「あの人って誰?」
「さーな。ただうちのクラスの前でずっと突っ立ってるもんだから誰だろうなって話してたんだよ」
「そ、そうなんだ」
誰も知らない人が俺らのクラスの教室前にいたってこと?
てっきり俺がクラスの人のこと覚えきれてないのかと思って焦ったよ。
まあ、覚えきれてないけど。
「けどさ、昨日だか先生が言ってたこと覚えてるか?」
「何か言ってたっけ?」
「ほら、近々うちのクラスに転校生がどーのこーのって」
「ああ……」
言われてみればそんな話を聞かされたような気がする。
どうせ俺には関係ないなって思って全然聞いてなかったや。
「じゃあ、今の人がそうなのかな?」
「かもなー」
雰囲気は美人だったよなー、なんてニヤついてからクラスメイトはまた教室の中に引っ込んでいった。
そう言えばさっきの人、すごく体調が悪そうに見えたんだけど、大丈夫かな……。
思い出しながら気がかりになってまた廊下の方を向くと、ちょうどうちの担任とさっきの人が一緒に歩いてくるのが見えた。
「何やってんだ沢田、さっさと教室に入らないと遅刻になるぞ」
未だに鞄を持ったまま教室前に突っ立っている俺を見て先生はからかうようにそう言ってきた。
教室の時計を見ればもう朝礼の時間だ。
んげ、もうこんなに時間たってたの!?
「前に話してたと思うけど、今日からこのクラスの人数が増える」
全員が席に着くのを確認してから先生は説明を始めた。
そして、さっきの人が教室に入ってきた。
「もう話した奴もいるかもしれないけど、ちゃんと紹介しておくな。転校してきた霞恭華だ」
先生が黒板に大きく『霞 恭華』と書く。
霞さんはやっぱり俯いたままで顔は見れそうにない。
それでもあのクラスメイトが言っていたように雰囲気が美人だなって思った。
というよりも、最初の印象通りに浮世離れしてると思った。
「かすみ、きょうか……です……。い、いちねん、よろしく、お、おねがい、します」
消え入りそうなその声は、それでもはっきりと聞き取ることが出来た。
女の子らしい、高くて澄んだ声だった。
ふとその時、ようやく霞さんが顔を上げた。
黒い髪と黒い瞳、困ったように下がった眉と今にも泣き出しそうな目。
守ってあげたい。
真っ先にそんな考えが頭に浮かんだ。
ダメツナと呼ばれる俺がそう思うのは筋違いかもしれないけど、恐らくはクラスの男子全員が同じことを思っているはずだ。
ていうかみんなそんな顔をしてる。
別に京子ちゃんみたいにすごく可愛いとか、黒川みたいに整ってるとか、そういう訳では無いんだけど、不思議とそう思わされた。
なんてことを考えてるうちに担任の先生が顧問をやってる部活に勧誘して即答で断られるという光景が展開していた。
自己紹介の時と打って変わってハッキリと対応していたから、霞さんは人見知りなのかもしれない。
そうして霞さんは自分の席へと着いた。
**********
「霞か?」
廊下を歩く僕のことを呼び止めたのは、坊主っぽい頭の先生だった。
ぽいって言うのは、多分坊主頭なんだろうけど中途半端に髪が伸びているせいだ。
「三枝先生と先に行ったって聞いたんだけど」
「え、あの……」
「ああすまん、1-A担任の赤津だ」
1-A担任?
じゃあこの人がさっき朝練でいなかったっていう僕の担任の先生なんだ。
「えっと、教室は覚えたので校内を見ようと……」
嘘です逃げてきました。
教室に入る勇気がなさすぎてガッツリ逃げてきました。
「そっかー。でも朝礼の時間だから遅刻になっちゃうぞ?」
「あ、はい、すみません」
結局僕は赤津先生と一緒に再び教室に向かうことになってしまった。
途中でまだ廊下にいる生徒に早く中に入るように注意してから、赤津先生は僕を廊下に待たせて教室に入っていった。
「前に話してたと思うけど、今日からこのクラスの人数が増える」
中にいた先生に手招きされる。
正直、入りたくなかった。
またあの好奇の目を向けられると思うと怖くて仕方がなかった。
だけど人を待たせるのは良くないことだと母によく言われていたことを思い出して、勇気を振り絞って歩を進めた。
刹那、空気が変わるのがはっきりと感じ取れた。
全員の目が僕に向けられているのが見なくてもわかる。
人生で一度たりともこんな大勢の視線を受けたことはない。
それどころかこんな大勢がいる場所に立ったことすらない。
あまりの苦しさに心臓を吐き出してしまいそうだ。
「かすみ、きょうか……です……。い、いちねん、よろしく、お、おねがい、します」
なんとか絞り出した声はほとんど消えていて、たぶんほとんどの人のもとに届いていないだろう。
もう泣きそうだ。
「霞、転校早々だがうちの部活に入らないか? 吹奏楽はいいぞ」
「あ、結構です」
「即答か」
先生とのやり取りでほんの少しだけ空気が和らいだけど、泣きそうなのは変わらない。
それどころかさっきよりも見られている気がしてならない。
帰りたくて仕方がない。
「ああそうだ、霞の席はそこな」
先生が示した先には不自然に空いた席があった。
言われなければ誰かが欠席したのだろうという認識しか持たないような空席。
入学時から空いていたのか、それとも僕の転入に合わせて空けられたのか。
どちらにせよものすごく微妙な位置だ。
先生に一礼をしてから席に向かう。
椅子に座った時、ずっと立っていたということもあってか、何となくほっと一息つけた気がした。
ふと、コンコン、と僕の机が軽くノックされた。
それは隣の席の人からで、どうかしたのだろうかと何気なくそちらに目を向けた。
「私、笹川京子っていうの。よろしくね!」
そして、僕の涙は一瞬で引っ込んだ。