享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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戦を誓いし乙女は黄金を手に入れ

 第十二層の第二十二区画。通称「売春区画」とさえ言われる、娼婦も男娼もピンからキリまでいる場所だ。

 ネオンと呼ばれる気体を詰めた電灯を煌びやかな電飾とする技術は、パリ生まれアーカム育ちのジョルジュなる男の手によって生み出された。

 それはマンハッタンを南北に走るブロードウェイも同じだが、華やかさと煌びやかな印象に加えて、性の目覚めも知らぬ少年さえ分かる淫靡さがある。

 昼間でも軽減はされていない。

 アーカムの男女はあらゆる面で奔放だ。無論、性の方向でだって奔放だ。昼間から五度六度と励むことは何ら珍しくもなんともない。

 その中に女が一人──ヘンリエッタ・ウェントワースだ──が通りを歩いている。

 はっきり言って浮いている。

 周りは腕を組んで歩く男女のカップル──時折、女同士や男同士もいる──だらけの通りに、たった一人だけの女だ。

 声かける連中はいない。

 女や男を漁る場所ではない。情事のための場所なのだから、出会いを求めるというのはお門違いというものだ。

 ブーツを履いた足が止まった。蹴りの威力を上げるために、踵と爪先に軽量合金を仕込んだ代物だ。ただ、それは威力を上げる保障のようなもので、そんなものがなくとも彼女の蹴りは内臓破裂を容易に引き起こす。

 ヘンリエッタの視線の先には揃いの制服に身を包んだ男たちがいる。

 彼らがフォーレンシルトの私兵だった。世界各国から集められた選りすぐりの精鋭だが、それがアーカムで何の意味を持つというのか。この暴虐に染まりし街で、人の理から外れた者たちに。

「やぁ」

 すっぱりさっぱり。

 久しぶりにあった知り合いに声でもかけるようだった。

 知り合いというのがミソだ。別に親しくも何ともない、ただ存在を知っているというだけなのだから。

「お楽しみ中のところ失礼するが…………死んでもらう」

 これもすっぱりさっぱり。

 ソレだけに突き放している感が半端ではない。無理もない話だ。どの道、彼らには死んでもらう予定だったのだから。

 周りに人はいない。私兵たちの後ろは誰一人としていない。邪魔なのだ。

 彼らの目の前には銃火器で武装した荒事屋たち。彼らは第十二層を縄張りにする荒くれであり、荒事屋の中では中段くらいの存在だ。サイファーに声をかけられた結果だった。

 日々の糧を稼ぐのにカタギのやり方では苦労する。だから暴力を売り物にして荒事屋になる。第十二層どころかアーカムでもトップクラスの荒事屋であり『実力行使請負業』を名乗るサイファーは、自分やヘンリエッタでなくとも片づけられる仕事は彼らに仲介するのだ。

 生身の私兵たちは雑兵と見なされた。

 だから彼らがあてがわれた。

 幾多もの銃口が私兵たちを照準し、その数だけ敵意と殺意がある。

 ヘンリエッタが立ち去ったのを合図に引き金が引き絞られた。

 数秒と経たずにものの全員がぼろ雑巾に等しくなる。その原因が弾丸の質と量にある。反動と引き換えに大型車両一台を横転させるパワーがある超重量高速弾や、獲物の体内で四倍近くまで体積を増やす拡張弾。

 通りが血の海になったとき、控えていた掃除屋がわらわらと押し寄せる。

 シミだらけのエプロンと新品の不織布マスクをして、肉片や遺留品を別々の袋に火バサミで入れ、血は統一規格の洗剤で洗い落とす。掃除屋それぞれの特製だと、違う業者同士のときに混ざり合った洗剤から化学反応で有毒気体が発生することがあるからだ。

 売春区画こと第二十二区画を出たヘンリエッタは数本のナイフを握る。彼女の仕事は特別製の私兵の相手だ。

 目の前にいる。時代遅れの騎士鎧をまとったような、二メートル五〇センチ近い男たちが五人。

 機関兵士だ。彼らはヘンリエッタに気付いたらしい。どこからか長剣を抜いて居合いのように腰だめにした。

 次の瞬間、石畳を高速で滑り始めた。

 背中の噴射口から蒸気と炉の燃焼ガスを噴射しているのだ。ただそれでは不十分なので、足の裏には直径十五センチの鉄球による球体車輪を三つトライアングルよろしく仕込んである。

 それが地面と擦れ合い、足と地面の間から火花を出しつつの高速戦闘を可能にする。

 五〇メートル離れていた距離を一秒も経たずに詰めた。

 腰だめの長剣を真横に一閃。ヘンリエッタの首の位置だ。

 ヘンリエッタはすでに飛んでいた。手に三本ずつ手投げナイフを持つと、機関兵士に向けて投擲した。

 機関兵士の弱点たる関節部分に突き刺さるや、淡い光を放って燃え上がった。火炎のルーンを刻んであったのだ。

 関節を焼き切られてしまえば機関兵士と言えど動けない。動けなければ好きなように料理できる。ヘンリエッタぐらいの実力があれば。

 ヘンリエッタがシャツの右袖をまくる。前腕部分を一周する入れ墨が五つ。書かれているのは文字だった。ルーンも混ざっているが英語や楔型文字もある。中には見たこともない文字も。

 五つの入れ墨の輪を掴むと、エメラルドの双眸が光った。

 膝を折って動けなくなった機関兵士の頭部に、回し蹴りを一撃。それだけなのに兜はひしゃげた。現時点で最大級の威力を持つ三〇-〇六スプリングフィールド弾を意に介さず、柄付き手榴弾でようやくという強度なのに。

 その核となったのは五つの入れ墨の輪。それはあらゆる魔術流派をごっちゃ煮にした身体強化術式なのだ。その効果の方針は一つで『少ない反動で最大の効果を』故に機関兵士の頭を破壊できる。

「さぁ、二の舞となるのは誰だ?」

 人差し指をクイと曲げては伸ばす。

 挑発だ。乗れば御の字と考えているのか。

 兵士たちは買った。長剣を上段に構えた。

 ヘンリエッタの口が三日月に歪む。そのエメラルドの瞳は好機に爛々として、全身が震えている。

 喜んでいる。彼女の内に眠る気高き雌の豹が、久方振りの骨のある獲物に喜んでいる。

 遠くで獣の雄叫びが聞こえた。高い猫科の猛獣を彷彿とさせた。

 大上段に掲げられた機関兵士の長剣が、唸る機関の雄叫びを上げて振り下ろされた。石畳を一メートルも抉り込む一閃。当たれば真っ二つではなく粗挽きになる。

 それを紙一重で避けるとは、ヘンリエッタの胆力には恐ろしいものがある。

 鋭さではなく重量による切断を要とした刃はなまくらだ。だから足場に出来る。だから跳躍できる。

 ヘンリエッタは一瞬のうちに機関兵士の兜を蹴り砕いた。

 それだけには留まらずに全身を覆う機関鎧さえ胸部の半ばまで砕いて。体をしならせて跳ね飛び、食い込んだ足を抜いて地面に着地するや、辺り一帯無人となった家々の並ぶベランダめがけて飛んだ。

 ヘンリエッタがいたところは火の海となった。およそ市街戦で使うべきではない焼夷弾だ。石畳さえガラス化し、巻き込まれたものは蒸発する。

 機関兵士の左手には多用途砲がある。徹甲弾から広範囲榴弾に焼夷弾まで。それに焼夷弾を装填して撃った。本来ならば機動兵器の類に使うべきなのに。

 ベランダの手すりに乗ったヘンリエッタは、そのまま屋根へと飛んだ。高さは五メートル近いにも関わらず一息で飛んだ。そして屋上で膝を着いた。

「インターバル……もう来たのか」

 身体強化術式は術を施せばずっと保つわけではなく、効果が切れれば数分のインターバルが存在する。今まさにインターバルの時が来て、ヘンリエッタの超人的膂力は失われた。

 ならば使えるのはルーン文字を刻印したナイフだ。

 機関兵士の関節を焼き切るほどの熱量を放つ、ケンのルーン文字を刻んだナイフは七本ある。正直言ってかなり心もとない。

 ならば。左腕を見た。

 鈍色に防具が光っている。鎧のガントレットだ。小指を動かすと、ルーン文字を刻んだ隠し刃が飛び出した。

 刻まれているのはユルのルーン。イチイの木を意味するそれにまとわりつくのは死の意味。わずか皮膚を数インチに満たない程度で切るだけで、この世の条理の内にある存在は絶命するのだ。

 機関兵士が屋上まで一気に跳躍してきた。超常的膂力を誇る機関兵士ならばこそ出来る、彼らのみの十八番芸だ。

 着地にあわせて長剣を振り下ろした。

 屋根に使われたモルタルと鉄筋が、破片となって飛び散る。

 いずれも彼女に当たりはしなかった。身体強化術式なくとも重機関銃掃射さえ避けきってみせるヘンリエッタが、この程度の一撃に破片の稚拙な散弾が当たるわけがないのだから。

 ほんの僅かに存在する、人間が察知できる最小の体感時間の間に、ヘンリエッタは機関兵士の脇を駆け抜けていた。

 隠し刃が鎧を切り裂き、内部機構さえ達している。

 ルーンが力を発揮したのか、機関兵士は力なく倒れ伏す。

 残りは三人。

 いつからだったか。こうして獲物を前にすると無意識に笑みがこぼれる。殺りたくてたまらなくなってくる。

 雌豹が牙をむいた。

 インターバルは終わったが、身体強化術式はいらない。今の彼女は獲物を狩る猛獣なのだ。

 機関兵士の左腕が歪に変わる。歯車とピストンの機械部品なのに、歪だと思ってしまうのは、それが人型をしているものの腕だからか。

 今や左腕はカノン砲に変わった。

 視線が交錯した。ナイフを一本だけヘンリエッタは持って、機関兵士に澱んだ目を向ける──殺意で澱みきった瞳を。

 リミッターの外れる。そんな音がした。

 こうなってしまったら、もう止められない。

 しゅう、と息を吐いた。

 機関兵士の目の前にヘンリエッタがいた。次の瞬間、瞬く間に肩車でもするように陣取ると、新体操に似た動きで首をねじ切った。

 機関兵士たちに動揺が走った。

 兜の鉄仮面──表情など存在しない。なのに動揺の色が確実に存在していた。

 残る二体を歯牙にかけようとした。

 風に乗って声が聞こえる。いや、鳴き声だ。

 

 ──てけり・り、てけり・り。

 

 それは精神をすり減らす異形の声だ。

 それは精神をすり減らす異界の声だ。

 それは精神をすり減らす異次元の声だ。

 人ならざる不定形の怪物が生み出せる冒涜の鳴き声。

 ヘンリエッタは雌豹から女へと戻った。無理もないことだ。その声を聞いて闘志を保てる者は、この地上に誰も居はしない。

 それは決まりきったことだからだ。

 それが当たり前のことだからだ。

 条理は、常識は、運命は、この地上のいかなる手段でも覆すことは不可能なのだから。

 機関兵士二体の背後から現れた。半液状の身体はあらゆる物理を通しはしない。熱であっても、冷気であっても、電気であっても、質量であっても無駄であろう。

 天鵞絨(ビロード)のカーテンのように身を翻して、機関兵士二体をあっさりと包み込む。そこから彼らのシルエットが消えるまで、わずか数秒もかかってはいなかった。

「ショゴス…………」

 いつの間にか呟いた。その幻想生物の名を。

 自らを作り出したものに反旗を翻した、狂気と冒涜の申し子。

 

 ──てけり・り、てけり・り!

 

 ヘンリエッタにショゴスの敵意が向けられる。

 すう、と息を吸い込んだ。自分を鼓舞して立ち上がる。

 後ろに飛び退いた。

 ヘンリエッタがいたところを黒色の半液物質が襲う。モルタルと鉄筋の建物は触れあった部分から侵食され、空気の重みにも耐えられずに崩れた。

 ショゴスの力だ。

 万物を衰弱させ、脆弱にさせ、抵抗を奪う力だ。

 瓦礫の欠片も残りはしない。ただ、砂のように変質して、風に乗って消えるだけの固体に変わる。

 

 ──てけり・りりりり!

 

 ショゴスの身体が薄く伸ばされる。万物を腐らせて断ち切る刃だ。

 触れたそばから屋根の上という地面は切り裂かれ、そこから砂へと崩れていく。

 ヘンリエッタは必死になって避けた。

 崩れる屋根に立つのは諦め、石畳の地面へと飛び降りようとした。

 足が竦んだ。まるで初めて戦いに赴いたときのように、その肝心の一歩が全く踏み出せない。胸元に何かが詰まっているようで、全身が硬直して自分の意志というものががんじがらめにされている。

 本気でそう思ってしまいそうで、それが事実であって自分のみを襲っている。幻想生物との対峙では避けては通れないことだ。心が折れるのは。

 今までで踏んできた場数など、大嵐の中の蝋燭の灯ほど、不確かで、呆気なく、そして頼りなさすぎる。

 息をすうと吸い込んだ。肺腑に新鮮な空気が入った。

 ──飛べる。

 だから飛んだ。自分の足が着いている、この崩れかけの屋根を蹴って。ショゴスが体を伸ばそうと、その念塊に等しき身体では遅すぎる。

 地面に立った。盤石とした石畳の地面に。

「はぁっ…………! やっぱり慣れないな、いや慣れる方がおかしいのか」

 どっと冷や汗が落ちてくる。石畳に汗が落ちてシミを作る。おびただしい量としか言えない。精神のダメージは肉体に対して尋常ではない影響を及ぼした。

 それだけ幻想生物は条理から逸脱している。

 人が忘れ去った神代の時代、そこに存在していた奇跡の名残に。はてはこの世ならぬ外法の生命を人々は認められない。

 だが彼らは存在している。

 故に現実と願望にズレが出来て、精神が傷つく。この世ならぬものに人の心というものは、いっそ哀れみさえ覚えるほどに脆弱なのだ。

「アレに対抗できるのはサイファーだけなんだ…………!」

 来ない男のことで歯を食いしばる。もどかしさに満ち満ちて、自分の無力感に歯噛みするのだ。

 ヘンリエッタではショゴスを倒すのに遠すぎる。筋力や知能という面ではなく、存在そのものの違いがそうさせている。

 だがサイファーは違う。

 唯一、彼らを鏖殺出来るのだ──幻想生物を!

 砲と聞きまがう腹の底に響く銃声と、龍の息吹を思わせる蒼い火線が伸びる。

 黒い粘液の身体が千々に弾け飛ぶ。

 その銃火の元凶はサイファーだ。テンガロンハットを片手で押さえて、橙色に違い色合いの髪と灰の外套を風になびかせている。

 そう、そこに立っていた。サイファー・アンダーソンが。

「遅いぞ。危うく死ぬところだった」

「憎まれ口きいてるあたりからして、本当は結構余裕だったんだろ?」

「ああ」

「殺すぞ」

 黒い粘塊の腕が伸びる。

 ヘンリエッタが恐れて避けたそれを、サイファーは羽虫でも払うように切り払う。その手には太刀が握られている。

 刀をくるりと回して八双に構える。

 身の丈二メートルを超えた巨漢が、刃渡り五尺もの大業物を構える姿は、そのシルエットの大きさに拍車をかける。

「ここに来る途中でフレデリカをフランクに預けた。僕のガーニーに乗っているはずだから、がんばって合流してくれ」

「わかった」

「あとショゴスは水道管を通して十二層中にいる。何かを探しているようだが、十中八九フレデリカだろ」

「…………もしかしなくても、かなり重要なことを任せてくれているのか?」

Exactly(その通りだとも)

「全速力で合流する!」

 次の瞬間ヘンリエッタが消えた。

 サイファーは目の前で五メートルまで大きくなったショゴスを睨む。

 太刀を一閃。たった一閃でショゴスはうねる動きを止め、路地いっぱいに粘液の身体をだらしなく広げた。

 彼の一閃はショゴスの生命の根幹を砕いたのだ。一体どういった方法を用いたのか。それを知る術を持つとするならば、それはこの世のものではないのだ。

 そうでなくてはショゴスは打ち倒せない。

 そうでなくしてショゴスが打ち倒せるものか。

「こりゃ後始末が大変そうだ」

 振り返った先には更なるショゴスの群れがいる。

 また砲と聞き違う銃声が鳴る。彼の握る鈍色の巨銃は奈落のごとき銃口を向ける。その口径が七〇口径という砲にも迫る代物だとすれば、大抵の人間であれば恐れをなす。

「うざってえなぁ。だからほかの誰かがそう思う前に──」

 ──僕が、殺してやる。

 三日月が顔にできた。見るもの全てを畏怖させる、狂相の笑みだった。

 それはショゴスにさえ効いた。ゆっくりと粘液の身体を後退させる。顔があれば立派におびえた表情を見せてくれるに違いない。

 サイファーに容赦はない。それが"彼ら"なら、なおさらなのだ。

「自分のいる世界に帰るんだな。コウモリの僕が言えた義理じゃあないが」

 引き金を引けばショゴスの肉体が四散する。

 彼の銃がいかに巨大で、規格外の威力を有していたとしても、銃である以上は外法の理を身に内包するショゴスに効くわけがない。

 だが歴史を紐解けば根拠の一つと思われる事項がある。

 一八五四年の四月十四日にあったリンカーン暗殺事件だ。アメリカ独立と奴隷解放を掲げたリンカーンは、それを快く思わぬ大英帝国の上層部が送り込んだ刺客によって暗殺された。

 使われたのはデリンジャーだ。このご時世に出回っているような爆薬を仕込んだり、標的の体内でいくつもの欠片に弾け飛ぶような代物ではない。威力もたかが知れている。

 だが暗殺は成功した。暗殺者の念はリンカーンへの強い殺意で占められていたはずだ。それが銃弾に盤石の力を与えた。弾丸にも念は宿るのだ。

 サイファーの撃った巨銃から放たれた九〇〇グレインもの巨弾には、彼の本質となるものの力が宿っている。故にショゴスの粘液の肉体は四散したのだ。

「こうなると僕の独走だよ。いっつも困ってるんだ。せめて十分は保ってくれるとありがたいんだけどさ、どうもそれさえ叶うことはないらしいね」

 嘆息して、またショゴスの身体が散った。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 一台のガーニーが鉄火場から遠ざかっていく。

 そのハンドルを握るのは黒人の男──フランク・アーミティッジで、不安そうな面もちで後ろを見続けるのはフレデリカ・エインズワース。

 サイファーの指示で戦場からなるべく離れるようにと言われた。二人とも。

 フランクは頭でも心でも理解してしまっている。

 サイファーのいる領域というものに、自分たちの入る余地などないことに。それこそ感情の一片たりとて、何の意味さえ持たせないほど。

 それでもフレデリカは気を遣わずにはいられない。

 深手など無縁そうな彼が傷つくような気がして、そういう予感が胸を満たすのだ。

 だが護身にと渡されたアーカム45とブローニングM1910自動拳銃では雀の涙以下でしかない。あの巨銃の足下にさえ及びはしないのだから。

「サイファーが気になるのか?」

 図星だ。

 ずっと胸につっかえているみたいで、すっきりしない。この一瞬の感情にも等しい葛藤が付け入る余地など皆無だが。

「下手な心配は無用だ。アイツがやられたことは今まで起きたことがない」

「……それでも、あれだけの幻想生物を相手にできるんでしょうか」

「今まで負けなしだ。幻想生物相手でもな」

 今まで後ろを向いていたのを、前を見ようと振り向いたときだった。

 フロントガラスに黒が迫った。眼前いっぱいに広がる粘液状の黒がガーニーに襲いかかる。

「きゃっ!」

「うおぉっ!」

 フランクが慌ててハンドルを切った。

 タイヤが地面との摩擦を失い、防弾装甲の役目を果たす鋼の車体は横転した。派手に火花を上げながら、石畳を滑ってガス灯を四本も薙ぎ倒して止まった。

 助手席の方を地面にして横転したガーニーで、フレデリカはスカートの裾をめくる。

 白磁のごとき肌色の太腿がちらと覗いたかと思えば、そこには二本の革バンドが一周し、アーカム45を収めたホルスターがあった。

 拳銃を抜いて、運転席側を登って脱出する。フランクはすでに脱出していた。

 ガーニーから飛び降りて拳銃を構える流れは洗練されている。アーカムの護身術はピンからキリまで存在し、上等なクラスになると反射行動での護身行動さえ可能にする。フレデリカが受けたのはピンの方だった。

 フレデリカの視界にあったのは、蓋の外れた下水マンホール。そこからガーニーを横転させた元凶が出てきたのか。

 ガーニーに目を向ければ、前面部が朽ち果てたようになくなっていた。

 人力ではあり得ることのない破壊痕に身を震わせた。

 フランクは自分の得物を構えている。

 ウィンチェスター社製のものを改造した安定した作動性のポンプアクション式の散弾銃だ。人間なら挽き肉になる八ケージ九粒弾から、射程と精度を優先したスラッグ弾まで、あらゆる弾丸が撃てる。

 銃身上部には放熱用のゴツいベンチレイテッドリブが取り付けられている。

 元・荒事屋の勘が銃口を頭上に向けさせた。

 引き金を引いた。銃口抑制器を取り付けた銃口から、V字にマズルフラッシュが飛んだ。

 即座にフォアエンドを前後する。引き金を引いたままの操作はスラムファイア機構を作動させ、第二弾を発射させた。

「上だ! ヤツは上から来た!」

 近くのアパルトメントの水道管、その上階に上水道を引くための水道管からショゴスは湧き出た。

 ほぼ粘液に等しい身体が柔軟に姿を変える。

 

 ──てけり・り、りりり!

 

 フランクは膝を着きそうになる。

 彼らの声を聞いた者の運命だ。この人が紡いだ条理に溢れる世に、異界の存在がいるだけでも肌が粟立つ。声など聞こうものなら耐えられるものなど一般人には存在しない。

 ショゴスの黒い肉体が蛸足のごとく変じ、フランクに向けて振るわれた。

 物理的威力もさることながら、その肉体に纏う異界の法則という名の呪いが致命的だ。この世のものは呆気なく犯されて、滅び去ってしまう。

 フランクはすんでのところで屈んだ。

 黒い致死の仮足が頭上を横切る。

 その根本へとフランクは一発のスラッグ弾を撃ち込んだ。

 スラッグ弾はただの鉛弾ではない。閃光と爆音が響いたかと思えば、蛸足めいた仮足に大人の頭ほどの穴が空いた。

 緑鉱石と赫鉱石による数式技術が生み出した八ケージ榴弾だ。弾が大きい分、施せる数式も多い。威力は伊達ではなかった。

 しかしショゴスは異界の理に身を置く者。この三次元上の変化などダメージにはほど遠い。

 その穴が瞬く間に塞がっていくのに、フランクは舌打ち一つして歯噛みした。

 そして軽い銃声が響く。散弾銃を基準に考えればの話だが。それは大口径拳銃によるものだ。

 フレデリカがアーカム45を撃ったのだ。

 だが普通のM1911より強化されているとはいえ、拳銃ではショゴスを倒しうることなど出来はしない。

 聡明なフレデリカの頭脳はそれを踏まえた上で撃った。彼女の狙いはショゴスが出ている水道管近くにある、破壊されたガス灯だ。

 牽制の銃弾にカモフラージュされた一発の弾丸が、ガス灯の金属基礎に命中。一筋の火花が走った。

 爆轟が耳を突き抜けた。

 熱波がフレデリカの頬を焼く。

 その隙に二人揃って駆け出した。アーカム45、ウィンチェスター社製カスタムショットガン、それぞれの得物に再装填しながら走る。

「意外に健脚だな」

 フランクの声に遊底を引き終えたフレデリカが顔を上げる。

 距離は二歩、三歩の距離だ。

 元荒事屋のフランクの肉体は無手でも人を殺傷しうるほどに、それほどに屈強だ。相応に足も速い。

 なのにフレデリカは息を乱した様子もなく、ちゃんと後に続いている。

「自覚は、ないんですけど」

「なんか運動でもやっていたか?」

「最近、怠っていたんですけど、毎朝ジョギングをやっていた時が……」

「大した足だ」

 背後から迫る漆黒の仮足を散弾銃で打ち払った。

 フレデリカが上方への威嚇射撃で自分たちの存在を知らせれば、道行くものは避けていく。避けていく人間も元からいないのだが。

「きゃっ!」

「うおおぉおっ!?」

 前方の石畳の道を突き破ってショゴスが現れた。

 そのまま触れるだけで死を与える粘液の身体で、二人まとめて包み込もうと身を広げた。

 銀色の何かが空を切る。

 いかなる魔術が施されていたのか、ショゴスの浸食さえものともせず、その肉体に銀色に輝く手投げナイフが突き刺さった。

 青白い轟炎が粘液を舐めていく。

 それでも異界の不定形生命体は、その質量の一切を損なうことなく生きている。

「二人とも、時間稼ぎは済んだ。距離を離せ」

「ヘンリエッタ! サイファーさんは!?」

「一人でショゴスたちを相手にしてる。片づけるのに十分もかかりそうにない。すぐに合流できる」

「そりゃ僥倖だ、さっさとここから……」

 言葉は途切れた。

 ヘンリエッタとフランクが膝を折って倒れ込む。

 明らかに場の空気が変わる。どろりと半液状に変わった、と思い込んでしまうほどに重苦しい。そして現世の存在を許さないほどに変質していく。

 フレデリカだけが無事だった。

 ショゴスを目の前にしても揺らぐことのなかった心。

 自分でも少しだけおかしいと思っていた。それどころか、あの異形に何か変な感情を抱きつつあった。彼らの住まう世界こそ、自分の行る場所だと思ってしまった。

 それが崩れていく。

 自分のどこかが綻んで、悲鳴を上げていく。

 軋む音がする。

 さざめく音がする。

 割れていく音が、響いていく。

 その音がするのはどこからだ? 地面でもない、周りの建物でもない、もっと大きなものからしている。

 空気から響いているようだった。しかし、空気は何の変化もない。

 

 ──変化があるのは空間そのもの。

 ──感情のスカラーで変異したショゴスによるもの。

 

 フレデリカに誰かが告げる。

 思わず押さえた、右目を。右目の神経網を伝って告げたのだと、彼女は直感する。であれば、フレデリカに言葉を継げたのは黄金の右目か。

 

 ──変異型ショゴス、十秒で三次元への優位顕現を実行。

 ──現状における自力での状況打破は不可。

 ──逃走、及び《彼方なるもの》の遺伝子情報の解放による肉体の最適化を提案。

 ──抵抗であれば後者を選択。デメリットとして肉体変異のリスク有。

 

 右目が伝えたのは事実か。

 いや、フレデリカの決断は決まっている。

 もう逃げないと決めた。決めたのだ。

 もう守られるだけの自分ではない。

 もう守られるだけの自分ではいけない。

 フレデリカ・エインズワースという女は、何一つとして決めることのできない女ではないのだ!

 だから望む。立ち向かうことを選択する。そのためならば、化け物になってもかまわない。

 二度と傷つくのは嫌だ。気遣われて、たくさん迷惑をかけた。

 だから一人でも大丈夫なだけの力を。力を欲する!

 

 ──肉体最適化の意志を確認。

 ──変異に三分の猶予が必要。準備態勢に入ります。

 

 その時だ。地面が波打った。石畳が粘土細工じみてうねりうねって、形を変えていく。

 黒い液体が一気に噴き出していく。霧状になって、擂り鉢状に落ち窪んでいく石畳の地面、その中央へと集っていき、一つの形を作っていく。

 それは女、ずっと見ていたくなる美しい女の形を作り、それでもなお黒い液体の集合は止まらずに質量と体積を増加させていく。

 女の下半身は異形と化した。怪物スキュラと言えばピンと来るだろうか。

 多くの人間が結合箇所も曖昧になって、くっつきあって、ひしめき合って、憎悪と呪いを意味なき言葉に乗せて放つ。

 その中に三体の機関兵士がいる。黒い粘液で作られたのにも関わらず、その身体は金属光沢を保っている。

 女の部分が上体を起こした。

 フレデリカと、目が合った。

「ベアトリクス……」

 女の名をいった。

 ベアトリクス・ブルツェンスカ・フォーレンシルト。

「会いたかったわ……」

 ぞっとする声だ。

 空気を伝わって響く声ではない。その声を聞いただけで気を失いそうになるのを、必死になってこらえた。

 黒い粘液は色形を自由自在に変え、ベアトリクスの形を完全に再現した。上体に何も着ていない、多くの男を虜にしてきた肢体は黒髪によって隠されている。

 ショゴスへと変異したせいか、彼女の身体はあり得ぬ色香を帯びている。

 あらゆる男はその唇に吸い付き、堪能したいと願うだろう。

 あらゆる男は肢体を隠す髪を退けて、その下の裸体を拝み、隠微なる肉の味を堪能したいと願うだろう。

 例え触れるだけでも死に至ると分かっていても。

 例え勢力尽き果てた老人であっても、性の目覚めも知らぬ少年も、うら若き恋に恋する少女だって、例外になることなど決してあり得ない。

 美の集結点と言っても過言ではない、ベアトリクスの肉体を一瞥した。

「なんで、ここまでのことを……?」

 腹の底から言葉を絞り出すように、その言葉だけが出てきた。月並みな質問だと言われれば、ぐうの音も出ない。

 ベアトリクスの眉がつり上がる。

 その美しさは瞬く間に消え失せて、底知れぬ憤怒がほとんどを占めた。

「あなたが私の邪魔をしたからよ! どこまでも目障りであざとい子! 厚かましくって、すぐにでも殺してやりたいわ!」

「一体、いつ、私があなたの邪魔をしたというんですか!?」

「そうねぇ……気づいてないようだから、この際丁寧に教えてあげる。あなた大学で男たちの評判は知っていた? 知るわけないわよねぇ? だって私のおかげで休学になっていたんだから…………大学の男共はいっっつもフレデリカ!フレデリカ!フレデリカ!フレデリカ! ほんっっっとに嫌になるわ! あまねく全ての男たちは私にひざまづいて、忠誠を誓っていれば、私が相応の愛で応えてあげるわ。なのに見る目のない男たちはアナタばっかり見てる。私を見てる男は誰一人だっていないの! 私の家ばっかり見てる! 全く羨ましすぎて笑えてくるわ! アナタは存在そのものを見てくれて、そして愛してもらえるんだもの! まぁ、ヘンリエッタにご執心な同性愛者だったら話は別だけど。…………アナタは殺すコロす殺してやるわ! それが私が昇華するために必要な儀式(サヴァト)なのよ」

 フレデリカの瞳に宿るは憐憫と憐れみ、そして侮蔑。

「かなしいひと」

 淡々と続ける。

 ベアトリクス・ブルツェンスカ・フォーレンシルトを否定していく。

「自分自身を見てもらえない理由はたった一つだけ。私だって持っているか分からないけど、これだけは言える──────あなたそのものを見る価値なんてないから。全てのものが思い通りになるとしか思っていない、それだけの無価値な人。それがベアトリクスという女の価値なんですよ」

 空間ごと全てが弾け飛んだ。

 その衝撃にフレデリカも、離れた場所にいたヘンリエッタとフランクも紙屑みたいに吹っ飛ばされた。

 ベアトリクスの慟哭だった。

 非常なる現実の刃が脆い自尊心を打ち砕いた。それも跡形もなく。

「私に価値がないだと!? ふざけるな! 私は美しいの! 何よりも! あなたなんて、あなたなんてえぇぇぇぇえ!」

「それが答え。あなたと私を分けた、あなたが否定し続けた、たった一つの答え」

 むくりと起き上がった。

 瞳に決意を燃やして、フレデリカがいた。

 人差し指で、はっきりとベアトリクスを指差した。

「私も会いたかったんです──もう逃げないために、あなたを乗り越えます」

 

 ──最適化を実行。

 

 肉体を裏返され、神経が新しく張り巡らされていく。

 そう錯覚してしまうほどの激痛に、その場で倒れ込んだ。

 右目から大量の情報が直接流れ込んでいき、左目が火を噴いたように熱い。右目が見せるのは冒涜の記録。この世に生きる全てを否定し、異界の者たちが紡ぐ冒涜と狂気の怪物賛歌。

 ただ、自分が自分になっていく。根拠もない、その感覚にだけ身を委ねた。

 ──もう、にげない。

 ──もう、まもられない。

 ──戦うんだ、戦うんだ、自分の力で。

 痛みが引いていく。

 起き上がったフレデリカにベアトリクスは明らかな恐怖を抱いている。

 自分とは対極の美があったのだから。

 そう、誰も触れようと思わない繊細な美しさ。天上に住まう神々も、彼女の造形は不可能だ。全にして一、一にして全なる存在のみが成し得る美しさを携えて。

 左手にはアーカム45、右手は無手か。

 

 ──状況確認。現時点武装では状況打破は不可能。

 ──緊急権能によって《彼方なるもの》のスカラーを使用

 ──肉体最適化は成功。肉体に一切の変調はなし。

 

 いや、光が集っていく。玉虫色の光が球体となって、細く集まっていき束ねられていった。

 細剣(レイピア)と化し、玉虫色に輝く光剣を向けた。

「いきますよ」

 黄金へと変わった左目、黄金の双眸から放たれた眼差しがベアトリクスを射抜いたのであった。

 

 




 いや難儀だった。

 それだけだ。

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