享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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 なんということでしょう。今回の話は区切っている部分がございません。


戦いの前夜は和やかに射撃練習をして

 何度目の同衾だったか。

 寝起きの頭でサイファーは昨夜のことを思い返す。

 特に何かあったというわけではないが、今回のただの同衾は躊躇なく抱きついてきたような気がするのだ。

 人肌が恋しいのか。

 おそらくはサイファーを信じる決断を定めるために、昨夜の一晩だけでも一緒にいようという考えがあったのだろう。

 ただ、ぴったりと体をくっつけられたのには参った。

 ソファーの上で押し倒されて、押しつけられたのとは違う。当たっていたのは胸板の部分であり、息づかいも感じたがシチュエーションが違う。

 ベッドの上で男女が一緒に寝るなど、ましてや成人をすでに迎えたばかりであれば、そういうことを欠片でも考えてしまう。

 悲しいかな、これが男の(サガ)なのだ。

 異性と床を共にすれば、あまねく男はティーン・エイジャーに逆戻りするのだ。

 つまりは一日中、劣情にうかされて眠りが浅かった。

 おかげで上下の瞼がややもすればランデブーする。

 だが一睡も出来ていなかろうが、彼のバイタリティーに何ら変わりはない。それでも眠ってしまいたいと思ってしまうのは、昨夜の酒が抜けきっていないせいなのか、それとも劣情を押さえ込むことに神経を使いすぎたせいか。

 ここはフレデリカの名誉のために前者とすることにした。あんな幼気(いたいけ)な少女にも等しい女のせいにするなど、自分のプライドが許しはしない。

 こういった寝不足や、財布の金が羽生えて飛んでいくのは、女性と楽しい一時を楽しめた代償だと考えれば納得できる。

 少なくとも頭は、脳は。

 だが身体は抗議を叫んだ────寝かせろ、と。

 身長に合わせたせいでキングサイズになってしまったベッドの上で、三回も転がっては唸り、また三回転がっては唸り、それを四回も繰り返してから決断を下した────あと二時間だけ、眠っておこう。

 そう決めた後に夢の世界へ旅立つのには一分とかからなかった。

 それから、どれだけの時間がかかったのか、サイファーは目を覚ました。ベッドのそばに立つ気配を感じたために。おおよそフレデリカだろうと思って目を開けると案の定だった。

「起こしていいか、少し迷いました」

「なんでだ?」

「あんまり気持ちよく眠っていたので、起こしたら悪い気がしたんです」

「そんな顔してたのか」

「そう言われると……顔だけではなくて、呼吸とか姿勢にも現れていたと思います。体全体で熟睡していたのを表現していたんだと思います」

「一種の才能かな」

「少し珍しすぎる気もしますけど」

 苦笑しながらフレデリカも同意の意を返した。

 間抜け面をさらして眠ったことは幾度となくある。

 ほとんどの場合は一夜を共にし、情交を交わした女たちが見てきたもの。言うなれば特権のようなものだ。サイファーでも行為の後には疲れるのだから。

 それを見られたのは、なんとなくだが、気恥ずかしいものがある。

 自分が一番無防備なところは見せたくなかった。

 アーカムが寝首を掻くことが珍しくない危険な場所ということは関係なく、単なるプライドの問題であった。男というものは常に格好付けてなければならないという持論に基づいている。その程度のプライドだ。

 おまけに気恥ずかしいことには気恥ずかしいが、見られても悪い気はあまりしない。

 知り合って一ヶ月も経っていないというのに、ずいぶんと親しくなったことに苦笑してしまう。

 彼女がいなくなってしまうのは、五年以上もの間いた存在がなくなってしまうのに近い。なぜ、これほどに存在が大きくなってしまったのかを、サイファーは知らない。

 本当は目を向けていないだけだ。

 本当は目を逸らしているだけだ。

 顔を、背けているだけなのだ。

「どうしたんですか?」

 小首を傾げて問いかけるフレデリカの顔。

 それは常に薄くかかる灰色の雲さえ貫く、日輪よりもなお、輝いて見える。

「なんでもないよ。ただ、お前さんは本当に良い子だと思っただけでね」

「そんなことばかり言っていたら、歯が浮いて、気障な人だって思われますよ」

「それも悪くない」

 もう、と頬を膨らませて呆れ半分、怒り半分。

 のろのろと起きあがる彼を見つつも、それは全く変わっていない。

「荒事屋だって客商売ですから、気障な人って思われたら、お客さんが減るかもしれませんよ?」

「それは困るな。あ、着替える。僕の裸を見たいなら、ここにいても良いけど?」

 なにも言わずに真っ赤になって駆け出した。

 おもむろにシャツをめくって、少々擦れたジーンズの前を開けて下げようとしたのだから。

 フレデリカの目に映ったのは、たくましく割れた腹筋だけ。

 寝間着代わりのシャツをめくったせいで見えた、女では得ることが困難なもの。

 昨晩はあれに身体をくっつけて、無防備に熟睡していたのかと考えると、ただでさえ熱くなってる顔にさらに熱が集まってくる。

 ──こんなに意識したのは、初めて。

 ──こんなに顔が熱くなるのも、初めて。

 ──恋という存在を意識し始めたのも、全部初めて。

 初めての感覚が身を焼くように熱くする。

 大学時代はベアトリクスの件を振り払うことに専念し、単位と自分の研究だった新型数式機関の論文と試作品の作成に打ち込んでいた。

 色恋など知るはずもない。

 知りたくもなかった。

 ややもすれば、ベアトリクスと同格に成り下がってしまう。そんな気が、なんとなく、なんとなくだが、確かにしたのだ。

 ──こんなに始めてのことがあったら、調子狂って変になりそう。

 朝食として仕込んだスープを加熱して、プディングと付け合わせの肉と野菜の具。そしてオレンジの果汁を隠し味に入れたフレンチトーストの用意ができる。なんとなく野菜が足りないような気がして、特製ドレッシングを絡めたサラダも用意しておいた。

 時同じくして欠伸と共に、やたらと高い上背の男が、ぬうっと現れた。

 サイファーはきっちり着替えたのだろう。

 ただ、いつも着込んでいるコートにテンガロンハット、シャップスとジーンズという組み合わせからコートとテンガロンハットがないだけ。

 それだけなのにフレデリカには、ひどく新鮮に思えたのだ。

 おもむろにサラダを食べたとき、サイファーの表情が変わった。

「あ…………あの?」

 思わず止めようとしても、その言葉は届かない。

 それほどにがっついてサラダを咀嚼していく。

 フレデリカの予想を大幅に上回る早さで、大盛のサラダがなくなっていった。

 器を空にしてから、一息ついた。

「これ、スッゴく旨かったわ」

「……見ても、わかるくらいでしたよ?」

「そうだろうな。だけど止まらなかった。ドレッシングがスゴかった」

「お祖父ちゃん秘伝のレシピですから」

 口元に手を当て、微笑む仕草。

 それ一つで希代の画家が、彫刻家が、芸術家が、数十年もの月日の末に書き上げた作品に思える。

 そう思えるほどに、フレデリカは可憐だった。

 この微笑みを崩すものを許したくはなかった。

 この微笑みを崩すものを生かしたくはなかった。

 だから彼は決めたのだ。

 フォーレンシルト大公家相手に戦争をやろう、と。

 すべては彼女に笑顔のために、殊勝なる彼女のために、彼は力を振るおうと決めたのだ。

「また作ってくれないか? 今度はカレーも一緒に、な」

「はい! それぐらいなら、おやすいご用です」

「その"それぐらい"だって、僕は出来ないんだけど」

 左手に温もりが触れた。

 そっと触れたフレデリカの左手が、腕を上っていく。

 くりくりのアーモンド型をした左右で色の違う、アイオライトと黄金の目は、サイファーを偉大な英雄でも見るような憧憬の意を込めて見つめている。

 なぜかむず痒い気持ちになった。

「その分、あなたは強いです」

「そうかい?」

「初志貫徹、決めたことは曲げない、強い意志がなければできないことです」

「天上天下唯我独尊、の方が正しいと思うけど」

「ヘンリエッタは、きっとそう言うでしょうね」

「違いない。だが否定することだって出来そうにない」

 左手が男の手の甲に戻って、力強く握った。

 彼女の顔に微笑みは、すでになくなっている。

 真一文字に結んだ口から何を紡ぐ?

 真一文字に結んだ口から何を放つ?

 真一文字に結んだ口から何を話す?

 サイファーの頭を占めていた数々のものが、それだけのことに塗り替えられて、塗りつぶされて、それだけに興味が行った。

「たとえ冗談でも、そういうのはやめて下さい」

 疑問──たった一つのそれが、男の頭を占める。

 なぜ、フレデリカはそう言ったのか。

 理由があるとすれば、それはたった一つの簡単なこと。

 見返りなく自らの意志で他人を思いやれる人間、それだけだ。

 アーカムでは絶滅危惧種だ。ここは利己主義者たちが集う、エゴイズムのゴミだめだ。誰もが自分だけしか見ることができない。自分だけしか思うことができない。

 望まれなければ、利害がなければ、下心がなければ、仕事でなければ、誰もやらない。手を、差し伸べることはないのだ。

「そうやって尖っていないで下さい。周りを傷つけるだけではすまないんです。傷つける人がいなくなれば、その尖った心は自分に向くんです」

「…………自分自身、そういう経験があったからか?」

 銀灰色の双眸に映る、虹彩異色のアイオライトと黄金が揺らぐ。それは瞼によって隠され、開いたのは口だった。

「……私を想ってくれたのは、祖父とヘンリエッタだけでした。

 私は両親の顔を知らないんです。無論、どういう人間で、優しい人だったのか、ひどい人だったのかも。孤児だったんです。物心ついたときから教会の孤児院で暮らしていました。私を引き取って、育ててくれた義理の両親は私を想っていなかったんです。

 衣食住は満足に与えられましたし、欲しいものは買ってくれました。ですけど、それだけだったんです。私は子供のできない二人が、幸せな家族という願望を作るために道具だったんです。だから不自由はなかったけど、躾の一つも怒られたこともなかったんです。

 そういったものは、たまにやってくる祖父がしてくれました。社会でどう生きるか。義務と権利と責任。学校では教えてくれないことを、両親に変わって教えてくれたんです」

 瞼が開いた。

 その下の鮮やかな青と金の像は、揺らいで形を変える。

 瞳になみなみと溜められて決壊寸前の様相を見せる、大粒の涙がそうさせるのだ。

 今にも頬を伝ってこぼれそうで、それをフレデリカは意志の力で留めていた。

 だから嗚咽は混じらなかった。

「でも私の世界は狭すぎたんです。暴力を用いない、満たすだけの虐待は、祖父の教える世界だけで世の中の酸いも甘いも知っていたつもりになっていただけでした

 そんなときにベアトリクスとの一件があったんです。それ以来、在学中は誰も寄せ付けずに過ごしました。あのヘンリエッタでも、誰も近づけずに、単位を得るための論文に打ち込みました。誰にも興味を抱きませんでした。話もしたくなかったんです。

 …………人という存在が、怖かったんです。関わりたくないと、おもって」

 俯いた。

 誰もが一度は通る道なのかもしれない。

 それでもなお、歩み寄る道を選ぶのか、他人への興味を失うのかは、当人次第なのだ。

 どうやらフレデリカは後者に堕ちかけていた。踏みとどまれたのは周りの人間のおかげなのだろう。ヘンリエッタが奔走する様は容易に想像できる。

 その甲斐あって彼女はここにいる。

「一生、人と関わりたくないと思うときなんぞ、二十年生きていれば一回はある。いけないと思う必要はないよ。そういうのは胸の内に誰だって隠している」

「…………あなたもあるんですか?」

「あんまり。そう思ったヤツはこの世から退場願ったからね。そういった現実に辛さを感じない代わりに、僕の手はその分血まみれ」

 でも、そう言って区切った。

 葉巻を咥えて火をつけた。初めて会ったときのように、奇妙なかたちを煙は描いた。

「でも、そういったものとも、自分に危害を加えるヤツとも、毅然として立ち向かわないとならない。戦わないとならない。それを諦めた先にあるのは、負け犬人生だけさ」

「それでは、あなたが傷つくだけです。戦い続けてばかりでは、ただ目先の問題を無理矢理かき消しているだけ」

「そうだろうな。僕の生き方は真っ当な大人としては五重ペケだよ」

 変えようと思ったことは一度もない。

 戦いに次ぐ戦いの果て、このアーカムに流れ着いたときに就いた暴力を売る仕事(実力行使請負業)

 これ以外の仕事に就いて生計を立てるなど、彼も人生観から永久追放済みであった。

「だから一緒にいる必要なんてない」

「それは聞けません」

 どうにも理解できないことが一つ。

 なぜフレデリカが自分を慕っているのか。

 このアーカムという特異なる街がなければ、社会不適合者の烙印を押される。そんな自分をなぜ慕うのか、サイファーにはわからない。

 ──それは聞けません。

 きっぱりと言い切ってのけたフレデリカの瞳。

 月に二、三度は見ることができる青空よりも澄み切った虹彩異色がじっと見つめた。

「約束、反故にする気はないんです」

「あの指切りかい? あれは僕がお前さんの前からいなくならないと言っただけだ。お前さんが僕の前から去ってはいけない理由にはならない」

「あの約束は二人揃ってこそ、成り立つものだと、私は思っていたんですけど。どうやら私の恥ずかしい勘違いだったようです」

「────死が二人を分かつまで」

「そこまで重くはしない、そういうつもりですけど?」

「そうだな。ただ一緒にいるくらいで丁度良い」

 無骨で大きな手と、繊細で小さな手が、触れ合って握りあう。

 目と目が合って、思わず笑みがこぼれた。

 ──こんなに笑ったのは、いつぶりだったか。

 彼の心中で吐き出された呟き。

 シニカルだ。彼の笑みに対して、他人が漏らす感想はいつだって、その決まりきったセリフだ。ヘンリエッタも、一度だけ、そう言った。

 それに当てはまらないのは、目の前の彼女だけ。サイファーを慕い、彼に憧憬とも、慈しみともとれる、そんな眼差しを注ぐ彼女だけだった。

「お前さんは、どうしたい?」

「もう、逃げません」

 はっきりと告げた決意に、行動で答えた。

 フレデリカの手を引いて、階段下の物置のドアを開ける。

 少しだけすえた臭いがした。家の広さに比例して、狭いはずの階段下の物置は存外に広かった。

 理由は足下にあった。

 鉄の蓋。おそらくは地下への入り口であろう。

 金属の擦れ合う音は皆無だった。要はそれだけ使っていて、それだけ油を差して動作を滑らかにしているのだろう。

 奈落の底に行くための、打ち付けられた鉄の梯子に息を呑んだ。

「どうする? 先でいいか? 後にするか?」

 少し考え込んでから、

「あなたの後について行きます」

「そうかい。落ちそうになったら言え。受け止めてやる」

「ありがとうございます。でも見上げるなんて真似、しないでくださいよ?」

 スカートを摘まんで持ち上げた。

 今日の服装は純白のフリル付きエプロンが眩しい、青空を思わせる色合いのエプロンドレスで、膝下丈のスカートであった。履いているのは、外出するときの革製編み上げブーツだ。見る目ある者が見れば、それはアーカムの軍用品に負けず劣らずの上層高水準品であると見抜けただろう。

 ──本当にアーカムというか、この空気が煤けて、空の曇ったご時世に似合わない綺麗な娘だ。

 サイファーの抱いた感想は、彼の内にのみ留められ、彼のみが知る事項だ。彼が望まない限り、誰かが知ることはない。

 彼が先に行って、彼女が後についていく。

 そこそこな高さを下りて、結構な時間が経った頃にブーツ越しの感触が変わった。鉄板の床だった。

 ゴゥン、ゴゥン。一家庭に必要なライフラインを供給するための無骨で太いパイプが、天井を縦横無尽に走っている。

 電灯が辺りを照らす。

 新大陸で発明王とも呼ばれた男の特許は、ガス灯とは違う光を振り撒いた。

「わぁ…………」

 青く光る合金の扉だ。それは金庫と同じダイヤル方式で閉ざされている。近くに鍵穴もある。

 三メートルは確実にある大きさに圧倒され、思わず声が漏れた。独力では確実に開かないと思うほどに、目の前の扉は豪壮で分厚く感じられた。

「待ってろ、今開ける」

 ガチャと音がした。鍵を持っていたのだろう。

 分厚い扉を難なく開けた先にあったのは、壁いっぱいに掛けられ、天井から鎖で吊された古今東西の銃器。

 祖父と共に住んでいたときに受けた護身術教室で、あらゆる銃器について特徴と取り扱いを教えられた。だから分かるものもあった。

「あ、アーカム45……」

「知ってるのか? 結構値が張ったけどね」

 それはアーカムで作られたM1911クローン。ライセンスというものなど関係無しに、この街ではあらゆる銃のコピー品が作られる。おまけに主流は無煙火薬なのだから、イギリス本国に比べれば武器の性能に大きな差が出るのだ。

 アーカム45は45ACPの代わりに、自動拳銃用に長さは変えずリムレスに手直しした45ALP《Automatic Long Pistol》を使う。薬莢の長さが増えたおかげで握りにくいが、装薬が多く詰められるだけあって威力は折り紙付きだ。

 鈍色に光る防錆処理のされたスライドが光る。銃身長は六インチは確実にある。元から大きめの拳銃なのだから、コピー品もそれなりに大きいのは避けられない。

「拳銃は使える?」

「護身術教室で一通り。役に立ったことは、あまりないんですけど」

「そうだな…………僕も引き金を引くより拳を飛ばす。ヘンリエッタは己の五体とナイフだけだ」

「らしいと言えば、らしいと思います」

「ウン、ありゃ女傑だ」

 アーカム45が繊細な手の内に握られた。

 ズシリとくる二キログラム超の重量を持て余さず、手の延長として操りそうだった。45口径回転式拳銃の代表格であるピースメーカーと同じ──いや、装薬が進化しているのだから、実際はもっと上なのだろうが──威力の鉄塊が頼もしかった。

 珍しくも野蛮な思考に嫌気がさして、アーカム45を元に戻そうとして、

「欲しいのなら、あげるよ」

「も、もらえませんよ! 値が張った品なんでしょう!?」

「いいよ、一生の友とする得物を探し続けて買ったものだから。今はずっと使う得物があるから問題ないんだ」

「あの大きな黒と銀の銃ですか?」

「アレか? アレは…………普通の仕事の時に使うやつ。本当の得物はここに仕舞ってあるのさ。と言っても盗んだところで、人類には使えない代物さ」

「その黒い箱でしょうか?」

「察しがいいね、正解だよ」

 弾薬の収められた鉄箱で作られた道は十字で、その真ん中に黒い革のケースがある。非常に大きなものだ。一メートルは優にあった。

 留め金が小気味よい音を立てて解放されると、サイファーはガバッと勢い良く開けた。

 そこにあったものに思わずフレデリカは息を呑んだ。

「お前の力を借りたい。頼むぜ、相棒」

 儀式のように巨銃をとって額に当てた。

 灰色に染まった巨銃は六〇センチを超えるだろう。

 いや、超えて当然といわんばかりの巨銃だ。ニッケルめっきとは一線を画する輝きを放つ、恐ろしく巨大なリボルバーだった。銃身上部に放熱用のベンチレイテッドリブに、銃身下部と左右に反動抑制のベビーウェイトを取り付け、銃口にはゴツいマズルブレーキが取り付けられている。

 銃身だけで十五インチを超え、巨大な輪胴には七〇口径以上もの巨弾を収められそうだ。

 それでもサイファーにとっては、ようやく大きいという程度であった。

 その特級の凶器が、ランク付け不可と言える男の手に握られている。彼の何をランク付けするか。どれをとってもランク付け不可のようだが、家事能力とジョークのセンスは底辺だろう。

 それを観賞用の模型銃でも扱うようにガンスピンさせてから、輪胴を右にスイングアウトした。そして弾丸を一発ずつ込めていく。その数は六発を通り越して、二十四発にまで達した。

 目の前で繰り広げられた質量保存の法則を超越した現象に、フレデリカは度肝を抜かれて口をパクパクさせた。

 サイファーの声が上から降ってきた。

「その銃はお前さんにやる。どの道、フォーレンシルトの連中と確実に戦争だ。持っておいて損はないよ」

「…………やっぱり、戦うんですか?」

「ン、それは確実なことだ。最初っからの予定だったんだよ。あのベアトリクスって淫売のガキが、自分のやったことを悔い改めようが、悔い改めまいが、どの道にしたって血は流れるのは必定なんだよ」

 ──僕が、そう決めたのだからね。

「────ッ」

 喉の奥で声が漏れそうになったのを、必死で飲み込んだ。

 なにを言おうとしたのか。わからない。

 恐らくはアーカムの外、フレデリカの価値観の六割を占めているイギリス本国の常識に則ったもの。

 この悪逆にして背徳なるアーカムでは、子供の落書きよりも意味を成さぬもの。ならアーカムの掟とは何だ? アーカムの法律とは何だ?

 それは個人の裁量だ。

 それは一人一人が決めることだ。

 誰かがイギリス本国の法律に従っていれば、誰かがハムラビ法典を地で行くのだ。あるいは宗教的なものに則って行動するのだ。

 絶対法規は存在しない。それも誰もが納得できるようなものなど、絶対に存在しないと、このアーカムは声高に叫ぶのだ。

 故に世界常識の生命尊重、他人への思いやり、そうあるべきとされる美徳の数々は意味を持たない。

 揺らがない信念に基づく力こそが絶対。信念だけでは無意味。力だけでも無意味。その二つを持ち合わせる人間は誰だ? それ実力行使請負業者サイファー・アンダーソンか!?

「それは私を守るため、ですか?」

「…………そうだ。お前さんには死んでほしくない。ベアトリクスの狙いは、十中八九お前さんだからな。約束は保護にしない主義だ」

 ──だから目の前から、いなくなるような事態にはしない。

 銃を仕舞いながら呟いた。

 その言葉をフレデリカは聞き逃さなかった。

 頬が熱くなり、胸が高鳴りを覚える。きっと間抜けな顔をしているに違いないと、ぐるりぐるりと回りつつある思考の中で思う。

 まるで白銀の鎧に身を包んだ騎士が、剣を掲げて誓う主君を守る宣誓だ。

 実際は煤けた灰色のコートを着たガンマン被れで、誓う相手は両親に捨てられた惨めな女。立場の方から考えても、サイファーの方が上なのだろう。

「車、出す」

「え、どこへ?」

「サイファー・アンダーソン先生のパーフェクト射撃教室。ま、お前さんの腕を見たいだけだけど」

 いくつかの銃を革のトランクに仕舞って、梯子を上って地上に出る。

 彼について行くと、気付けば車のガレージだった。

 整備用の工具を壁いっぱいにぶら下げ、数式機関の整備について書かれた本が鉄製のキャビネットに平積みされていた。

 ガレージにはガーニーが鎮座している。最新式のモダンなデザインをした、灰ずくめの車。幌の屋根ではなく、車体と同じ軽量高強度を誇る合金製の屋根だった。

 幌の屋根ならブローニング自動小銃あたりの火器で弾雨を降らせれば、搭乗員は抵抗する間もなく皆殺しにできる。それを防ぐためだろう。

 ガーニーは抵抗なく、振動もほとんど感じさせずに走り出した。さすがは最新式だ。純粋蒸気機関だと悲惨なほど振動がひどい。イギリス本国は純粋蒸気機関が主流なのだから、同情を禁じ得ない。

 ハンドルを握るサイファーが口を開いた。

「人を撃ったことは?」

「…………ありません」

「そうだろうな。それが普通なんだから、恥じることない。護身術なんてものは使わずに済む方が、一番良いことなんだよ」

「サイファーさん、は?」

「三桁は確実として…………流れ弾を含めたら四桁かも。本国の方にいたとき、あのリボルバーでレジスタンスの大陸移民たちを老若男女平等に、しこたま撃ったよ」

 目を少しだけ細めた。

 僅かながら、本当に僅かながら、眉間に皺。

 思い出したくないのだろうか。

 アメリカ独立戦争で、アーカムに流通するオーバーテクノロジーで大陸移民を蹂躙した大英帝国イギリス。

 アメリカを後押しする各国の支援など鼻先で笑い飛ばすほどに、相手のアメリカ側にさえ精神崩壊の末に笑みをこぼさせた火力に折られたアメリカ人。

 それでも独立を諦めぬ彼らを殺した過去。

 不適な笑みが良く似合う顔に、眉間に皺を寄せる何かがあったのか。

「それだけが生きる実感を得る、ただ一つの方法だったのさ。その時の僕にとってみれば、金儲けより、娯楽作品より、ウマい飯を食うより、高級娼婦を抱くより、何よりも代え難い楽しみだった。戦いで己を解放する感覚に溺れちまった。だから、この街でしか生きていけない。この二代目ソドムとゴモラに、ね」

 シニカルな笑みだ。己に対する嘲笑も込められているのか、どこか悲しげだ。どこか寂しげだ。そして──どこか諦めているようだ。

 もしかすると────もしかすると、だ。

 サイファー・アンダーソンという今までに見たことがないほど、単純で奔放で力強く我の強い男。たかだか二十五年に満たないフレデリカの人生でも、彼ほどの男はいない。

 そんな彼でも、自分ではどうしようもないものを抱え、それから自分を救ってくれる存在を待っているのだろうか。

「恋をしたことは…………あるんですか?」

「するより、された方がダントツだ。どうにも僕の危険なニオイにホイホイされる女が、なんでアーカムにはいっぱいいるんだ? しかも胸とケツがメロンでも入れてるみたいにデカいのが相場だ。娼婦でもないのに真っ白なくらい肌塗ってやがるし………………スマン、愚痴っちまった」

「いいえ、愚痴は聞いてても苦痛じゃないですから。もしかして…………私のことも、そう思っていたりは……?」

「胸以外、お前さんは当てはまっていないよ。あと料理できる娘は、フレデリカが初めてだから」

 きょとんとフレデリカが目を丸くした。

 何か信じられないものを見たようで、サイファーの顔をじっと見つめていた。

 おずおずと桜色の唇を開く。

「料理の出来ない女の人って、本当にいたんですね」

「フレデリカの中だと都市伝説だったりするのか?」

「両親もお爺ちゃんも前時代的な人で、女性は料理が出来て当たり前。ですから私も無理矢理にでも好きになるくらい、包丁を握らされましたし、身の回りもそういう人たちばかりで」

「ヘンリエッタも自炊するよな。結構おいしいものを作るし」

「私が教えたんです」

 マジか、と今度はサイファーが目を丸くした。

「…………これから、ひどいことになるというのに、私たちだけ、なんでしょうか、その……蚊帳の外で他愛もない話をして」

「それがいいんだよ、フレデリカ。戦いのもたらす高揚感に慣れてくると、そいつをもっと強く感じようとバカをヤるようになる。これを一年も続けていれば死体になるか、シリアスキラーか戦闘狂の出来上がりだ。つまるところ、戦士には日常の癒しが欠かせない。それが欠けると日常と非日常がアベコベになる」

「だったら、もっと色々な話がしたいです。サイファーさんの話も、私にとっては、とても面白いので」

「バカな男の、バカな日常だぞ?」

 少しだけ虹彩異色の目を伏せた。

 サイファーの視線がフレデリカの方に、一瞬だけ向くと、少しだけ口角を上げて前方に戻る。美少女が憂いを帯びて目を伏せる様は、彼の琴線に触れたらしい。

 一方でフレデリカはぎゅっと唇を噛み締めた。サイファーの態度が原因ではない。彼をそういう態度を隠す術を心得ているし、彼女はサイファーを見てはいないのだから。

 ならば原因は何だ? 思い出したくもないことか?

 右手を胸の前に当てて、ゆっくりと語り始める。

「サイファーさんはアーカムを二代目ソドムとゴモラと言いました。私もここでしか生きていけないと、そう思ってしまうんです。イギリス本国にいた頃は両親から、何の興味も示されず、ただ衣食住を満たされるだけで、二人はいつも私を人を見るような目ではない目で見るんです。

 そういう私も本国での生活が苦しくなって、いつも肌が泡立つような、そういう感覚を覚えるようになりました。自分がいるべきはここじゃない。そんな甘えにも似た考えがグルグル回って、耐えきれなくなってお爺ちゃんを頼ってアーカムに来たんです」

 エプロンドレスからパフスリーブの袖が目を引く、黒のドレスに着替えていた。少しだけ大胆に胸元を開けたデコルテをぎゅっと握る。

「でも、やっぱり逃げるだけじゃダメなんですね。逃げても、それを埋め合わせるように辛いことがあって。だから、あなたを慕ってしまうのでしょうか? 立ち向かうだけの強さがあれば、あなたにも頼ることはなかったと思うんです」

 サイファーは答えず、ブレーキを踏んだ。

 サイドブレーキも引いて完全に駐車状態だ。

「着いたぞ」

 開けた空き地だ。人や建物でごった返しているのが普通のアーコロジーでは、あまり見ない場所だ。

 そう思っていたのだが、あるものを見たときに"ここはそのための空き地だ"と納得した。ズタ袋を人型にしたものを十字架にした板切れに、イエス・キリストよろしく張り付けにしている。少しだけ鼻を突くニオイがした。

 この五〇〇メートル四方の空き地は射撃場だ。流れ弾対策に四方をモルタルと鉄板の合わせ技で囲い、立ち位置を示すラインまで引いてある。

 ガーニーのトランクからいくつかの革のトランクを出した。おそらくは全てガンケースだ。

「さっきの話だけど」

 トランクを並べつつ、サイファーは言った。

「お前さんが戦うことを望むなら、いつだって力になってやる。今まで逃げてきたツケが回っているなら、その十倍立ち向かえば採算がとれるんじゃないかな? 一人で出来ることなんか、たかが知れてるからね。だからヘンリエッタでもいいから頼れ。いつだって力になってやる」

「…………ありがとうございます。とても、嬉しくて。その、なんかむず痒い感じがしますね」

「安心しろ。僕もクサいセリフを吐いたせいで、お前さんと同じようなもんだ」

 さて、と言ってサイファーはアーカム45をフレデリカに渡す。ご丁寧に本体と弾倉は別々にしてあるあたりが、彼なりの心遣いということか。

「さ、お前さんの腕前。見せてもらおうかな? 的は好きに撃っていい」

 ──わかりました。

 弾倉を込めて、遊底を引いた。割と力がいる作業を、フレデリカは難なくこなす。

 両足を開き、拳銃を構える様は違和感の欠片もない。身に纏っている服が、アーカム流行のスタイルであるデコルテを開け、逆V字に開いたスカートから中着のスカートを覗かせる"アーカムの淑女"のスタイルであっても。

 銃声一発。

 45ALPは的の頭部を撃ち抜いた。

 その刹那にそこから赤い液体が飛び出た。十メートル先にあっても分かるが、やや粘っこく、少し赤黒いのは血以外の何者でもない。

「さ、ささサイファーさん!? あ、あれは一体!?」

「ン、ズタ袋を寄せ集めて人型にして、中に肉屋で手に入れた家畜の内臓とか、バラした奴らの血肉とか詰めたヤツ。死体も有効活用しないとね」

「その発送はいりませんよ……初めての人は心臓に悪いです」

「ベアトリクスのヤツはダルマにして、直接ここの的にしてやるさ」

「あの…………手足は?」

 撃鉄をデコックして元に戻し、サイファーの顔を見上げて固まった。

 口角が思い切り吊り上がった、とんでもなく邪悪な笑みだ。

 ──絶対にロクでもないこと考えてる!

 付き合いの浅いフレデリカでも直感で分かる。

 質問をしたのは自分だが、もう少し先を考えるべきだった。

 耳を覆いたくなるようなことが、その口から飛び出すのだろう。

「そういうのが好きな好事家に売るのさ。"コレクション"のためなら連中は金に糸目をつけないからね。綺麗なヤツは毛の一本まで、女王様の束でやりとりされる。

 ちなみに売った"商品"だけど、例えば手の場合は握ってみたり、指を咥えてみたり、用を足した後にその手でケツを拭いたり、夜はベッドの上で自分の…………」

「も、もも、もういいです。聞いた私がバカでした。だからその話をやめてください」

 グロテスクと性的倒錯の合わせ技。

 未だに幼気な部分を残すフレデリカには、あまりにもハードルが高すぎた。

 きっと最後まで聞いてしまえば羞恥で赤くなって、グロテスクさに青くなってを繰り返すだろう。

「それはいいさ。しかし、思った以上に腕がいい。違う銃にしてみるか」

 フレデリカに渡されたのはブローニング自動小銃。

 天才銃工ジョン・ブローニングが作り上げた、トンプソン短機関銃と同郷の銃だ。今となっては軍隊やアーカムの荒事屋に好まれる人気の代物だ。

 機関部(レシーバー)を観察した後に、セレクターを操作して単射に切り替えると、的へと向けた。

 か細い指が引き金に掛かって────引き絞られた。

 乾いた重厚な銃声が響いた。フルサイズのライフル弾である三〇-〇六弾は、拳銃弾とは威力も反動も比べものにならない。

 なのにフレデリカは、それを抑えた挙げ句、的の脳天を撃ち抜いてのけた。包丁も重いと言って落としそうなのに。

「やっぱり上手い」

 素直な感想を漏らした。だがフレデリカの心中は複雑なのか、ひきつったようにはにかんだ。

「銃の腕をほめられましても…………」

「ヘンリエッタより抜群に上手い。誇れることじゃないけどさ、こういうときの技の覚えはいざという時に役に立つ」

「……それでも役に立つことはなかったんですけど、ね」

「守ってやるとも」

「え?」

 素っ頓狂な顔をした。

 目の前に狙撃弾でも撃ち込まれたような、そんな顔をした。

 その顔にサイファーもつられた。

 同じような表情の二人が、そこだけ時間が止まったようになっている。

「おまえが撃てなければ、代わりに僕が撃ってやるよ。人を撃ったり、傷つけるのが僕の取り柄だからね」

 ブローニング自動小銃の安全装置をかけた。

「これは少し、身に余ります」

 弾倉を抜いて、薬室から抜弾し、サイファーに返した。

 その所作の鮮やかさと、その美しさに少し呆けた。

 どうにも美しいものは人を骨抜きにする。それはサイファー・アンダーソンでも例外ではなく、それをやれるのはフレデリカ・エインズワースだけだった。

 感動が冷めやらぬ内に、フレデリカは微笑みながら言ったのだ。

「守ってくれるんですよね?」

 花も恥じらう、輝くような微笑みを向けたのだった。

「もちろん、お前との約束なら守ってやる」

 浮かべたこともない柔らかな笑みを浮かべ、歯の浮くセリフを言った。

 




 本当はもっと長くなる予定だったなんて……やっぱり自分が考えていることが、自分の感覚というものが、価値観という名の物差しが一番信用できない。

 それでも私は書いていく。

 2014年10月31日、設定変更

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