享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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Awakening~激化する戦い~

 ――ダメだ、これは。

 ――なにも理解できない。

 ――なにも抵抗できない。

 ――なにもかもが、止まった。

 混乱する頭は痛みすら覚え始めていた。

 ヘンリエッタの脇に抱えらえて、戦いの場から逃げている。ただ一つだけわかっている事実だ。

 コートの内、スカートの上に巻いたホルスターの二挺に手を伸ばす。そんな簡単な動作、簡単なことなのに手が動かない。

 身体中の細胞がすべて機能を放棄したように感じられた。

 悪寒がする。震えが止まらない。

 何かが、身体の何かが確実におかしい。身体の内と外がひっくり返って、何もかもが変わっていくような感覚。気持ちが悪い。吐き気がする。

「ヘンリ、エッタ……」

「どうかしたのかい」

「ちょっと、だけ気分が……」

 ちょっとだけ。

 そう言ったのは、言葉通りの状態ではないから。

 息が荒い。顔も青いはずだ。きっと冷や汗が大量に出ている。

 自分でもわかるほどの明らかな体の不調を、親友に隠し通せるほど強くはない。今いる場所がビッグ・ベンから少し離れた迷路めいて入り組んだ路地の中だということがようやくわかるくらいだから。

「無理をするな。とりあえず、どこかで休憩しよう」

「すいません……」

「一体どうしたんだい? すごく具合が悪そうだけど」

「わからないんです。今まで出来ていたことが、急にワケが分からなくなって。銃も撃てそうになくて……」

 自分に力をくれた黄金の双眸は、今や権能の一切を放棄しているに等しい状況だった。

 あの瞬間だ。エドワードの自分と全く同じものになった眼を見た瞬間だ。双眸は完全に沈黙状態だ。戦う力の源となってくれた双眸が機能停止した今、完全にフレデリカは無力化されたも同然だ。

 口元を押さえながら覚束ない足取りでヘンリエッタに着いて行くのがやっとだ。

 下手をすれば吐きそうだ。この不快感はしばらく治まることはないだろう。

 震える手で『One In All』の銃把を握り、トグルを思いきり引いた。振るえる膂力も見た目相応の少女並みだ。十分にメンテナンスしてガン・オイルをまぶしておいたはずなのに、トグルの作動がひどく渋いように感じられる。銃把は両手で握り込んだ。片手では一発撃っただけで落としてしまいそうだから。

 ヘンリエッタの表情が険しいのは、おそらく囲まれているから。

 きっと両眼が機能していたならば、視界一杯に可視化された気配が映っているに違いない。

 ヘンリエッタの五指の間、挟み込んだスローイング・ダガーは四つ。両手だからダガーは八つになる。

「フレデリカ、後ろッ!」

 振り向いて銃口を向けるのと、ヘンリエッタの右手が閃いたのは同時だった。

 いつもより重く感じられる引き金のせいで、狙いが大きくぶれた。心臓を狙ったはずの弾丸は腹を撃ち抜いた。撃ち抜いたのは拳銃を構えた黒服。瞳の殺意は明らかに敵であると物語っている。見かけ相応の膂力を総動員し、反動でたたらを踏みかけたのを押しとどめて第二射を放つ。

 ヘンリエッタのナイフがその先を行く。スローイング・ダガーは首と太ももを捉えた。

「――ガッ!?」

 ダガーは頸動脈を超えて、気管まで達したのだろう。血の泡を吐きながら絶命する。

 だが一人倒したところで安心はできない。

 入り組んだ路地の真っただ中だ。身を隠す場所はいくらでもある。

 トンプソン短機関銃を構えた男が三人もきた。一斉掃射を受ければ挽肉になるしかない。

 セレクターをフルオートに切り替え、両足を肩幅まで開く。『All In One』を頂点に二等辺三角形を作るように銃を保持する。引き金を絞り込めば毎分一〇〇〇発を超える連射による火力が猛威を振るい、銃はフレデリカの手の中で存分に暴れまわった。

 しかし男たちは叩き付けられた猛射の前に怯みだす。そもそも銃口を向けられて恐怖を覚えないような人間など数少ない。それこそサイファーやジョン・ドゥのような化物でない限り。

 トンプソン短機関銃というありがたい武器の引き金に、指をかけることすら忘れて男たちは逃げ出そうとする。そこに銀色の閃きが三本走る。

 ダガーは見事に男たちの眉間や喉に突き刺さった。ひきつったような呻き一つが断末魔だった。

 フレデリカは新たな弾倉を込めた。二〇発フル・ロードの弾倉がひどく重いように感じられた。

「とにかく移動しよう。走りながら撃てる?」

「……ちょっとだけ、待っていてください」

 打ち倒した男たちの服の内を探るとブローニングM1910自動拳銃と弾倉四つが見つかった。これなら今の状態でも走りながら撃てるか。弾倉をコートのポケットに突っ込み、銃把を握り込んだ。

「いつでも行けます」

「少しは調子が戻ったみたいだね」

 路地裏を突っ切り、大通りへと出る。

 すでに避難が済んでいるのか、人気は皆無だ。

 それでも遠くから蒸気自動車(ガーニー)の走行音が聞こえてくる。速度と走破性に優れた馬力の大きい大型モデルだと、詳しくない者でもわかる。

 音のしないほうに向かって走り出す。いつかは追い付かれるかもしれないが、戦闘はなるべく避けておきたかった。

 だが進行方向からも似たような走行音が聞こえてきた。大型のガーニーだ。車体の厚みは相当だから、おそらくは戦闘用に装甲化されているはずだ。ぬかるみすら走破できそうな巨大なタイヤに、突撃用の衝角すら備えた姿は異常とすら言える。

 万事休すか――ガーニーは横を向きながら滑るように停止した。

「無事だったか」

 おそらく百人を笑いながら手にかけた殺人鬼も、今までの罪を泣き喚きながら告白するほどの強面が現れた。アーカムから今回のお披露目式典の警備にあたっていたワイアットだった。

 あまりにも長い銃身のSAAと背中にウィンチェスターM1912散弾銃という出で立ちなのは、つい先ほどまで戦っていた証拠だろうか。

「追われているんだろう? 早く乗れ」

「助かったよ。フレデリカが体調を急に崩してね」

「それはマズい状況だ」

 青ざめたフレデリカの姿で、ワイアットは状況を瞬時に判断した。同時に自分がこの場に駆け付けたことを幸運に思ったはずだ。彼女たちを助けることができると。彼の内で燃え上がる正義の炎は、悪人を討つためにあるのではない。無力なる者を守るためにある。力なき者を害する悪党を討つために、銃の腕を磨き上げてきたのだ。

 ウィンチェスターのフォア・エンドをコッキングさせる。初弾の込められる音は悪人にとって最も聞きたくないものだ。銃口から放たれる十二ケージ散弾の破壊力を知らない犯罪者はいない。自分たちも使い、そして撃ち込まれるために。

 追手のガーニーが姿を見せた。

 ワイアットの散弾銃が咆える。銃声はほとんど爆音に等しかった上に、銃口から噴いたのは硝煙ではなくほとんど火花だった。アーカム中層で時折現れる改造人間や幻想生物一歩手前の存在を相手取るための、強力なマグナム強装弾であった。重金属性のダーツを一つにつき二〇本装填し、量を激増させた装薬の力を用いて秒速七五〇メートルで吹っ飛ばす悪魔の弾丸だ。

 屈強に鍛えられたワイアットの身体がわずかに浮くほど、その反動は激烈だった。

 無論、威力も比例して大きい。ガーニーのボンネットに撃ち込まれたダーツは、その貫徹性能をいかんなく発揮して内燃機関のブロック部まで及んだ。

 派手な爆炎を上げてガーニーは爆散した。

 新たに現れたもう一台にも続けて撃ち込んだ。ボンネットの右半分と右前輪がまとめて吹き飛んだ。たまらず出てきた乗員を、SAAが歓迎した。規格外の長銃身は飛燕を断つ一刀が如く跳ね上がり、神速のファニング・ショット六連発が瞬く間に命を奪う。

 彼も人間の身であれどアーカムに住まう者であり、戦いに身を置く者。その実力の一端を垣間見せた瞬間であった。

「さっさと引き上げよう。新たな追手が来ないとも限らん」

「同感だね。ガーニーに小さくて火力のあるものはあるかい?」

「小さくはないが」

 ルーフの上を親指でさす。おそらく現在において最強クラスであろう五〇口径重機関銃M2が装甲銃塔と一緒になっている。アーカム名物の重火力警邏車両だ。およそ都市の治安維持とは大きくかけ離れた火力は、アーカムの異常性の濃い犯罪者たちの畏怖を集める。重火力と重装甲を両立するための大出力機関の唸りを聞けば、イギリス本土からのおのぼりさんなど瞬く間に震えあがるはずだ。

 ヘンリエッタはフレデリカを警邏車両の後部座席に押し込むと、自分は軽快に装甲銃塔へと駆け上がる。強力な短機関銃でもあれば御の字、と考えていたが銃塔搭載の重機関銃は予想の斜め上だった。

「準備万端! いつでも出してくれ」

「しっかりつかまれ!」

 爆音に等しい機関の駆動音、タイヤのゴムが路面にこびりつくほどの回転。運動神経やバランス感覚に自信はあったが、思わずふらつくほどの衝撃と共に発進した。

 同時に通り過ぎた交差点から二台のガーニーが躍り出てきた。あちらも負けじと言わんばかりに大型で、ルーフに機関駆動方式の三〇口径ガトリング機関銃を載せている。毎分二〇〇〇発ものハイ・サイクルで人間など一瞬で挽肉にしてしまう。

 M2にはすでに初弾が装填されていた。そのまま蹄状の発射レバーを押し込んだ。

 車載されていることに加えて、重銃身と高性能なマズル・ブレーキのおかげで連射は容易い。人を真っ二つにできる五〇口径重機関銃弾が毎分八〇〇発ものレートで続々と吐き出されていく。

 一台が瞬く間に穴だらけになった。ボンネットに集中弾を食らい、一瞬で火を噴いて爆散する。

 その間にもう一台がガトリングを撃ちかける。あわてて銃塔の装甲板に身を隠す。

 凄まじい衝撃が来た。鉛玉の刃を使う挽肉製造機の魔手に装甲板は己を奮い立たせてくれている。いまもヘンリエッタの命を奪わんとする弾丸を、身体を張って食い止めている。

「ヘンリエッタ! 応戦しろ!」

「無茶を言わないでおくれ」

 伏せたまま銃塔を動かし、銃声だけを頼りに左右を合わせて、発射レバーを押し込んだ。そのまま銃口を上下に振るようしての盲撃ちにする。

 それでもガトリングの掃射が終わってないのは、まだガーニーも射手も健在ということに他ならない。

 そのとき下のほうから一発の銃声がした。

 フレデリカの一射だった。弾丸の発射ガスによる遊底の遅延機構を採用したホーレス謹製の『One In All』によるものだった。銃身を固定している関係上、精度は非常に高い。発射された45口径強装弾はガーニーのタイヤを撃ち抜いたらしい。そっと装甲板から顔を出せばバーストしたタイヤによって、ふらつくガーニーの姿が見えた。

 そこを逃さずにM2の猛射を浴びせかける。およそ五〇発は撃ち込んだであろう。装甲も何もかも穴だらけになり、車体は見る影もなくなった。

「とりあえず片付けたかな」

「上出来だ。早いところ、ここを抜けちまおう。フレデリカ嬢が心配だからな」

「メイザースに診せれば、なんとかなるかもしれない」

「あの魔術師か。確かに一番確実ではある」

 ガーニーは急加速する。アクセルを底まで踏み込んで、動力機関を最大稼働させる。頼もしい唸りと共にガーニーは戦域から遠ざかっていく。ヘンリエッタは車内へと身をひそめる。

 早くしなければ――。

 急がなければ――。

 次の瞬間、左側からものすごい衝撃が来た。ガーニーは呆気なく横転した。

 ――こんなこと、前にもあった気がする。

 痛む頭を振り払いながら、のろのろとフレデリカは這い出した。

 ガーニーは完全に天地を逆にして沈黙状態だ。ボンネットからは黒煙を噴いているし、タイヤのあたりから異臭を放つ液体が漏れ出している。

「うぅ……」

 呻き声、聞き慣れた声――親友の声だ。

「ヘンリエッタ!?」

 すぐ近くにヘンリエッタが倒れていた。額を切ったのか、頬のあたりまで血を流している。頭を打った可能性がある以上、下手に動かすのは躊躇われた。

「ヘンリエッタ! 大丈夫ですか!? ヘンリエッタ!!」

 大声で名前を呼びかける。意識の有無だけでも確かめておきたかった。

「ふれ、で……りか?」

「はい、私のことわかりますか?」

「なんとか、ね」

 急に影が差す。周りは急に灼熱と化した。思わず振り返った。

 メルカバだ。髑髏を模した頭部、その虚ろな眼窩に宿る赤い光と目が合った。

 頭部の機関砲がゆっくりと回りだした。口径三〇ミリ、ガトリング方式の破壊の権化が向けられているだけではなく、今すぐにでも掃射を始めんばかりに稼働し始めている。

 ――逃げられない。

 ――逃げられたとしても。

 ――ヘンリエッタが、死ぬ。

 絶望的だ。無力な自分に、圧倒的暴力が突き付けられている。

 見捨てて逃げ出すか、無駄な抵抗をするか。そのどちらにしても血は免れない。

 だが諦めたくなかった。

 周りはすでに産毛が焦げ付くほどの灼熱に覆われ、唇がひび割れていく感覚を覚える。

 それでも立ち上がる。せめて意志だけでも、前を向こうと、屈せずに立ち上がると決めた。

 ――黄金の双眸は、ついに応えた。

 いたって無機質に、頭に直接響く声。

 ――更新完了。

 ――上位存在へと昇華処理完了。

 ――新たなる世界へ、ようこそ。

 総身に力がみなぎる。帰ってきた、そう確信した。瞳には輝く玉虫色の光が宿っている。

 ――おかえり。

 そのまま――右手を前に突き出した。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

「冗談だろ……」

 一斉にこちらを向いた大口径火砲の群れに、思わず頬がひきつった。

 メルカバの頭部に搭載されている三〇ミリ機関砲とはわけが違う。口径一〇〇ミリともなれば大型の重装甲兵器すら粉々になる。こんなものを設置できるのは基地や要塞といった施設だが、あのフューリアスは飛行している。今もサイファーの頭上に浮かんでいる。空飛ぶ要塞というわけだ。

 砲が一斉に火を噴く。もはや絨毯爆撃に等しかった。

 圧倒的火力の塊に野太刀を抜き放って応対した。武骨ながらも、流麗な円弧を描く刃が鞘鳴りを立てる。

 にわかに高々と一刀を掲げたかと思いきや、それをくるりと一転させて真下を向かせる。刃に漆黒に染まるどころか、どす黒い瘴気を噴き上げ始める。

「――ふんッ!」

 裂帛の気合と同時に野太刀を突き刺した瞬間、何もかもが打ち震えた。サイファーを中心に生じた衝撃波ははるか上空まで達し、空間すら打ち震えさせる。砲弾はすべて信管を揺さぶられて誘爆した。

 その爆炎を隠れ蓑にサイファーは跳んだ。

 近くにあった、より背の高い建造物の壁を蹴ってフューリアスへとめがけていく。野太刀を漆黒に染めたまま一線を見舞う。数百メートル超の船体すら両断する勢いであったが、刃が通り抜けた後には斬線の一つもありはしない。

「斬ったそばから現実改変で即修復か。笑えないな」

 そのまま間髪入れずに野太刀を装甲に突き立てる。それを支えにサイファーはフューリアスに張り付いた。片手で『Howler In The Moon』を抜く。全長六〇〇ミリを超す巨銃を難なく構えると、引き金を容赦なく引いた。

 空力特性を考慮した流線型の船体に火球が明滅する。ホーレス謹製の徹甲焼夷弾によるものだった。それでも効果なしと認識すると、輪胴(シリンダー)内の弾丸二十四発分を撃ち切り、新たな弾丸を取り出した。ある形に成型した炸薬による爆発で生んだ圧力で、音速の数十倍にまで達した液状化金属の奔流で装甲を貫通する代物だ。ホーレス特製のそれは数千度もの高熱すら付加されているらしく、少し前の下層での仕事で使ってからお気に入りとなっていた。

 その弾丸に己の権能を染み込ませる。森羅万象を砕くことを許された絶対なる権能を。

 二十四発を一瞬で装填し終え、容赦なく砲撃に等しい銃火を浴びせる。着弾の度にどす黒い火球が散り、フューリアスの装甲を食い破っていく。見るも無残な射入孔はなかなか塞がっていかない。

「多少は効果ありか。多少は念を入れてやった弾丸だ、すぐに直られても困るがな……ジョンは大丈夫かね。アレに心配は無用な気もするけど」

 いまだ熱波を噴き上げるメルカバに踏みつぶされたジョン・ドゥ。いくら不死身と言えど踏みつぶされたうえで焼かれ続ければ、如何ともしがたいはずだ。熱による焼却が再生速度を上回れば、細胞全てを焼き尽くされて死ぬはずだ。

 しかし、その程度で死ぬようなレベルでは新大陸最強の荒事屋などという称号などふさわしくない。

 すぐにでも復活するはずだ――そう思った矢先だ。

 メルカバの巨体が浮き上がった。ちょうどジョンを踏み潰した脚から、上空へと打ち上げられる。それを成し遂げたのは蠢く肉色の触手だ。一瞬で周囲の建造物と同じ高さまで伸びあがり、メルカバを足元からすくい上げる。後頭部から転ぶ形でメルカバは倒れた。

 サイファーはようやくジョンの姿を認めることができた――だが、あまりにも違い過ぎる。左半身がようやく人型を保っている有様で、残りはほとんど不定形と化した蠢く肉塊だった。

「ちょっとブチキレたぜェ……」

 やっと人間の顔を保てている左半分に凄まじい獣の笑みを浮かべた。肉塊は一気に質量と体積を増価させ、一本の腕を形作る。それは、まさしく、正しく巨人の腕だった。巨人の手のひらは天を向き、五指はいっぱいに開かれる。手のひらを割り裂いて、迫り出してくるものがあった。

 血に塗れながら現れたのは骨だった。それも鋭く尖り、刃すら有した長刀であった。腕は五メートル近く、長刀は実に十メートル近い。ゆっくりと一刀を振りかぶっていく。

 メルカバも応じた。どこからともなく大剣を握ると同じように振りかぶる。

 鋼鉄と骨がぶつかり合った。衝撃は甚大。周辺の建物は揺れ、内側から爆破されたようにガラスが吹き飛んでいく。

「なるほど新大陸最強もうなずける」

 サイファーはジョンの変化、その原因を見抜いていた。おそらくは地上の物理法則では為しえないレベルの細胞再生、または細胞分裂の異常促進による一種の暴走状態だ。本来であれば無秩序に増殖し、制御など利かないはずの現象に一定の方向性と制御を為しえているのは経験の為せる技か。

 少なくとも骨をあのように変形させるのは尋常ではない。おそらく筋肉、骨、神経のみならず自分の身体であれば意のままにできるはずだ。驚異的ではあるが、自分との戦いの中で使わなかったことが引っかかる。だが、それは今は捨て置くことにした。

「こっちは大丈夫だァ! そっちのデカブツを頼むぞォ!」

「言われなくとも!」

 己の“力”を渦巻かせる。

 己の“力”を膨れ上がらせる。

 己の“力”を解き放つ。

 すべてを砕かんとする己が“力”を鎧で押さえつける。巡らせて、機能を開放するための動力とする。

「拘束鎧――展開」

 サイファーの巨躯を幾多の腕が包み込んでいく。黒い闇で構成された、森羅万象を砕くことを許された破壊の権化に包まれる。だが彼は消え去らない。毒をもつ生物が、己の毒で死ぬ道理がないように。

 闇は膨れ上がって、球体上に変わる。はたから見ればヴェンタブラックの球体が、重力を無視して張り付いている光景が拝めるだろう。

 球体がはじけ飛ぶ。おそらくロンドン中の誰もが背筋に悪寒を感じたに違いない。水面の波紋めいて広がった“力”の波動に()てられて。

 実用性を一切排したような鋭角的衣装の重量鎧に包まれた。背中の巨大で鈍重な金属の翼が広がっていく。顔を覆う兜で赫く輝く三つの瞳が燃え上がる。

「行くぜ」

 サイファーは飛んだ。翼を広げ、背部の噴射口からどす黒い炎を噴射する。速度、機動性ともにブレード・オルカを大きく凌駕する性能を見せつけながら、サイファーはメルカバの上空へと向かっていく。

汎用無線伴機(マルチ・バトル・ビット)――全機起動」

 拘束鎧の背部――ちょうど脊椎の真上に当たる部分が規則正しく屹立するや、サイファーの周囲を随伴するように飛行する。まるで柄だけの剣が飛んでいるよう――いや漆黒の刀身が生成された今、彼の周りを八つの大剣が浮遊していることになる。

 メルカバの上空に陣取った瞬間、対空砲火の雨霰で洗礼を受ける。口径二〇ミリから三〇ミリまでの、およそ人間相手に使うにはバカげているほどの大口径。食らえば欠片も残らず粉微塵となって吹き飛ぶであろう。

 だが砲弾はヴェンタブラックの大剣が翻り、宙を舞って、迫る砲弾を斬り落とす。

「うおっと」

 巨大な三連砲塔がゆっくりと回り、照準を定める。

 三八センチ三連装砲が火を噴いた。同じ戦艦を沈めるための圧倒的火力が、サイファー個人に対して振るわれる。おそらくフューリアスの上部は海戦用の兵装で占められているのだろう。下部は対地用の機関砲で占められており、着水する前に機内へと格納されるのだろう。

「フィッシャーめ、なかなか良くできている」

 すんでのところでバレル・ロール。おそらく砲弾は表面にイリジアス鋼のコーティングをされているはずだ。炸薬で死ぬような身ではないが、その莫大な運動エネルギーをイリジアス鋼に乗せられると一気に致命の一撃と化す。

射撃兵装(アーマメント・シューター)――撃ちかた始め」

 周囲を飛びまわる汎用無線伴機(マルチ・バトル・ビット)の刃が消え失せたかと思うと、一斉にフューリアスのほうを向く。サイファーの脳と意思による命令によって機能を開放。暗黒を先端に渦巻かせたかと思いきや、闇が一条の筋となってフューリアスを貫いていく。

 まるで型抜きでもしたように闇が通った後は跡形もない。遅れて爆炎がそこから噴き上がっていく。

 五〇〇メートルを超えるフューリアスの巨大な船体が揺らぐ。

 さらなる射撃を重ねる。その度に船体は揺らぎ、墜落への運命を進みだす――ように思えた。爆炎を上げて装甲に穴が開こうとも、瞬時に損傷は復元され安定した飛行体制を取り戻す。

「砲撃せよ」

 サイファーの射撃兵装(アーマメント・シューター)ではない、実弾による砲撃が飛んできた。

 磨き抜かれ、眩く銀に輝く中世めいた騎士鎧は背中より圧縮蒸気を噴射して浮遊していた。胸部と腕部に内蔵された砲撃兵装を展開し、砲口からは色濃い砲煙が立ち上っている。その手の突撃槍は穂先に並ぶスパイクが高圧蒸気の力で快音すら立てるほどの高速回転を行っていた。

 アルトリウス・キャッスルダイン――殲滅騎士と呼ばれる己のすべてを鋼に置き換えてしまった男だった。頭脳代わりの歯車の集合体に記憶も意思も引き継がせただけの、単なる戦闘機械が顕現した。

 兜の呼吸口から廃棄を盛大に吐き出すや、突撃槍を構えて突貫の姿勢をとる。

 背中の噴射口から莫大な圧縮蒸気を噴射してアルトリウスは突撃する。ただ一振りの槍となって、ただ一発の弾丸と化して、突撃するのだ。

 ――炸裂。

 ――衝撃。

 ――激震。

 幾度となく船体を揺るがされ、装甲を貫かれたとしてもフューリアスは揺るがない。いかなる力の影響か、この空中要塞艦は三次元上の変化で落ちることはないのだろう。もはや物理法則は通用しない。サイファーの黒き権能も、殲滅騎士の機関内蔵突撃槍も、この艦を落とすには頼りなさすぎる。

「どけ、アルトリウス」

「黙れ、世を砕くことしかできぬ化物(フリークス)め!」

 サイファーは構わず一刀を抜いた。漆黒の権能に染まり切った禍々しい野太刀は、鞘から解き放たれて牙をむいたように見える。

『さすが、それはマズいかな』

 一刀に込められた力を危惧したのか、対空砲は一斉にサイファーのほうを照準した。一斉掃射によって弾幕はもはや壁となってサイファーへと迫る。

 汎用無線伴機(マルチ・バトル・ビット)は再度刀身を形成した。高速回転しながら迫りくる弾丸を迎撃する。そのままサイファーはおよそ飛行に使うとは思えない翼を広げ、背部の噴射口を吹かし始める。

 ついに主砲すら駆動した。人間台の標的に使うには、あまりにも合わない巨砲が照準を終える。

拡散砲弾(キャニスター)、装填!』

 ――砲撃!

 三八センチ三連装砲が放ったのは拡散した放たれる無数の砲弾。その数は実に百を超えた。館内に組み込まれた碩学機関計算装置によって設定された時限式信管によって、ちょうどサイファーの周辺で一気に炸裂する。砲弾の内部にはイリジアス鋼製の小さな鉄球が一発につき1000近く仕込まれている。

 対サイファー用装備として用意させておいたものだった。短い一生の中でもすべてをささげるほどに敬愛した師のアドバイスで用意させたものだった。戦艦用主砲から放たれる拡散砲弾(キャニスター)など荒唐無稽と思ってはいたが、この艦相手に近接戦を挑んでくるような相手には役立った。今、この瞬間のように。

 間違いなく勝利を確信した。たとえサイファーではなく殲滅騎士であっても無事では済まないだけの規模だ。イリジアス鋼という対化物用の金属を用いなかったとしても、ほとんど生物種は呆気なく死ぬのだ。全方位より迫る一万以上に及ぶ逃げ場など完全にない殺戮領域(キリング・ゾーン)に囚われて散るのだ。

 ――だから気づくことなかった。

 ――爆炎を真っ二つにして迫る。

 ――漆黒の剣戟が飛んできたことにも。

 三八センチ三連装砲を一閃する。袈裟掛けというべきか、斜めに切られた砲塔は鏡のごとき断面を見せながらズレていく。少し遅れてから一気に大爆発した。

「あの程度でこの拘束鎧が砕けるかよ。一応は鎧だからな、イリジアス鋼対策だって万全なのさ」

 尖った籠手の指先で胸部装甲を弾く。甲高い音が鳴った。

 サイファー・アンダーソンいまだ健在であった。鎧にも兜にも傷一つ存在しない。何もかもが揺らがぬまま、彼はそこに顕現するのだ。

 抜き放ったままの一刀を霞の構えにして、フューリアスを見つめる。斬り捨てた砲塔は復活しない。サイファーの力が上回ったことを証明した瞬間だった。

「このくらいの出力で行けるか。なら大規模兵装は使わなくても大丈夫だな。ジョンのほうは大丈夫かね」

 地上に目を向ければジョンはさらに異形へと変化していた。再生能力の過剰促進によって身体が四分の三以上が原型を留めぬ蠢く肉塊と化していた。そのおぞましさは蕃神や幻想生物を超えるほど。波打つ表面がひときわ盛り上がると、突き破るように真っ赤な職種が飛び出てくるやメルカバをきつく縛り上げる。堅牢なる鋼鉄の装甲が悲鳴を上げるほどに締まった瞬間、触手の色は一気にどす黒く変わって硬質化した。

 おそらく触手には血がべっとりと塗ってあったに違いない。おそらく鉄分の含有度は常人と比べて比べ物にならないはずだ。酸素と急速に反応して表層の血液が硬化したことでメルカバは完全に拘束された。触手はその柔らかさに反して、ほとんどが筋肉で構成されている。ジョンの怪力と再生能力を考えれば千切られる可能性は低い。

 巨大化させた腕に骨の長刀はない。だが腕は幾多にも枝分かれし始め、先端からは鋭い骨の刃が生え出てくる。

 メルカバにさらなる抵抗を許さんとばかりに骨の牙は歩行脚に食い込み、その関節を壊しにかかる。綿密に設計された関節構造を、それを稼働させる動力を供給する蒸気管も、狂った不死身の男は容赦なく砕いていく。

 メルカバはついに点灯した。さすがに倒れる重量までは支えきれなかったのか、あえて離したのか定かではないがメルカバは触手の拘束から逃れた。

『――――――ッ!』

 まだ動ける部分の関節が擦り合わされ、軋み合って耳障りな音を立てる。温度変化を意のままとする権能が機関からの動力で駆動する。熱波と冷気の複合がジョンを襲った。手始めに熱波が降りかかって細胞を残らず焼き尽くし、続く冷気が骨の髄まで凍り付かせる。

 それでもジョンは止まらない。凍り付いた身体をひび割れさせながらも、じわじわと追い詰めていく。

 だがメルカバは新たなる獲物を見つけたのだ。自由にならぬ歩行脚で這いずるように標的へと迫っていく。その狙いを定めると頭部の機関砲をめったらに撃ちまくった。一台のガーニーが横転したのが見えた。這い出してきた影に見覚えがあった。

 黄金をそのまま紡いだような金髪を空色のリボンで括り、黒を基調にしたコートとコルセット・スカート。その眩むほどの美貌を持つ少女としか思えない彼女の名を、サイファーは知っていた。彼女がどういう人間であることも、共に過ごした捨てがたいほどの時間から。

「……フレデリカ」

 迫る危機に噴射口を吹かしていたのは無意識か。鋼の翼を広げて、サイファーは急行する。

 


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