享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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Escape~這い上がる不死身の男~

 銃声が連続して鳴り響く。洞窟内部を共鳴管のように使い、破壊の咆哮を無機質に響かせる。おかげでどこから銃声がするのかもわからないが、幸いにしてフレデリカの視覚は他の四感の代用すら適うものらしい。

 洞窟はひどく入り組んでいる。迷路のようにして部外者を迷わせるために、あえてそういう構造をとったというのか。

 『Predator』を抱えてフレデリカは洞窟の内部を縦横無尽にかけていく。

 出合頭に会った相手には鉛弾をお届けして。

 必死になって出口を求めるのだ。生き残るために、帰るために。

 そのための覚悟ならもう決めた。屍山血河を築いても。鮮血を以て喉を潤し、死肉で飢えを凌いでも。

 銃口がまたマズル・フラッシュを吐き、数人の兵士の肉体を食い破る。血だまりに沈む死体から、拳銃を奪う。コルトM1908自動拳銃だ。弱装の三八口径だが愛用の二挺は絶賛弾丸節約中だ。

 それを両手に二挺、いつものスタイルに変わる。

 戦略性など欠片もないようなスタイルだが、これが一番しっくりとくるのだ。『Predator』はスリング・ベルトでたすきにかけて背負う。

 気配の動きが慎重になったように感じられた。

 視界に移る白いもや――黄金の双眸が視界に移す気配の動きがゆっくりになっている。

 人知を超えた瞳の力に恐れが半分ありがたみ半分という心境だ。役に立つことこの上ないことは確かだ。

 おそらくは追い立てるのではなく、慎重に探し出す方向に変更したのか。この静けさであれば諦めたのかと思って、のこのこと出てくるのを狙うこともできる。単純ではあるが確実性の高い路線だろう。やみくもにやるよりは、こうして計画性を立てるほうが有効であろう。

 多勢に無勢。ゆっくりと包囲網を形成しつつある敵に対し、フレデリカはどう立ち向かうのか。

「突破するしかないかな……」

 慎重に、極めて慎重に洞窟内を進む。

 足音はなるべく殺す。自分以外の足音には嫌でも気づく。

 ざ、ざ、ざ。

 土を踏みしめ、砂をかき分ける音が二重奏を為す。二人一組(ツー・マン・セル)での行動だ。一人が前方と右を交互に警戒し、それを背中合わせにして全方位をカバーする。それも死角ができないようにタイミングを絶妙にずらしてある。

 彼らの教鞭をとったものは、想像するも恐ろしいほど手練れだと確信させる。

 武装は拳銃とナイフのみ。小銃はスリングで背負っているだけだ。その拳銃もブローニングM1910だ。フレデリカのコルトと同じ弱装の三八口径だ。

 ――イーヴンかな。

 胸中で静かに呟いて――飛び出した。

 最速で一人の首に照準を合わせる。軽い発砲音でも洞窟内では嫌でも反響する。

 その前に首を押さえて、血の泡を吹いた死体が一人分出来上がる。弾丸は柔らかな首をたやすく撃ち抜き、頸動脈からの出血は機関に流れ込んで真紅の泡へと変わったのだ。

 二人目が気づいて、銃口をこちらへと向ける。

 両手の二挺がそろって咆哮する。一発の弾丸は喉仏に、もう一発はM1910の銃口へと向かい――銃身を蹂躙し抜いて破壊する。奇跡の神業を成し遂げたにもかかわらず、フレデリカの心は凪いだ海のように静かだ。下手な鋼ような精神的にも、肉体的にも油断と隙を生む。

 スライドも吹っ飛び、三つに裂けて見る影もない銃身。発砲不能の拳銃を呆けたように見つめ、喉をやられて声も出せない男に止めの一発が眉間に撃ち込まれた。

 こちらに集まってくる気配にフレデリカは黙って、屠った男たちが背負っていた小銃を拾う。

「マンリッヒャーM1895……ボルト・アクションも練習しておいてよかった」

 二挺と大口径狙撃銃のみではなく、現地調達の武器も扱えるようにフレデリカはあらゆる銃を練習していた。ボーチャード・ピストルからウェブリー&フォスベリーのオートマチック・リボルバー、リー・エンフィールドにマンリッヒャーM1895にブローニング自動小銃からM2空冷式重機関銃まで。射撃は好きだったし、練習したいといえば武器と予定と練習場所をサイファーは整えてくれた。誰のものかわからない上に引き取り手のない死体を挽肉にするのは心が痛んだが。

 ストレート・プル方式のボルト・アクションは排莢にボルトを回す必要がない。ただ前後するだけで排莢塗装店をこなす性質上、連射速度は一線を画する。それに基本がボルト・アクションだから動く部品がほとんど存在せず、銃身も固定されているので精度も良好だ。部品点数の多さだけが玉に瑕だが、これは利便性に伴う払うべき代償の一つだろう。

 照準器の調整はする暇がない。だから()()()()()調整をかける必要がある。それができるだけの超常の視覚をフレデリカは持っているのだから。

 拳銃とは比べ物にならない銃声が響き渡る。ボルト・ハンドルを引けば排莢されたのは.303Britishの薬莢だ。イギリス国内で手に入れやすい実包を使えるよう、非正規の改修を施したというのか。

 とはいえライフル弾はライフル弾だ。三八口径の弱装拳銃弾とは一線を画する威力を有しているのだ。拳銃はあくまでも接近戦用の緊急火器であり、戦場の主流はいつだって小銃と機関銃だ。

 二〇〇メートル先にいた兵士の胸部を三〇口径の銃弾が抜けた。地面にどうと倒れ込んだのを確認する。

 第二射も命中した。肩への着弾は絶命には至らない。だからボルト・ハンドルを引いて新たな弾丸を薬室に送り、眉間に撃ち込んでとどめとする。

 いまやフレデリカの黄金の双眸は射手と観測手を左右の瞳で行っていた。照準器の延長線上にある右目が狙いを定め、左目が弾着を見届けるのだ。

 そのまま弾倉内の残りの弾丸をすべて撃ち切り、屠ったもう一人の兵士が背負っていた同じマンリッヒャーM1895に手を伸ばす。

 二発ほど撃ったあたりで敵影はいなくなった。

 今度は反対方向に銃口を向けた。こちらからは、まだ敵が来ていない。

 小銃を投げ捨て、コルトに持ち替えた。

 二挺を持ったまま駆け出した。おそらく位置はバレてしまっているから、ここから先は隠密行動など無意味であろう。現にフレデリカの視界には集結しつつある気配のもやが映っている。

 洞窟を駆け抜けていく途中で前方に光を見つける。何かあるのか、それとも出口なのか。後者の可能性はかなり低そうだが。

 そして光の見えた地点で――思わず足を止めてしまう。

 広大、あまりにも広すぎるすり鉢状の空間が広がっていた。直径にして五〇〇メートルは下るまい。ここまでの規模になると崩落を恐れたのか、天井には鉄筋やモルタルによる健気な補強工事の痕が見受けられる。すり鉢状にくぼんだ地面も多大な労力のもとに掘り抜いたのか、複数の歩行のための階層とそれを繋ぐスロープを設けている。だがそれはあくまでも規模の大きさを示す付属品でしかない。

 中央にそれは鎮座していた。

 中央でそれは稼働していた。

 中央でそれは計算していた。

 おそらく、この大英帝国が世界を掌握したこの世界で、この玉虫色の光を放つものは一つしかいない。そして大英帝国の繁栄を大きく進めた動力機関。

 ――巨大な解析機関に接続された、巨大な数式機関だ。

 数学王と呼ばれた大碩学『ダフィット・N・ヒルベルト』が生み出した、構造原理理論のすべてが不明のまったく新しい動力機関。それは同規模の蒸気機関と比べても、いっそ残酷なほどの差を生み出すほどの大出力を持っている。製造には緑鉱石と赫鉱石が必要というだけ。

 ここまで巨大なものは英国政府が管理するべきだ。都市一つ分のインフラ設備を余裕で稼働できる。

 そんなものを解析機関に接続して、何を計算させているのか。これほどの大出力を以て紡がれた数式であれば――いつかは現実を侵食する。歯車とカムは絶えず稼働し続けているが、パンチ・カードも数式カードも出力しない。だが、おそらくはこの空間に計算の結果は現れているはずだ。

「空気が……違う」

 鳥肌が立つほどの異様な空気の元凶がこの二つの大機関にあることは間違いない。

 ここには長居したくない。自分がまるで()()()()()()()()()()という気持ち悪さがある。どうしてこういう気分になるのか。まさか二つの大機関はそのために稼働しているというのか。

「壊さなきゃ……ッ!」

 これはあってはならないもの。

 これは動いてはならないもの。

 その想いだけで突き動かされるように、フレデリカは機関を破壊しうるだけの武器を探し始めた。崩落のことも考えて爆発物はあまりないようだが、この洞窟は拡張工事を絶えず行っているのだろう。安定化されたダイナマイトと液体ニトログリセリンが多くはないが残っていた。

 これらを効率的に仕掛けるしかない。とはいえ爆破解体の知識なんて欠片もない。機関を支える重要な基礎構造を破壊すれば、自重でぺしゃんこになってくれるだろうか。と一度は思ったものの、適切な爆薬量がわからない。少なくてもダメだし、多すぎると洞窟全体の崩落に繋がる。

 ――どうしようかな。

 そして、ふと大機関を見上げてみると整備用の梯子が天井まで伸びている。その向こうには鉄製のハッチまで。

「地上まで続いてる? 確かめてみる価値はあるでしょうか」

 嫌悪感をこらえて梯子に足をかけた。

 一段一段昇るたびに二つの大機関、その巨大さがいやでもわかる。

 こんなものがロンドンの地下で稼働していて、異様な空気を醸し出している。

 メイザースは内乱一歩手前とまで言っていたが、完全に内乱のテロだ。数式機関を暴走させるだけでロンドンに壊滅的な打撃を与えることも不可能ではない。事態は思ったより深刻だとフレデリカは確信する。ならば早く脱出して、仲間たちに伝えねばならない。

 そして天井のハッチを開けようと、手をかけたところで――急に視界の端に白いもやが赤に変わろうとしていた。それは敵意の色。分厚いハッチがバネ仕掛けでも施されていたように跳ね上がって、そこから伸びてきた鋼鉄(クローム)の腕につかまれる。

 引っ張り込まれると思った瞬間には、すでに腹と顔に一発ずつもらっていた。

「ん、ぐっ……ッ!」

 こみ上げるものを必死に呑み戻そうとして、叶わず吐き散らす。

 唇を切ったのか、下あごに血の滴る感覚を感じる。

 ――機関兵士(スチーム・ソルジャー)

 外見を取り繕うための人工皮膚を被せていない、何もかもが鋼鉄で出来た人間がそこにいた。戦うために、より効率よく殺すために、強さのために、生身を捨てた狂気の兵士がそこにいる。

 ここに落ちる前にも襲い掛かってきたのだ。ここに現れてもおかしくはない。

 スリング・ベルトで背負っていた『Predator』を撃ったのは、ほとんど苦し紛れの行動だ。

 いまだに機関兵士から貰った拳のダメージは癒えることなく、現在進行形で腹と口からフレデリカを苛んでいる。

 放たれた弾丸を鋼鉄の腕で難なく薙ぎ払って防ぎ、わずか数歩の内に距離を詰めた。解体作業用の鉄球で殴られた、としか思えない衝撃と共にぶっ飛ばされた。トー・キックは容赦なく鳩尾にめり込んで、中のものを逆流させた。

 胃酸の苦みを喉と口いっぱいに感じ、盛大にえづき散らす。十メートル近く吹っ飛ばされ、その半分くらい地面を滑っている。ブレーキとなったのは乱雑にコンクリートを流し込んだだけの地面。均しもされていない、凹凸の地形がせき止めたのだ。

「はぁ、っ……は、あ……当たって、ぇッ!」

 弾丸を節約しておいた『One In All』を抜いた。機関兵士であっても有効な威力を持つ、この銃は今抜くべきだ。近接戦闘用のスパイクがついたコンペンセイターのスリットから、青みを帯びたマズル・フラッシュが噴出する。

 この弾丸だけは薙ぎ払えなかった。鋼鉄の五指がスパークを散らせながら、生身と感覚以外はたいして変わらない精密な動きを達成する歯車をはじめとする部品を吹き飛ばす。ショゴスに撃ったものと同じ“力”を込めた弾丸だ。ホーレス謹製の銃でなければ“力”を帯びた弾丸が、銃身内を通り抜けることに耐えることができない。

 ――まだ、撃つ。

 ――まだ、撃ち込む。

 引き金を素早く二回引く。青白いスパークを伴った爆発と同時に、機関兵士の数百キロを超す重厚な体が浮き上がる。

 遠く離れた二人の距離――その間をつなぐ銀条一筋をフレデリカは見逃した。

 がくん、と膝からフレデリカは崩れ落ちた。

 その引き金となったのは一本のナイフ。刃渡り十センチにようやく達するかという程度のもの。それが根元まで深々と刺さっている。

 銃火に晒されながらも機関兵士は苦し紛れの手投げナイフを放ったのだ。見事にフレデリカの意表を突き、攻撃をやめさせる一打となる。

 ――引き金、引かなきゃ。

 ――銃を、上げないと。

 ――でも、力が入らない。

 ゆっくりと二次利用用に歩みを進め、迫りくる機関兵士の姿に恐怖を覚える。

 場を切り抜ける知恵の一つも浮かばぬほど、思考さえ呆気なく塗りつぶされて。

「ひ……いや」

 ちょうど尖るように切られた鉄パイプを拾い上げ、それをフレデリカに突き立てようと機関兵士は迫る。その思考は完全に命を奪うこと一色に染められていた。見目麗しい少女と見紛う女を、死の少し前にその肢体を存分に嬲り尽す。そいう下卑た思考も浮かばぬほどに。

 だが最後の瞬間に歩みが止まる。

 コンクリートの地面に亀裂が入る。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 左手に握りしめた納刀したままの野太刀。

 いつでも鯉口を切れるように、親指を鍔にそえている。『Howler In The Moon』をぶっ放せば、ここは呆気なく崩落しそうだ、とサイファーは思う。

 だから終始この愛刀に頼り切ることになるはずだ。

 夜目は利くほうだ。ヘンリエッタも割と危なげなく歩いているから、明かりの類を持ち歩く必要はなさそうだ。こんなところで明かりを持ち歩こうものなら、大声で自分の居場所を言っているようなものだ。ショゴスが出現した以上、下手に身を危険にさらすような真似は避けたい。

 無事でいるだろうか、という心配よりも敵への怒りに満ち溢れていた。地割れという名の自然現象としか思えないものなのに、サイファーは敵が仕組んだものという根拠などない確信があった。というより勘だ。しかし館には随分と助けられている。

 だから勘に従うとまではいかないが、耳くらいは傾ける。

 友人のようなものだと思えばいい。

「探すのは手間になりそうだ」

「自分の感覚を信じろ。僕はいつもそうしてる」

「じゃあ私は女の感を信じるとしよう」

 そして一瞬だけ視線を交わす。

「僕の勘は正面から来ると告げてるんだが」

「私の勘は背後からだと言っている」

 ――挟撃!

 瞬時に抜刀の構えをとって、振り返った。その脇をヘンリエッタが駆け抜けていく。

 野太刀は西洋長剣とぶつかり合った。刃渡り一四〇センチ以上は優にある分厚い刃を構成する素材に、サイファーは眉をしかめた。

 ――イリジアス鋼か。

 それは星々の海を渡り、この星へと落ちた貴金属。イリジウムと同等の性質を有しておきながら、質量は半分程度しかないイリジアスと呼ばれる元素をベースにした高強度鋼だ。この鋼に限らずイリジアスの入ったものは、幻想生物に対して有効な威力を示す。

 刃とすれば肉や骨を裂き、弾頭に加工すれば脳漿と内臓をぶちまけさせる。

 とはいえ一キログラムで高級蒸気自動車を余裕で買えるだけの価値があるから、そこまでして手に入れたいのは幻想生物を屠って名を上げたい愚か者かキチガイだ。そうは思いつつもサイファー自身もヘンリエッタにイリジアス鋼製の武器でも買ってやろうかと言ったことがある。お断りされたが。

 ――アレで斬られると、ちょっとだけマズいな。

 それでも野太刀の柄を握る手はあくまでそのまま。

 下手に力は込めない。それでは筋力勝負になってしまう。勝とうと思えば勝てるが。

 下方からすくい上げるようにして振り払う。のけ反るように相手がバランスを崩したのを、見逃すわけもなく横薙ぎの一閃が走り抜ける――そのはずだった。

 優美な弧を描く長大な刃に、がっちりと短剣にあるいくつもの牙が食い込んでいる。

「ソード・ブレイカーか。珍しいものを使う」

 櫛のような刃を持った短剣は長剣とは逆の手に握られていた。ソード・ブレイカーの一般的な使い方だ。聞き手と逆の手に持ち、敵の武器を破壊する守りの盾のようにして使うのだ。時には攻勢にも転じる変幻自在性さえ存在する玄人向けの趣もある

 だが――野太刀の刃は折れるどころか、ヒビ一つはいらない上に歪みすらしない。

「だけど、獲物を折りにいったのは間違いかな」

 幾重にも重ねられた鋼は肉を斬り、骨を断ち割って、臓腑を引き裂いても決して揺らがない。サイファーの愛刀は刀身こそ長すぎるが、極東の秘奥を持って打ち鍛えられた紛れもない名刀だ。

 ソード・ブレイカーで折れるわけがないのだ。

 だからこそ、相手は瞬時に思考を切り替えたのだろう。

 長剣の一撃が襲い掛かる。

 火花が散るほどにぶつかり合ったのは――鉄拵えの鞘だ。こういう時に緊急の盾として役立ってくれる。

 そこに足払いを叩き込む。合気の要領で放ったそれは、意識の隙間を突いて体勢を一瞬で崩させる。野太刀を握る手を捻れば、長大な弧を描く刃はソード・ブレイカーから解放される。

 平突きが心臓の真上から吸い込まれるように、そして確実に相手へ死を届けることを果たす。

 死の瞬間に見開かれた目から生気が消えるまで、サイファーはずっと目を合わせていた。

「まったくイリジアス鋼製の武器を使ってくるとは、誰が入れ知恵したんだか」

 フレデリカのほうにもイリジアス鋼製の武器を持ったものが向かっているのだろうか。おそらくは自分と同じようにイリジアス鋼による傷はマズいはずだ。

 これは急いだほうがいい、と確信してヘンリエッタを急かそうと思った時だ。

 ――銃声。

 ――絶叫。

 ――怒号。

 暗闇の彼方から聞こえてきたものに、サイファーは珍しく背筋の凍る思いだった。

 ――フレデリカに何かあったのか?

 ――何らかの“力”を覚醒させたか、それとも暴走か。

 ――どっちにせよ、ロクなことじゃないな。

 機関銃の掃射音まで聞こえてきた。聞こえてくる悲鳴に耳をすませば、すべて男のものだ。フレデリカのものと思われるような女の声は一切ない。

「ヘンリエッタ、覚悟決めろ。ここから先は化け物の領域だぜ」

「今さらなことを言うじゃないか。どういう風の吹き回しなんだい?」

「悲鳴が男のものばっかりだ」

「……フレデリカは、一体何なんだい?」

「“この世に留まり続ける、最後の幻想たれ”なんて呪われた運命を背負わされているかもしれないのさ。僕や、ジョン・ドゥという男と同じように」

「なんで、フレデリカがそんなことに……」

「同感だ。僕ももっとろくでなしが、そうなるべきだと思うんだよ」

 ――少なくともフレデリカには酷すぎるよ。

 当たってほしくはない予測が、固まり始めた予感。

 せめて杞憂であってくれ。いらない心配であってほしい。

 サイファーもヘンリエッタも、そう思うのだ。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 鋼鉄の五指はついにフレデリカのブラウス、その襟をつかみ――そして止まった。

 何かが機関兵士の動きを止めている。無表情な鉄仮面の顔に、驚愕が浮かんだように見えた。

 均しもされていない凸凹だらけのコンクリートの地面から、人の手が生えて足をがっちり掴んでいるのだ。蜘蛛の巣のように生じたコンクリートのひび割れは、まるで地の底にある地獄への門を思わせる。

 掴む力が強まると、鋼鉄の骨格からはっきりわかるほどの軋みが聞こえてくる。

 ほぼ一瞬で機関兵士は下半身まで埋まった。鋼鉄の五指は掴んでいたブラウスの襟を滑り、今や何も掴めぬまま宙を舞うだけだ。

 ついに全身が引っ張り込まれた。悲鳴が聞こえたような気がする。

 亀裂からじわりと血とオイルの混ざりものがあふれ出してくる。

「な、に……?」

 このコンクリートで固めた場所には、中に何かがいたということ。それが姿を現して自分に迫っていた機関兵士を引きずりこんだ。

 わかるのは、これだけだった。

「見つけたぞ!」

 誰かが梯子を上ってここまで来たらしい。

 ブローニング自動小銃を携えた兵士の姿を認めると、近くに落ちていた『One In All』を手繰り寄せた。

 照準を合わせようとするが、やはりダメージは深い。視界はぼやける上に、銃口は上下左右に揺れて狙うこともままならない。

 銃口をこちらに向けたまま兵士はついにコンクリートの地面までやってきた。

 何かが地面から襲い掛かる。

 それは一瞬して股間から突入して、頭頂から抜けた。

 斜めに切られた鉄の管は、その鋭さを存分に発揮して串刺しという偉業を成し遂げた。

 それを支えたのは――おそらくは地中にいるものの馬鹿げた膂力。およそ武器というにはあまりに急ごしらえの鉄パイプが、特級の凶器と化すほどの。

 そして――地中のそいつはついに出てきた。

 分厚いコンクリートに固められていても、その身に宿る狂気は再起の瞬間を今かと待ち変えていたのだ。

 アッシュ・ブロンドをさっと逆立てて、アメジストの瞳を三白眼に変える。口元にはサメを思わせるほどに深い狂気の笑みを浮かべて。

「あっはぁ……」

 狂相の笑みのまま後に続いてきた男たちを見据える。

「で、出てきやがった……」

「撃て! 撃ち殺せ!」

 弾丸が肉体を食い破るが、傷つくのはパンキッシュな上下ともに黒のジャケットだけ。

 その下にある、しなやかに鍛えられ抜いた肉体には傷一つない。弾丸が貫通したそばから再生しているだけだが、その速さは幻想生物すら余裕で超えるはずだろう。

 彼は地を蹴った。瞬き一つの間に距離を詰めている。

 右腕の一振りで首がもぎ取られる。空いたもう一方の手で佩いていたサーベルを抜くと、もう一人を一刀両断した。そいつからもサーベルを奪い取って二刀流となる。

「ア? お前はサイファーのトコにいた……」

「……ジョン・ドゥ」

「ハハッ、覚えててくれたのか。いやァ、嬉しいねェ」

 それは幾度に渡ってサイファーと火花をロンドンで散らした男だ。

 一難去ってまた一難、というべきか。

 フレデリカはなすすべもなく、この男によって戦闘不能に陥らされたことがある。手負いの今の状況を鑑みれば、逃げることすら叶わないだろう。

 後ずさろうとして――襟首をつかまれた。

「オイ、逃げることねェだろがよォ! そんなに怖いってか、アァ!?」

「……普通に怖いです」

「あんまり俺様を怒らせんなよォ、首ィ引っこ抜いちまうかもしれねえからなァ。それよりサイファー・アンダーソンはどこだ? 早くリベンジ・マッチに挑みたいんだが?」

「わ、私はここに迷い込んでしまったようなもので……」

「どっかから落ちてきたのかよ? 俺の雇い主はこの洞窟広げまくってるから、どっか地盤がもろくなっててもおかしくはねえが……」

「地割れに巻き込まれたんですけど、何とか横穴に飛び込んで」

「へへっ、ハハハッ、アッハッハッハッハッハッ! そりゃ傑作だぜ。ああ、死ななくてよかったなァ。この清楚系デカチチが失われるなんて、人類の損失だァ」

 むにゅん、とたわわな胸をジョンは思い切り鷲掴みにした。

 一瞬で頬が熱くなると同時に、理性が怒りでぶっ飛んだ。

「変態!」

 BANG! BANG!!

 フレデリカの『One In All』が二度も火を噴いて――弾丸はジョンの股間に命中した。

 蹴られるだけで大抵の男を悶絶させる急所に、弾丸をぶち込まれるなど実に想像したくもない悪夢だ。事実、ジョンの脳は激痛に焼き尽された。鮮血を吹き出し続ける股間を押さえながら、奇声を上げて跳ねまわっている点からもその痛みがよくわかる。

「ア゛ア゛―ッ!! な、あばあばば、ふ、ふざけんじゃ、ねえぞオラァ! 人の息子に一発ぶち込みやがってェ!」

「当然の報いですよ! 淑女(レディ)の胸を触って、ただで済むと思っているんですか!?」

「ビンタがいいとこだろォ!? そもそも銃ぶっ放してる時点で淑女名乗れると思ってんのかよォ!」

「うるさい! 今度触ったら、弾倉の弾丸全部ぶち込みますからね!」

 と言い終わった瞬間にジョンの身体はズタズタになった。

 短機関銃と自動小銃の一斉掃射をぶち込まれたのだ。

「がぁぁぁあ、クソッタレ! 治るって言ってもぶち込まれたら痛ェンだからなァ!」

 サーベルを両手に構えると、一瞬のうちに銃火器ごと斬り刻んでしまう。

 そのまま下へと向かう梯子を飛び降りると、階下に集っていた兵士へと突貫する。

 地獄絵図が広がった。

 野獣に蹂躙されるか弱き人々、という表現がよく似合う様だった。ジョン・ドゥの一刀は野獣の牙だ。得物を引き裂いて食らうためにあり、それを容赦なく兵士たちに振るう。

 反撃の銃火を受けても尚、突貫は止まらない。止まるわけがないのだ。

 この野獣(ジョン・ドゥ)の相手ができるとしたら、それは怪物(サイファー)だけだ。

 階下に死体のほうが多くなってきてから、フレデリカはゆっくりと梯子を下りて行った。途中、解析機関のど真ん中に椅子のようなものがあったのを見つける。気にはなるが、今は脱出することが鮮血だ。それよりも下に行けば行くほど、血と臓物と刺繍の入り混じり抜いた臭いに眉をしかめてしまう。

 ジョン・ドゥは自分とフレデリカ以外の動くものすべて敵だ、と言わんばかりに暴れまわっている。

「もうあの人だけでいいんじゃないでしょうか?」

 その疑問に答える者は、誰もいない。


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