享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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Fall~地下と地上に蠢くもの~

 ――落ちていく。

 深い亀裂の中を落ちているというのに、命の危機というものが異様な薄いように感じられた。

 だからこそ、冷静さを失わないで済む。自分も知らないうちに命を懸けることに、何の恐怖もためらいもなくなった。フレデリカはため息をつきそうになったが、今は生き残ることが優先事項だ。

 十メートルほど下に直径にして三メートルはあろう横穴を見つけると、その反対方向に向けて二挺を撃ちまくる。反動で穴へと近づいていくが、まだ距離は足りない。仕方なく自動小銃のほうも弾倉一つ分撃ちまくる。それでようやく横穴に滑り込むことができた。

「もう、こんなのは二度としたくありません……」

 ここでため息一つ。

 弾切れの自動小銃を捨てようとして――横穴の端に引っかかっている物を見つけた。自分が屠った機関兵士の死体だ。全身に弾痕が見受けられるが、それよりも目を引くのはポーチに納められた自動小銃の弾倉だ。ブローニング自動小銃と同じ箱型の二〇連発だ。

 死体はやっと引っかかっているようなものだから、奈落の底に落ちないように注意深く弾倉を失敬していく。最後の一つを抜き取ったところで――。

「あ――」

 と間抜けな声を上げた。編み上げブーツのつま先が触れてしまった。

 呆気なく何の抵抗もなく死体は奈落に吸い込まれていった。耳を澄ませてもそこに当たった音がしないのを察して、弾かれるように穴の淵から遠ざかった。この横穴に滑り込めていなかったら――と考えて冷や汗が滴る。

「うん、考えないようにしよう」

 空の弾倉は捨てて、新たな弾倉を込めて装填ボルトを引いた。スムーズに薬室へと初弾が叩き込まれ、発砲の瞬間を待ち構えるばかりとなる。やはりこのくらいのライフルが一番ちょうどいい、というのがフレデリカの感想だ。裏を返せばそれだけの装備を開発、または所有できるほどに敵は大きいということの表れでもあった。

 機関部には自動小銃の名称が刻印されている。

 ――『Advanced Rifle Model“Predator”』

 もしかすると開発途中の次世代小銃かもしれない。ブローニング自動小銃はどちらかと言えば機関銃よりの性格だから、コンパクトにして小銃並みに抑えようという試みの産物かもしれない。もっとも機関兵士に供給されていたあたりからして、人間以上の身体能力がないとまともに扱うことは叶わないのだろうが。

 全長にして九〇〇ミリ足らずなおかげで、地面を掘り抜いた穴の中でも取り回しがきく。

 だが穴の中は真っ暗だ。明かりなど期待できるわけもないから、必然的に視覚以外の四感を使うことが求められる――と思った矢先に鮮明な視界が取り戻された。

「……便利な目。自分の目なんですけれど」

 一片の光も届かぬ領域すら、己の瞳は見通してのける。

 おそらくは見えないものなど、この黄金の双眸にはないはずだ。見ようと思えば、たぶんなんでも見えるはずなのだ。光も刺さぬ暗闇をそのまま見通すことも――その中で蠢く何かを見ることも容易い。

 ――てけり・り。

 ――てけり・り・り。

 暗闇にほんの少し濃緑色を混ぜた軟体生物が洞窟を闊歩している――正確にはゲル状の腹板で這っているのだが。

 牛ほどもある奇怪なそれの名をフレデリカは知っている。

「ショゴス……」

 おそらくは一番初めに見た化け物だ。その身は現世の物理法則をことごとく拒絶し、彼らの理を触れた者に押し付けるのだ。その末路は浸食による肉体の崩壊だ。

 だが今は戦う術は充分にある。戦意を高ぶらせれば二挺に青白い稲妻が走る。物理法則による破壊を受け付けぬのなら、別の方法でアプローチするまで――たとえば彼らの世の理を以て撃つ。

 外法の雷を帯びた弾丸は装薬の爆発に押され、青白い軌跡を残しつつ飛翔する。着弾した瞬間、コール・タールのごとき粘液上の身体の上で小さな爆発を起こす。手榴弾と比べれば規模は三分の一にも満たないはずだ。だがエネルギーの質は段違いだ。爆発はほんの少し漏れただけに過ぎない。

 事実、ショゴスの身体にエネルギーのほとんどが注ぎ込まれた。螺旋状に粘液上の身体がかき混ぜられ、忌まわしき外法の細胞一つ一つまで焼き尽くされた。弾頭に詰め込まれた“力”の炸裂はショゴスを屠るのに十分な威力を持っている。

 だがショゴスもこれで終わるわけがない。弾頭が炸裂した瞬間に、いくつかの分裂体を産み落としたのだ。大きさこそ人間の子供と同じか、それより小さいくらいだが能力はほとんど同じだ。

 ――てけり・り・り!

 冒涜的なその声に攻撃の意思を混ぜ、分裂体たちは一斉に粘液を吐きかけた。その身体も過剰なまでの殺傷能力があるものの、攻撃用の粘液にいたってはそれ以上だ。見よ、粘液が着弾した瞬間から洞窟の外壁は瞬時に分解され、砂山となってわだかまっている。

 フレデリカに被弾は許されない。ホーレス謹製のゴシック調のコートがかなりの防御能力を持っていることは、何度も性能を確かめるだけの機会に恵まれたおかげで充分に知悉している。ただ、それはこの世界における物理法則に則った防弾性能のみで、外法の理によるものに関してはあまり期待しないほうがいいはずだ。

 いまだ銃身に“力”を展開し、次々と分裂体に銃弾を撃ち込んで四散させていく。

「あっ――」

 だが気づいた時には遅かった。

 ほとんど黒と言っていいい濃緑色の粘液が右肩に命中した。クロのゴシック・コートが白煙を噴いたが、その下のブラウスまで灼けることはない。ホーレスの腕に感謝した。

 これだけの防御力があるなら多少の無茶が利く。顔や手と言った露出している部分に食らわねば、いくらでもやりようがある。二挺を射撃ではなく、格闘の構えで保持。洞窟の地面を蹴った。

 殺到する殺人粘液を身を翻して避ける。

 クロス・ファイアで同時に二匹を撃ち抜いた。

 分裂体が一斉に触腕を伸ばし、粘液をまき散らしながら鞭のごとくフレデリカを叩き落とそうと迫る。

 その全てに銃弾で迎え撃った。弾丸を少しでも節約するために、自分に当たるものだけ撃ち落とすのだ。

 弾け飛ぶ分裂体の飛沫一つも浴びず、着地した時にはショゴスも分裂体も死に絶えていた。

「まだいるのかな……」

 立ち上がりつつ、二挺から『Predator』に持ち替えると地上への道を探すべく歩みを進める。

 ショゴスなんて怪物がうろついてる可能性を捨てきれない現状、フレデリカの五感はいつも以上に研ぎ澄まされた。特に黄金の双眸による視覚にいたっては――もはや気配すら“視える”のだ。何か動くもの、生きるものがいることを、うっすらとした白い霞となって視界に映し出されている。

 一歩を踏みしめるたびに、どこかが濃くなって、どこかが薄くなる。濃淡が気配の主との距離を示しているらしい。

 手に握る『Predator』の引き金に指をかけた。いつでも撃てるようにするための準備だ。鉢合わせなんて状況がいつ起こるかわからないのだから、備えておくに越したことはない。

 幸いにも“視る”術はあるのだから、充分に警戒しておけば避けられるはずだ。

 それから二〇分は歩いただろうか。極度の緊張で疲労を感じることも忘れかけている。

「ここは……!」

 思わず目を剥いた。ロンドンの地下にこんなものがあったのか、という驚愕に脳内を埋め尽くされて。

 地面から天井まで二〇メートルは優にあるはずだ。確かに自分はそれだけの距離を落ちていったという自覚がフレデリカにはあった。だがそれを差し引いたとしても、この巨大な空洞は異常としか言えないが、それに拍車をかけるものはその内壁にあった。

 びっしりと隙間なく描かれている古代文字にフレデリカは見覚えがあった。考古学は先行していなかったものの、興味はあったから大学の図書館で結構な知識を得ている。

「この文字……南極横断山脈の古代遺跡にあったものに似てる」

 南極横断山脈――一八八一年にミスカトニック大学の率いる南極調査蒸気船が標高三万四千フィートに達する巨大山脈を発見、その二年後に再調査を行い登頂。その過程で古代遺跡を発見したものの、内部に巣食っていたショゴスから命からがら逃げるという事態となり、調査員一名が発狂という惨事となった。

 ただ調査員の残した資料は古代文字のサンプルや“具体的”な内容を省いたものであれば、大学生徒用に公開されることとなった。二度と遺跡に足を踏み入れるべからず、という戒めと共に。公開されている分はすべての資料から見れば二〇分の一にも満たないはずだが、古代文字のたった一つでも体調や精神の不調を訴える生徒が続出した。幸いにもフレデリカはそういうことはなかったものの、いわくつきの資料を好んでみようとは思わない。しかしいわくつきだからこそ、内容は覚えていた。

「アーカムなら、あってもおかしくないけど……」

 アーカムは異常と普通がひっくり返った街だ。普通なら怒らないようなことも、平気で日常の一幕と同じくらい当然に起こる。突如として奇怪な幾何学的巨石群が出現し、翌日には消え去る。昨日はあったはずの地下洞窟が、一時間もしないうちに溶けるようになくなる。そういう超常現象が頻発する。

 だが、ここはロンドンだ。人がやっと住めるほど神秘や怪奇、幻想の濃いアーカムとは違う。かつては多くの怪奇に都市伝説が囁かれたが、それも昔のことだ。この蒸気の煙が立ち込め、その内に近代化の波によって様変わりした街並みに回帰に怪物は不似合いだ。

 だから、こんな異常の産物が存在することなど、とても信じがたいことだった。

「じっくり調べたいなぁ……」

 きっとミスカトニックの考古学教授を招けば、きっと発狂したようになる。そんな自信があった。

 だがこの広大な空間を、敵が活用しないわけがない。おそらくは休憩所として使っているのだろう。軍払い下げの野営セットのいすやテーブル、まだ温もりを残すポットがある。まだ、ここを去って間もない証拠だ。事実、フレデリカの視界には遠ざかっていく気配のもや、それと足音が聞こえていた。

 だが、先ほど来た道から追う気配をもやとして、黄金の双眸はフレデリカの視界に映し出す。だが白いもやではなく、赤々と染まっている。敵意の色だ。気づいているのか、疑っているのか。

 後者であってほしい、というのがフレデリカの希望だった。もし気づかれていたら、通信機器で増援が来る可能性がある。

 広大な洞窟の空間は、休憩所として活用されていたせいか、身を隠せる場所には困らない。それにこれまた不可解な図形の刻まれた巨岩が、そこかしこにある。巨岩の一つに身を隠した。周りに複数の足跡を残して、混乱させる準備もしてある。

 ついに足跡の主が入ってきた。

 野戦服を着た二人組だ。装備は見たこともない銃――おそらくは短機関銃とボーチャード・ピストルだ。おそらくは弾薬共通化のために両方とも七・六五ミリ拳銃弾で統一しているのだろう。

「足跡はここでわからなくなってるな」

「歩き回って撹乱したな。どう見る、お前は?」

「出ていったか、隠れているか――どちらにせよフィフティ・フィフティだ」

「ここを見回ってから先に進もう。それが最善策じゃないか」

「それで……侵入者は男か、女か?」

 問うた男の顔は劣情に染まっている。ボーチャード・ピストルを握る右手はそのままに、左手で両刃のダガー・ナイフを抜いていた。

「女と見れば、すぐに斬り刻みながら犯す癖はやめたらどうだ」

「女があの時に出すよがり声を聞くのは、すべての男だけが楽しめる権利だと思わんか?」

「すべてとは限らないさ、ゲイはどうなんだよ?」

「レズと乳繰り合ってろ」

 拳銃とナイフを握りしめたまま、男は四足歩行に化けた。まるで四本足の昆虫という表現がぴたりとくる。

 鼻をすんすんと利かせ、双眸を真ん丸に見開いて足跡を見つめている。

「女――だな」

「なんでわかる」

「わずかに残る女モノの香水に――足跡の沈み具合だ。体重が男にしては軽すぎる、おそらくは――」

 堪忍袋の緒がぶった切られた。

 フレデリカは巨石の影から身を躍らせ、Predatorの引き金を絞り抜いた。

 三〇-〇六という大口径ライフル弾の破壊力は生身の人間には十分すぎる――今しがた脳漿と血液と肉片をぶちまけ、頭部の上半分を吹っ飛ばした短機関銃の男にとっては。

 だが、もう一人は違う。弾丸に食い破られたのは野戦服のみ。千切れた穴から覗くのは温かな人肌ではなく、恐ろしく冷たい鋼鉄の輝きだ。身体を機関に置き換えた――機関兵士であったのだ。動力部から供給される蒸気圧でピストンと歯車で構築された人工筋肉は、もはや化生の類としか思えぬ剛力を発揮するはずだ。

「やはり女だったか。殺された相棒は今ので十九人目になる。仇はとらせてもらうぞ」

「女性をそういう目で見る人が、仇討ちなんて似合わないですよ」

「踏む、では本音でいこう。あなたを存分になぶらせてもらう――これでいいのだろう?」

「そうですね――本音丸出しで、とてもお似合いです(反吐が出ます)

「では美しさに敬服して、全部使わせてもらおう」

 野戦服の前を男は開ける。おびただしいほどのダガー・ナイフが保持されていた。おそらく数は20本を優に超えるはずだ。

「いつもは一人に一本使う。ナイフを持っているなら、使わねばなるまい」

「変態じみてますよ、あなた」

 かさばる自動小銃は地面に置いた。スリングで背負ってもよかったが、これから動き回らねばならないことを考えると、少しでも身軽にしておきたかった。そのまま二挺に持ち替える。

 男が地面を蹴った。

 拳銃は牽制で本命はナイフによる一撃だ。戦術的にも、男の性格からしても。弾丸の威力よりも、人工筋肉による一撃のほうが速く、そして重い。

 弾丸が頬を掠める。ヤケドと擦り傷のひりつく痛みは、無理やりにでも押し殺した。

 ナイフの刃先に円錐雲が生まれたのを、フレデリカは見逃さなかった。

 即座に銃身で横から逸らす。速いものほど、横からの影響に弱い。

 即座に反対の手に握る銃を撃つ。拳銃に当たった。銃身は四つに裂けて、丸まって壊れた。発射は不可能だと、銃把も握ったことがない子供でも分かる状態だ。

 拳銃を素早く捨て、鋼鉄の五指は即座に腹に巻き付けた大量の(シース)からナイフを抜いた。

 その瞬間にフレデリカの銃は、男の眉間に照準を済ませている。だが照門から照星までが描くライン上にあった男の姿は、撃鉄が落とされた瞬間に消え失せた。

 スウェイ・バックで退いたのは、黄金の双眸が“左腰から右肺上葉にかけて斬られる”というビジョンを幻視させたせいだ。

 さもなくば、コートとブラウスだけではなく、骨や筋肉に臓器までまとめて斬られたはずだ。

「今のを避けるか」

「目が“いいので”」

「なるほど。この身体になってから、ずっと歯ごたえもやりがいも感じにくい戦いばかりだったが、ここに着て斬り刻みがいのある相手に会えるなんて幸運だ」

 生身のままの真っ赤な舌を、両刃に這わせて舌なめずりする。

 この男は異常なだけではない。今まで生きてきただけの技術を持つ、まごうことなき狩人だと確信した。

 それでも銃把を握る腕はあくまでも、適度に弛緩させてソフトのまま。緊張するほうが、よほど状況を悪化させる。常にいつもの調子を崩さないこと。サイファーから教えられたことの一つだ。

 再度、両者はぶつかり合った。

 ナイフの刃と銃身が火花を散らすほどぶつかり合い、弾丸は男の身体を食い裂かんと何度も撃たれた。

 それでも決着には程遠い。フレデリカはサイファーに仕込まれた技術と転生の肉体を以て、男は今まで積み上げてきた技術と経験を以て、ほぼ互角の状況に持ち込んでいた。

 ゆえに事態は展開を見せない。激しいだけの膠着状態だから、長くは続かないはずだ。どちらかが体力の限界を迎えるまで続くだろう。

 その瞬間は――すぐにでもやってきた。

「あっ――」

 フレデリカがナイフに競り負けた。後ろへ倒れ込む形でバランスを崩す。

 そこを男が狙わないわけがない。さらに力を乗せて押し倒し、腰の上へと馬乗りのような状態になる。ナイフはすでに逆手に握られていた。滅多刺しにかかるのは想像に難しくない。

 金属と金属の激突音、そして火花が散る。

「んっ……ぐぅ」

「しぶといな……ッ」

 寸でのところでナイフの刃を銃身で受け止めた。しかし、馬乗りにされているという絶体絶命の状況をどう乗り切るか。そのプランをフレデリカは練れずにいた。

 この男は機関兵士だ。下手に銃弾をぶち込んで倒せる相手ではない。起死回生の一撃も防がれてしまえば、その時点で自分の死が決定するのだから。

 ――ここだ。

 マガジン・リリース・ボタンを押し込んで、弾倉を排出する。同時に総身の力を爆発させて、一気に押し返しにかかる。

 ここで力関係は一時的に逆転した。『All In One』の弾倉をフレデリカはM1911型の『One In All』のスパイク付きコンペンセイターの先で、男の生身のままの喉へと弾倉を突き刺す。そして『All In One』の銃口も添えた。薬室にはまだ一発だけ入っている。

 最後に男の顔が青ざめたのを見逃さない。

 ――もう手遅れです。

 引き金を絞り抜いた。

 顔に鮮血と肉片の混ざりものがかかる。

 少し離れたところに舌を突き出した男の首が落ちた。二発の銃弾と弾倉の暴発は、男の首を完全に吹っ飛ばしたのだ。

 もはや重いだけの首から下の身体を、押しのけるとフレデリカは『Predator』を拾い上げる。

 近くで銃声を聞きつけた者がいたのか、視界に入る気配のもやは次々と白から赤へと変わっていく。

「……生き残って、帰るんです!」

 自動小銃を抱えて、フレデリカは走り出した。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 ――苛立っている。

 というのがヘンリエッタがサイファーに抱いた今の印象だ。

 フレデリカを救い出せなかった自分に苛立っているのだろう。この男は乱暴に言ってしまえば“何でもできてしまう”男だ。いや、家事は壊滅的なのだが。

 やってみれば、たいていのことを難なくやってしまうのがサイファー・アンダーソンという男だ。だから、人以上に挫折を感じたことがなく、それを味わった時の悔いも大きい。

 おそらく、あの地割れを引き起こした下手人が目の前にいれば、一切の迷いも躊躇いもなく切って捨てるはずだ。それほどの鬼気というべきものを、おそらくは無意識化で垂れ流しにしている。

 ――ジョン・ドゥという男を、血に伏せただけはあるね。

 対する自分も静かな怒りの炎が絶えずに燃えているのを自覚していた。

 生きているはず、という根拠もない確信がある。サイファーも同じものを感じているはずだ。

 弔い合戦にはならないだろう。だが許しはしない。

 ホテルの部屋の電話がベルを響かせる。

『アンダーソン様、お電話が入っておられます』

「ん、繋げ」

 電話は五分にも満たなかった。ただ目に見えてサイファーの眉間にどんどんしわが寄っていく。よほどの相手からかかってきたのだろうか。最終的に受話器は叩き付けられる勢いで切られた。壊れてないといいが。

「アルバニアンからの電話だ。キングスクロスに来いときた」

「罠だろうね」

「僕はそうは思わん。今から行く。命が惜しいなら、残っていても構わん」

「それはごめんだね。フレデリカに絡むことなんだろう?」

「電話じゃ離せないくらいの情報を教えてくれるらしい」

 サイファーはガーニーをぶっ飛ばした。市街地で出してはいけないような速度で、キングスクロスへとまっしぐらだ。

 サスペンションが断裂しそうな勢いで止まった。

 煉瓦造りのビルが指定された場所なのか――と思ったらサイファーは裏口へと回り込んでいく。ようやく追いついた時には、あの長大な野太刀をその手に握っていた。

 裏口の扉を固めていた黒服の用心棒が二人立っていたのだろうが、一人は肩を野太刀で扉に縫い止められ、もう一人は片手で首を締め上げられたまま高々と持ち上げられている。

「へ、ぐ……ぇ」

 ぎりり、と力を込めると男は締め落とされた。

 そのまま串刺しにしたほうにドアを開けさせた。野太刀は刺したままだから、相当やりづらいとは思うが、否応なしにやらされてしまっているあたりサイファーの無言の脅しが効いているらしい。というより腹に刺さってないだけ、まだマシなほうだと思う。

 裏口は地下へと通じていた。

 サイファーは男を急かしているようだ。早く案内しろと、肩に突き刺した野太刀の刃を捻る。苦痛に男泣きしながらも、死にたくない一心で男は案内の役割を果たしているらしい。少しでも逆らえば背中からばっさり両断されるのが目に見えているのだろう。

 道中も悲鳴を上げたりするたび、傷口を刀身を捻って広げられたり、指の骨を折られたりしている。見ているだけで、痛くもないどこかに耐えがたい痛みを感じるほどだった。

 ついに目的地への案内を男は果たす。そこは応接室にして少々広い場所だが、テーブルと三人掛けが一つと一人掛けが二つの、計三つのソファがある。

 しかし、部屋の入り口から見てぐるりと前方一八〇度にわたって二〇を超える短機関銃の銃口に、サイファーとヘンリエッタは出迎えられた。

「虫の居所が悪いらしい。まぁ、用心棒一人くらいひどい目に遭おうが問題ない」

「部下にずいぶんな扱いだな」

「ここまで侵入を許してしまった部下に、気遣いがいると思うかね?」

 ソファーに腰かける老獪に笑うスリー・ピースの男こそ、今のアルバニアン・マフィアを牛耳るトップだ。

 名は知らなかった。まさか出会うなんて、呼び出されるなんて思い及ばない。

「新人の件で大変なことになっているらしいと聞いた」

「僕の件はいいのか?」

「メンツというものは大事だ。それ以上に――ファミリーの仲間のことも大事だ。使える子分であればな」

「いい判断じゃないか?」

 一瞬だけ浮かべた不敵な笑みも、すぐになくなった。

 ――銃声が響いた。

 トップの手にはレミントン・ニューアーミーが握られている。いまだ銃口から白煙を噴いている。

 サイファーの巨躯が少しだけのけ反った。

「一発だけ眉間にぶち込ませろ」

 そのセリフを言い終わった瞬間、眉間からへしゃげた四四口径弾が転がり落ちた。

「満足か?」

 まるで大したことのないような、そんな物言いだ。眉間に銃弾を撃ち込まれた人間の放つセリフではない。そもそも人間なのか、それさえも定かではない。ただサイファー・アンダーソンという男は、銃弾では殺せない。

「やはり手を引いて正解だったな、まさか本物の化け物だったとは。こいつらに一斉にぶち込ませても、殺せる気がしねえな」

「やってみればいいだろ、そこにいるヘンリエッタなら殺せるかもしれんぞ」

「いいや、遠慮しておこう。軒並み、そのご自慢のジャパニーズ・ブレードで叩き落されそうだ」

「それじゃあ……本題に入ろうか」

 その言葉と同時に長大な緩やかに円弧を描く野太刀は、鯉口まで鞘に納められた。

 話を聞く、という姿勢を一応は見せた。座れ、と一人掛けの皮張りソファーに促される。

「噂の新人は地下の亀裂に落ちていったそうだな?」

「ああ、こんな稼業にかかわらせるには惜しいくらいの、凄まじくイイ女で、凄まじく才能のある女だ」

「一か月前からロンドンの地下に妙なものができてきた。もしかしたらそこにいるかもしれん」

「妙なもの?」

「案内させる」

 おい、と言って呼びつけたのは先ほどまで案内させていた男だ。また彼の世話になるのか、という率直な感想が口を突いて出そうになる。ヘンリエッタは黙って呑み込んだ。サイファーなら言っていたかもしれない。

「またコイツの案内か?」

 言いやがった。

「どいつもこいつも尻込みしちまってんだ。化け物の案内なんざしたかない、とな」

「ま、仕方ないかな」

 白羽の矢を射られた男は泣きそうな顔をしていたが、一睨みされると黙って先導した。たぶん半分くらいやけくそではないだろうか。

「このビルを中心に、俺たちはサツに嗅ぎ付けられるとマズい活動をするための地下空間を築いている。拡張工事はかなりの頻度で行われるんだが、つい最近の工事で気になるものを掘り当てちまった」

 案内された先は分厚い鉄扉だ。おそらくロンドン最大の銀行ぐらいでしか採用しないような、蒸気機関の力を以てしてようやく開けられるほどの。現に扉の蝶番に蒸気供給用の太い配管がある。案内の男がレバーを倒すと腹の底まで響く機関の駆動音と裏腹に、鉄扉は極めてゆっくりと開いていく。まるで地獄への門が開くように。

 鉄扉の向こうは地下通路だった。モルタルでの補強もされていない、ただ地下を掘り抜いただけの無造作な造りだ。

「何人か若いのに銃を持たせていかせたが……一人として帰ってこなかった」

「…………これはデカいぜ。ロンドン中に張り巡らされている」

「わかるのか?」

「風の流れでね。ビッグ・ベンまで確実に届いている」

「もしかしたら、いる可能性はあるかもしれないね」

「ヘンリエッタ、構えとけ」

 サイファーの言葉を考える暇もなく――それはやってきた。

 ――てけり・り!

 ――てけり・り・り!

 暗緑色の粘液状生命体がその身体をビロードのように翻して、自分たちに迫りくる。

 ヘンリエッタはとっさに案内の男とトップを遮るように立った。下手に前に出てこられては困る。

 その時にはもうサイファーの手は、野太刀の柄を握り込んでいた。

 抜き放たれた刃は波紋の映える鈍色ではなく、すべての光を吸い尽くさんばかりの漆黒に染まり切っていて。

 ほぼ粘液状の身体に一閃が刻まれた。

 今にも全員をまとめて呑み込もうとした、天幕のごとき身体が痙攣したのをヘンリエッタは確かに見た。人間で例えてみれば、きっと頭頂から股間まで断ち割られたに等しいはずだ。

 粘液状のショゴスは完全に液体に成り果て、床に広がった。かと思えば誰も害することなく、塵と変わって消え去っていく。

 幻想を斬り殺した一刀から、残骸の粘液を払い、鞘鳴り一つも立てずに納刀した。

 その所作はまさしく極東の剣士――サムライの身のこなしだ。

「ショゴスに殺られるようなタマじゃないと思うが……急いだほうがよさそうだ」

「待っていてくれ、フレデリカ……ッ!」

 慄くつま先を押し殺しながら、ヘンリエッタは努めて冷静に歩みを進める。

 ――てけり・り。

 もうしないはずの声を、背後から聞いた。

 

 


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