享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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Crack~狂える者は呼び出して待つ~

 フューリアスとメルカバの衝撃も冷めやらぬまま、三人は施設を後にする。

 近くのカフェにいるという話だったが、そこまで足を運ばずとも空気の変質でわかる。肌が粟立って、腹の底から冷えるほどの圧力が場を満たしている。

 ゆえに人気はない。誰もはカフェの前を早足で通り過ぎていく。

 空気を肌で感じているのもある。しかし、理由はもう一つ。

「いきなり呼び出して済まない。君がこの大英帝国の土を踏んだと聞いて、いてもたってもいられなくなって」

「…………」

 漆黒のカソック・コートの男も確かに異様だが、問題はその隣だ。

 中世の騎士鎧がそこに立っていた。フル・フェイスの兜まできちんと身に付けている。磨かれ抜いた銀に光る鎧は、見た目こそ眩く輝く。だが無言を貫き、微動だにしないのが不気味だ。

 ズン、と重苦しい足音に交じって蒸気音が鎧から響く。

 機関騎士だろうか、というのがフレデリカの第一印象だった。ただ大きさは幾分か小さい。機関騎士は三メートルを優に超すが、こちらは二メートル強というぐらいか。サイファーとそんなに変わらない。

「サイファー……」

 そのとき鎧はぐぐもった、重厚な声を出した。人間の声帯では間違いなく出せないとわかるような声。歯車を擦れ合わせて、なんとか男の声に仕立てたようなものだった。

 ズン、ズン、と揺れるほどの足音が鳴るたびにサイファーと鎧の距離は縮まっていく。

 空気の凄まじい唸りをフレデリカは確かに聞いた。

 野太刀の刃と騎士槍の矛先がぶつかり合った。

 弧を描く刃はすでに一筋の光も吸い尽くす黒に染まっている。コンマ一秒もない時間に『力』を展開したというのか。

 対する鎧の武器も異様だ。中世に使われたと思しき巨大な騎士槍だが、獲物を抉り取るかのようなスパイクが並び、周囲の景色が歪むほどの高速回転をして絶えず火花を散らしている。唸るような音ではなく耳障りな高音を立てている

 刃渡り五尺以上もの野太刀と三メートル近い騎士槍のぶつかり合いが白昼堂々と行われている。

 どこかで悲鳴が上がったと思えば、それを皮切りにあちこちで叫び声がこだまする。

「ずいぶんな歓迎だな、アルトリウス」

「待ちかねたぞ、待ちかねたぞ。今日こそ引導を渡してもらうぞ化物。震えることも怯えることもなく、路傍の石ころのように滅してやる。誰の記憶にも一片として残さん、一片として」

「独立戦争からの仲で久しぶりの再会を楽しむ余裕もないのか?」

「必要ない、必要ない。お前との仲など、たった一突きで一切合切片づけてやる」

「相変わらずだな。早い男は嫌われるぜ」

 サイファーの口調はあくまでも軽い。だが鎧の言葉は怨嗟と憎悪をかき集めたようだった。

 ぐきん、と轟音がした。ぶつかり合い、火花を散らす野太刀と機関槍の真下に引き裂くような深い亀裂が入る。二人の足元も異様なまで陥没している。

 やはりこの二人は人間ではない。サイファーはもちろんとして、このアルトリウスと呼ばれた鎧の男もほとんど同格と言っていい。

「――両者、矛を収めて」

 場にすうと通る声が響き渡った。耳障りがとても心地いい、涼やかな声だ。

 肩にかかる程度の透けてしまいそうなほどの薄い金髪が視界に入った。視界は顔に向けない。そもそも向けられなかった。

 その顔はあまりに美し過ぎる。世の苦しみに心痛めるような物憂げな碧眼、すうと通った鼻梁は美男子っぷりに拍車をかけ、己のものを寄せたくなるほどのラインを描く唇は微笑を浮かべていた。輝くほどの、眩く感じるほどの絶世の美丈夫がそこにいた。

 恐るべきは美貌の力か。今まで一人もいなかったカフェの周りに、花の蜜を求める蝶や蜂のように人が集まり始める。その目は老若男女問わず虚ろだ。もはや思考能力はないに等しいはずだ。サイファーもアルトリウスも武器を下して、彼のほうを見ていた。

 顔を見せただけでこの場を制してのけた、この美男子は何者なのか。

 それも気にならないくらいの美しさだが、それ以上に腹の底からくる悪寒をフレデリカは感じている。何かが違うのだ。根本的な部分、生物的なもの、人間的なもの、それらがまとめて一線を画している気がする。きっと悪魔だ。これほどに美しく、そして嫌悪をもたらすのは悪魔以外に他ならない。

「エドワード様、あまりご尊顔を見せられるのは」

「そうだねダイオニシアス。あまり騒ぎになっても困る」

 長衣の軍服を纏った見るからに壮健な老人が後から来た。エドワードと呼んだこの美男子の顔は見慣れているらしく、鋼色の双眸は鋭い輝きを一切失わない。

「剣魔ダイオニシアス・ガラルド……凄まじいビッグ・ネームだ。よく東インド会社から戻ってこれたな。何か面白いことでもあるのかねぇ?」

五月蠅(やかまし)い。化け物が言葉を手繰るな」

 騎士槍は持ち上がって、サイファーの首筋に突き付けられる。

「言葉の一つや二つ、どうってことないだろうが」

 漆黒に染まり抜いた野太刀もアルトリウスの鎧の機微あたりに突き付けられた。

「はいはい、矛は収めて」

 その声色、いまだに微笑みをたたえたままの美貌は瞬く間に得物を下させた。はたから見れば、どこか滑稽にも思える光景だが、サイファーはもちろん彼に勝るとも劣らないアルトリウスは一級の戦士。その闘争心を瞬く間に鎮火しているのだとすれば、並大抵のことではない。

 ただ代わりに視線で火花を散らし始めた。メイザース以上の確執というよりも、根本的に合わないというものだろう。水と油だ。サイファーとメイザースは、アーカムの水とテムズ川の水だ。水と水同市であれば混ぜ合わせられる。だが油と水はどうあっても交わり合うことはない。お互いに弾き合うのだ。だから顔を合わせるだけでぶつかり合うのだ。

「ジャッキー・フィッシャーの招待を受けてはいないのかな? 見せられたはずだよ、あの二つの兵器を」

「アレは近々、インドのレジスタンスとの戦いの投入される。エドワード様は運用に適うかどうかを見定め、私はその護衛としてここにいる」

「剣魔を呼び寄せる時点で普通じゃないが……あの兵器も普通じゃない。まっとうなことなんか一つもない状況なんだから、色々と超えちゃいけないものを超えた連中が来てもおかしくはないか」

「ジョン・ドゥ、のような」

「職務にまじめなことで」

 大仰に肩をすくめたサイファーの目が「ずいぶんとお耳が早いことで」と訴えているのが、フレデリカでもわかった。きっと誰でもわかるはず、と思うくらい雄弁に。

「でも、そんなこともなくなるはずだよ」

 エドワードのその言葉だけがいやに脳裏にこびりつく。蓄音機で記録して、何度でも聞きたくなるような涼やかな声だというのに。底冷えしそうな何かと共に塗りたくられた。きっと忘れられない、忘れることができない。

 それを最後にエドワードとダイオニシアスが去っていく。同時に周りを取り囲むようにいた意識なき人々がバタバタと卒倒していく。理解を超えた数々の事柄に、すでに失神状態にあったのだ。二人が去ったことをきっかけに、糸が切れたというべきか。

「我々もおいとましよう。アルトリウス、来い」

「…………次は我が名を遂行する」

 アルトリウスもカソック・コートもカフェから去っていった。

「だからロンドンには来たくないんだよ。アイツがいるからさぁ」

「えーと、アイツというのは……」

「鎧のほう。アルトリウス・キャッスルダイン。英国カトリック正教会の化け物専用の切り札にして、いまだに現存する機関騎士の最初期の存在だ。通称『殲滅騎士』と言われたりしてる…………ヤツが作られたのは独立戦争の時だ。脳まで機関に置き換えてまで化物を狩り続ける、大英帝国屈指の大馬鹿野郎さ。もうヤツ自身のものは残っちゃいない。数億もの歯車が織り成す人格模倣演算で生み出された思考・精神・人格が完全にやつそのものなのか、その証明は『悪魔の証明』になっちまった」

「じゃあ、あの人は……」

「“アルトリウス”なのか、それとも“アルトリウスの形をした何か”なのか。どちらにせよ、僕まで滅そうと思っているのは間違いない。一度は背中を預けたこともあったのにな」

「忘れてしまったんでしょうね……そのことは歯車の群れに書き込まれなかった」

「やりづらい相手だな……かつての戦友だぞ」

「敵に回れば、過去も因縁も関係なくみんな同じだ。向かってくるなら、殺すまでだ」

 いつもの不敵な笑みに凶暴なものが混じる、と思いきや前面に押し出された。犬歯も剥き出しになるほどの狂犬じみた笑みだ。きっと目が合えば喉笛を食い破られる未来しか見えない。

 戦いというものをサイファーは心から楽しんでいる、好んでいる。戦闘狂というほどではないが、目の前に強者がいれば内心は闘争心に疼いているはずだ。すこしでも戦いの臭いを感じれば、首を突っ込まずにはいられない。不敵な笑みで隠し、理性と矜持で押さえつけても、根っこから争いを欲するのだ。

 ゆえに、たとえかつての戦友であっても自らの敵であれば、狂者であれば、戦って心の底から楽しむ。

 サイファーも負けず劣らずなのかもしれない。

「あのエドワードって人、一体何者なんでしょうか?」

「美しい、以上に得体のしれない男だね」

「僕も知らない男だが…………インドの大反乱でレジスタンス連中をぶった切りまくった剣魔がついてくるほどなんだから、相当に地位はあるんだろうが」

「でも……あの人は怖いです。どこかズレてはいけないものが、致命的にズレているような気がして」

「私も同感だ。今まで狂った人間は色々と見てきたけど、あれは一括りに『狂ってる』とか『ズレている』という言葉で、片づけられないような気がする」

「大した分析だな――――とにかく、あの男は警戒しておくか。フィッシャーにもお披露目の時は用心しろと言っておかないとな」

 懸念が取り越し苦労であることを願う。

 だがエドワードのインパクトは気のせいで済ませたくはない。アレには確実に何かある、という根拠のない確信があるのだ。令嬢のごとく蝶よ花よと褒め称えられ、謀の一つも似合いそうにない。なのに無視することなど、忘れることなどできない。

 リッツ・ロンドンとあの洋館、どちらに戻るべきかと思案した時だった。

「わかるか?」

「囲まれてますね」

「どこのどいつだろう」

 バン、と叩き付けるほどの殺気に取り囲まれている。

 どこかで装填ボルトを引く音がした。ボルト・アクション方式のライフルなら弾幕の程度は知れるが、セミ・オート方式ないしフル・オートなら目も当てられない。得物も装備もあるが、アーカムでもない街中で一戦繰り広げるのはなるべく避けたい。

「いつでも抜けるようにしとけ」

 三人で死角を作らないように円陣を組むように身構える。

 それと同時にサイファーのブーツの先に銃撃が炸裂する。

「構えろッ!」

 閑静だったロンドンの住宅街に黒影が躍り出た。詰襟のロング・コートを着た男たちが、明らかに人間では為しえない挙動で向かってきている。肉を捨て、鋼鉄の身体を得た機関兵士(スチーム・ソルジャー)だった。見たこともない自動小銃と思わしきものを携えた者が六人、片手半剣を構えた者が四人だ。

 フレデリカが二挺を抜いた時には、サイファーの手には鞘に収まった野太刀が握られ、ヘンリエッタはグルカ・ナイフとダガーを構えていた。三人一斉に動き出す。サイファーとヘンリエッタは機関兵士と刃をぶつけ始めたが、フレデリカは一目散に身を隠す。

 自動小銃を構えた機関兵士のフル・オート射撃は苛烈だ。口径は三〇-〇六だろう。外観はかなり先進的に見え、ブローニング自動小銃からの曲銃床のスタイルではなく、ピストル・グリップと直銃床の組み合わせだ。それでも反動はかなり強そうに見える。

 住宅街というだけあって遮蔽物はある意味では豊富だ。選ばないと流れ弾の犠牲者が出るが。

 銃身を完全に固定する構造の『One In All』を構えた。外観はM1911にしか見えないが、内部機構は完全に別物だ。掃射を再開しようとする機関兵士に銃弾をお見舞いする。45口径強装弾は音速を軽く超えて、次々と鋼鉄の身体を食い破らんと撃ち込まれる。

 徐々にのけ反って、後退していく様は奇妙な踊りのようだった。『One In All』のフル・オートはダスト・カバーに沿うスタビライザーと、重量のあるスパイク付きコンペンセイターによって殺されている。

 素早い弾倉交換と感覚で弾数を数えているのは、円筒弾倉(ドラム・マガジン)を携行していないだけだ。連射をなるべく途切れさせないように弾倉を近くに置き、初弾を込める手間を省くために薬室に一発だけ残した状態で再装填する。

 ただ問題としては『One In All』の弾倉が心もとないという点だ。この調子で撃ち続けていれば、コートの裏、コルセット、スカート、太ももに巻いたポーチに隠した分まで使い切るのは遠くはない。割とすぐだ。

 だが『All In One』ではいささか威力不足なのが否めない。9ミリの拳銃弾で装甲を貫けるかどうかと問われれば、分の悪い賭けだとしか答えようがない。

 残りの弾倉は五つ。これで凌ぎ切らねばならない。理由付けて『Song For Fog』を持ってくればよかったと本気で後悔している。あの銃なら連中を真っ二つにできるというのに。それでも自動小銃を携えた機関兵士を二人始末できたのは僥倖だ。

 そして――45口径強装弾が三人目の眼窩から侵入し、脳髄を粉砕して後頭部から抜けていった。残りは三人だ。

 それと同時に今まで一発も撃ってない残りの三人が駆け出した。持っている銃は倒した三人と同じもののように見えたが、ところどころが違う。全体的に小ぶりで、口径は大きく銃身は薄い。そして弾倉は円筒弾倉だ。

 一斉にフレデリカのほうに向けた銃口からバラ弾がぶちまけられる。九発のOOバック・ショットは石畳の地面を粉砕し、破片はもうもうと立ち込めて視界をふさぐ。

「散弾銃……それも半自動式(セミ・オート)ッ!」

 半自動式の散弾銃というものは長年研究されていた。新大陸で発足したレミントン社が草案のようなものを作り上げたのを最後に、豊富な弾種を自在に作動させる機関部の考案に行き詰った。弾種に幅があるおかげで確実な作動を狙えるガス圧作動方式では、ガス量のまちまちな散弾で充分に機関部を回転させられないのである。

 反動利用方式も反動をしっかりと受け止める機構の制作に難航中だ。

 その背景を考えると自動小銃と変わらない外観で、しかも弾倉式を実現しているのは銃器技術者たちの悪戦苦闘ぶりを嘲笑っているようだが、そのからくりは直銃床の後ろ側にあった。腰に取り付けた長さ二〇センチ、直径五センチのタンクから延びるチューブが、銃床の後ろに取り付けられている。

「圧縮蒸気を送り込んで、ポンプ・アクションの代わりをさせるわけですか。作動の良さも納得です」

 皮肉が混じっているのは外部動力による確実な作動性を揶揄してか。仮に不発があっても無理やり薬莢は排出できるし、圧縮蒸気が途絶えない限り作動不良はほとんどない。

 この状況に対し、フレデリカは二挺に一つずつフル装填の弾倉を叩き込む。撃ってる途中で買えたから、初弾はすでに薬室の中だ。

「――行きます」

 今まで身を隠すのに使っていた煉瓦造りの花壇から身を躍らせた。

 地面を水平に飛びながら、二挺をフル・オートで撃ちまくる。

 すでにフレデリカの世界はゆっくりと回っている。撃鉄が弾丸の尻を叩く瞬間も、スライドの前後もよく見える。無論、飛んでいく弾丸が狙った位置へ飛んでいくのも。

 わき腹を地面に撃つ形で着地し、素早く身を隠す。大きなガーニーにほとんど前転するようだった。

 まだフレデリカは体勢を立て直せていない。散弾を何発か食らったのだ。ゴシック調のコートが防弾でなければ、もっとひどいことになっていたはずだ。衝撃による内へのダメージに脂汗を流す。そこを機関兵士は逃すわけもなく、次の弾丸を撃とうとして――できなかった。

 圧縮蒸気を収めたタンクとそこから延びるチューブはすでに用を為していない。化学素材の伸縮自在な供給チューブは、フレデリカの放った弾丸によって食い破られ、圧縮蒸気を漏らしてしまっていた。

 ――問題ない、いける。

 確信を持ち、深呼吸一つで態勢を整えると機関兵士の死体から自動小銃を奪う。

 そのまま転がりつつ撃ちまくった。三〇-〇六スプリング・フィールド弾と思しき弾丸の反動は、肩付けした銃床を中心にきつい衝撃を伝えていく。だが撃てないわけではない。ズシリとくる七キロ超もの小銃の重量は、反動抑制に一役買っていたのであった。

 そのまま足元を薙ぐように掃射。蒸気圧駆動のパワー・ピストンと天然の筋肉繊維に交じって、金属部品も粉砕されて弾け飛んだ。倒れ込んだ連中の目へ向けて『One In All』を発砲する。すべて眼球を撃ち抜き、頭蓋をかき回して脳漿と共に後頭部から抜ける。

「ヘンリエッタとサイファーさんは……」

 視線を向けた瞬間にサイファーの一閃が機関兵士を一刀のもとに両断した。その鉄と肉の混ざった断面は血に塗れていながら、瞬く間に血の滴が落ちていることから滑らかさが伺える。輝きにいたっては金属部などもはや鏡だ。技量の高さを示している。

 ヘンリエッタもグルカ・ナイフを一振りし、上半身と下半身に切り分けた。さらに断面からずれる前に首にも一閃し、無表情を保ったままの首が宙を舞った。

 残る一人にサイファーは超巨大リボルバー『Howler In The Moon』をぶっ放し、ヘンリエッタは眉間へスローイング・ダガーを投げ、フレデリカは自動小銃をフル・オートで撃ちまくる。

 機関兵士の身体は木っ端みじんになり、ダガーに刻まれた火炎のルーンにより灰すら残さず燃え尽きた。70口径もの巨弾を撃ち込まれた時点で身体は半壊し、そこに追い打ちをかけるように30口径もの大口径ライフル弾の連射を食らい、止めに魔術の火炎で燃やされたのだ。耐えられるわけがない。

「機関兵士を鉄砲玉に使うとは、ヤツら相当に僕らにおかんむりなのか……」

「それとも警戒しているがために消そうとしている」

「死人に口なしなら、手もありませんから」

「もう少しだけ、骨のある奴ならよかったな」

 そうぼやいた時だ。

 住宅街が揺れた。石畳の床に五メートル近い大きな亀裂が走った瞬間、サイファーとヘンリエッタがいるほうは隆起し、フレデリカのいる地面は沈降した。そのまま斜めに傾いていく大地にバランスを崩し、あっけないほどフレデリカの身は奈落の底へと落ちていく。

 ただ――最後にサイファーと目が合ったような気がした。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 亀裂に吸い込まれるように転がっていくフレデリカの姿を認めたサイファーは、総身の全力を以て駆け出した。だが問屋は卸さない。

 どこかに待機していたのか長剣を携えた機関騎士が躍り出た。

「邪魔だボケェ!」

 三メートルを優に超える半機の騎士が振るう長剣を抜刀すらせず、鉄拵えの鞘でいなして弾く。

 技術など欠片しかない一撃は、簡単に誘導されて刀身を地面に深々と突き刺す羽目になる。だが空いた腕のギミックを作動させ、多用途旋条榴弾砲を展開した。爆音とともに放たれたのはバック・ショット弾だ。口径五〇ミリもの砲身から五ミリもの大粒の弾丸を三〇発近くもばら撒くのだ。

「だぁから、邪魔すんなッ!」

 抜刀一閃。さらに高速による連続の振り抜きは空気の渦を作り上げ、散弾をことごとく吹き散らして叩き落す。

 だが――その時には。

 フレデリカの姿は奈落の闇に消えていった。

 亀裂の端でぴたりと足を止めた。抜いた野太刀も納めた。機関騎士は命令を遂行すべく、地面に食い込んだ長剣を引き抜いた。

 ゆっくりとサイファーは騎士たちのほうを見る。地面を蹴ると同時に翻ったコートの裾は、すでに漆黒に染まり切っていた。

 コートも野太刀も漆黒に染まっている。

 それだけに留まらず、溢れ出る“力”は渦を巻いた。生身では近づくことすらままならないほどの力場を形成し、その暴威を以て恐怖と支配を上書きする。彼は暴君であった、そして覇王でもあった。世をかき回して、打ち壊す存在。

 機関騎士のたった一つの生身たる大脳は悲鳴を上げた。しかし逃亡は許されない。戦闘補助のために搭載された小型の階差機関は肉体の操作権を剥奪し、あらかじめパンチ・カードでプリセットされた戦闘プログラムを実行する。足の底に装備された球体車輪を展開し、圧縮蒸気を噴射するスラスターでの加速。そこから最高速による長剣での接近戦を組み立てた。

 だが騎士が動くことはない。距離を全く詰めないまま放たれた抜刀術の一閃を、階差機関は認識できなかった。サイファーと騎士の距離は五メートル弱だが、その距離を飛び越えて幾重にも重なった輝線が重厚な鎧の装甲に走る。あおむけに倒れた瞬間、三メートルもの巨躯は数百に及ぶ破片に分断されてバラバラになった。

 その異常事態をもう一方の騎士が認識した時にはサイファーは距離を詰めるや、その肩に野太刀を持たぬ左手を乗せる。指先を乗せる程度の軽いものであったが、コンマ一秒もかからずに騎士は()に圧壊した。

 ふうぅ、と狂犬じみた息遣い一つして納刀した。ロング・コートはいつもの灰色に戻っている。

 だが落ち着いたようには見えない。その銀灰色の瞳にはいまだぎらついた輝きが宿ったままだ。

「あーキレそう」

「……こういう時こそ、冷静になるべきだと思うんだけど」

「ンなのわかってる、わかりきっている。だからこそ、だ」

 あくまでも冷静だ、と言い聞かせなければ自分が怒りに狂うのは確実な自信がサイファーにはあった。そんな自身なんて欲しくもない。

 ただ根拠はないが生きているような気がした。

 それだけを信じるほかない。

「これ、どうやって起こしたと思う?」

「私には想像もつかないね」

 サイファーが指さしたのはロンドンの住宅街を左右に割った亀裂。自然現象でしか為しえないものなのに、どこか人為的なものを感じたのだ。いや人ならざる、それ以上の存在かもしれない。でなければ、これだけのことを起こせるわけがない。

 二人をよそに周りに人が集まり出した。

 深々と空いた幅に対して深さが異様にある亀裂を覗き込む野次馬が次々とやってくるのだ。

 無論、転落の危険性を考えて警察が動き出した。幅も深さも相当だが長さ自体はあまりないので、亀裂は簡単に立ち入り禁止のロープで仕切られた。

 手早く野次馬を追い払う警察の中に見知った顔がいた。

「よう、ワイアット。お勤めご苦労様」

「サイファーにヘンリエッタ……フレデリカ嬢は?」

「あそこ」

 親指で亀裂を指した。

 悪党と間違えそうなくらい凶悪な顔が、これでもかと口を開けて間抜け面を晒している。

「……なんてことだッ」

「まぁ、生きているとは思うがね」

「ついに頭がおかしくなったか?」

「あいつに戦う術を仕込んだのは誰だと思っている。僕がわざわざ生き残るノウハウを一から手解きしてやったんだ。そう簡単に死ぬタマじゃない」

 サイファーの顔には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「流石にここまでやらなくても良かったかな」

 大英帝国を一望する蒸気時計(スチーム・クロック)ビック・ベンより、彼は大地に裂け目が生まれた瞬間を見届けていた。

 いざという時には部下の老人よりも、はるかに頼れる昔の恩師に協力を仰いだのは良いが、あそこまでやられては如何ともしがたい。あまりやり過ぎて、こっちに不利益が来るのは避けたい。とくにビッグ・ベンの地下だけは何としても守らねばならぬものが彼にはあるのだ。

「でも……サイファーじゃないのが残念だった。あの子は最後まで残しておこうと思ったのに」

 言葉の響きにも、表情にも、悲痛なものが混じっている。だが、そのすべてが薄っぺらい。迫真さというべきか、芯がないというべきか。心がこもっていないように感じられる。

 きっとヘンリエッタでもサイファーでも、言葉の内容は変わってもそれだけは変わらないはずだ。

 心を痛めたとしても、目的の達成に歓喜したとしても、あくまで表面的な感情の発露に過ぎない。それだけで終わりになるのだろう。

 まるでこの世に生きている感覚が薄いのだ。何もかもに表面的な関心を抱いているように見せかけているだけで、実際は何の関心も寄せていないように見える。彼の目はビック・ベンより確かに大英帝国を一望している――物理的にはそう見えるだけ。その心中は、精神は、何を見ているのか。

 ――この世界と、彼の世界は本当に同一なのか?

 その問いは悪魔の証明だ。彼の見る世界を見ることが叶わない限り、推測の領域を脱することはできない。だがいかなる手段をもってしても『他人が世界をどう見ているか』などわかるはずもないのだ。

 ――あえて方法を上げるのだとすれば。

「さぁ、もうすぐだよ。みんな幸せになれるんだ。老いも、若きも、男も、女も。分け隔てなく幸福を与えてあげるよ。そのために――――みんなが僕にならないとね」

 ただ一つの方法は彼自身になること、イコールの存在になることだけ。

 そして彼になってしまった時点で現実の世界との照らし合わせは叶わない。故に彼の狂気は立証できない。だから恐ろしい。完全なる理論を以て、根拠を突き付けて、狂気を知らせることができない。

 いくら他人が『狂っている』といっても主観的で、感覚的だ。きっと彼には届かない。

 だから彼は止まらない。止まるはずがないのだ。

 止められるとすれば、サイファー・アンダーソンだけ。

 

 


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