享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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蒸気伏魔都市マドネスプリンス
Flight~大英帝国へは空を渡り~


 アーカム中層、第十二区画。

 ついに本格的な冬が到来した。イギリス本土のほうは数式機関という次世代型のエネルギー機関よりも、旧来の蒸気機関を使用しているせいか、煤煙で煤けた灰色の雪が降る。数式機関はイギリス本土でも少ない。その陰には蒸気機関にまつわる既得権益を手放したくない企業連合の思惑や、ダフィット・N・ヒルベルトによってもたらされた数式機関にはいまだに原理不明の部分が存在するためだともいわれている。

 しかし、ここで向かい合う二人には関係のないことだ。今は。

 企業連合の都合も。

 数式機関の詳しい原理も。

 拳を平手に当てる形での合掌から一礼。それが大国『清』に伝わる功夫(カンフー)の例であることは、功夫を少しでも知っていればわかることだ。

 向かい合う二人の服装もどこか中華的な意匠を孕んでいる。

 背丈は一六一センチ、腰まで届くほどの金髪を動きやすいようにポニー・テールに結い上げている。漢服然とした道着は薄いのか、下着のラインが凝視すれば見えてしまう。動きにくいだろう、と思わずにはいられないほど豊満だ。

 もう一人は二メートルを超える鍛え上げられた肉体が、服越しにもわかるほどの偉丈夫だ。赤とも茶とも言えぬ橙色に近い髪色だが、功夫の構えは非常に様になっている。銀灰色の瞳は目の前にいる少女と言ってもいいほどの女に向けられている。

「さ、フレデリカ。どこからでも好きなように、打ち込んでこい」

 右手を前に差し出す構えのまま、手招きで挑発する。

「わかりました、サイファーさん。全力で行きますから」

 サイファーの横腹に中段蹴りが叩き込まれた。容赦のない速度と重さの両方を兼ね備えた鋭い一撃だ。それを食らっても身じろぎ一つせず、いつもの不敵な笑いを崩さない。

「これで仕舞いか?」

「まだまだですよ」

 そこから叩き込まれる掌底、手刀、正拳の嵐を、その繊細そうに見える身体から息つく間もなく繰り出していく。サイファーの受け方も見事なものだった。体格に差があるために、主に下段から中段に集中する打鍵に蹴りの数々を両腕の捌きと、歩法で見事に躱し切っている。

 その見事さは拳闘とは思えない。どこか舞踊にも似た、完全に息の合った美しさがある。

 フレデリカの回し蹴りをサイファーが右腕で受け、反撃の掌底を身を翻していなす。しなやかで肉付きの良い脚線美を描く足が鳩尾に入る。フレデリカの主力は蹴りだ。拳打ではどうしても劣ると考え、足技に重きを置いている。サイファーもそれは正解だと感じている。

 鳩尾に食い込んだ足に力を籠め、フレデリカの朱唇からほうと息が吐かれる。功夫の理合、勁という四〇〇〇年もの歴史が育んだ物理。肉体の持つ力を最大限に活用する体さばき。それをフレデリカの意識は、身体は、忠実に実行した。

 蹴り足を支点に力を込めて飛び、サイファーの肩を踏みつけ、顎を蹴り飛ばす。人間業とは思えない武芸だ。いくら体格差があるとはいえ、人間を階段でも上るように飛び、加えて攻撃まで叩き込む。だが己の身体を自在に動かす、という境地は功夫では基本だ。

 だからサイファーの反応も慣れたものだった。もんどりうって転げたように見えていながら、後転倒立の要領で飛び上がるように起き上がった。

「驚いたな。もう、あんなことまでできるようになったか」

「あなたに教わったんですよ」

「鼻が高いね」

 サイファーの拳打は鋭い。速さがなくとも異様なまでの重さというものがある。だから骨の髄までダメージが通り、外見の優位から予想される威力をはるかに上回る。はじめてフレデリカがまともに食らった時は、思わず今まで彼に殴られたりしてきた連中に同情した。

 あの見かけから予想すらできない素早い動きは、きっと功夫を修めたことによるものだったのだ。

 こうして手合わせして、ようやくフレデリカの気づいた事実だ。そのことを質問してみれば、サイファーからは正解の言葉が返ってきた。ありあまる力を単純にぶつけていたのではない。こうして技術を学び、最低限の労力で最大限の力を出せるようにしていたのだ。力が強すぎるから。あの縛り付ける鎧を展開せずとも、武装した人間の集団なら単身無手で壊滅できる。その力を御するためにも、功夫を学んだのかもしれない。

 しかし師匠というべき人間に頭を下げている姿が全然想像できなかった。何かでひと悶着あって、そこで見所があるとか言われて拾われていそう。そんなことを思ってしまったこともある。このことは本人に聞いてもむっつりするだけで、頑として話してくれない。

 拳打の暴威に交じって、フレデリカの意の虚を突く形で繰り出された足払い。ここで体格の差によるリーチの圧倒的なアドバンテージが顕現する。気づいた時には完全に空中で側転状態だった。そこを逃すはずがなく、乾坤一擲といってもいい掌底が来た。

 くの時になって吹っ飛ぶ。第三者の目があったら、巨人によって投げ飛ばされたと思うほどに、非現実的な飛び方をしている。

 壁に激突した。擂鉢状にへこんだ壁が、掌底の威力を物語っている。速度こそないが、サイファーの巨躯により生み出された全身運動のエネルギーは、功夫の発勁の理合に基づいてフレデリカの繊細な体に叩き込まれた。

 視界は暗転し、こみ上げるものを抑えきれない。

 サイファーが立ち上がらせてくれた。

「この一か月でここまで功夫に親しむとは……僕もちょっと驚きだ」

「ぅぇ…………でも、手加減なしなのはちょっと考え物ですね」

「自分で言い出したことだろうに」

「それを言ったらおしまいですよ」

「ま、まだまだ功夫が足らんということだ」

 先月のアーカム下層で起きたホーランドの一件。

 あれからフレデリカはもう一度己の戦闘技術というものを見直そうと決心した。射撃はもちろんのこと、接近戦にも視野を広げようとした。そこでサイファーから功夫を勧められた。曰く『自分の力を飼いならすなら、功夫の功徳を積め。僕が叩き込んでやる』ということで、ぜひとも教えを乞うことにした。

 清の武術は非常に独特な理論ではあったが、サイファーはそれをわかりやすく噛み砕いて説明して理解の門戸を開き、一定の理解を示したところで奥まった理合を叩き込む。覚える型と技はたくさんあったが、極端な話をいってしまえば基礎となる理合の考えが実践できているかが肝らしい。

 あとは先ほどのように時間を見つけては手合わせをする。一度も勝てたことはない。

「シャワー、浴びてきますね」

「ああ、レディ・ファーストだ」

 脱衣場で訓練のための道着を脱ぎ捨てた。下着も取り去って、シャワーの熱い滴を浴びる。

 手合わせの最中には気にならなくて、終わってから一気に臭ってきた汗の香りが薄れていく。自分でも花に着いた酸っぱいような臭いを、どういうわけかサイファーには嗅がせたくはなかった。だからシャワー・ルームに向かうペースも少し足早になってしまう。

 あの日以来から、どうもサイファーを意識してしまっている。額に与えられた感触とそこからくる昂ぶりは、今でも思い出せる。彼が何を思って、あのような行いをしたのか、まるでわからない。

 からかうつもりだったのか、スキンシップか。あるいは親愛の情を込めてのことか。

 そのどれもが、なんとなく違うような気がする。

 ――ダメ、頭がモヤモヤする。

 シャワーのコックをひねる。程よい温もりの温水は、心身を冷やす冷水に変わる。それでも回想によって生じた昂ぶりは、鏡に映る己のかんばせを朱に染めている。

 繊細でいて、豊満な体も視界に入る。きっと男好きのする身体だ、とフレデリカ自身も思わずにはいられない。ここ最近は鍛えていたせいか、余計な贅肉は腰回りから消え失せている。ちょっと前までは下着に少し肉が乗っていたが、今はそれもない。なのに、バストが全然変わっていないのは、本当に奇跡的というか作為的な何かさえ感じてしまう。

 これならオトせない男はいないはずだ。もしかしたら――と考えたところで、頭を振って中断した。

 まるで彼とそういう仲になりたい、と考えているようだった。それだけは思ってはいけないような気がして、言葉にすることはおろか思うことも封じ込めている。

「何やってるんだろ…………」

 長い溜息が混じる。

 下着をつけて、着込んだのは白いブラウスと深緑の膝丈スカートだ。裾には黒いレースで刺繍がしてあり、そこがワンポイントのおしゃれになっている。シンプルにして、華がある。

 リビングに戻ってみればサイファーは誰かと電話で話し込んでいる。あまり話したくない相手なのか、それとも苦手な相手なのか、眉間にしわが寄っている。

 電話を戻す時も、ほとんど叩き付けるようだった。

「サイファーさん、シャワーのほう空きましたよ」

「おう」

 返答が素っ気ない。やはり何かあったのだろう。

「そうだ、明後日からヘンリエッタもつれて長い仕事になりそうだから、連絡と支度をしておいてくれ。一週間分くらいの用意を、な」

「どこに行くんですか?」

「ロンドンだよ」

 シャワー・ルームに消えていく、曲の背中を呆然と見つめて。

「ロンドン!?」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 そして当日。

 集合場所はサイファーの自宅だ。とはいえフレデリカは居候しているようなものだから、ヘンリエッタを待つだけだ。

 アーカムは完全に冬景色だ。ホーランドの一件があったころは冷え始めていた時期だったから、それから一ヵ月もたてば冬になる。雪かきをするための蒸気圧式ロータリー・ガーニーが、魔物の牙のような円の子にも似た歯を回転させて、粉雪も塊の雪も等しく粉砕して融雪機関を積んだガーニーに放り込んでいく。

 厚手の膝丈トレンチ・コートを着たヘンリエッタは、かなり大きめのトランクを抱えてきた。

「予定より早いが……出発するか」

 サイファーは自分の荷物だけではなく、ヘンリエッタとフレデリカの荷物も自家用車のガーニーに積み込む。こういうところでは、割と紳士らしい振る舞いをしてくれる。結局は天邪鬼ともいえるからかい癖のようなもので、プラマイゼロになるのだが。

 ガーニーは冬道を難なく走る。冬道用のスパイク・タイヤの性能向上も大きいが、アーカム中層からはすべての道路に発熱機構(ロード・ヒーティング)が備わっている。アーカムというほとんど町と変わらない超大規模アーコロジーのインフラを維持する、方程式機関(ヒルベルト・メカニズム)の排熱だけで行っているらしい。

 フレデリカはこれだけの利便性がたった一つの数式機関によって賄われているとは。到底思えない。だがアーカム統治局はそのように正式発表している。近年の百科事典でアーカムの項目を読んだとしても、この事実はしっかりと記されている。

 ――方程式機関(ヒルベルト・メカニズム)。かの大碩学にして数式機関の生みの親が、自らの手で作り上げた特別な数式機関を指す単語だ。組み込まれている数式は常人の理解の外にあるといわれるほど精密で、一部では神秘数学さえ盛り込まれていると言われている。その実態を誰も知らないが故に、よく陰謀論の的になったり、怪奇雑誌の題材にされることもある。

 しかし、これから向かうロンドンはそういった技術の恩恵にはあやかっていない。いまだに蒸気機関が主流であり、数式機関は十もないそうだ。煤煙の汚れを取り除く触媒装置を化学が生み出したおかげで、空気はずっと綺麗になったらしい。だがテムズ川はいまだに黒く濁っている。

 目的地には三時間もかかった。

 アーカムの大地ではない。基盤となる島、ウルベスの地盤を削って掘った長大な道だ。写真でしか見たことない、一生の間にわたって縁も所縁もないと思っていた場所だ。

「飛行場……!」

「本当だ、生で見るのは初めてだ」

 驚きと好奇心に揺らぐ二人に、頭上から声がかかる。

「さて、まずはこいつを受け取るんだ」

 渡されたのは二枚の厚さ三ミリ、縦三センチ横六センチの薄い鉄板だ。表面には貫通しない程度の穴が大小様々に空いている。しかし、総数は二枚とも同じ五〇だ。

「これって……」

「数式カードか?」

 数式カード。それはパンチ・カードに変わる新たな情報記憶媒体ともいうべきものだ。表面に開けられた穴は大きさを三段階に分け、数は五〇で統一する。そして数式技術を以てより細やかな情報を書き込む。これを総合的な身分証明書として運用したものだ。

 これを持っているのは一部の上流階級や政治家、王族くらいなものだ。飛行場以上に縁も所縁もないと思っていた。

「あまり見せびらかすなよ」

「は……はいッ!」

「あ、ああ」

「よろしい。それじゃ手続きに必要だからな、その数式カードは」

 飛行場の受付がある建物に向かい、サイファーに案内されるまま必要事項を渡された書類に記入し、数式カードを読み取り装置に差し込んだ。

 ――きりり、かちり。

 ――きり、きり、かち、ん

 歯車の軋む音がして、それから一分で読み取りは終わった。ヘンリエッタも同じだ。

 サイファーはとっくに手続きを済ませたらしく、建物の外で待っていた。

「見ろ、僕たちはあれに乗るんだ」

 顎でしゃくるように指し示したのは、鋼鉄の鳥と言っていい代物。蒸気圧式旅客機(スチーム・エア・プレイン)が巨大な翼の端に取り付けられた推進機構から、とてつもない量の圧縮蒸気を噴射して、地上で旋回している。

 圧搾蒸気が視界をふさいでいたが、冬の冷風が吹き飛ばしてくれる。

 飛行場の係員が案内してくれた。蒸気圧式旅客機(スチーム・エア・プレイン)の内装はホテルの一室かと思うほどに豪華だ。革張りの椅子が四つ、おそらくリクライニングの機能がある肘掛付きのものだ。飲食もできるようにテーブルが付き、かなり便利そうだ。窓もついているから、飛行中は景色が拝めるかもしれない。

『それではお好きな席に着いて、安全ベルトをお締めください。飛行予定時間は五時間を予定しております』

 伝声管を通して聞こえる男の声。おそらくは操縦士のものであろう。

 フレデリカもヘンリエッタも、サイファーに教わりながら安全ベルトを締める。そして離陸の時を今か今かと、内心で歓喜と好奇心に震えながら待っている。

『それでは出発いたします』

 蒸気圧式旅客機(スチーム・エア・プレイン)はゆっくりと加速し始める。あの長い道は滑走路というらしく、離陸に必要な揚力を稼ぐためにあるとサイファーが教えてくれた。

 フレデリカもヘンリエッタもほとんど座席に押し付けられていた。加速はどんどん強まっているために強烈なGがかかっているために。だがサイファーはいたって平気そうだ。

 そしてついに離陸した。内臓が浮きああるような独特な感覚に、何の反応もできずに茫然としてしまっているのは、フレデリカもヘンリエッタも一緒だった。無論、サイファーは平気そうだ。それどころか高度が十分に上がったころに乗務員を読んで、スコッチ・ウィスキーを注文している有様だ。

 窓からの景色はすでに上空遥か高くから地上を見下ろす形になっている。高度はおそらく数百メートルを優に超えているはずだ。自分で拝むことはないと思っていたはるか上空からの景色、フレデリカはしばし見とれてしまった。

 フライト開始から二時間が経つころだ。

 サイファーはふと、フレデリカの座る座席を見た。何か妙だと感じた。

 ひどく生気というものが乏しいように感じられる。視線を向けてから一切の身動きをしていない。

「大丈夫か?」

 飛行状態は直線の安定飛行だ。だから立ち歩いても問題はない。

 フレデリカの顔の前まで来て、ぎょっとなった。死人と見紛うほどに白い。いや、元から色白なのだが、それ以上に輪をかけて白い。青白いと言ってよかった。

 かすれるような声を、フレデリカは絞り出した。

「…………きもちわるいです」

 しまった、とサイファーは出発前の自分をぶん殴りたくなった。どうせ空を飛ぶのは初めてだろうから、聞いても仕方ないだろう。そうタカを括っていたのが災いした。

 フレデリカは完全に空の旅に酔ってしまっている。

「空もダメだったのか……」

 ヘンリエッタの言葉はある予感を裏付ける。

「空“も”?」

「フレデリカは船酔いするタチなんだが……本格的に陸の乗り物にしか乗れないらしい」

「ふねより……きもちわるい」

 完全に口元を抑えて、蹲ってしまっている。

「ヘンリエッタ、ここは任せていいか?」

「手ぐらい握ってやったらいいだろうに」

「バカ言ってんじゃねえ。リバースするかしないかの瀬戸際だぞ。僕なんぞに見られようものなら、一生門の人生の汚点になる」

「ほんきで…………瀬戸際です」

 うぷ、とフレデリカが息を漏らす。乗務員がブリキの洗面器を持ってきてくれたおかげで、機内を汚す事態は避けられそうである。だがヘンリエッタは非難するような視線を向けてきているし、フレデリカの呼吸は弱々しい。

 フレデリカの右手をサイファーは両手で包み込んだ。

「フライトの残り時間を機長に聞いてくる。それにここの乗務員は一流だから、乗り物酔いくらいすぐにどうとでもなる。だから心配するな」

「……はい、ご迷惑おかけします」

「初めての空の旅が、こんなことになるとはな。すまなかったよ」

「いいんです……私も、何も言わなかったせいですし」

 それから宣言通りに操縦室のほうに向かい、基調にフライトの残り時間を聞いた。その途中でえづくような声が聞こえた気がしたが、気のせいだということにして聞いてないことにした。

 淑女にも、プライドがある。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 フライトは終わった。

 蒸気圧式旅客機(スチーム・エア・プレイン)はクロイドン飛行場に着陸し、完全に顔が土気色のフレデリカもヘンリエッタに肩を貸してもらって降りてきた。

「帰りは船旅のほうがいいかね?」

「そのほうがいいよ。これはちょっとヒドすぎる」

「それで、おねがいします」

 完全にフレデリカはグロッキーだ。異常なほど生気に乏しい。

 次に進もうとしたサイファーの鼻先に、散弾銃の銃口が突き付けられる。構えていたのは今までサイファーたちを乗せていた機を操縦していた機長だ。

「何の真似だ」

「申し訳ありませんが事情がございまして……死んでいただきます」

 散弾銃が発砲と同時に跳ね上がった。散弾は全弾まとめてサイファーの顔面を撃ち抜いたに違いない。

「サイファーさん!」

 さすがに目の前で起きた異常事態に、フレデリカも悲鳴を上げた。至近距離からの散弾の直撃、それも顔面となれば無事ではすむはずもない。散弾の硝煙はもうもうとサイファーの頭部を覆い尽くし、無残な惨状であろう場所をかろうじて隠していた。

 ころん、と間の抜けた音が響く。鉛の小粒が硬い地面に落ちた。

「おー痛いな、こりゃ。僕じゃなきゃ死んでるところだ。極地の灰色熊用の弾じゃねえか」

「二メートルはある熊でもバラバラに引き裂く銃だぞ!? なんで生きてやがる!?」

 機長としての体面はかなぐり捨てたのか。手に握る散弾銃の台先(フォア・エンド)を国金具しようとしたところを、サイファーに思い切り蹴飛ばされた。六メートルも吹っ飛んだ挙句、バウンドして三メートル、さらに2メートルも地面を転がった。

 サイファーの顔は無傷だった。一センチ大の鉛弾がわずかにめり込んでいる程度で、振り払えば一発も残さずに落ちる。

「おい、お前らのトコの機長は……後ろだ!」

 フレデリカとヘンリエッタのほうに振り返ったとき、サイファーは乗務員が短機関銃を構えているのを見たのだ。大声で呼びかけたのが幸いしてか、二人とも背後からの奇襲を避けることができた。

「こりゃ飛行場は敵だらけかもしれんぞ」

「遮蔽物が乏しい状況だ。私だって、ずっと走り続けられるわけじゃないよ」

「厳しいな…………フレデリカは動けるか」

「なんとか」

 無理矢理にでもはにかんだような表情で、いつもの二挺を握り込む。一応だが、フレデリカは乗り物酔いから回復したらしい。『全にして一(All In One)一にして全(One In All)』の名を関する二挺の魔銃は、変わらぬ輝きを放っている。

 飛行場の建物。おそらくは運航のための施設なのだろうが、三人はひとまずそこを目指すことにした。なんでもサイファーには電話すれば助けにきてくれる()()()()()()、そういう相手がいるらしい。なぜ『かもしれない』なのかは曰く『個人的な事情で嫌われているから、へそ曲げてきてくれないかもしれん』とのたまった。

 こういう一筋縄ではいかない知り合いというものが、サイファーの周辺には多い。やはり彼自身が一筋縄ではいかない男だからか、と思ってしまったことは胸の奥に厳重にしまっておくことにする。きっとむすっと怒ってしまうだろうから。

 建物には裏口から入った。思い切り扉を蹴破り、内部に銃口を向けた。来る途中で襲い掛かってきた男から奪ったウェブリー・リボルバーだ。こんなところで壁の二枚や三枚くらい余裕で撃ち抜く『Howler In The Moon』は威力が強すぎる。ウェブリー・リボルバーは四五口径なので威力に不足はない。

 中には誰もいない。しん、と静まりかえっている。サイファーは起こしたウェブリーの撃鉄をデコックする。

「今のうちに電話しちまうか」

 ダイヤル式の電話をかける。

「聞こえるか? 今飛行場で襲撃を受けている。情報でも洩れているのか?」

『ああ、私のほうでもそれを掴んだよ。全速力でそちらに向かっている』

「お、今日は事情が違うと見た。何だかんだごねそうなんだがなぁ」

『そうだな、今頃はスコーンをお供にティー・タイムを決め込もうと思っていたところだ』

「この野郎、死んでしまえ」

 叩き付けるように電話を切った。ある意味では叩き切ったと言えるのかもしれない。

 そのとき裏口から短機関銃を持った男たちが躍り出る。毎分七〇〇発近いフル・オート射撃で吐き出されたのは弱装の三八口径弾。装薬量が少ないだけあって、銃口の跳ね上がり(マズル・ジャンプ)は抑えられる。よって狙いは格段につけやすい。

 不意打ちに反応して部屋にある机やキャビネットを遮蔽物にできたのは、不幸中の幸いというべきか。それとも経験則故の行動というべきか。

 サイファーは巨体を器用に隠しつつ、盲撃ちでウェブリーを撃つ。隠れながら、銃だけ出しての発砲だというのに驚異的な命中率を発揮した。弾倉の六発のうち五発も命中する。二人ほど倒すことができた。とはいえ弾丸はそれっきりだった。ウェブリーは奪っても、替えの弾丸までは奪っていなかった。

 しかし、もっと有用なものが近くに転がってきたのを、サイファーが見逃すはずはない。

 さっきまで自分たちに向いていた脅威である短機関銃だ。木製で曲銃身のボディに、艶消しされた鈍色の銃身が生え出ている。たしかドイツあたりが開発したのをきっかけに、それが他国にも流れ、同じものを作ろうという流れになったものだ。特にロシア製のものは強力らしい。

 それが二挺、いまだ冷めやらぬ銃身の熱と立ち上る硝煙を色濃く残しながら、自分の近くに転がってきた。そうなれば拾わない手はない。

 飛び込むように前転し、二挺の銃把を掴んだ。前方にいる男たちは五人。まずは彼らに鉛弾を腹いっぱい食わせてやる。

 あっという間に五人は片付いた。しかし、ここで問題が起こる。短機関銃は弾切れを起こしたのだ。

 仕方なく、倒れた男たちからいただこうとしたとき、サイファーの後方――そこには二階へと通じる階段がある――から鬨の声がした。

 新手だ。人数は四人だが短機関銃ではなく、ブローニング自動小銃で武装している。ライフル弾を使うために弱装の拳銃弾では話にならない。

 すう、と息を吐き、激震が起きる。

 ――震脚。

 功夫における技は建物中に揺さぶりをかけ、地面にあるものは宙を舞う。

 短機関銃の弾倉も同じように。宙を回転しながら無軌道に飛ぶそれを、サイファーは器用に弾倉挿入口に銃本体を振り下ろすようにして叩き込んだ。一挺を小脇に抱え、もう一挺の装填レバーを引く。同じように脇に抱えていたほうも

 発射準備を整えた二挺を彼らのほうに向けたとき、サイファーの傍らにフレデリカが控える。

 増援の男たちは一発も撃たぬまま、フレデリカとサイファーから鉛弾の雨霰を食らった。正確無比なフレデリカの射撃は一見して乱雑に見えて、その実まったく標的を外していない。サイファーの短機関銃も相当な弾幕を展開し、逃げ場を奪い尽くす。

「メイザースのヤツは、まだ来ないのか」

 また拾った弾倉で再装填しながら、柄にもなくぼやく。

 その背後で断末魔が聞こえた。たった『がっ』というだけの短いもの。

「油断大敵だ」

「これだと、まだまだ来そうですね」

 眉間にナイフを一本突き立てた状態で、あおむけに倒れた男をフレデリカは一瞥した。手にはソード・オフした水平二連散弾銃。背後から狙おうという算段は、ヘンリエッタの手によって叶うことはなかったのである。

 そのときガーニーのエンジン音がした。停止した時に蒸気を排出する独特の音がするから、確実に蒸気機関を使っていると断言できる。

 建物の外に出てみれば、六人くらいは乗れそうなガーニーが止まっている。その前にサイファーたちを出迎えるように、一人の男が立っている。撫でつけた金髪、神経質にゆがめられた相貌、長身矮躯の男だ。エメラルド色の双眸で三人を睨み付けるように見ていながらも、深緑のスリー・ピースのスーツに濃紺のインバネス・コートという英国紳士の出で立ちにまとわりつくイメージは損なわれていないように感じさせる雰囲気を醸している。

「迎えに来てやったぞ」

「ありがとう。あと三分遅かったらハチの巣だった」

「そうなったら、お前の死体には穴一つ一つにスズメバチを突っ込んでやる」

「嫌われてるなぁ、僕は」

「見ない顔が一人増えたようだな」

 神経質そうな表情が少しだけ和らいだ。淑女の前では紳士であろうという心がけはあるらしい。

「紹介しよう」

 口を開いたのはサイファーだった。

「この男はマクレガー・メイザース。英国の切り札、魔術卿と言われる男だ」

 それを聞いてから、彼は恭しく一礼したのであった。

 

 

 


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