享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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お待たせしました。

7月最後の更新です。


想起、心の闇は弾け飛んで

 疑問も抵抗もなかった。できなかったというのが正確だ。

 では行きましょ、とキャサリンはフレデリカの手を引っ張って、乗ってきたガーニーに放り込んで、連れていかれた先は住宅街の一角。薄暗い中に冗談みたいなものが、見合うだけの異様な存在感を放っていた。

 家々を積み木にして、不恰好に積んだようなものが高さ十三メートル、幅三〇〇メートル、奥行一三〇メートル以上に亘って占拠している。よく見れば接している部分は完全に融合してしまっており、恐るべきことに水平だったりちょっと傾いていたりする家々は高さに関係なく明かりが灯っている。入り口と地表をつなぐのは、片っ端からツギハギにされた手すり付きの簡素な足場に階段、はしごが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

 図鑑で見た不規則網にそっくりだった。

 さらに住宅の塊を一区画にして、鉄筋とモルタル、ベニヤ板、段ボールとトタンとバラバラの材料の壁で隔てている。

 設計図などなく、当座で行き当たりばったりに築いていったのだろう。

おもちゃ箱住宅地(トイボックス・レジデンシャル)よ」

「どうやってこんなものが……」

「下層永遠の謎よ。子供が無遠慮におもちゃ箱に突っ込んだように家々が連なっているけど、逆さになっている家でも繋いでもいない水道管に蒸気供給管からは、普通に水道や蒸気が出てくるの。料金を払わなくていいから、浮浪者とか根無し草連中が住んでいたりするのよ。おまけに倒壊したことは一切ないし、前にアーカムを襲った地震でもここだけは全く被害がなかったのよ」

「……縮図だ」

 思わず口を突いて出た。

 近所づきあいが健全に行われている区画もあれば、やたら口うるさく言い争っている区画もある。対面良くつくろっているように見えて、自分の家の前で隣人の文句を聞く相手もいないのに吐き捨てている男がいた。宅配便の若い男を、熟れた体を持て余した女が自宅に誘い込んでいる。子供を甘やかす親とひっぱたく親が、区画を隔てる薄い壁を挟んで存在している。

 人間というもの、彼らの立つ世界、その縮図のように感じられた。

 それを見たからこそ、人が生きる理由の一つを垣間見た。これほどの多様性があるからこそ、人は自分の求める何かのために生きていられるのかもしれない。

 貧しき者は富を。

 富める者は新たなる生きがいを。

 周りに不満を抱く者は、新たなる場所を求めるか、去るか。

 周りに満足する者は、素晴らしさを伝えるか、胡坐をかくか。

 足りないもの、求めるものがあるから、それを手に入れられぬまま人は死ねないのだろうか。だからすべてに絶望した時、人は死を選ぶのだろうか。

 フレデリカも大学時代、乱暴された時には世界の全てを呪い、何も出来ぬ自分に歯噛みした。ひどく痛めつけられたが、純潔を奪われることはなかった。だが『なぜ自分だったのか』という思いは常について回って、ごく一部の人間を除くすべてに不信を抱くようになった。

 あのとき、なぜサイファーを匿ったのか。それも標的になった時と同じような、どうにもならない運命のいたずらなのだろうか。でも、それがきっかけで不信は解消されて、サイファー・アンダーソンという男は日常に組み込まれつつあった。

 それも人生の酸いと甘さなのだろう。ただ楽しむには、フレデリカは若すぎた。

「小さな世界ですね、ここは」

「そうなるとアーカムはおもちゃ箱を入れる大きなおもちゃ箱になっちゃうわね」

 もしかしたら地動説により明らかになった星と宇宙も、()()()()()()()からはおもちゃ箱に見えるのだろうか。そして、()()からはおもちゃ箱の営みなど、本当におもちゃでしかないのだろう。

「さて、私の仕事場に行きましょう」

 そこからいくつもの階段とはしごを上っただろうか。

 こじんまりとした一階建ての一軒に案内された。

 中は完全に理髪店のそれだった。蒸気駆動式が主流のバーバーポールがないこと以外は、どこから見ても理髪店か美容院にしか見えない。

「ささ、座ってちょうだい」

「うわわっ!」

 口調は促すように聞こえたが、半ば強制的に椅子に座らされた。

 髪が付きにくいように滑らかな化学処理のされた布が首を一周し、そこから下を覆い隠す。完全に理髪を行うためのスタイルに移行した。

 ちょっとだけ戸惑った。

 髪型にこだわりはなかったものの、切るタイミングは自分で決めたかった。たとえば、いつ来るかわからない失恋の日とか、あまりにも伸びすぎたときとか。今、フレデリカの煌めく黄金の髪は腰を越えようとしている。

「綺麗な髪ね。普段から特別な手入れとかはしていないんでしょう? ホント、羨ましくなっちゃうわ」

「わかるんですか?」

「その道の専門だからよ。髪を洗う石けんも、香油も、寝るときのスタイルだって、なんでもわかっちゃうのよ。髪を我が子のように扱っていたり、人前に出る仕事をする人のは本当にきれい。でも、あなたの髪は今までの中で特別よ。羨まれるのも超えて、恨まれたんじゃない?」

「そう……ですね。じゃなかったらレイプ同然の乱暴はされなかったと思います」

「…………つらい経験をしたのね。きっと私だったら一晩泣けば、きっと明日から平気でいられるけど、きっとあなたは耐えられないわよね。好きでもない男に大事なものを踏みにじられるのは」

「それじゃない、それじゃないんです。顔を殴られたのも、胸やお腹に吸い付かれたのも、そんなにショックじゃなかった。きっと犯されたって、そうやってやり過ごせていたはずでした」

 キャサリンは髪を梳かす櫛を持つ手を止めた。

「――なんで、私だったのかって。それだけが、ずっと引っかかって」

「あなた――」

「普通に――普通に過ごしていただけなんです……なのに、あの人たちはことあるごとに私を呼び出して、殴りつけて乱暴してッ。何も――何もしていないのにッ!」

 激情が(しずく)となって黄金の双眸から一すじ溢れ、そこからとめどなく流れていく。両手で涙をぬぐい、その気になれば老若男女を問わずに喝采を浴びるであろう美しくもあどけない顔はくしゃくしゃになる。

 いまだにフレデリカの心には亀裂がある。

 世の理不尽にか細くも濃厚な怨嗟を吐き続ける、漆黒の闇を抱いた亀裂が!

 だから銃把を握れる。引き金を引くことを躊躇わない。脳漿をぶちまけることに、抵抗はなかった。もし止まってしまうようなことがあれば、自分の身は世界という獣が持つ、理不尽という名の太くも鋭い毒牙で貫かれて引き裂かれる。

 ――私に手を出す下劣な奴らは

 ――全員

 初めて人を殺めたあの日から、フレデリカの心は知らぬ間に軋んでいた。

 およそ本人とて気付いてはいない。それが共通事項だ。人は誰もが「自分は大丈夫」という根拠のない自信をもとに、我が身を切り裂くに等しい誤診を重ね続ける。

 皮肉にも、そうしてしまったのは戦う術を教え、過ちに悲鳴を上げる心を支えたサイファーだった。支える人間がいたために、心が追った傷は遅効性の毒に早変わりした。

「……信じられる人はいるの?」

「そう……ですね。ヘンリエッタにバベッジ教授に、それとサイファーさん」

「あら以外。あなたが一番嫌悪しそうなタイプじゃない? あんなとても大きくて、キザなくせして肝心なとこで踏み込んでこない男なんて」

 それにクスリと微笑みながら、

「私がすがっても、彼くらい大きければちゃんと受け止めてくれます。それに付かず離れずくらいが、今は最適な気がします。それに……サイファーさんは口でからかっておいて、肝心なところだとしっかり優しくしてくれる人ですよ?」

 花もほころぶような笑みに変えて、ふわりと笑って言ったのだ。

 思わず姿見に映ったフレデリカにぼーっと見惚れて、それから一分も経過してしまった。

「ホント、サイファーにはもったいないわ」

「あの……まだそういう関係じゃないので」

「いつか、そういう関係になれたらいいな。というくらいの願望はあるんじゃないの?」

「うう…………背中を任せてもらえるだけで、私は充分です」

 ほんのりと顔を赤らめて、もじもじしながら俯いた。

「でもサイファーは関係の発展を望んでるかも。たぶん背中を預け合うくらいじゃ、まったく足りないくらいに」

「私がそこに収まっていいのでしょうか」

 ここでキャサリンは勘づいた。

 フレデリカの自己評価の低さに。その類まれなる、輝くほどの美貌を持っているのなら自惚れていたり、自信過剰になっている節がある。なのに彼女には全く存在しない。むしろ自分の顔の価値など感じていないようだった。

 極論で言ってしまえば見た目の良さなど記号でしかない。

 だから強姦まがいの乱暴を働かれた原因になった美貌など疎ましいのだろう。それこそ運命の理不尽を呪い、気づかぬうちに己の心を黒く染め上げるほどに。

 その清楚で清らかな美貌の下に、地獄の業火を燃やし、無明の闇を抱えて。

「もっと自信を持ったら? きっとウジウジしている()は好きじゃないわ」

「別に……好きというわけじゃ」

「じゃあ嫌い?」

「嫌いだったら一緒にいません!」

「それが答えよ」

 今までフレデリカの髪を梳いていた手を止め、理髪椅子に座るフレデリカの前に立っていた。

 完全に鮮やかなネイルで彩った人差し指。びしりと突きつけられて。

「少なくとも、一緒にいていいくらいに、彼のことをあなたは想っているのよ」

 決定的なまでに事実を叩きつけられ、視界がぐらついたような錯覚を感じた。

 それだけキャサリンの言葉は的を得ていた。

 最初は恋慕――――違う。

 次は依存で――――違う。

 たぶん一番はっきりしているのは、ただ一緒にいたいという気持ち。

 大きくて、背の高い。強くて頼りになる、天邪鬼だけど優しい彼と一緒にいたいというシンプルな想い。硝煙と葉巻の香りを灰色のコートから漂わせ、煮え切っていない半茹での彼では釣り合わないような気もするが。美女と野獣、という人はいるかもしれない。

「いっそのこと立派なコレでも使って誘惑しちゃえばいいのに」

あっという間だった。キャサリンの手が下腹部を回って、そのままオーバー九〇の爆乳を鷲掴みにする。

 むにゅう。そんな音が聞こえそうなくらい柔らかく、それを感じさせるほどに形を変える。

「ひやあっ!?」

「うわっ、すごくおっきい。なんでウェストがこんなに細いくせして、胸がこんなにおっきいのよ。何食べたらこうなるの」

「い、いいいきなり触らないでっ!」

「触るなっていう方が聞けないくらいの揉み心地。プロポーションは素晴らしいわね。ヒップも理想値に近いし、他は基準を超える細さと大きさ。コーディネイトが楽しくなってきちゃうわ」

 そこから瞬く間に髪を整え、案内された衣裳部屋の服に着替えさせられる。さらに下着まで替えられた。

 恥ずかしさどころかキャサリン曰く『胸囲に合わない小さいブラなんて使うんじゃないの』とお小言まで貰ってしまい、もう少し衣服やおしゃれに気を遣おうと思ったのであった。ただ、そのせいで見た目の大きさが大きくなったが。

 鏡を見て、思わず目を見張った。

 髪は耳の上でリボンを使って二つに結んでいる。リボンとフリルでいっぱいのピンクや水色のパステルカラーで彩られた少女趣味前回のロリータドレスは、フレデリカのあどけなくとも美しい顔立ちに違和感なく溶け込んで、さらに肢体を華やかに包む。白いストッキングはガーターで留め、愛用の編み上げブーツも合うものと替えられた。

 ここまでリボンとフリルでいっぱいだとプレゼント・ボックスになったような錯覚を感じる。そうなると箱の中身は一糸まとわぬ自分の裸身になってしまう。それを誰に送ろうか――と考えたところで赤面した。

 ――そこで、なんで、サイファーさんが出てくるの!?

 ――違う、違う、断じて違うの!

 ――キャサリンさんと、そういう話をしたせい!

 ――そう、だから、絶対に違うんだってば!

 一気に耳まで赤くなって、頭をふりふり。何事かと思ったキャサリンも何を考えたのかわかってしまったらしい。真っ赤なルージュの唇が三日月に変わってつり上がった。

「サイファーに見てほしいの?」

「そ、そそそ……そんなわけありません! 見てほしいなんて、欠片も思ってませんから!」

「そりゃ寂しいな。まぁ、僕の感想だけどさ、そのロリータな服は似合ってるし可愛いと思うけど?」

 いつの間にか家の入口にサイファーが立っていた。

 灰色をしたロング丈のダスターコートに同じ色のテンガロンハット。ジーンズの上から白いシャップスを付けたガンマンの出で立ちで、扉に背中を預けて立っていた。その銀灰色の目はフリルとリボンとパステルカラーに彩られたフレデリカを審美するように、ブーツから二つ結びにされたプラチナブロンドよりは色の濃い金髪までを眺めまわしていた。

 そこまで期待と歓喜に満ちた視線を浴びせられると、さっきのプレゼント・ボックスの感覚がよみがえってくる。しかも、目の前に中身をあげる相手を考えたとき、なぜか出てきた男がいるのだ。

「やっぱりいい仕事するが……こんな服装で大丈夫なのか?」

「まったく問題ないわ。アルバニアンの取引相手は二〇歳のロリータ趣味愛好家。自分の顔も重大に成形したっていうくらいの熱意ある女。フレデリカちゃんにはうってつけじゃない?」

「ちがいない。写真があったら十枚は買ってる。それだけ似合ってる」

「デリンジャーに相談して、フレデリカちゃんの写真の販売をシノギにしてもらおうかしら」

「何言ってんだコラぶち殺すぞ」

「あらあら怖い怖い」

 サイファーはマジだ。本気(マジ)だった。質量さえ感じるほどの凄味を放っている。ノミの心臓ならショックで停止どころか、爆発四散さえあり得るんじゃないかと思うくらいに。

 サイファーもフレデリカのことでは割と感情をあらわにする。いつもは不敵でシニカルな笑みを浮かべて、煙に巻くように人をからかったりするというのに。

 見た目を疎ましがっているから、普段から見た目を褒めることはない。こうやって衣替えとかをすると感想をくれたりする程度で、いつもは作ったご飯やおやつをべた褒めしてくれる。ただ美味しい手料理というものに巡り合ったことがないか、恐ろしく稀なことだっただけかもしれないが。

「似合って……ますか」

「あんまり嬉しくないか?」

「見た目とか服が似合ってるかを褒められるより、丹精込めて作ったご飯を美味しくいただいてもらったほうが嬉しいです」

「いや、それは今更過ぎる気がしてな。フレデリカのご飯はいっつも旨いからな」

「あなたたち、本当はデキてるんでしょ?」

「違う」

 次にカレーを作る時はわざと焦がしてみよう。

 少しぐらいは意外なリアクションが得られるかもしれない。日頃から自分をからかっているのだから、これくらいの意趣返しをやっても罰は当たらないだろう。こっちも今更過ぎるが、思えばサイファーの胃袋はすでに掴んでいる。

「マズい料理を作れないのか?」

「う、うーん」

 すごく返答に困る質問だ。

 何しろフレデリカは普通に調理してるだけだ。ただ技術を教えられたのは料理人の祖父だったせいで、腕によりをかければフルコースだって普通に作れる。要はマズい料理になってしまう原因をことごとく回避するという、料理人の英才教育を叩きこまれたせいなのだ。

 料理というものはキッチンという名の研究室で生まれる科学であり、レシピに記された分量は最適な化学反応(旨味)を起こすための黄金比だとフレデリカは認識している。それをないがしろにするような行いは教え込まれた教訓と経験が自動的に忌避する。

「マズい料理って、わからないんですよ。祖父の料理はいつだって美味しかったですし、ヘンリエッタも元から人並みには作れたので」

「世界中の料理できない人間を敵に回す発言だぞ」

「そりゃ目玉焼き(サニー・サイド)も作れない人間の言うことだから、ずいぶんと説得力があるわね」

「しかたねえだろ。フライパンから皿に移そうと思ったら、こびりついて取れねえんだ」

 あまりのことに内心まさかと思いながら、確認で聞いてみることにした。

「フライパンに油引いてます?」

「それって引くモンなのか?」

 思わず「信じられない!」と叫び出しそうになった。これはもう料理が出来なくて『ひどい』というより才能と思えるくらい『すごい』ものじゃないだろうか。今ではフレデリカが家事全般をやっているが、サイファーも掃除をすることがある。

 ただ蓄蒸気圧式の掃除機を床一面にサッとかけて、はたきで高所の埃を大雑把に落とし、ササッと雑巾で水拭きするくらいだ。本腰据えてやっているのは仕事着の手入れで、特にロングコートは大事にしている。今まで面倒な部分は人を雇って外注していたのだろう。つくづく贅沢だと思う。

「自炊って……」

「する暇もないような生活してた。結構前から落ち着いてきてからはメシに呼ばれたり、適当な場所で外食したりする」

「……わかりました」

 フレデリカは決心した。

 自分がサイファーの下にいる限り、キッチンは自分のテリトリーにしようと。よほどのことがない限りサイファーがキッチンに立つことはないと思うが、料理のイロハもさしすせそも理解していないような人間が包丁を振るうなどキツいジョークだ。

「呆れられちゃったみたいね」

「僕はなんか変なことでも言ったか?」

「フレデリカちゃんの中では、信じられないくらい非常識極まりないことね」

「料理と女は難しい」

 すごくしかめっ面だった。

 思わず吹き出しそうになる。それはそれでさらにしかめっ面になりそうだし、下手をすれば怒り出しかねない。戦いを生業にする者の悲しい(サガ)で、怒りの沸点は人並よりぐっと低いのだ。

 それでも、ここに来た本題は忘れてはいなかった。

「準備はできてるみたいだな。それじゃデリンジャーと僕の作戦を教えてやる」

 

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 酒場『Catherine Tramell』はアーカム下層の駅。そこからキロ単位で離れた場所にある。

 足を組んだ女の形をしたネオンサインが目印だ。隣はダイナーで扉を一つを挟んで隣同士で、二つの店の店主は夫婦だった。旦那は酒場を切り盛りし、妻はダイナーで腕を振るう。

 そこにパステルピンクの日傘がやってきた。日傘を握る反対の手はトランクを提げている。

 取引相手になりすましたフレデリカの所作は、つんと澄ましながら周囲の警戒を怠ってはいない。取引相手の癖や特徴は周知しているし、加えてアルバニアンとは初対面という話だ。ならばバレる心配というものは杞憂になる。

 酒場の店主に今の自分の名前である取引相手をの名を言えば、そのまま二階の客室に通してくれた。

 安っぽくなり過ぎない簡素な扉を通った先にアルバニアンの売人がいた。

 品性の卑しそうな禿頭の上に、脂肪太りで背はやっと一六〇センチあるという、まるで球体のような男だった。下着一枚の上から毛皮のガウンを羽織り、両脇に肉感的な下着の女を侍らせて、その太腿に舌を這わせている。嬌声を聞いてしまい、心の底から帰りたくなった。

「待ってたぜ。そんなわかりやすい格好でありがたいねえ」

 座りな、と言って目の前の一人掛けを指さした。

 腰を下ろした瞬間に売人は包みを投げて寄越した。

「依頼人がどんな別嬪でも、仕事では手渡ししねえのが俺の流儀だ」

「触れただけで人を殺せる世の中ですから、仕方ないことですよ」

 フレデリカの言ったことは真実だ。

 下層の科学技術が生み出した人皮程度の厚さで手に隙間なくフィットし、触れた箇所の皮膚から部位を問わずに五分で死に至らしめる狂気の暗器がある。

 目の前の売人のように初対面の相手との接触をなるべく少なくするのは、ここで長生きする秘訣と言えた。

「最近になって出回ってる新薬だ。ほんの数ミリグラムでも一気にトべる」

「誰が作ったんでしょうね?」

「教える義務はないぜ。薬をやり取りする以上のことはしない主義だ。知らないわけじゃないが、仕入れルートは独占したいんでね」

「本当はわかっていないだけでは?」

「それは俺の主義に反する。自分でもわからないものを売るなんて、阿漕な真似は出来ねえ。吸ったことはないが、花屋をやってるやつにお試しで進めたら、えらく気に入ってくれたよ」

「その人の名前、ベンジャミンと言いませんでしたか?」

「あー…………そうだ、確かそんな名前だった」

 間違いなくこの売人は薬の情報を知っている。

 服用したものを別の存在に作り変える、そんな狂気の薬物がいかにして生まれたのか。出回ってしまえば、アーカム全体のバランスを作り変えてしまう。ワイアット・アープはそれを危惧した。ジョン・デリンジャーはそれを望まない。

 そしてサイファーとフレデリカは託された。

 だから余計に緊張する。ここでの結果が今後に大きく関わってくる。

「そういえば」

 売人の視線が舐め回すものに変わった。

 フレデリカの足先から、ロリータドレスでも隠し切れない胸元まで、隅々まで視線が舐め回す。売人はフレデリカを視姦している。嫌悪感に飛び出しそうになるのを必死にこらえていたが、売人はそれをお見通ししているかのように愉しみを味わう。

「薬をやってからハメれば相当なものらしいが、アンタはやったことあるか?」

「……答える必要は?」

「ははっ、やっぱりアイツの言ったとおりだった」

 指を鳴らすと同時に、短機関銃を携えた男たちが雪崩れ込んできた。

 人数は十二人。それほど大きくない部屋は男たちと殺気によっていっぱいになり、フレデリカは針の筵と化した。

「アンタとは確かに初対面だが、中層の方まで行ってフリーの娼婦をやってるらしいな。だが、さっきから未経験としか思えない反応なんだよ。こうなったら本物か偽物かなんてどうでもいい。俺とこいつらで飽きるまで輪姦(まわ)してやるだけだ」

 その言葉が何かをプツンと弾けさせる。

 トランクに素早く手を伸ばすと、留め金に偽装したピンを引き抜いた。

 それを売人めがけて放る。安全装置を兼ねた取っ手が、新館を抑えるバネの力で弾け飛んだ時、札束と同時に爆炎と熱波が襲い掛かる。

 売人と自分を挟んでいたテーブルを蹴飛ばすと、飛び上がるように立つ。そのままドレスのスカートにある隠しスナップを解放する。スカートを膨らませていたパニエがいくつか外れ、スカート本体には腰までのスリットができる。そこに両手を突っ込む。

 二挺が握られていた。『全にして一、一にして全』を冠する魔銃が。

 振り返りざまに『All In One』をフルオートで薙ぎ払う。四人が一気に打ち倒された。

 いつもと何かが違う。殺気に何かムラというか、強弱があるように感じられた。背後の殺気が灼け付くほどに強まった時、銃声が響く。

 右頬を銃弾が掠っていくのがわかる。口径は九ミリ。フレデリカの視界は戦場によって与えられた回転運動をしながら飛翔する弾丸を、ハッキリと捉えていた。

 また殺気が灼け付く。毎分六五〇発もの連続した発砲音が途切れ途切れに聞こえてきた。遅れてきたのは()()()の弾丸。五感は今や物理法則を凌駕した未知の領域にいる。普通の人間より傷の治りが早かったり、エネルギー質の何かを使って戦ったことはあるが今回は常軌を逸し過ぎている。

 黄金の双眸が告げる。

 

 ――複数の銃撃に対する対応として、固有時間を基底時間から上位時間へシフト。

 

 やはり瞳の仕業だった。

 視界いっぱいに広がる鉛の礫をしばらく見つめていたが、意を決したように双銃を持ち上げた。

 大きなマズルフラッシュが目を焼く。放たれた弾丸は()()へと向かっていき、互いの運動エネルギーによってへしゃげあって潰れる。引き金を引く度に弾丸に弾丸を当てて打ち落とすという絶技を披露する。遅延された時間の中であってもフレデリカだけは十全に動けるという優位性の成せる技だった。

 二挺を余裕をもってリロードし、今度は攻撃に移る。

 目を付けたのは天井に吊り上げられた、部屋の質素さには不釣り合いなくらい大きなシャンデリア。

 あろうことか、そこへとめがけて跳躍し、足を引っ掛けてぶら下がる。

 そのままシャンデリアごと回りながら、二挺をフルオートで撃ちまくっていく。リロードの際に装填したのは四〇連円筒弾倉(ドラム・マガジン)だった。連射は途切れることなく、部屋中に弾丸をまき散らすまで止まりはしなかった。

 シャンデリアから飛び降りた時、役目を終えた弾倉も銃から解放された。

「あの女を殺せ! ぶち殺せ!」

 売人に冷静な思考はなかった。

 捕え、いたぶり、凌辱の限りを尽くそうと画策した余裕も消え失せている。思考を支配するのは生存奉納だけで、部下はそのための肉の壁に過ぎなかった。だから、彼は銅鑼声で雇い入れた部下を呼び出す。

 だが下層基準の四五口径の重量高速弾も無力だった。

 遅延された世界の中、精確に放たれた迎撃の弾丸が当たるものだけを撃ち落していく。それだけに留まらず、フレデリカは浴びせられる殺気から安全な範囲を読み取り、無意識のうちに陣取りを変えていく。

 傍目には身を翻しての移動をしながら応戦しているように見える。しかしフレデリカには世界はゆっくりと回っていき、銃口と殺気の感触から最適な位置取りに移動と同時の迎撃を行っている。多くの修羅場を潜り抜けた荒事屋でも真似できない芸当だ。

 今、部屋の出口には三人の男が円筒弾倉を装備した短機関銃で掃射を行っている。

 その弾幕を凌いでいるわけだが、らちが明かないと判断。一息に床を蹴って――

 ――距離を“奪う”のだ

 弾丸の軌道を瞬時に読み取り、上位時間という最大のアドバンテージを活かして最適の縮地ルートを導き出す。あとはそこを通って距離を詰める。まずは両手を交差させてのクロスファイアで二人。反動を乗せた銃身の打撃で顎を打ち抜き、崩れ落ちる瞬間を見計らって頭蓋を吹っ飛ばす。

 飛び散った脳漿と血肉、頭蓋の内を晒した死体などどうでもいい。

 這いずり回って逃げ惑う売人しか眼中にない。

 ――あんな男。

 ――ゲスな男。

 ――私に手を出すなら。

 遅延した時間の中で売人は滑稽なほどのろまで、憐れみももったいないほどに無力だった。

 自分がどんな顔をして売人を追い詰めているかなどどうでもいい。

 邪魔をする部下を機械的に二挺で葬り、追い立てるようにギリギリの位置に発砲してやる。

 転がりながら、涙も涎も垂れ流しにするボールそっくりの男は笑いさえ誘うようだった。

 ――ざまあみろ。

 ――いい気味だ。

 ――私に手を出すなら。

「――――殺してやる」

 一気に弾ける。激情が、しがらみが、闇に飲まれて一気に迸る。銃弾はそれを一身に受け、炸薬で飛び出す。

 売人の右手首から先が吹っ飛んだ。きれいさっぱり。断面は鮮やかなピンク色だったが、いささか白が濃いような気がしてならない。

 第二射。今度は左ひざ。内に炸薬でも仕込んであったように、ぼっと音を立てて弾け飛んだ。頬の生温かな感触は飛んできた肉片。摘まんでポイと捨てた。

 第三射と四射は同時。右ひざと左ひじが血飛沫を噴いた。

 真っ赤な血だまりの中で呻き、身をよじって苦しむ売人をいかなる顔で見つめていたか。些細なことだと断じて、一度おろした銃口を持ち上げる。

 銃声。銃声。銃声。

 撃って、撃って、撃ちまくる。弾丸は外さない。確実に一弾一弾当てていく。

 ――ゲスめ。

 ――クズめ。

 ようやく自分が笑い出していたことに気付いた。

 だが引き金を引く指は止められない。

 ――殺してやる。

 ――(ころ)してやる。

 ――(コろ)してやる。

 ――(コロ)してやる。

 ――コロシテヤル。

「やめておけ」

 弾切れの銃を延々と撃ち続けていたところを止められた。

 振り向けば目に入る灰色の外套、大きな身体、銀灰色の瞳と橙の髪。大きな手が銃把を握る手を優しく包み込んで、険しい顔をして立っていた。

「手がかりを潰す気か」

 押し退けるように売人に近寄ると、瀕死の身体を掴み上げる。

「ひぃっ、サイファー・アンダーソンがなぜここにッ!?」

「そんなことはどうでもいい。誰に僕とデリンジャーの罠を聞いたこともな。ただばら撒いてる薬の出所はキリキリ吐いてもらうぞ」

 闇が濃くなっていく。

 すべての活力が押さえつけられ、失われていくと錯覚するほどの威圧感が空間を満たす。それは間違い用もなくサイファーから放たれているのだ。コートの黒が濃くなったような気がした。

「第五区画のイカレた学者から買ってんだよッ! いくらでもいいから卸売してくれねえか、ってなッ! ほーランドって名前だったよッ!」

「そうかい」

 こめかみに破壊の化身が突き付けられたのを、売人は果たして感じていたのか。

 七〇口径もの巨弾が肩に至るまで破壊効果を存分に発揮した。肩から上は数ミリ程度の肉片をまき散らし、冗談じみた量の血飛沫が一面に飛び散った。

「悪いが」

 フレデリカのほうをふり返って、

「フレデリカに向かって輪姦(まわ)してやる、なんてのたまったことにブチ切れたのは、本人だけじゃなくて僕も同じさ」

「あ、あの……」

「無事でよかった」

 そっと抱きしめられたことを理解するのに時間がかかった。やはり大きな彼の腕の中は不安も何もかもを、潰して、砕いていくようで、フレデリカにとってとても暖かだった。

「すいません、私あともう少しで……」

「いや、僕もお前さんを買いかぶりすぎていたからね。そのツケがまわってきたのさ。次はどんな時でも研いだばかりのナイフのように澄まして冷静でいることをオススメしよう」

「…………はい」

 腕の中なのに、暖かなものの内にいるのに、気分はずんと沈む。

 暴走した自分を恥じている?

 手がかりを台無しにするところだった自分を情けなく思っている?

 ――違う。

 気づいたのだ。あの時の自分がどんな顔をしていたのかを。

 ――泣きながら笑っていた。

 そして売人を嬲り抜いた。追い詰めるために手足から撃ち抜いて、芋虫も同然になったところを死にづらい個所から撃ち抜いていく。喉を潰すほどの、聞くに堪えない悲鳴を聞きながら、芽生えたばかりの嗜虐心にまかせて引き金を引く。とうに弾倉は空だというのに。

 ――そうか。

 ――あんな怪物を自分の内に飼っていたことを、恐れていたんだ。

 自分の身体が人間離れして、怪物じみている自覚はある。

 けれども本当の怪物とは心まで人間離れすることだと、たった今知った。そして、さっきの自分は心まで怪物と化して、力のままに目の前の人間をいたぶった。一すじだけ涙が落ちた。

「サイファー! フリッカちゃん!」

 慌てた様子のキャサリンが肩で息をしている。

「アルバニアンの連中が大挙して、ここに、やってくるわ!」

 黄金と銀灰色の瞳が合った。

 フレデリカは二挺を再装填した。

 

 




 はい、ヒロインには割を食わせます。
 鬼畜と化してきた大菊でした。

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