享楽刹那に蒸気幻想譚   作:大菊寿老太

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寒空、羽ばたく象徴は汚されて

 中層もだいぶ冷え込んできた。だから洗濯物が乾くのが遅くなる。この時期になるとフレデリカの頭を悩ませる事項の一つだ。

「…………くしゅん!」

 灰色の寒空になってきたアーカムは、どの層からでも空を拝むことができる。下層は空気がきれいなときにしか見えないらしいが。

 買い物で膨らんだ紙袋を抱えて、フレデリカは寒空の下を歩んでいく。

 息は白んでいないが、やっぱり寒い。

 特にサイファーの仕事を手伝ったりしない時は、天気に応じた服装をする。紺色のスカートにブラウスと、その上から厚手のコートを羽織って手袋までした。

 それでも、やっぱり寒いのだ。

 そろそろ雪が降ってもおかしくない時期に差し掛かっているし、市場に並ぶものも冬に旬を迎えるものが多くなっている。

「迎え、頼んだ方がよかったでしょうか?」

 なんとなく呟いてみた。返す返事はない。

 それでも雪が降っていないだけマシだ、と思うことにして家路を急ぐことにする。

 道行く人々も寒さに追われるよう、少しだけ早足な気がしないでもない。

 風が吹いた。金髪が巻き上げられて、一瞬だけ視界が遮られる。鼻腔にほんのりと甘い香りがした。

 目の前に美があった。

 まさしく美の化身。神はフレデリカの造形に二週間を費やしたのだろうが、目の前の美丈夫には一年かけて柳眉と鼻梁を彫り上げただけに違いない。

 腰まで届くほどの銀髪を優雅に風へ流して、切れ長で凍てつくほどのアイス・ブルーの瞳をフレデリカに向けているのだ。

 漆黒のロング丈ミリタリーコートとシャツとスラックスまで黒づくめ。しかし彼にはこの上なく似合っているとしか思えない服装だ。

「ふうむ……」

 顎に手を当てて、値踏みするように美丈夫はフレデリカに視線を注いでいる。

「失礼を承知でお伺いします。生まれてから、ずっとその顔でしょうか?」

「……はい」

「貴方の瞳は天然の金色?」

「はい、でも左目は訳ありですが」

「お化粧は?」

「今は……してません」

 ずいぶんと突っ込んだ質問だ。フレデリカの顔に関して、これでもかと言わんばかりに矢継ぎ早。少しだけ言葉が詰まってしまうが、何とか答えていく。

 美丈夫が微笑んだ時、世界の全てが静止したと"瞳"が伝えてきた。

「よろしい…………整形の手間が省けます」

 空気の弾ける音がした。それとピンと張るような音もして、抱えていた紙袋が一寸刻みになる。

 ほぼ反射的な行動でM2を抜いていた。

 しかし、目の前に美丈夫はいない。まるで初めからいなかったように、幻のごとく消え失せていた。

「…………あれ?」

 なんとなく胸の開放感を覚え、手をやった。

 下着がなかった。というより、ずり落ちていた。背中のホックが外れているのだ。

 一応、周りに人がいないか確認する。

 倒れている人々しかいないことに、今更になって気づいた。無理もないことだ。あの美貌に耐えうる精神の持ち主など、荒事屋を探し回ってもいない。

 美貌に耐えうるのは美貌だ。だからこそフレデリカは無事だったのか。

 紙袋の中身は食料品だ。地面に落ちてしまっている。汚れているもの以外は拾い上げて、予備の紙袋を広げてものを仕舞い込む。

 そしてブラウスの前を少しだけ開けて、下着を探った。

 ホックは外れたわけではなかった。切られていた。

 あの美丈夫は相当な悪趣味だと、フレデリカはカテゴライズする。初対面の女性に顔に関する質問を矢継ぎ早に浴びせ、手段不明のやり方で下着を切っていくなど尋常ではない。

 もしかしたら物陰から羞恥に染まる姿を見ているかもしれない。想像するだけでふつふつと怒りが燃えてくる。

 そうこうしている内にサイファーの家に着いた。

 一ヶ月前からほとんど自宅同然で、生活は同棲といっていい。でも慣れてしまったし、食事メニューを考えるときは当たり前のようにサイファーの好みも考えるようになった。

 サイファーはフレデリカの手料理が好きだ。

 特にカレーが大好物らしい。機嫌が悪くても、カレーを食べた後はご機嫌になる。シチューでもいい。やっぱり食べたあとはご機嫌だ。

 最近は週に一回はカレーだったから、シチューにしようと思って材料を買ってきた。だが、あの変態じみた美丈夫のせいで玉ねぎを初めとした数々の材料が、地面に落ちてダメになってしまった。

 とはいえ今日一日分くらいの量はあるから、作れないことはない。

 食材がダメになってしまった件は謝れば許してくれるだろう。あの美丈夫が無事ですむ保証はないかもしれないが。食い物の恨みは実に恐ろしく、サイファーの場合は末代まで祟る。慈悲はないのだ。

 冷蔵庫という文明の利器に無事だったものをいれ、下ごしらえでもしようと思ったときだ。

「フレデリカ、帰ってたのか」

「はい、つい先ほど」

「急ぎの用事が入った。着替えて一緒に来てくれると助かる」

「大丈夫ですけど……晩御飯はどうしましょうか?」

「外で済ませてしまおう。無視できない、昔の知己でな。今日の予定は全部キャンセルになった」

 二階にいたのだろうか。足音はしなかった。

 仕事の時に着る灰色のダスターコートにテンガロンハット、白のシャップスにブルージーンズでガンベルトを巻いたサイファーがいた。

 やはり背はとても高い。本人曰く二メートルはとっくに超えているそうだから、目を見て話をするのも苦労する。フレデリカの身長は一六〇センチ足らずなのだから。

「花屋のベンジャミン・アルバーティンを覚えているか?」

「あの薔薇しか置いてない?」

「そのアルバーティンだが病院送りにされたらしい。ショバ代の支払いをやらなかったわけじゃないんだが」

「マメな人ですから。なんでもカルカッサのボスの情婦(イロ)に手を出したと聞いたんですが」

「ヤツにそんなクソ度胸があるわけない。視界に納めるだけでパンツの中にデカいもんこしらえる。そもそもヤツのテクニックは最悪だって、知り合いの娼館の支配人は言っていた。足のマッサージは超絶技巧らしいが」

「もしかして情婦をマッサージしたとか、そういうわけないです、よね?」

 しんと間が空いて、舞い降りる沈黙。

 指を一本、その人差し指を点に向けてフレデリカは固まった。

 まるで──

「お前さん何言ってんだ」

 言葉通りの顔をしたサイファーによって。

 でも予測は立てている。返す言葉は決まっていた。

「私がアルバーティンさんにマッサージされたら?」

 少し意地悪く小首を傾げてみた。

 見る見る内に表情が険しくなっていく。それはフレデリカの予想を遙かに上回っていて、少しやりすぎたと後悔してしまった。

 ちょっとぐらいからかうつもりで、自分を引き合いに出した冗談だった。時には『可愛い』とか『綺麗』と言ってくるサイファーへのお返しのつもりだったのに。

 きっと、また何言ってんだと言うに決まってると、そう思っていたのに。サイファーは────

自分(テメェ)の店の屋上から逆さ吊りにして、それから放してやる。ヤツの店が入ってるビルは四階建てだったから、痛い目見せるには十分だろうな」

「本当に、そうするんですか?」

「ハハッ、冗談だよ」

 やられた。

 からかうつもりだったのに、いつの間にか立場が逆転している。

 この辺は人生経験の差というべきか。

「アルバーティンのヤツ、少し前から薬物に手を出してたらしい。病院送りになった理由も、そこにあるかもな。今日の用事だって、その件に少しだけ関わってくる」

「その薬物の件で重要な人間に会うんですか?」

「多分、普通に暮らしてると会うことはない人間だよ」

 おどけた物言いだ。

 またフレデリカをからかうつもりらしい。

 もしかしたら相当な重要人物と会うのだろうか。着替えろと言われたが、下手な格好はしてられない。サイファー曰くドレスコードはないらしいが。

 荒事屋の仕事を手伝う上で、サイファーからもらった防弾防刃仕様の黒いドレス。黒だけではなく所々に白や灰色がワンポイントで入って、普通に普段着としても使える。

 それでも拳銃弾では衝撃さえ殺してしまうし、ライフル弾でも貫通しない。

 サイファーの用事ということだから、そのワンピースベースの黒いドレスを着た。デコルテの開いたデザインが気になるが、サイファーもヘンリエッタも似合っていると言ってくれた。

 鉄板を叩き上げて作ったような装甲服や、動きやすさを優先しすぎてホットパンツにチューブトップだけ。そんな格好が多い荒事屋たちに比べれば、フレデリカの周りは割と着込んでいる。サイファーはケレン味も優先しているかもしれないが。

「会う人はご友人ですか?」

「昔一緒になってバカやった腐れ縁。今じゃデカい椅子に座っているらしいが」

「……なんとなく、嫌な予感がします」

「人聞きの悪い。僕に比べればずいぶんとマシでマトモな真面目人間だよ」

 人聞きの悪い、の辺りで眉根を寄せたからサイファーの言ったことは本当らしい。

 ガーニーに乗り込んでエンジンをかけた辺りから、フレデリカは眠り始めてしまった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 嘆き悲しむ声がした。男の声だ。

 彼は医師だった。慈善医院で多くの患者を救い、周囲の人間から多大な信頼を寄せられていた。

 恨まれる覚えなど皆無だったはずなのに。

 医師は医院の床から両足を浮かせて、そこに固定されていた。床に突き刺さった何かによって磔にされているのだ。

 慈善医院の象徴、神の象徴たる十字架に医師は張り付けられていた。まだ三〇代後半から四〇代になっていない。なのに髪は真っ白に染まって、目は落ち窪むほどに窶れきっている。

 無理もない。

 今まで救ってきた患者全てが躯となっている故に。

 首から上だけが原形を留めており、それ以外は全てかき混ぜたように肉片となって広がっている。リノリウムの床はおびただしい血の面積を拡大させつつあった。

「ああ……一体、なぜこんなことを?」

「前夜祭だよ。もしかしたら、最後の劇場になるかもしれん」

 すげなく言った男は実に精悍ないい男だ。

 ブラウングレーの短髪。同じ色の目は瞳孔が開ききっている。狂気に染まった目であった。年は三十代くらいか。

 カッターシャツに黒いスラックスだけ。ラフな格好だが、それが逆に爽やかさを強調している。だが白いカッターシャツも血染めでは台無しだ。

「それにしても人は簡単に死ぬ。ああ死ぬのさ。このカミソリ一本でも」

「……何を言っている?」

「生かすよりも殺す方が遙かに簡単だ。だから医者という世界の構造に反した職業者は殺したくなる。いやもう殺したんだけど」

「正気か……ッ」

「いや自分の声に正直なだけだ。自分に目を背けた日から、普通という異常に染まりきっていく」

 少し大振りの西洋カミソリを手足の延長のように、くるりと振り回す。

 医師は痛感した。この男こそアーカムの住人に相応しすぎるあまり、このアーカムでさえも受け入れられない存在だと。

「弱者も然りだな。たとえば老人、いや老害というべきか」

 老婆の首を医師の前に投げた。

「子供もそうだ」

 年端もいかぬ少女の首。脊椎までくっついていた。

「醜く肥え太って、きれいな女に嫉妬の炎を燃やす女も」

 頬をそぎ落とした中年女の首だ。

「世界は殺すべきもので溢れている。だから俺が裁定を下し、世界を屠殺して過ごしやすくする。いや、そうしないといけないんだ。まともなヤツは無駄を省くべきだといっているんだからな」

「貴様こそ……ッ、殺されるべきだ」

「俺を恨むのはお門違いというヤツだ。死刑執行人が死刑を執行したって、彼は恨まれずバックにいる国に矛先を向ける。だとしたら、恨むべきは俺を産み落とした世界の方だよ。ここだったら恨みで人が殺せる。ならば恨みの強さ次第じゃ世界も殺せるはずだ。がんばって恨むことだ」

 大仰に翼のように、両手を広げた。

 医院の扉は開け放たれている。そこから数羽の白い鳩が舞い込んできた。そのまま医師を張り付けた十字架に飛んでいこうとしたときだった。

 西洋カミソリが一閃する。

 医師の首に朱線が一筋、そこから血霧が噴出する。赤い飛沫が白い鳩を、赤黒く染め上げていった。

「平和は脆い。いや、出来上がっているものが脆いのか」

 その白き翼を鮮血に染め、水分を吸って重くなった翼は鳩を地面に縛り付ける。

 鳩が衰弱死する頃には、男の姿は消えていた。

 凄惨な医師の死体だけが残っていた。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 目を覚ました。

 眠っていたことを急いでフレデリカは謝ったが、サイファーは笑って済ませてくれた。

「むしろ話の途中で居眠りする心配がなくなったと思えば、それはそれで良かったと思えばいい」

 その言葉に心から救われたようになる。

 仕事に支障さえなければ、大抵のことにはサイファーは突っ込まない。多少の失敗程度なら自分で巻き返してしまうし、そのことについても『次は気をつけろよ』ぐらいで済ませてしまう。

 本人曰く『強く言うことが苦手』らしい。

 全く変なものが苦手だな、と失礼なことを思ってしまった。これを突っ込んでしまったらさすがに不機嫌になるか、あるいは怒り出すかもしれない。

「僕も会うのは久しぶりなんだ。多分、五ヶ月は会ってない」

「会ってなかったんですか? 数少ないご友人なんでしょう?」

「…………なんか引っかかる部分があったが。まぁ、おいそれと会えるような立場じゃないんだ。休日返上しないと仕事が回らない職場で、総務と現場の両方を回してる。僕なんぞより、よっぽどアーカムのためになってる男さ」

「ええと、口が過ぎましたごめんなさい」

「いいさ、どうせ事実なんだから」

 それっきりガーニーのハンドルを握ったまま、そっぽ向いてしまった。

 こういう子供っぽいところがあるから憎めない。未だ二十代前半の身でありながら、フレデリカは母性本能に近い感情を持ってしまった。

 身長がとても高い、二メートル以上は確実にあるのに。顔だって青年ともいえるし、もうちょっと上にも見える。シニカルな微笑みをすると、とても良く似合う。

 なのに、ちょっとだけ子供っぽい。

 自分の隣でハンドルを握っているサイファーは、年以上の余裕でガーニーを駆る。運転にかなり慣れているようだ。

 だが先ほどの会話のせいで、ふてくされてしまった表情が、すごく子供っぽい。

 ──なんだか、眺めていて飽きません。

 いつの間にか見入っていたらしい。

 葉巻に火をつけて、ぷうっと吹かして。ガーニーが止まったかと思ったら、銀灰色の双眸と目が合った。

「吹き出物でもあった?」

「普通は……『何かついてる?』と聞くのでは?」

「いくらアーカムでも煤煙はある。この時代、いい男でいるためには吹き出物一つ見過ごせない」

「いい男、ですか」

「そう。強い男でいるためには『いい男』であるという前提が必要だ。身体も、心も、自分のちっぽけな男の矜持(プライド)を守ろうと思えば、激流に揉まれたって崩れなくなる。そしたらいい男の完成だ」

「…………見た目は、結構かっこいい方だと思いますよ。あとは……」

「中身が難あり。そう言われるよ」

「うう……すみません」

「別に謝らなくていい。多分、僕がいい男になるにはノアの大洪水を生き残る必要があるらしい」

 シニカルな笑みにフレデリカは何を見たのか。

 それはサイファーに最も似つかわしくない。そう彼女が思ってしまったもの。

 ──諦め、悔恨。

 世界の全てを我が物に出来そうな、そんな彼から感じ取ってしまった。この傍若無人な男が、唯一諦めたものとは。ノアの大洪水と例えた原因は、一体何なのか。

 ただ、瞳にわずかにあった。確かに宿っていた。

 ──希望。

 その希望も何なのか、伺い知る術をフレデリカは持たなかった。その無力さが歯噛みさせる。こういう時に自分は何もできず、かける言葉さえ持たないことに。

「どうした?」

 気遣いの優しい声がしたとき、ガーニーは停まっていた。蒸気機関も停止して、車内はたった一つの声だけ残して静寂であった。

 すすり泣き。嗚咽。フレデリカの唇から漏れて。

「な、んでも……ありません、から」

「……どうして、泣いてる」

「なんでもありません!」

 震える声で叫んで、顔を両手でぐちゃぐちゃにして。

 きっと鏡を見たら、みっともなさすぎる自分が映るだろう。せっかくめかし込んできたというのに、その甲斐さえ自分の手で台無しにして。

 不甲斐なさが加速して、涙がもっと溢れて。

 ──やっぱり、弱いままで、何も出来ないまま。

 ──私は何も変わってない。恩のある人に、何も出来てない。

「私は……何も、返せて、いない」

「そのままでいい」

「…………え?」

 異性には見せられない、きっと瞼が腫れてしまった顔でサイファーを見上げた。

 フフッ、と不器用に顔を歪めて苦笑い。

 そして大きな手が金髪の上へ、そっと乗せられて、引っかかりもなく撫で回される。慰撫とも言うべきものであった。

「焦らなくていいから、できることだけやってくれ。僕はフレデリカみたいな()と知り合って暮らしたりするのは初めてだから、何気ないことでもビックリするし元気になったりする」

「…………それだけ?」

「たったそれだけでも、元気はもらってるよ」

「やっぱり……あなたは優しい人ですね」

「………………お前さん限定だぜ」

 こっそり呟いたのをフレデリカははっきり聞いた。

 きっと一ヶ月前までは確実に、素で優しくしてくれていたのだろう。その度に『優しい』とフレデリカが言えば、ツンとふてくされていた。

 それがフレデリカのみにベクトルが向けられて、それをはっきり言葉にして言った。

 ──いいや、サイファーさんのことですから、きっとからかってるだけです。ホント、そういうところは子供っぽい。

 ──だから今回も素で優しくしてるだけ。

 ──そう、きっと。きっとそのはずです!

 ──だから、顔が熱くなる理由なんて、ないんです!

 泣き腫らしたのとは別の赤み頬に出て、そして同じように別の熱が。

 それらを振り払うようにブンブンと頭を振って、なるべくサイファーの方は見ないように努める。多分、一目でも顔を見たり、目があったりしたら、もっと酷いことになりそうだから。

「なんか……おもしろいなぁ」

 そんなサイファーのぼやきさえ聞こえてない。

 涙を拭って、ナチュラル方向の化粧を直すまでほんの十分。ほぼ必要ない化粧は腫れた瞼を隠すだけで、あとは元の素材で十分すぎた。

 ほんの少しヨロヨロとした足取りで、フレデリカは降りた。

 しっかりした足取りでサイファーも降りた。

 レンガの塀が最初に目に付いた。ぐるりと資格に一周して、物々しい雰囲気を醸している。その奥の方に目的の建物はあった。

 フレデリカはその鉄筋とモルタルで出来た、物々しい建物を知っていた。いや、アーカムに住まうものであれば知らない者はいない。唯一の統治機構にして、最大の保安組織。

 アーカム統治局。

 裏の人間が何よりも恐れる、法無き魔都にある唯一の法の番人。方法、手段を問わぬ故に大英帝国のもっとも汚れた、そして最強の暴力機関。

 その正門をサイファーは堂々と通る。

 もちろん脇にはMV社製自動小銃を携えた保安官がいたが、全く気にした様子もなく、当たり前のように通していった。

「保安課はどっちだ?」

 眼鏡の女性が迎える受付は右方向を指さした。

 一言も発さずに対応したのが、どこか後ろ暗いところ感じさせて不安を煽る。

 指さした先にある階段を上り、保安課のオフィスを突っ切っていく。職員たちは二人などいないように扱い、部外者の彼らに目線一つくれることもない。しかし、何人かはフレデリカの方を見て酔ったような状態になっていたが。

「ひさしぶりだな。ワイアット」

「急に呼んですまんな、サイファー」

 四十代後半の男だった。白髪の混じった目つきの悪い男だが、悪人にはとても思えなかった。きっと荒いやり方でも、悪や不義というものを徹底的に憎める正義の心を持っている。

 親しげに話す二人に付き合いの長い知己なのだと、そうフレデリカは思った。

「そこにかけてくれ」

 応接用のソファーに座ると、男は自己紹介を始める。

「はじめまして、アーカム統治局治安維持部保安課課長、ワイアット・アープだ」

「フレデリカ・エインズワースです」

 握手を求められ、きっちりと応じた。

 フレデリカと完全に目があったのに、酔ったような状態になってないのは、それほどの精神的な強度があるのか。

 続いてサイファーの方を向き直って、神妙な面もちになる。どこか苦々しげで、どうにもならない状況に歯噛みしている。そう思わせた。

「来てくれて本当に助かった。東洋の諺で言えば『猫の手も借りたい』そんな状況だ」

「統治局もそろそろ終わりだな」

「嘘から出た真になる、そんな感じでな。これを知っているか?」

 折り畳まれた薬包紙を差し出した。中には白い粉がある。アーカムに住まう者であれば子供であっても、それが確実に麻薬であると分かる。

 外界では芥子からとれる阿片が主流だが、アーカムでは科学的に生み出された気化合成麻薬にアドレナリン誘発物質まで存在している。快感・興奮作用は阿片の比ではないだけあって、それだけ墜ちやすい。

 どの時代であっても薬物は法の番人を悩ませるものらしい。

「……ヤバそうだな」

「医薬品では……ありませんよね? 嗅いだことのない臭いがします」

 フレデリカの言うとおり、確かに柑橘系に似た激しい臭いがする。至近距離で吸い込めば、粘膜をやられるだろう。

「わかるのか?」

「ほんの少しだけ。医学を少しだけ、かじってるだけです。大学の恩師に応急処置を学ぶついでで教わったんです」

「お嬢さんの言うとおり、この薬からは未知の元素が二つ、塩基は四つ、酸は二つ確認された。ミスカトニック大学の研究員がそう言ったんだ。間違いなど万に一つも存在しない。イギリス本土の科学者や碩学も同じ見解を出すはずだ」

 それを聞いたサイファーの銀灰色の瞳、それに宿る光に鋭さが加わった。どこか剣呑で、どこか忌々しげな空気をにじみ出して。

 こんな表情を見るのはフレデリカにとって初めてであった。ベアトリクスを屠った時とは違う、でも似たような何かがある。

「これはコカの類のように鼻から吸うんだが、乱用者と目を付けていた人間がことごとく行方不明になっている。何の痕跡も残さずにな。それに薬品の調査結果ともう一つの事項も相まって、お前の出番だと思ったんだ」

「もう一つの事項、だと?」

「…………この薬を調査した研究員なんだが、三日後に精神に異常を来して発狂、そして白衣やズボンをロープ代わりにして自殺した。殺人に見せかけた痕跡は一切見られなかった」

「きっと、そいつは耐えきれなかった。死に救いを求めたんだろうよ。知ってしまったがために、知らなければ良かったと嘆いて首吊ってキューさ。気持ちは分からんでもないが」

 口調はおどけていたが、表情は未だに剣呑なままだ。

 事態の深刻さをしっかりわかっているのか、おそらくは頭の中では出所や売人の心当たりを片っ端から漁っているに違いない。

 公的機関と裏の人間の癒着、とも言える光景だがサイファーがそれだけマズいと思う状況なのか。メンツや世間体などをかなぐり捨てる必要性があるほどに。

「僕は下層あたりが怪しいとにらんでる」

「あのなんでもありの魔窟か。だが"なんでもあり"なだけに逆に怪しくない。さすがのお前でもリスクが高すぎる」

「デリンジャーのところを拠点にさせてもらうよ」

「なら少しは安心か」

 その時だった。

 扉が蹴破られたかと思うほど、激しく跳ね飛ばされるように開いた。汗だくの保安課の職員が、ウィンチェスターのポンプアクション散弾銃を抱え、肩で息をしている。

「何事だ!」

「侵入者です! 正門前で食い止めている状況ですが、突破されるのも時間の問題です!」

「人数は?」

「……一人です」

 想像を絶する回答が返った。

 天下のアーカム統治局保安課、そこを単身で攻め入る者がいるとは。無謀も通り越して、もはや呆れさえ感じてくる。

 だが職員の焦燥ぶりから窮地に陥っていることは確かのようだ。

「この部屋にも武器の備えはあるか? 手を貸すぞ」

「百人力だ。オートリボルバーを三挺貸しておこう。スピードローダーもあわせて三つずつ」

 机の引き出しからウェブリー&フォスベリーの自動回転式拳銃を渡す。口径は四十五口径だが、シリンダーの溝に沿って反動利用式の自動機構が作動することで、撃鉄を自動的に倒してのシングルアクションによる連発が可能だ。

 サイファーが武器の貸与を求めた背景には、彼の持つ規格外の巨大リボルバーでは室内戦も予想されるこの戦場では適していないと考えたのだろう。

 フレデリカも持っている武器はMV社製の自動拳銃とアーカム45だ。少なくとも規格外の威力を有しているわけではない。

 ワイアットはS&Wの中折れ式(ブレイク・オープン)リボルバーのM3スコフィールド。そして十インチ以上もの銃身を持ったSAA。スリングベルトをたすきに掛けたウィンチェスターM1912を、銃床をソードオフしたものを持っていた。

 錚々たる重装備だ。

 並のゴロツキにギャングでは、視界に入っただけで逃げ出すであろう。

「下層から這い上がってきた魔人かもね」

 シニカルな笑みが一番高い位置で煌めいた。

「腕の見せ所だな。最近はデスクワークばかりでウズウズしていた」

 頭一つ分以上低い位置で意気込む声。

「大丈夫…………いつも通りにできる」

 一番低い位置で自分に言い聞かせる女の声。

 三者三様。

 だが悲観的ではなかった。生き残って、いつもの日々に戻れることがすでに決まっているように。

 激戦は前提なのは周知であった。

 当たり前のように三人は踏み出していった。

 

 


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