甦った飛騨の大鬼神・リョウメンスクナ。その肩付近で千草は笑みを浮かべて刹那を見下ろしていた。先ほどまでとは逆に見下ろされる形になった刹那の表情は渋い。
巨石の前に寝かされていた木乃香も今は千草と共にある。奪い返す機を逃してしまった。
上空からなら、まだ地の利があった。だがいまや位置関係は逆転している。今の刹那の位置は高さで言えば大体スクナの腰の辺り。距離的には至近と言って良い。
高度を上げるにしても、スクナの腕をくぐり抜けたところで待ち受けていた千草に文字通り“潰される”されるというのもありえる。
一度距離を取って上昇、それから急降下という手もある。だが、離れてしまえばもう二度と機がないかもしれない。
至近距離にいるというのは状況的に見て悪い点もあるが、良い点もあるからだ。
悪い点は、さっきもいったように攻めるためのルートがスクナの腕で限られてしまい、待ち受けられてしまうこと。
最高幹部、最強クラスの相手である千草を相手に行動の選択肢の幅が限られるというのは致命的なことだ。事実、最強クラスを相手にした七日間のセイの特訓メニューで何度地獄を見たことか。
利点は至近距離、つまり相手の懐にいる間は、千草の攻撃を必要以上に受けずにすむということだ。千草の攻撃方法で一番主な物は符による攻撃。それを、スクナの至近距離にいるという現状なら刹那でも対処が可能なのだ。
千草の身近にいるセイやさよも符を使う。二人の符の使い方はよく似ているようで異なり、本来の符からはどちらもかけ離れている。
たとえるならセイの使う符は誘導性能の極めて高いミサイル、さよの符は常時移動する複数の射点からのオールレンジ攻撃だ。
千草の符による攻撃の場合はどちらかといえばセイに近く、即時展開可能な砲台のような物。
観測点、つまり主軸にいるのは千草であるため、余りにも巨大なスクナの影を利用し千草の死角に入ればなんとかかわすことができる。
どうするべきか。ゆっくりと考える有余などないなかで、刹那は決断を強いられる。そして刹那が出した答えは、あくまで攻めること。
才能は別としても、もとより地力では大きく負けているのだから、引いたところで増援の来ない現状が好転するわけでもない。なら、自分一人でやり通すためにはどうすればよいのか。どうすれば木乃香を救えるのか。
千草に無理に勝つ必要は無い。刹那からすれば木乃香を救えればそれでいいのだ。木乃香を救い、木乃香本人の意志を聞きたい。それが今の刹那の望み。
そのために千草に勝つ必要は必ずしも無いのだ。月詠と接敵したときから刹那が自分自身に言い聞かせてきたことだが、勝てずとも、木乃香をかすめ取るだけで良い。
一番怖いのは接近する時、スクナの腕をくぐり抜け、肩の高さ、千草と木乃香の辺りに出るときの千草の迎撃だ。逆に言えばそこさえクリアできれば良い。
だから、刹那は攻める。
取り出したのは、符。しかしそれは攻撃用の符ではない。セイやさよが用いれば戦艦を、今は亡き木乃芽が用いれば紅き翼すら瞬殺できた多様性と可能性を秘めた符であるが、剣士である刹那には複雑なことはできず、そのため攻撃に用いても威力はたかがしれているし、そのことは刹那自身よく理解している。
ゆえに、刹那がここで取り出した符は。
「ふん、写し身の符か」
千草が眼下で“四人”に増えた刹那を見て呟く。刹那が使ったのは、割とメジャーなタイプの、簡単な命令を聞く本人の分身を造る符。
この符は未熟な術者が使うと上手く対象の人物を写せず、姿形だけで中身がパーな粗悪品ができるのだが、刹那は霊力と経験でもってこの土壇場で成功させた。
それぞれ白い翼を拡げ、夕凪を持つ偽物三人を含んだ四人の刹那。四人は互いの顔を見合わせて頷き会うと、同時に上へ、木乃香を側に置く千草へ向かって飛ぶ。
ただし、一度スクナの腕の下に潜って姿を完全に隠してから。
「古典的な手段をっ」
そう千草は毒づくが、同時に確かに効果的な手段ではあると刹那を賞賛する。刹那は経験から何から最高幹部に及ばないが、千草が唯一最高幹部にも届きうると危険視するのがその速さ。不意を突かれれば、刹那の速さは自分にも届くかもしれない。
だから、千草は手心を加えることなく迎撃を開始する。
「どれ、まずは……」
一人目、スクナの右腕の内側から出てきた刹那の真正面を塞ぐような形でごく細い鎖で一列に繋がれた符、それを右腕の袖から伸ばして縦横三列配置する。
同時、逆サイドの左外側から突っ込んでくる二人目の刹那にもそれらの鎖を延長して対応、二人が符に触れる寸前、回避できないタイミングで符を起動させ吹き飛ばす。用いたのは、千草がセイから作り方を一から学んだ爆裂符。
千草の鎖は基本的に一本の鎖に符が百八枚連結されており、それらは千草の意志一つで連動して順次、あるいは一斉に発動させることも可能。
それが縦横三列ずつの六本で六百四十八枚。一枚でも人一人を四散させることが可能な爆裂符。それを千草は一斉に起動させた。
光がほとばしり、炎が二人の刹那ごと周囲の空間を喰らい尽くす。だが、それでも刹那は止まらない。
真正面、炎の帯を夕凪でぶち抜いてきた三人目の刹那が千草に肉薄する。多少制服が焦げているものの、白い翼と髪には黒い煤の跡も無く。
「天ヶ崎千草、覚悟っ!」
刹那が狙うのは木乃香ではなく、千草。一息で詰めることが可能な至近距離、そこは刹那達剣士の領域。しかし、それでも千草にはまだ届かない。
「百年早いわ。クソガキが」
三人目の刹那の腹に千草の“左脚”が入り、刹那がくの字に折れ曲がる。肋骨の隙間、鳩尾に、上げ底の部分に鉛と鉄が仕込まれた履き物がめり込んで軋みを上げた。
乱暴に振り払われた刹那は爆煙の中に消え、千草はすぐに背後に目を向ける。背後のリョウメンスクナの背中側、そこから四人目、木乃香を狙う本命の刹那が来ていたから。
千草にも、刹那が自分ではなく木乃香を狙うことはわかっていた。だから千草は三人目の刹那が自分に向かってきた時点でこの刹那は囮であると判断したのだ。
なら本命の四人目が来るとするなら自分を挟んで対角線上、背後側からくると予想したのだ。
予想通り、背面側から刹那は回り込んだ四人目の刹那は千草に目も暮れることなく一直線に木乃香へと向かっている。
しかも予想よりもその動きは速く、既に木乃香と刹那の間に距離はほとんどなく術者である千草では間に合わない。
「惜しかったなぁ。せやけど、まだまだ」
刹那の脇腹に、まるで刀を突き刺すような形で千草の鉄扇の先がめり込んでいた。ぎしり、と刹那の骨が軋み、千草の手に手応えが伝わる。
千草が間に合ったのは、別に珍しくもなんともない技術、瞬動を使っただけのこと。瞬動は主に剣士の技だが、どの世界でも一定以上の実力者は扱える。千草もその例に漏れず、近~遠距離まで一人でも対応できるように瞬動もそれなりに研鑽を積んできたのだ。
その結果として四人目の刹那の動きを止め、今この時の確かな手応えに繋がったのだ。
「そうですね、これが今の私の限界です。貴女には絶対に勝てない。でも――」
聞こえたのは、背後。
身体ごと振り向こうとする動作を四人目の刹那がしがみつき邪魔をする。それでも強引に首と上半身だけ振り向かせた千草が見たのは、木乃香を抱きかかえて飛び去ろうとする、 口元を血でぬらし、蹴り抜かれた腹部の制服が吹き飛んだ三人目の刹那だった。
「このちゃんは、私が――」
去り際の一瞬に刹那がなんと言ったのか。風に紛れて、千草には聞き取れなかった。
◆
「ほう、本物は三人目だったか」
「いやはや、どうやらそのようで」
私とエヴァとフェイトの三人が見ている中で、刹那ちゃんは木乃香ちゃんを上手い具合に確保しました。
囮に見せた三人目が敢えて一度被弾し、本物に見せた四人目が千草ちゃんを拘束、その間に体勢を立て直した三人目が木乃香ちゃんを確保して逃走。なるほど、千草ちゃん相手によくやったものです。
「意外だな。あんな子供だましにひっかかるとは」
「油断があった、というよりは見誤ったというのが正しいですね。千草ちゃんは刹那ちゃんを考えの甘い子供と見たようですが……戦士として見るべきでしたね」
「甘さを捨てられない子供を戦士か?」
「ええ。現実を理解した上で妥協しつつも理想を追い求める……いいじゃないですか」
「ふん。所詮本当の意味での現実を知らないだけだ。今に思い知らされる」
「ああいうのは嫌いですか?」
「……嫌いではない」
まあそうでしょうねえ。ああいう愚直さみたいなのはもう私達は持っていませんから。私らみたいに闇に浸かった人間は良くも悪くも現実主義で、普通こういう状況になったらいったん身を引いてしきりなおしますから。
駄目とわかっていても、立ち向かう。今はもう無理ですが、私にもあんな頃は確かにあったんですよね……私は結局負けましたけど。
パリン!
「ああっ!? 貴様、人の用意した杯を握り潰すとはどういうつもりだ!?」
おっと、つい昔を思い出していたようです。むぅ、こんど何かエヴァに詫びの品を贈らねば。
「けど、大局から見れば彼女の行動はまったくの無駄じゃないのかい?」
叫ぶエヴァとは対照的に、一人コーヒーをすすっているフェイトは冷静です。一人現状を分析しているようですから。さすが悪の大幹部。
「確かに無駄と言えば無駄なことかもしれません。しかし無駄に見えてそうでないこともありますし……実際無駄であったことも、時が経てばいずれは無駄でなくなることもあるでしょう。
……ま、なんにせよ別にかまいやしませんよ。スクナ復活は手段であって目的ではありません。進行具合で言うと半分くらいですか」
「……なんだと?」
エヴァが少し目を開きました。フェイトもコーヒーを口に持って行くのを止めたということは、スクナをそのまま使役して使うと思っていたようですね?
馬鹿を言っちゃいけません。リョウメンスクナと言えば諸説ありますが基本的に大和朝廷に属さぬ古き神です。
自然と同じで、人ごときがそんなに簡単にどうこうできる相手じゃありません。絶対に上手くいくと思っても、いつかどこかできっとほころびができる。そうなれば終わりです。なにせ、失敗すれば全てが跳ね返ってくる。
それに、秘匿の観点から言えば移動が面倒というか、無理です。
「何か勘違いしているようですが……リョウメンスクナの復活というのは確かに重要なファクターですし、スクナの力は強大ですが、神をまともに使役するなんて土台無理でしょうが。木乃香ちゃんの霊力も永遠じゃないんですから。
それと確かに政治的な面から見ると木乃香ちゃんに逃げられると面倒ですが、今一時逃げても本山から出るのは不可能でしょうから問題はありません。それに……あのスクナは、どちらにしろ動かすことなどできませんから」
「え?」
私を含めた椅子に座る三人の視線がフェイトの背後、立っている暦ちゃんに向かいます。あーあ、やっちゃいましたね。
「あ、すすすすすいません!」
「暦……」
「まぁまぁフェイト、そう呆れなくても」
「呆れているのか? この無表情でよくわかるな……」
おや、エヴァにはフェイトの表情がわかりませんか。
「まぁ、そこはあれですよ。なんとなく」
「なんとなくって……まぁいい、お前の事でいちいち驚いていたらきりがない。それより……ンぐっ……ッハァ、説明しろ」
杯の酒を飲み干して、次の酒を注ぎながらエヴァが私に顔を向けます。顔が少し赤いところを見ると……まさか、酔ってるんですかね?
「…………」
「ん、なんだ? そ、そんな風に人の顔をまじまじと見るな! 恥ずかしいだろうが!」
「マスター、酔われているのですか? 顔が真っ赤ですが……」
「よ、酔ってなどおらんわっ! このぼけロボめ、巻いてやる!」
「あ、ああ、あああああ……」
エヴァ、あなた確実に酔ってるでしょう。
「ええい、説明しろ! 貴様も巻くぞ!」
私にゼンマイはありませんよ。何を巻くつもりです。
しかし、説明と言いましてもねぇ……
「説明も何もあのスクナは動かす必要がない。いえ、そもそも動かないようにして呼び出したというのが正しいのか……千草ちゃんは月と星の運行を利用して自動で召喚を発動させたようですが、あの系統の術は時が過ぎれば月と星の配置が変わって意味を成さなくなります。その一方で石版を用いることで拘束術式に不変的な意味を持たせ継続できるようにしてある。エヴァ、なぜかわかりますか?」
「知らんわっ!!」
うん。一音一音はっきりとした良い返事です。
「聞いた範囲では、千草ちゃんの計画には確かにスクナが必要不可欠ですが、別にスクナを使役する必要はないんですよ。なにせ、千草ちゃんの狙いはスクナを“自壊”させることですから。
だからスクナ復活がかなった時点で木乃香ちゃんを奪われてももう問題は無いんです。操る気がないから暴れないように最初からガチガチに押さえつけて動けないようにしておけばいいし、維持するつもりがないから燃料タンクも必要ない。
そういう面では月と星の術式を利用して自壊させるとは上手いことやりましたね、ええ。あとで褒めてやりましょう」
「自壊……まさか木乃香を奪われたの、いや、わざと奪わせたのか!?」
「いいえ、奪われたのは完全に千草ちゃんの油断です。ただ奪われた後はわざと見逃したっぽいですけどね。この後木乃香ちゃんは少し邪魔になりますから、手間を省いたという所ですか」
「待った」
おっと、ここでフェイトが来ますか。
「自壊、と言ったね。なら、なぜスクナを復活させたんだい? 制御する必要が無いというのも気になるね。……スクナの先に何を見ている?」
「……そうですねぇ」
フェイトの口調だと、スクナを贄にさらに一つ上の物を呼ぼうとしているとでも思っているんですかね?
馬鹿言っちゃいけません。スクナだってもてあますのに、それより上とか無理です。それ以前にスクナより上って何を想定しているんでしょう? ミジャグジとか?
とにかく、リョウメンスクナの復活から自壊させるまでが“下準備”。千草ちゃんの舞台の本番は、まだまだこれから。スクナという力をどう扱うのか。どう利用するのか。あの子なりの結論とその方法が上手くいくのかどうか。
まだまだ、ここから、なんですよ。
「……見ていればわかります。ほら、始まりますよ」
◆
「……行ったか」
しがみついていた式神が消えた後、笑みを浮かべたままの千草は小さくなって見えなくなりつつある刹那を見て呟いた。
その笑みは少女の成長を喜ぶ物であり、この期に及んで格下だからと油断した千草自身を自嘲するものでもある。
千草は今も刹那の行動は無駄なことだったと思っている。今逃げても、千草が木乃香に使用した符の効果はまる一日、おそらくは刹那は捕まるまでに木乃香と言葉を交わすこともかなわない。それに、逃げると言っても何分間逃げていられるか。
既に麻帆良にいた関東呪術協会の人員に回収された水無原冬雅が京都に到着し、冬雅が本山の敷地に入ったという報告が本人から来ている。それに加えて万一に備えての刀久里もいる。詠春との戦闘で消耗しているかもしれないが、遅れをとることはないだろう。
「いや、ウチもなめてかかってお嬢様かっ攫われたしなぁ、刀久里さんでもありえるか? ……月詠に連絡しとこか」
符を頭にあて、念話を飛ばす。どちらにせよ、刹那が逃げ切ることなどあり得ないのだから。
「さて、と。ほんならぼちぼちやってこか」
返事はない。あくまで自分に言い聞かせるためのものだ。逆に返事があったら怖い。
リョウメンスクナは、既に死に体だ。動くことも呻くこともできず、ただ自らが崩れるのを待つのみ。
そうなるように、千草が仕組んだ。
湖に沈めた石版には、月と星の配置が千草が想定した物と完全に一致するほんのわずかな一瞬にスクナが復活するように術が刻んであった。
逆に言えば、その一瞬以外はスクナがその身体を維持できないように術式が組まれていた。
時間が経過し、月と星が動き、最初の星図からかけ離れていけば行く程スクナの身体はボロボロと風化したように崩れていく。現に、今も指の端などから少しずつ光の粒子が崩れて湖の中へ消えて行っている。
「よっと」
先ほど刹那に突き立てた鉄扇をしまい、別の扇子を取り出す。そして、千草はその扇子を元の形に戻した。
「……ん、問題はあらへんな」
朱い七支刀を、入念に確認する。この時のためだけに造られた、千草の用意出来る最高の素材と持てる知識の全てをそそぎ込んだと言って良い今存在する中では最高クラスの術具。
千草はそれを持って肩の辺りから移動し、スクナの頭頂部の上へと降り立った。
そこで千草はもう一度七支刀を確認した上で、右手で七支刀を持って七つの刃先の内一番先の刃先で左の掌に一筋の傷を付けた。それが済んだら、今度は左手に持ち替えて同じように右手に、ただし今度は一番根本に近い位置の刃先で傷を付ける。
血で濡らした両手で七支刀をしっかりと持ち、柄頭が上に来るように逆手に構えた。
心を鎮め、精神を研ぎ澄まし、集中を高めて……
七支刀の柄を、静かに手放した。