「ぬらりひょん、か!?」
「ほあっ!?」
和装に禿頭、背部へと出張った後頭部。民話や伝承に姿を残す妖怪は数在れど、この条件に合致する妖怪はひとつだけ。すなわち、妖怪の総大将とうたわれた大妖怪〈ぬらりひょん〉である。
「いや儂人間! 妖怪じゃなくて普通の人間!!」
「ありえません。その突き出した後頭部、ぬらりひょん以外の何者でもないではないですか」
ぬらりひょんが必死に否定するが、騙されはしまいと目をこらす。妖力こそ感じないが、それくらいは伝承にあるぬらりひょんならどうとでもでる。
仮にぬらりひょんでないとしても、背後に集団を従えている以上は一定の地位にあるということを示し、魔法使いに奪われたこの地において地位を持っていると言うことは……老人もまた、魔法使いであるということだ。
「いやだから人間じゃと……まあよい、それよりもおぬしらに二三聞きたいことがある」
老人が仕切り直したことで、背後の集団の空気も切り替わる。合図一つで、いつでも戦闘へ移ることができる状態へと。
「まったく……いくら人が多いとはいえ、よくこの世界樹前広場まで来れたものじゃ。わしは近衛近右衛門。この麻帆良の学園長にして、関東魔法協会の長をしておる。お主らはその身なりから察するに、関西呪術協会の者で間違いないかの?」
「……関東魔法協会に、関西呪術協会? いったい何のことでしょうか?」
聞き覚えの無い言葉。本心からの対応であるが相手はそうは思わなかったらしく、集団の中の数名が明らかに苛立った表情をする。
一方で、セイは語感から二者が対立しているだろうとあたりをつける。組織の名前だけではあるが、それでも大きな情報である。
(はて……そんな名前の組織は……。この百年の間にできた組織でしょうか?)
「貴様、とぼけるのもいい加減にしろっ!」
後ろにいた男の一人が、痺れをきらしたのかそう言い放つ。そう言われても事実知らない物は知らないのだからしょうがないとも思うのだが。
「学園長、やはり問答無用で捕縛しましょう! 尋問ならその後でもできます!」
「……しょうがないのう。おぬしら、おとなしく捕まってはくれんかの? 今ならまだそれなりの対応ができるのじゃが……」
セイは無言のまま、後ろにいたさよの肩に右手を回し抱きかかえる。突然のことにさよが短い悲鳴をあげるが、気にしている余裕はない。
長く争い続けた魔法使い。目の前にいるのは実際に相手をしてきた西欧人ではなく同じ日本人だが、それでも思想や言動は土地を侵した魔法使いとなんら変わらない。
であるならば、セイの感情の指針は自然と一つの方向へと固定される。
左手はすでに腰刀の柄をにぎり、いつでも抜けるようにしておく。その動作は、誰の目から見ても確かな意思表示と成る。
「……交渉決裂のようじゃの。やむをえまい」
近右衛門とやらの言葉にあわせて魔法使いたちは扇状に展開。そのまま魔力で作られた矢を放つ。
属性はバラバラのようであるが、先ほどの言葉から察するにおそらくは捕縛系魔法。数はだいたい一人二十程度、全部で四百すこし。それが半包囲を形成する。
傍らには事態について来れていないさよがいるし、背後には世界樹が聳え立ち、退くこともできない。
(しかし、まあ……)
表情に、焦りの色はなく。
「この程度なら、あの戦いに参加した魔法使い達は一人で撃ってきましたからね」
その場から動くことなく左手の腰刀を抜き放つ。魔法の矢に向けるのは刃、ではなく柄頭。それを基点に、結界が構築される。
始まりは宙に浮かぶ燐光を纏う白の正六角形。六つの頂点からさらに線が奔り、瞬く間に籠目の半球となってセイとさよの二人を包み込むように展開する。
結界は一族の歴史と技術の結晶。数年にわたる魔法使いとの実戦の中で更に工夫を施された技術と、春香による再構成の恩恵として増加した霊力に裏打ちされたそれは即席であっても充分すぎる強度を持つ。たかだか魔法の矢の百や二百で綻ぶような物では無い。
案の定、魔法の矢は結界に弾かれ、少しばかりの余波だけで消滅した。無論結界には本の些細な歪みも綻びもない。
「やったか!?」
どうやら、上手い具合に余波で巻き上げられた砂埃が目くらましになっているらしく、魔法使い達にこちらの様子は伝わっていないらしい。
「さよさん」
先ほどから蝋人形の如く動きのないさよに、魔法使い達、特に近右衛門という老人に聞こえぬよう小さな声でそっと話しかける。
それに反応してセイを見るさよの目からは、怯えの色が見て取れた。
幽霊とはいえ、その本質は怨霊のように強い感情に裏打ちされた物では無く、麻帆良という特殊極まりない土地の影響で霊体にすぎない、当たり前の女学生だったはずなのだ。
それが今初めて実際に魔法使いと魔法を目の当たりにし、実際にその敵意を自身へと向けられた恐怖は一体どれほどのものか。
「今から逃げるための“足”を呼びます。しっかりつかまっていてください」
「逃げるって……どこへ?」
「……とりあえず、この麻帆良の外へ」
ほんの短いやりとり。その間にも砂埃は風に紛れて消えて行く。
「さぁいきますよ!」
「は、はい!」
腰刀により強く霊力を込めると、刃が白い光をまとう。これはまだ第一段階。
本来、いちど召喚したことがある妖怪はそれ用の術具さえあればいちいち手順を踏まずとも霊力を込めて名を呼ぶだけで召喚できるのだが、今回はさよがいるため、普段使ったことのない妖怪を式神として召喚するので手順を最初から踏む必要があるのだ。
ともかく、第二段階。柄頭を魔法使いに向けていたのをくるりと持ち替え、切っ先が相手の方を向く。それに合わせて刃に指の腹を滑らせ傷をつくり、刀身に血をつける。すると、刃の光が白から血に染まったように赤へと変わる。
「な、なんだあれは!?」
砂埃がはれて、赤い光が周囲へ広がる。周囲の魔法使い達はこの光景に魅入られているようだ。
ただ一人、近右衛門だけは注意深く観察しながらもこちらに手をかざしている。何を撃つつもりかは知らないが、こちらのほうが速くなるはず。
第三段階。なおも光を放つ腰刀を、胸の前で右から左へ砂埃の残りを薙ぎ払うように水平に振るう。すると、真下に刃と同じ朱い光で描かれた、丸と四角で構成された召喚陣が現れる。
ここまでくると、他の魔法使い達も正気に戻ったのか、再度詠唱を始めるがもう遅い。
「お出でませい」
最終段階。自分が召喚しようとしているものの名を、高らかによびあげる!
「黒輪火車!」
地面の召喚陣から、自分とさよを持ち上げるようにして、一辺が四メートルほどの立方体が現れる。その左右には名前の由来の大きな黒い車輪がついており、前面には口と大きな一つ目が描かれている
「なんじゃあれは!?」
近右衛門も驚いているようだ。魔法を発動させる寸前といった様子の動きが止まっている。
黒輪火車は何代か前の一族の長が一から作り上げた式神の一体で、名は似ているが有名な火車とは別物。厳密には妖怪ではなく器物であるし、故に伝承に残る普通の火車とは見た目も用途も大きく違う。驚くのも無理はない。
「では、お暇させていただきましょうか」
さよを黒輪火車の上に座らせ、腰刀を再び元の鞘へと戻す。自身も彼女の隣に腰を下ろし、足下の黒輪火車の天板に手のひらを当てる。すると黒輪火車が、車輪から炎を出しながら上昇し始めた。
「ま、またんか!」
近右衛門を筆頭に魔法使い達が何か言っているが、黒輪火車は意に介さず車輪から炎を吹き上げつつ上昇を続ける。セイが応える義務もない。やがて、彼らの声が届かない高空にたどり着いた。
「……あの、セイさん。これからどう……するんですか?」
さよがおずおずと上目遣いに訊いてくる。きっと、『どうなるんですか』と訊きたかったのだろう。
形無き幽霊だったとはいえ、彼女を巻き込む形になってしまった以上、セイはどんな形であれ彼女に対して責任はとるつもりでいる。
ただし、何もわからず、何も持たない現段階では、具体的にどうと言うことはできない。
「とりあえずは、残されていそうな一族(ウチ)の拠点や記憶にある近辺の組織を訪ねてみたいと思います。今の帝都を見てみるのも良いかもしれませんが金銭がありませんからね。そのあとは……」
「そのあとは?」
「……西へ。京の都にいってみましょう」
◆
「逃げられてしまったのぅ……」
狐面を付けた和装の男とセーラー服の少女の二人組が嵐のように去った空を、近右衛門は髭をなでつけながら半ば呆然と見上げていた。
暗い空にあって、見知らぬ妖怪が走り去った炎の軌跡が、まだかろうじて残っている。
向かった方向は、北。
「学園長、何をのんきに言っているのですか! すぐに追跡しなくては」
「そうもいくまい。今は学祭期間中じゃ、こちらの警備を薄くするわけにはいかん。ただでさえこの世界樹前広場まで来られてしまったのじゃ、警備網に穴がある可能性も否定できん」
「それは……しかし!」
「それにあの速度では今から出ても追いつけん」
「くっ……」
「捜索はさせるとも。各地の支部に特徴を伝えて、報告を待つしかあるまいよ。この闇ではそれも絶望的じゃがの」
儂らにできることは無い、と告げ、元の警備配置に戻るように指示を出す。が、近右衛門は一人、二人が去った北の空を見続けていた。
「あの制服、戦中のものか。しかし男の方は……」
(随分強い敵意じゃった……ふむ)
二人組のことを記憶に刻みつけ、麻帆良学園長・近衛近右衛門は広場の階段を下りていった。