彼が私の手を取り、抱き上げるように立たせて、言う。
『待たせたな、姫さん。――助けに来たぜ』
囚われたこの身を、助けに来た男。礼の一つでも言うべきだったろうし、そう言うつもりだった。
けれど、口から出たのは全く以て違う言葉。それも、考えていたのとは真逆の言葉。
そんなことを言うつもりはなかったのに、面と向かうと恥ずかしく、それに近くに他人の目があったから、言えなかった。
私の騎士。剣にして盾。
私の杖。そして、私の翼――ナギ。
お前は今、その翼で、どこを飛んでいるのだろうな。
「む……」
目を開いても、そこにナギはいない。夢だ。いるはずもない。
直線で構成された牢屋。ありきたりな鉄格子のような物ではなく、四方全てが石材の壁。
天井のすぐ側に光を中に入れるための窓があるが、位置が高すぎるためにいまいる場所まで日は届かない。
そのため広々とした部屋は全体的に暗く、むき出しの石の壁と床が温もりを奪っていく。
重犯罪人や政治犯などを収容する、ケルベラス大監獄の一室。
それだけの牢屋に入れられていても、動きを阻害する白い拘束服と革のベルトが外されることはない。
世界を巻き込んだ動乱期の、ほんの短い間の思い出。そしてそれに連なる事柄がどうなったか。
それらを思案し、思いをはせることだけが、アリカ・アナルキア・エンテオフュシア。災厄の女王と呼ばれる己ができる、言い換えれば許された唯一のこと。
悪は倒された。世界は救われた。
だが、己が滅ぼしたウェスペルタティアの民も含め、全てが救われた、という訳ではない。
崩落した祖国。難民を救うための奴隷公認法。各地でくすぶり続ける紛争の火種。残せた物は希望とは名ばかりの悪い物ばかり。
「……もう、終わるのだな」
災厄の女王たる身。アリカ・アナルキア・エンテオフュシア。己がこの身の処刑が、明日、執り行われる。
黄昏の姫巫女……妹であるアスナを手にれるために〈墓守人の宮殿〉の封印を解く方法を知るためだけに生かされてきたが、ついにしびれをきらしたか、それともどこからか方法を見つけたのか。
つい先日来た元老院議員の口ぶりからさっするに後者ではなさそうではあるから、その点については安心できる。
それにしても、いざ自分の処刑となるが、存外することは変わらない。やはり、思案にふけるだけだ。
他にすることもないから当然といえば当然なのだが、なぜ二年もたったこの時になって自分の処刑が決まったのか。
処刑が決まったと言うことは、生かす必要がなくなったか、それとも殺さなければならない理由ができたかのどちらかだろう。
生かす必要が無いというのは無いだろう。そうでなくてはわざわざ髪をつかんで持ち上げてまで問いただしたりはしまい。
かといってしびれをきらしたというには安直すぎる。やはり封印を解く方法がわからないし、他に有力な情報を持つ者がいないのだから、それもない。
「いや、待て。…………もしや、奴が知っていたのか?」
世界は救われた。それは間違いない。しかし全てが救われたわけではない。
同様に、悪は討たれた。だが、全てが根こそぎにされたわけではない。末端の些末な小悪党はごまんといるだろうし、己嵌めたメガロの元老院といった大物も多い。
そんなメガロの元老院であっても、墓守人の宮殿の封印を解く方法は知らない。だがもし自身以外にその解き方を知っている者がいるとしたなら?
例えば紅き翼のアルビレオ・イマ。莫大な知識を集約した奴ならば、知っている可能性は無いとは言えない。
だが、違う。彼ではない。幾ら胡散臭いとはいえ、紅き翼の一人。元老院に情報を売るような人物では無い。
問題は 他にも知っている可能性がある者は他にも数人いること。正確には“いた”であり、そういった人物達は誰も彼も死んだか行方不明。
先のアルビレオしかり、フィリウス・ゼクトしかり、己が父であった前ウェスペルタティア王であり……
「クロト・セイ、か……」
クロト・セイ。完全なる世界の大幹部でありながら、傭兵を自称した男。直接会ったことがあるのはただの一度だけだが、戦場や拠点を置いていたとされるアリアドネーでの評判を聞く限り、相当な術者。それも専門は結界系術式とも。
おまけに、完全なる世界の大幹部となれば、組織の真の目的や黄昏の姫巫女の能力を知っていても何らおかしくない。むしろ自然でもある。
何より、最終決戦の際、その姿はなかったと聞く。紅き翼以外の誰かに討ち取られたとは考えづらい以上、どこかで息をひそめていることになる。
だが……
「……今となっては、もはや詮無きことか」
一度だけだが、実際に話をして感じたところでは元老院に協力するような風には感じなかった。
それが正しかったのかどうかはわからなかい。だが、もはや確かめるすべはない。
「明日、か」
唯一自由にできる首を動かし、はるか上の窓を見上げる。光を取ることだけを目的の窓では、風を遮ることもできず、冷たい空気が降りてきてより体を冷やしてくる。
だが、それでも風を感じることはできる。風は思い出させてくれる。ナギと共に、青空のもとを駆け抜けた、あの短くも充実した日々を。
まただ。ナギ。ナギ・スプリングフィールド。一度はもっとも傍に置き、己の意志で遠くへと突き放した、あの男。
思案していると、ふとしたきっかけで全ての帰結がいつの間にあの男の顔につながっている。
「……ふふ、未練だな」
明日。それで終わり。
憎しみを背負い、真実の一端を隠したまま世界という舞台から、己でその座を奪った父王の言葉を借りるなら儚い泡沫の夢から退場する。
それでも良い。
もはや何もなす事ができなくなったこの身で、まだ何か、元老院のような権勢に執着するのではなく、些細な幸せを求める民草のために結果として何か出来るのならば。
それで、良い。
◆
「空、か。良い天気じゃ」
生涯で、きっと最期になるだろう空。長く見ていなかったが、創造した通りの快晴で、白い荒野と雲に空の青がよく映える。
最期に見るのがこの景色なら、そう悪い物では無い。大きく張り出した細い足場。処刑の為に渓谷の真上。眼下の飢えに狂った魔獣が犇めき合うというのが最期と言うのは、流石にあんまりだろう。
だから、最期の思い出は、この蒼空にする。
これが、最期のわがままだ。誰に迷惑をかけることも無い、大罪人の小さなわがまま。
足場の先端に立ち、そこから更に一歩先へと足を踏み出す。
無論、足場は無い。踏み出した足は空を切り、体勢を崩した体は重力に惹かれ谷底へと向かう。
この処刑を見届けるために来ていた元老院。この処刑法を使ったことで、民たちも溜飲を下げるなどと言っていたが、本音を言えば最期まで何も語らなかった己への意趣返しと自己満足を得るためなのだろう。
だが、あるいはそれもよかろう。この身に憎しみを向ける民が、本当にいるのならば。
風を裂き、落下し続ける。その間、けして目を開くことはない。
そそり立つ白い絶壁も、蠢く魔獣の黒い波も。
最期に見た蒼い空。それを忘れないように。
蒼い空。駆け抜けた翼。
私の翼――私の……ナギ。
「――おう、呼んだか? 姫さん」
「――え?」
一歩を踏み出してから、初めて目を開ける。
そこには。
「っとに随分と軽くなっちまってよ。ちゃんと飯食ってたか? どうせ大した飯なんざ出されなかったんだろうが、それでも食わねぇともたねぇぜ?」
「な、ナギか? 本当に、ナギなのか?」
「おうよっ。あんたの騎士、ナギ様だ」
しかと、己を抱きかかえるナギがいた。
「どうして……」
ずい、と、ナギが顔を寄せる。
「忘れたのか? 俺はまだ、あんたに預けた杖と翼、まだ返してもらってねぇんだわ。んで、利子のついでに姫さんももらうことにした」
「っ! 主という奴は、本当に……!?」
「ま、言いたいことは、姫さんに、もっ! 俺にもある。だがよ、ちょっと待ってくれ。まずはここを切り抜けなくちゃならねぇんだ」
そう言いながらも、ナギは駆け続けている。
ケルベラス渓谷の内部では魔法が使えないため、杖にのって飛ぶこともできない。よって、脱出するには魔法が使える範囲まで魔法抜きで魔獣をかわしたどり着く必要がある。
執念深いケルベラス渓谷の魔獣。口に出すだけなら可能だが、それができないからこそ処刑法として太古より成り立ってきた。
だが――
(あたたかい……)
ナギの腕の中で、アリカはほんのわずかな不安も感じることもなかった。
ハーメルン様で再開してから一から新しく書いたのはこの話が最初。アリカって難しいですね。
挿話は予定では四まで行く予定。それが終わればまたペースが上がる……はず。
ご意見ご感想誤字脱字の指摘批評など、よろしくお願いします。