もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら 作:ヘルシーテツオ
今回の話は大半が独自解釈に基づくものです。
・言及されたのはペット、両親、自分の赤ちゃん。
・うち、明確に食べたと言ったのはペットだけ。
・赤ちゃんができた=相手がいる。
・死産をきっかけに狂ってしまった=それまではまともな感性を持っていた。
・好きなものは『すでに失われている』。
以上、原作からの部分情報より、妄想を広げていった代物です。
あくまでオリジナルであることを念頭においてご覧ください。
これは、とある女の子の物語。
彼女はとても優しい女の子でした。
彼女はとても綺麗な女の子でした。
大好きなパパ。大好きなママ。大好きなペットのペギーくん。
大好きな家族に囲まれて、女の子はとても幸せでした。
けれど、そんな女の子にも、1つだけ辛い事がありました。
女の子は食べ物が食べられなかったのです。
好き嫌いをしているわけではありません。
食べようとしても、吐き出してしまうのです。
食べようとしても、味を受け付けてくれないのです。
一度だけ、パパとママが無理矢理にでも女の子に食べさせようとした事もありました。
その結果を、女の子は覚えていません。ただ二度と、パパもママも、無理矢理に食べさせるような事をしませんでした。
パパとママは嘆きます。
この子はなんて可哀想なのだろう。
食べる事の美味しさを、幸せをこの子だけが味わう事が出来ないなんて。
けれど、女の子はへっちゃらでした。
女の子は食べる事をした事がありません。
だからパパとママが言う、食べる事の美味しさも幸せも知らなかったのです。
知らない事なら、辛いと思う事もないのです。そして吐き出すのは辛い事でした。
自分だけ知らないのは少しだけ寂しかったけど、その代わりにいっぱいの愛情がありました。パパとママは女の子のために、口からでなくとも栄養を取れるようにしました。
女の子は心から、自分は幸せなんだと思っていました。
これは、とある女の子の物語。
彼女はとても明るい女の子でした。
彼女はとても幸せな女の子でした。
いっぱいの愛情に囲まれて。いっぱいの慈しみに育てられて。
たくさんの人に支えられて、女の子はすくすくと成長していきました。
相変わらず、女の子の身体は食べ物を受け付けません。
それでも女の子には愛があります。不幸な事なんてありません。
パパとママに愛されて、ペギーくんを可愛がって、女の子の周りには愛で溢れていました。
時折、お腹がくうくう鳴って苦しくても、女の子は幸せでした。その幸せはきっといつまでも続いていくんだと、決して疑っていませんでした。
女の子は、知りませんでした。
変わらないものなんてありません。終わらないものなんてありません。
幸せも、命も、いつかは必ず終わる時がくるんだという事を、女の子は知らなかったのです。
可愛がっていたペギーくんが死んでしまいました。
命の終わりを、女の子は知りました。命の儚さを、女の子は知りました。
どれだけ愛を注ぎ、幸せに満ちていたとしても、こんなにも簡単に終わってしまう事を知りました。
パパは言います。これは仕方ない事だと。
ママは言います。いつまでも悲しんではいられないと。
命があるなら死もまたあります。いっぱい悲しんで悼んだなら、きちんと前を向いてペギーくんの分も生きていかなくてはならないと。
パパとママの言葉は、きっと正しいものだったのでしょう。
けれどそれをすぐに受け入れるには、女の子はまだ幼すぎました。
それも仕方のない事でしょう。パパもママも、女の子がどれだけペギーくんを可愛がっていたのか知っていました。
すぐにでなくてもいい。きっと時間が女の子の悲しみを少しずつ癒してくれる。パパもママも、そう信じて疑いませんでした。
――お腹がくうくう鳴りました。
女の子は一人になりました。
女の子と、ペギーくんだったもの。
ペギーくんはもう動きません。あんなに元気いっぱい飛び回っていた翼は折れてしまいました。
これはもうペギーくんではありません。この肉塊からペギーくんはいなくなってしまいました。
それは悲しいことでした。命が終われば、そこには何の意味も無くなってしまうのだと、そう考えると胸が苦しくて堪りませんでした。
――お腹がくうくう鳴りました。
何とかしたい。
何かをしてあげたい。
大好きなペギーくんのために、してあげられる事は何なのか。
パパとママは、ペギーくんの分も生きてあげる事がそうだと説きます。
けれど、それは一体何なのでしょう。どうすればペギーくんの分も生きる事になるのでしょう。
ただ長く生きること? ペギーくんが生きた年数分だけ、同じようにきちんと生きること?
なんだか違うと思いました。別にただ生きるだけなら、ペギーくんがいなくても出来たはずです。
――お腹がくうくう鳴きました。
生きるとは何でしょう。
人はどうして生きてられるのでしょう。
当たり前すぎて気付かなかった疑問、色んなことを考えに考えて、その答えに女の子は思い至ります。
人は『食べる』ことで生きているのです。人だけではありません。どんな生き物だって何かを『食べる』ことで生きる事が出来るのです。
ならその食べる『モノ』とは何か? それもやっぱり決まっています。
『命』です。どんな食べ物だって、大元のところには他の『命』があるのです。
生き物は『食べる』ことで他の『命』を貰って生きています。どんな時だって、どんな生き物だって、それは例外ではないのです。
――お腹がくうくう鳴きました。
女の子の手には、動かなくなったペギーくん。
そこに命はありません。けれど命の名残ならあります。
毛や羽も、肉や骨も、かつてペギーくんだったものなのです。
ペギーくんはいなくなってしまいましたが、だからといって残されたものを無碍にして良いわけがないのです。
ペギーくんの分まで生きること。そのためにはペギーくんから『命』を貰わなくてはいけません。
たとえそれが、大切な命であっても、いいえ、大切な命だからこそ、そうしなければならないのだと強く思います。
それこそが、ペギーくんにしてあげられる事だから。それだけが、ペギーくんへの最期の『愛』の証明になるはずだから。
くう、くう、くう、くう、くう、くう、くう、くう、くう、くう――喰う。
パクパク、ムシャムシャ、ゴクン。
女の子は頑張ります。ペギーくんのために頑張ります。
女の子にとって食べることは辛いこと。受け付けずに吐き出してしまいます。
それでもペギーくんのため、その命を貰おうと女の子はすごく頑張ろうとしていました。
最初は『それ』がよく分かりませんでした。
女の子は受け入れていました。吐き出していませんでした。
使ってこなかった顎を必死に動かして、いっぱい『それ』を噛み締めました。
いつしか辛かった事も忘れていました。ただ夢中になって味わっていました。
ああ、本当は知っていたのです。
ペギーくんのために、とても嫌な食べる事をしようとしようとした女の子。
けれどそうではないのです。嘘ではありませんでしたが、全部ではないのです。
ペギーくんを食べようとしたのだって、もっと単純に『そう』思ったからなのです。
ペギーくんの分まで、とか。命を貰わなくちゃいけない、とか。『それ』に比べたなら、本当はとても小さな理由だったのです。
ただ『美味しそう』だと、ペギーくんを見ながら、女の子はそう思っていたのですから。
女の子は『美味しい』ことを知りました。
パパとママが言った『美味しい』ことの素晴らしさがよく分かりました。
そして思います。今まで『美味しさ』を味わえなかった自分は、なんて不幸だったのだろうと。
女の子はすっかり夢中です。
何もかも構ってはいられません。
それほどに美味しいのです。
それほどに幸せなのです。
大好きな、大好きな、わたしのペギーくん!
あなたがこんなにも美味しかったなんて!
女の子は、食べることの喜びを噛み締めて、その幸せを理解してしまいました。
これは、とある女の子の物語。
彼女はとても奇妙な女の子でした。
彼女はとても異質な女の子でした。
どうしてそうなったのか、原因は分かりません。
パパがどんなに調べても、ママがお医者さんに相談しても。
女の子が食べられない理由は分からないままでした。
なのに、女の子は食べられたのです。
理由は分かりませんでしたが、とにかく食べられたのです。
何も食べられなかった女の子が、です。パパとママは喜ぶ事にしました。
まず他のものを試してみました。けれど駄目でした。
次はペギーくんと同じ肉を試してみました。けれど駄目でした。
次はあの時と同じ食べ方で試してみました。けれど駄目でした。
最後には、そのままの鳥の死体さえも試しました。やっぱり駄目でした。
パパもママも困ってしまいました。
やっぱり女の子は食べる事が出来ません。
原因もやっぱり分からないままです。
何もかもが無意味に終わって、期待を裏切られた気分でした。
ですが、無意味ではなかったのです。
女の子は食べ物が食べられません。これは今までと同じです。
けれど今の女の子は知っています。食べる事の美味しさと幸せを。
期待していたのはパパとママだけではなかったのです。二人の色々な試みに付き合っていたのも、また食べる事の美味しさと幸せを味わうためでした。
なのに、吐き出してしまいます。
食べる事は苦しいばかりで、全然美味しくも幸せでもありません。
だからこそ求めます。何を食べればいいのか、自分は何を食べたがっているのかを考えます。
みんなが美味しいと言うものは欲しくありません。
一流のコックが作った高級料理も、
新鮮なフルーツの盛り合わせも、
いっぱいのケーキやお菓子の山も、
レンレンバーガーのバーガーセットメニューも、
どれも食べたいとは思えません。
そうしていっぱい考えます。美味しいものは何なのか。
考えて、考えて、考えて、考えて、考えて――――ふと気が付きました。
くうくう、と。
食べたいなと思うのは、決まって誰かと居る時でした。
それは仲の良い友達であったり、
それは親切にしてくれる隣人の人たちであったり、
それはいつも女の子を支えてくれるお医者さんであったり、
優しくしてくれる誰か、温かく接してくれる誰かでした。
そして女の子の心も温かくなると、決まって全く別の感情が沸き上がってくるのです。
女の子には、それが何なのか分かりました。
女の子は食べたいという欲求を知っています。
女の子は食べる幸せを味わった事があります。
パパやママが言っていた事も今なら分かります。その美味しさも幸せも、ちゃんと実感したのですから当たり前です。
そう、女の子には分かっていたのです。
自分が何を欲しがっているのか、とうの昔に理解していたです。
食べることは、命を貰うということ。その命の分まで生きていくということ。
食べられなかった女の子にとって、食べることはそれだけで重いこと。何よりもその命を重んじるための『愛』の表現であったのです。
他の人の例なんて上げるまでもありませんでした。
だって、誰よりもそうしたい人はすぐ近くにいたのです。見て見ぬ振りをしていても、本当はいつだって欲しがっていたのです。
大好きなパパ、大好きなママ。女の子を最も愛し、愛されている彼らこそ、女の子が最も欲しがっているものだったのです。
もう、どういう事なのかも分かっていました。
女の子が食べたいと思うもの、それは代わりの何かじゃなくて。
女の子が大好きだと思う"誰か"こそ、女の子の食べたい物だったのです。
これは、とある女の子の物語。
彼女はとても誠実な女の子でした。
彼女はとても不憫な女の子でした。
女の子が食べられるのは、女の子が大好きになったものだけ。
それはとても異常な事です。普通の人たちとは明らかに違います。
例外的な拒食症、とお医者さんは言います。だけど結局、治し方は分かりません。
女の子にとって、それはもうどうでもいい事です。大事なのは食べたいと思う心をどうするかでした。
食べたい物は分かりました。なら後は食べるだけです。
最初は普通の食べ物を好きになってみようとしました。
そうすれば女の子もみんなと一緒になれます。みんなと同じ物を食べられるのです。
けれど駄目でした。女の子が食べたいのは『何か』ではないのです。『誰か』なのです。
名前も知らないその他の何かを、どうやって好きになればいいのでしょう。何処の何とも分からない食材たちに、どんな好きを抱けというのでしょう。
ただの好きではありません。大好きなのです。女の子の心を温かくしてくれる人たちです。こんなにも優しくしてくれるパパやママたちなのです。
そんな人たちと、どうして単なる食材を同じになんて思えるのでしょうか。
女の子の食べたい物は、すぐに見つかるものでした。
女の子の食べたい物は、簡単には手に入らないものでした。
食べたい物は目の前にあります。お腹がくうくう鳴きました。
でもそれは食べてはいけないものです。すごく苦しくなりました。
どうして食べてはいけないのでしょう。女の子は考えます。
パパのことが大好きです。ママのことが大好きです。大好きだからこそ、その命を貰うのです。
だってそれこそが愛の表現だから。貰った命の分だけ生きることが、パパとママにしてあげられる一番のことだから。
パパとママが大好きです。愛しているのです。
愛に貴賎なんて無いけれど、やっぱり順番というものはあります。
確信を持って言えます。ペギーくんよりも、彼らの事をもっともっと愛していると。
そんなに愛している彼らなら、きっと舌が蕩けるくらい美味しいでしょう。いっぱい幸せになれるに違いありません。
そう思うと、たまらなくなりました。とても我慢できなくなるくらい、お腹がくうくう鳴きました。
女の子は告白します。自分の気持ちを。
女の子は曝け出します。己の本性を。
それは異常です。それは畸形です。それは人として在ってはならない姿です。
それは『怪物』と呼ばれるものでした。皆から拒絶されるべき存在でした。
人であったパパとママに、女の子はどう映ったでしょう。自分たちの娘が顕した醜悪さを、果たしてどんな気持ちで受け止めたのでしょう。
さぞや苦しかったに違いありません。悲しくて、何より恐れを感じていたことでしょう。それでも彼らは、女の子に対して答えを返しました。
――いいや、それは間違っていることだ、と。
大好きなパパ、大好きなママ。
2人は良い親ではありませんでした。
2人は悪い親ではありませんでした。
女の子のパパとママは、素晴らしい親だったのです。
二人は言います。食べる事と愛する事は違う行いだと。
そんな道理は『怪物』だけのもの。人間の持って良いものではない。
だって人間は生きたいのだから。人間の気持ちを理解できる、同じ人間がその思いを踏み躙る行為を、愛しているなどと言ってはいけない。
女の子の本性を知っても、2人は逃げませんでした。
女の子の異常性を前にしても、目を背けず正面から向き合いました。
2人は受け入れます。
自分たちの娘が異形の何かである事を、しかと胸に刻みました。
その上で、決して人から堕ちる事がないように、人としての道理を説いたのです。
怪物のようだった女の子に、おまえは『人』だと。
人間としての道理を踏み外していない、ちゃんとした『人』なんだと。
誰よりも愛している、大切なわたしたちの『娘』なんだよ、と。
これは、とある女の子の物語。
彼女はとても恵まれた女の子でした。
彼女はとても恐ろしい女の子でした。
大好きなパパとママ。親としての慈しみを持った2人。
彼らのおかげで女の子は人間のままでした。
彼らが説いた人としての在り方を信じました。
けれど、女の子のお腹はいつまでも空いたままです。
飢えています。渇いています。点滴からの栄養では癒されません。
一度知ってしまった幸せは苦しみの裏返しでもあります。女の子はとても苦しみました。
いつの頃からか、女の子の中には『怪物』が住み着くようになりました。
"どうしてこんなにも苦しまなければならないのか"
怪物は囁きます。
女の子が我慢している横で、嘲笑うように囁くのです。
"どうしてこんなにも我慢しなければならないのか"
怪物は囁きます。
パパとママの2人を指し示して、蔑むように囁くのです。
"どうして自分ばかりが損をしなければならない"
"命を貰っているのはみんな同じなのに、わたしだけが駄目"
"わたしが食べたいと思う気持ちばかりが否定される。こんなのは不公平じゃないか"
パパとママは言います。それは人としていけない事だと。
けれどそれは正しいのでしょうか。時間と共に疑念は深くなります。
誰だって命をもらって生きているのです。他の何かを殺して生きているのです。
なのに女の子だけが我慢しています。女の子だけが食べてはいけないのです。
納得なんて出来ません。疑念は不満となって、しこりのように残り続けます。
少しずつ、少しずつ、女の子の中で"
パパとママの説く言葉も、次第に届かなくなっていきます。
女の子の中に真っ黒い気持ちが育っていきます。
パパとママを見ていると、頭には恐ろしい思いが浮かんできます。
その肉に食らいついて、思う様に貪ったら、
その喉を掻っ切って、溢れ出る鮮血で渇きを潤したら、
その内蔵を引き摺りだして、したたる味わいを楽しめたら、
その頭をかち割って、中の脳漿を啜り飲めたら、
それはどんなに美味しいのでしょう。きっと幸せになれるに違いありません。
"自分は他の人とは違う。けれどそれは自分が悪いのか?"
"わたしは何も悪くない。なのにみんなが、わたしのことを悪いように扱ってる"
女の子は食べられない自分を恨みます。
女の子は食べさせない周りを妬みます。
どうして、どうして自分だけが!? 女の子は理不尽を呪いました。
"苦しい。辛い。悔しい"
"どうしてどうしてどうして"
"わたしはみんなと一緒じゃないんだろう"
やがて、女の子の心は誰からも離れていきました。
パパとママは大好きでしたが、恨めしくもありました。
女の子は食べられないのに2人は食べているのです。
女の子が味わえない幸せを2人は味わっているのです。
女の子の心はますます独りになりました。
女の子は独りきりです。
誰にも女の子の気持ちは分かりません。
誰にも女の子の苦しみは理解できません。
女の子がどれだけ飢えて、食べる事を求め欲しがっているのか、何気なしに食べているような人たちには想像さえつかない出来ないでしょう。
食べる事は生きる事です。食べられない女の子は、満足に生きる事さえ出来ないのです。
女の子の心は、緩やかに堕ちようとしていました。
これは、とある女の子の物語。
彼女は怪物のような女の子でした。
彼女は人とは違った女の子でした。
女の子は、パパとママの言いつけを守っていました。
どんなに苦しくても、どんなに恨めしくても。
女の子は彼らが大好きでした。その心はまだちゃんとありました。
だから女の子は『人』のままです。今にも堕ちそうな危うさではあったけど、女の子は決して『怪物』などではありませんでした。
それでも、女の子の中の『怪物』の囁き声は聞こえてきます。
大好きだから、食べたい。大好きな人たちの命だから、欲しくてしょうがない。
それを疎ましいとも耳障りとも思いません。時折、その『怪物』が自分自身のように思える時があります。
痩せ細った身体、眼には暗い光が灯っています。
昔の明るさは何処にもありません。産まれ持った美しさも台無しです。
いずれ自分は怪物に負けてしまうのだろう。女の子はそう思っていました。
そんなある日のことです。
大きな音がしました。引っ繰り返った衝撃がありました。目の前の景色が急転していました。
何が起きたのか分かりません。ただ家族みんなで出掛けていた時、それは突然起こったのです。
――気が付いたら、女の子の目には『ごちそう』が映っていました。
パパからはいっぱい血が流れています。
ママからもいっぱい血が流れています。
女の子は静かに理解しました。ああ、パパとママは死んでしまうんだな、と。
"――タベタイ"
女の子の中の怪物が騒ぎ出します。
"タベタイ。タベタイ。タベナクチャ"
食べる事は生きる事です。どんな生き物も他の命を貰って生きています。
受け取った命の分まで生きる事。それはどんな人にとっても正しい事です。
命が無くなれば、そこにはパパとママもいなくなってしまいます。それを見過ごすことなんて出来ません。
大好きなのです。心から愛しているのです。誰より愛している二人だから、その命を無碍に扱うことなんてしてはならないのです。
"ガマン ナンテ イラナイ"
"ダッテ コレハ タダシイ コト ナンダカラ"
"ソレニ アア ナンテ モッタイナイ"
無駄になんてしません。
その肉はもちろん、眼も、歯も、爪も、髪も、残してはいけないから。たとえ一片でも、大好きな人の命を無為になんて出来ないから。
いっぱいいっぱい感謝して、その命をいただきます。それこそが女の子の"愛"なのでした。
女の子は嬉しいです。ずっと待ち望んでいたものを口に出来るのですから。
女の子は悲しいです。大好きだったパパとママにお別れをしなければいけないのですから。
怪物は囁きます。お腹はくうくう鳴っています。ポロポロ涙が零れます。
生きるためには食べなければなりません。食べるためには他の命を貰わなければなりません。
女の子と他の人に違いなんてありません。ただ命をもらうべき相手が限られているからと、それの何が悪いというのでしょう。
さあ、いただきましょう。
このとびっきりのご馳走を堪能しましょう。
お残しなんてしません。精一杯の愛情で髪一本まで食するのです。
待ちに待った瞬間を迎えて、『
――そうだ。おまえは何も間違ってはいない。
それはパパの声でした。
死にかけた身体で、弱々しく絞り出す声で、パパは女の子へと語りかけました。
パパは言います。
食べたいと思うのは当たり前の事。生きるために食べるのを責められる者はいない。
たとえその形が他人と異なっていたとして、それが罪になるなどあるものか、と。
そんなパパの言葉に頷くように、ママの抱き締める手が強くなります。
その手は女の子を庇うように抱かれています。身を挺して、女の子が傷つくまいと守り通していました。
ママから伝わる温もりが、消えて尽きようとしているママの愛が、そこにはありました。
パパは言います。ママは頷きます。
だからこそ辛かった、と。
愛する娘を同じように理解してやれない事が、どうしようもなく悲しかったと。
女の子は初めて知りました。
パパとママがこんなにも苦しんでいた事を。
みんなと同じになれず苦しんでいる女の子のように、愛する娘を同じく理解してやれない自らの事を、パパもママも嘆き悲しんでいたのだと。
パパとママは、女の子に言いました。
だからこそ、こうなって初めて『あげられる』。
愛する娘のために、本当の意味でしてやれる事が出来たと、穏やかな声で言いました。
――"食べなさい"。
女の子の"性"はまともなものではありません。
愛する者しか喰らえない。それはなんておぞましい事でしょう。
けれど、『命を貰う』ことならば、どんな生物だって同じです。
人と怪物の違いとはなんでしょう。その線引きは何処でされるのでしょうか。
ただはっきりしているのは、パパもママも、女の子を受け入れているという事でした。
命とは回るものです。どんな命も、他の命を繋いでいます。
ならばこうして死に瀕した命を貰う事は、生物として正しい行いでしょう。
それをパパとママは受け入れました。愛する娘のために、自分たちの命を捧げる事を決めたのです。
その愛に、女の子は思い知りました。
自分がどれだけ深く愛されていたのかを。それがどれほどの幸福であったのかを。
そして、そんな愛を喰らわずにはいられない、己自身の呪わしさを思い知らされたのです。
女の子は泣き崩れました。
失われていく、大好きなパパとママの命を嘆きました。
己の中で、今も叫び続ける怪物の醜さを疎ましく思いました。
どうすることが正しいのか、女の子には分かりません。
パパも、ママも、怪物も、きっと誰もその答えを持ってはいないのでしょう。
ただ、女の子は泣き続けました。正しさなんて知りません。張り裂ける心から溢れ出る思いの限りに泣き暮れました。
何もかもを振り捨てて、そうする事しか女の子には出来ませんでした。
女の子は、パパとママを食べませんでした。
愛していたからです。
これは、孤独な女の物語。
彼女は怪物のような女の子でした。
彼女は愛の尊さを知った女の子でした。
かつて女の子だった娘は、女性として育っていました。
けれどその周りに人はいません。彼女は孤高であり、孤独でした。
決して、誰とも深い関わりを持たないように。
決して、誰にも深い思いを抱かないように。
無感の仮面をその面貌に被り、あらゆる人の接触に拒絶の壁を敷き詰めました。
それはまるで、深淵の暗黒の如く触れ難く、凍てつく氷雪の如く総てを拒むもの。
誰も彼女に踏み込もうとはしませんでした。生半な覚悟では、彼女の心に触れる事すら出来ませんでした。
彼女は己の呪わしさが分かっていました。
愛する人しか口に出来ない、そのおぞましさを理解していました。
自分自身の"性"を異形だと定めたのです。人の世に出してはならないものだと。
彼女は内の『怪物』を封じる事に決めました。一生、自分の中で抱えていくのだと決意したのです。
彼女は、誰も愛さないと決めました。
愛してしまえば、それは自分の中の『怪物』を呼び覚ます事になります。
もう二度と、恐ろしい『怪物』を表に出すことのないように。たとえそのために、何も食べる事が出来なくても。
その苦しさだって覚悟の上でした。彼女の決意は固いものでした。
彼女はいつだって独りぼっち。
何処にいても、誰といても、その心は常に一人。
そこに愛はありません。幸福もまたありません。
自身の『怪物』を否定する。それこそが『人』として、彼女の選んだ生き方であったのです。
人は辛さに耐える事が出来ます。
誰とも繋がらない孤独にも、求めたがる食欲にも、彼女は耐えます。
やがてそんな辛さにも、人の心とは慣れていくものなのです。どんなに辛いと思えても、自然と受け入れられるようになります。
『怪物』の声も、いつしか聞こえてこなくなりました。被り続けた無感の仮面も、彼女にとっての本当の顔になっていました。
孤独こそが、今の彼女にとっての真実なのです。
誰とも心を通わせない、独りきりで閉じた世界。
それが彼女です。『怪物』などではない、心を閉ざした『人』の姿がありました。
愛も幸福も求めずに、ただ無感動のまま在り続けること。そんな生き方こそ、彼女の世界にとっての"平穏"であるはずでした。
――そんな彼女の世界に、ある一人の"男性"が現れます。
彼女とも同じ年頃の、澄んだ真っ直ぐな瞳が特徴的だった人。
最初は彼も、彼女にとって他の多くの人たちと同じでありました。
彼女の拒絶に気圧されて、同じようにやがては離れていくはずでした。
けれど彼は離れませんでした。いつも彼女と近い場所に居ました。
最初は奇妙に思うだけでした。長続きはしないだろうと思っていました。
やがてはそんな彼との交流にも慣れてきました。彼と居る時間に違和感を覚えなくなりました。
そしていつの間にか、自分が彼という存在を受け入れ始めている事に気付きました。
彼女は彼に問いかけます。
どうして自分などに関わろうとするのかと。
自分が他人を遠ざけようとしているのは分かっているはずなのに、何故わざわざ踏み込んでこようとするのかと。
同情ならば、すげなく断るつもりでした。
好奇心ならば、より強く拒絶するつもりでした。
助けなんていりません。期待されても困ります。これが彼女の生き方なのです。
『怪物』ではなく『人』として生きていくこと。そのために人を遠ざけようとするのは、もしかしたら間違っているのかもしれません。
けれども、彼女にはそれ以外にないのです。愛してしまえば、食べたくなるから。理屈の正しさではどうしようもなく、それは心の問題でした。
仮に間違っていると言われても、彼女には届かなかったでしょう。彼女の心を理解できるのは彼女だけ。その苦しみが分からない人に言われて何になるというのでしょうか。
彼は答えました。
始まりは、確かにその2つが理由であったと。
独りきりなのを可哀想だと思った。どうしてそうするのか不思議に思った。
だからこそ知りたいと思ったのだと、彼は答えます。そしてそれこそが、彼女と共にいたいと思う強い動機になったのだと。
彼の瞳は、とても澄んでいました。
その真っ直ぐな眼差しは、人の持つ本当の気持ちを映すものでした。
そんな彼が、心から知りたいと願い、多くの時間を過ごしたからこそ、覆い隠されていた彼女の本物の心を見抜けたのです。
優しく、綺麗な。
明るく、幸せな。
奇妙で、異質な。
誠実で、不憫な。
溢れんばかりの愛に恵まれた、美しい真実の彼女に気付けたのです。
だからこそ、彼は言います。これは仕方ないことだと。
損得ではないのです。正しいとか間違いとか、どうだっていいのです。
そんな理屈では抑えられない、素敵な気持ちが溢れてくるから、彼は決して止まりません。
どんなに壁を敷き詰めても、彼は諦めないでしょう。どんなに拒まれても、彼は手を伸ばしてくるでしょう。
それは心の問題なのです。彼女の心を彼女しか理解できないように、彼の思いを止められる者もまた、彼だけしかいないのですから。
――うん、仕方ない。君のことが好きになったから、君と一緒にいたいんだ。
きっとそれは、致命的な言葉でした。
気持ちは理屈では抑えられません。それは彼女がよく知っています。
暗黒が晴れていくのを感じました。氷雪が溶けていくのを感じました。
ずっと眠っていたはずの『怪物』が、ゆっくりとその鎌首をもたげるのを感じていました。
彼女もまた、彼に『恋』をしてしまいました。
これは、不幸な女の物語。
彼女は恐怖を知っている女の子でした。
彼女は自分の恐ろしさを理解している女の子でした。
彼女は、彼の前から姿を消しました。
彼の思いに応える事もせず、自分の気持ちに向き合う事もなく。
彼女は逃げ出したのです。それ以外にどうしたらいいか分からなかったのです。
お腹がくうくう鳴っています。
目覚めた『怪物』の声が聞こえています。
彼女の内を喰い破って、今にも外へと飛び出してきそうな、獰猛な訴えでした。
ずっと我慢してきたのです。その分だけ『怪物』の飢えは強烈でした。
だから彼女には逃げるしかなかったのです。
彼女はずっと耐えてきました。誰とも深く関わらず、自ら愛を遠ざけていました。
けれどそれは、決して戦っていたわけではなかったのです。自分の中の『怪物』から、彼女はいつだって逃げてきたに過ぎないのです。
こうして直に向き合えば、きっと耐えられないと知っていたから。だから心に封をして、自分の『怪物』が表に出てこないようにしてきただけなのです。
愛は理屈ではありません。
気付いてしまえば、その気持ちから逃れる事は出来ません。
抑えようとすれば気持ちは強くなります。忘れようとしても自覚はより深くなります。
そして彼女にとって、それは自らの『怪物』を大きくする事でもあります。彼への思いを募らせれば募らせるだけ、彼を食べたいという"欲望"が沸き上がってくるのです。
――タベタイ、タベタイ、タベタイ。
ああ、心が軋んでいく。
――タベタイタベタイタベタイタベタイ。
こうなりたくなかったから、ずっと耐えてきたのに。
こんなおぞましい自分を見たくないから、ずっと目を背けていたのに。
――タベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイ――!!
彼女の愛はあまりにも苦しいものでした。
彼女の愛はあまりにも切実なものでした。
愛とは求め欲する感情です。それは誰でも変わりません。
けれど彼女が求めるものはあまりにも致命的でした。そのたった一点の違いが、彼女をこんなにも他人と違うものに変えていたのです。
それは人が受け入れられないものです。
その『怪物』は人と共存できないものです。
だから封じるしかありません。『人』として生きていくにはそれしかないのです。
だから、やっぱりこれで良かったのです。たとえ逃げてるだけだとしても、これで愛した人を傷つけずに済んだのですから。
だからこそ、そんな自分の気も知らずに、再びのこのこ現れた彼を見て、彼女は強い怒りを覚えました。
彼の能天気さが度し難かった。
彼の危機感の無さが信じられなかった。
どれもこれも、彼が真実を知らないから。だから彼女は、自分の全てを吐き出していました。
パパとママ以外、誰にも話した事がない真実を。
自分の中にいる『怪物』の正体、愛した人を食べたくなる異質の"食欲"を。
もしも理解しないのなら、今度こそ拒絶するつもりでした。信じられないならそれまでだと思いました。
なのに、彼は驚きもしませんでした。
彼は言います。君の事を知るために頑張ったと。
どうして姿を消したのか、その理由を知らなければ追いかける資格がないと思ったから。
昔の主治医だった人を当たり、色々な関係者たちを当たり、全てを知る人がいなくても様々な断片から真実に辿り着いたのだと。
彼の至った真実は、彼女の真実を捉えていました。
彼は彼女が『怪物』だと知っています。それでも彼女の前に現れたのです。
彼は彼女がどうして姿を消したのか知っています。それでも彼女の前に現れたのです。
好きだから。愛しているから。言葉は月並みで、けれどそれ以上のものなんてあり得ない、心からの思い。
そこに嘘はありません。それは彼女にも分かっていて、だから彼が覚悟を持ってここに来た事を理解してしまいました。
――ああ、この愛のためだったら、命と引き換えにしたって構わない。
まるで自然な事のように、その言葉は彼の口から出ていました。
きっとそれくらい、彼にとっては当たり前の事だったのでしょう。
人か怪物かなど、瑣末な事です。そこに本当の愛があるのなら、彼らのような人たちは我が身を捧げる事だって躊躇ったりはしないのですから。
そんな人たちの事を、彼女は知っています。
それは彼女を育んでくれた人たちでした。彼女を慈しんでくれた人たちでした。
大好きだった、パパとママ。彼らもまた、愛する
彼らの素晴らしさを知っています。その思いの尊さを知っています。彼女の周りにはいつだってそんな愛を持つ人たちで溢れていました。
そう、だから、彼女は思い知らされずにはいられなかったのです。
そんな素晴らしい彼らから、奪う事のおぞましさを。
彼らのような者たちを貪る事しか出来ない、己自身の呪わしさを。
彼女は思わずにはいられません。どうして自分のような『怪物』の周りには、こんなにも素晴らしい人たちばかりがいるのか。
彼女だって彼らが大好きです。嫌いになんてなれるわけがありません。けれども彼女の愛は、そんな彼らを食べる事しか出来ないのです。
それが彼女には耐えられません。
愛する人に与えたいと思うのは彼らだけではありません。
好きな相手に報われてほしい。幸せになってもらいたい。そう願うのは誰であれ同じ、不思議でも何でもない当たり前の事なのです。
彼女の性は紛れもない『怪物』です。
愛した者を喰らいたい。そんな衝動を生まれ持った彼女の魂は、確かに異質な形をしているのでしょう。
それでも彼女は『人』なのです。与えられてきた多くの愛が、彼女を真っ当なまま『人』の位置へと留めてきたのです。
だからこそ彼女は苦しんでいるのです。いっそ『怪物』に堕ちてしまえばどれほど楽か、そう思いながらも『人』に留まる事を止めようとはしませんでした。
それもまた、たくさんの愛を与えられてきたから。
彼女に愛をくれたのは『人』だから、奪うしかない『怪物』になんてなりたくない。
それこそが彼女の本心です。それだけのために、彼女は今日まで過ごしてきたのです。
語られた彼女の本心に、彼は頷きます。
それでも彼は彼女の前から去ろうとはしませんでした。
彼は言います。ここで去るのなら、最初からここまで来てはいない。
彼女の真実を知り、こうしてやって来たその時から、既に覚悟は出来ていると。
だってそうだろう。幸せになってほしいと君は言うけど、君のいないままの世界で、どうやって幸せになればいいのか、と。
愛は、理屈ではないのです。
損得でも、正しいか間違っているかでもありません。
どうしようもない感情なのです。求めずには、与えずにはいられないものなのです。
人も怪物もありません。ここにいるのは彼と彼女、どちらも愛のためにこうしているのですから、それぞれの思いを貫いたがための結果でした。
そして、互いが思いをぶつけ合った今、どうするかもまた彼ら次第。
正しい解答なんてないのでしょう。彼ら自身の心に従うしかないのです。
彼は、真実を知っても彼女と一緒にいる事を望みました。ならば次は、彼女は答えを出す番です。
彼女は『怪物』のような女の子でした。
今も彼女の中の"食欲"は、彼を求め欲し続けています。
これを無くす事は出来ないのでしょう。彼といる限り、『怪物』はいつも彼女の中で暴れ狂っているに違いありません。
それは彼のことを愛しているから。不純のない清廉な思いで、彼のことを見ていたから。『怪物』のような彼女の心は、どんな『人』よりも純粋でした。
彼女の心は、答えを出しました。
彼女は、彼を食べませんでした。
愛していたからです。
これは、幸福を掴めた女の物語。
彼女は愛を与える喜びを知る女の子でした。
彼女は愛を与えられる幸せを知る女の子でした。
彼女は、彼と一緒になる道を選びました。
裡の『怪物』は変わりません。それでも彼女は選びました。
それは心に従った選択でした。彼女は愛のために逃げるのではなく、己の中の『怪物』と戦っていく道を選んだのです。
もちろん、そこに保証なんてありません。
いつかは負けてしまうかもしれません。この選択を後悔する時がくるかもしれません。
それでも彼は、彼女のことを恐れませんでした。そのおぞましさを知りながら、彼女を支える決意をしました。
その苦しみの元凶が自分であると理解して、その上で彼女の前から去らず、自分の心に従った対価として、精一杯の愛で尽くすことを覚悟したのです。
人として、彼らは愛し合いました。
人として、彼らはたくさんの時間を共有しました。
人として、彼らはお互いの幸せを育んでいきました。
彼らは信じていました。
これからの生涯を、一緒に歩んでいけると。
その果てがどんな結末でも、2人で立ち向かっていけると。
そして未来がどうであれ、今という幸せに嘘なんてひとつも無いのだと。
2人の心に曇りはありません。
彼らは幸せを信じ、そのために戦っていく意志があります。
ならばその思いは尊重されるべきでしょう。たとえ結末が幸福であれ悲劇であれ、その過程には彼らの苦悩や葛藤、揺れ動く気持ちの如何が描かれるべきです。
けれども、彼らは知りませんでした。
これは物語ではありません。現実とは、もっと無残で理不尽なものであると。
愛も決意も、そんな不条理の前では何の意味も為さないのだと、彼らは知ら無さすぎました。
これは、幸福を掴めたはずの女の現実。
それは何の変哲もないはずの日でした。
彼も、彼女も、また2人の明日がくると疑っていませんでした。
何かの因果があったわけではありません。誰かの悪意があったわけでもありません。
あえて言えば、間が悪かったと、それだけの話です。
変わらない日常の中でした。
掛かってきた連絡は、あまりにも唐突でした。
彼女は何の予感もしてませんでした。何の覚悟も出来てませんでした。
きちんと受け止める事さえ、きっと出来てはいなかったでしょう。
その時の事を、彼女はよく覚えていません。
何かの事故が起きたのだと、そんな事を言っていたような気がします。
大事なのはそんな事ではありません。彼女が"誰"を失ってしまったのか、唐突ですが覆しようがない事実がそこにはありました。
決断した2人の結末は、怪物も人も関係ない『ありふれた不幸』でしかありませんでした。
彼女は、彼を食べられませんでした。
愛していましたが、特に関係はありませんでした。
これは、幸せを掴めなかった女の物語。
彼女は愛を一度失った女の子でした。
彼女は愛を再び失った女の子でした。
彼女の愛は、深く、重い。
それは決して代えが効かないもの。二度は手に入らない奇跡のような珠玉。
あるいは、愛に貴賎も格差も無いのかもしれない。それでも、彼女のそれが他の人たちよりもはるかに得難いものなのは事実。
失われた愛の尊さは、代わる絶望の闇を深くする。
もたらされた光は、再び彼女から消えて無くなる。
喪失の衝撃は計り知れない。手に入れてしまったからこそ、その痛みは心に刻まれる。
彼女はずっと孤独の中で耐えてきた。
けれどそれは、決して彼女の強さを意味しない。
苦しさに耐えようとするのは強さではない。苦しさに打ち勝とうとしてこその強さである。
その強さは、もはや彼女から失われた。再び独りとなった彼女に、この孤独を耐え抜く事は出来はしない。
人は、希望を持たずとも生きていく事は出来る。
しかし、希望を奪われてから立ち上がる事は難しい。
それを成し遂げられるのは、芯にある強さ。他人には依らない、自立した価値観と確かな自信。
彼女にはそれが無い。自身の『怪物』を認めずに否定してきた彼女には、それだけはどうしても持つことが叶わない。
折れるしかない。挫けるしかない。心は嘆きと絶望に堕ちて、彼女は二度目の悲劇を前に、真の意味で意志を屈するより他にない。
――けれど、彼女は絶望しませんでした。
彼女の希望は、彼女の中にありました。
失われた彼との愛は、けれども遺したものもあったのです。
彼女の中には新しい命が宿っていました。それが彼女を繋ぎ留めました。
愛すべきものは残っていたのです。それを自ら放り出すのは、決して許されない事でした。
嘆きと絶望より、彼女は立ち上がりました。
愛すべきもの、守るべきもののために、屈するわけにはいきませんでした。
親子としての愛を与えられ、男女としての愛を育んで、そして母としての愛を注ぐ。
愛こそが彼女の人生の光でした。愛があったから、彼女は未だに『人』としての道を歩むことが出来るのです。
彼女にとっての愛とは、それほどに切実で、命を懸けても守らねばならない尊いもの。そのためならば、どんな絶望の闇の中でだって立ち上がってみせましょう。
あらゆる苦しみに耐えましょう。
あらゆる困難にも立ち向かいましょう。
この身に巣食う『怪物』も、生涯をかけて背負い続けてみせましょう。
だからどうか、生まれ出でる新たな魂に祝福を。この子の未来に、どうか多くの幸があらんことを――。
彼女は祈りました。精一杯祈りました。
そこに虚飾はありません。そこに迷いはありません。
その愛の真実を穢すことは、きっと神にも悪魔にも出来ないでしょう。
幼稚なほどに真っ直ぐで、獰猛な欲求であるからこそ打算の余地が微塵もない。きっとそれは地上のどんな思いよりも誠実で、清らかなものであったはずです。
けれど、彼女は思い出すべきだったのです。
いえ、思い出したところで意味は無かったのかもしれません。
現実とは不条理で、理不尽とは唐突で、そこに思いの尊さなんて何も関係しないのだと。
その残酷さを、彼女はとうに思い知っていたはずなのですから。
結論から言いましょう。
彼女は母にはなれませんでした。
その手に愛する子を抱くことは出来ませんでした。
産まれてくるはずだった命は、産まれてはきませんでした。
胎から出てきた我が子は、彼女に産声を聞かせることはありませんでした。
彼女が産んだ子供は、死産でした。
彼女は、自分の子供を食べられませんでした。
愛していましたが、抱きしめることさえ叶いませんでした。
何がいけなかったのでしょう。
どうしてこんな結末になるのでしょう。
彼女の物語の、いったい何処に原因があったというのでしょう。
彼女は考えました。
行き場もなく荒れ狂う、業火のように煮え滾った怒りの中で。
喪失の現実に打ちのめされて、洪水のように溢れ出てくる嘆きの中で。
憤怒が、悲嘆が、疑念が、際限なく堂々巡るその心で、彼女は思っていました。
何故、どうして、自分にこんな、この理不尽の理由は何なのか。
彼女は『人』として生きてきました。彼女は『怪物』に耐えてきました。
それなのにどうして、どうしてこうも残酷な運命が訪れるのか。
『人』として生きた事が罪だというのか。『怪物』がそのように生きた事がそれほどに悪しき事だとでもいうのか。
彼女は考え続けました。考えて、考えて、この結末の因果を探し続けました。
そして、彼女は答えを出します。
きっと自分の中の『愛』のカタチに正直でなかったのがいけなかったのだと。
素晴らしい『愛』を、怪物だなんだと決めつけて、拒み続けたのが不実だったに違いない。
だってほら、もしも『愛』に正直であったから、みんなを失うことなんて無かった。
パパもママも、愛し合った彼も、愛してあげたかった我が子も、今もずっと一緒だった。
ペギーくんのように、命は一緒になって永遠だったはずなのに。
ごめんなさい、パパ。
ごめんなさい、ママ。
ごめんなさい、大好きなあなた。
ごめんなさい、大好きな赤ちゃん。
愛してあげられなくてごめんなさい。一緒になれなくてごめんなさい。
今度こそちゃんとするから。次は間違えないできちんとやるから。
わたしは悪い子でした。これからは立派な『怪物』になりますから。
だから、だから、だから――――どうか、愛させてください。
けれど、その相手はもういません。
愛とは切実で、命よりも重く尊いもの。
どんなに飢えても、苦しく辛くても、"とりあえず愛する"なんて出来るわけがありません。
愛したい。愛したいのに、愛せない。ああ苦しい。泣きたくて泣きたくて、けれど涙もとうに枯れ果てて。
いつしかその心までも尽き果てながら、彼女は愛を求めて彷徨っていきました。
ランルーくんは食べるのが大好きです。
おいしくなるよう頑張りましょう。
最高の食材を、最高のレシピで料理します。
焼きすぎ、かけすぎはいけません。大切だからこそ丁寧に、愛情だけはいっぱいに。
素材を活かした最高級の味わいに。出来上がったならいただきましょう。
漂ってくるいい香り。見ているだけでお腹がくうくう鳴っています。
お残ししてはいけません。貰う命に感謝を込めて、おいしくおいしくいただきます。
けれど、ランルーくんは食べられません。
どうしてなのでしょう?
やってきたのはお月さま。
とても素敵なところです。だって素敵な"食材"がたくさんあります。
さあ、いっぱいいっぱい食べてあげましょう。丁寧に真心込めて
そうすれば、ホラ、ご馳走は目の前に。待ちに待ったこの瞬間を、精一杯に楽しみましょう。
けれど、ランルーくんは食べられません。
どうしてなのでしょう?
ランルーくんには分かりません。
どうして食べられないのか分かりません。
こんなにお腹がすいてるのに。こんなにみんなの事を愛しているのに。
ランルーくんのお腹はいつもペコペコ。苦しくて悲しくて、泣きたくて仕方ありません。
けれど涙は出てきません。これもどうしてなのか分かりません。
アア、オ腹 ガ スイタナア。
聖杯にお願いすれば、いっぱい食べられるのでしょうか?
聖杯にお願いすれば、いっぱい愛せるのでしょうか?
ランサーはそう言います。やっぱりランルーくんには分かりません。
もしも本当に、世界が愛するものでいっぱいになったのなら、なんて素敵な世界でしょう。
食べても食べても無くならない。何度お腹いっぱいになっても溢れてる。
そんな世界でなら、ランルーくんは幸せになれるのでしょうか? こんな苦しい思いをしないで済むのでしょうか?
ランルーくんは分かりません。
どうしてこんなに苦しいのか。
どうしてこんなに悲しいのか。
どうしたら自分は幸せになれるのか。
深く被ったピエロの仮面、その奥に隠された本心は見えません。
きっと本人でさえ、もはや見ることは出来ないのでしょう。
何も、何も、ランルーくんには分かりません。
見えないままで、隠したままで、ランルーくんは今日もご馳走を求めて彷徨うのです。
きっと、今度こそ、お腹いっぱいに満たされるんだと信じながら――
*
再現された月の校舎を、甘粕正彦は歩いていく。
その足取りにが決意がある。
己が為すべき事を承知し、迷いを振り切った者にこそ宿る意志が。
男は己の行いを疑わない。彼の信じる正しさに繋がる道筋と、見据えた眼差しは前だけを向いている。
それは輝けるような強い在り方。
脆弱な打たれ弱さなど持たない。斯くあるべき勇敢の証明。
その心には一点の曇りさえ無いだろう。快活に、堂々と、誇りある道を歩んでいると自負があるからこそ、男子の魂は光を放つのだ。
悲嘆や後悔を偽りで覆い隠そうとする有り様とは、正反対に。
阻むものはなく、甘粕正彦は真っ直ぐに目的とした場所へと到着した。
「これはどのようなご用件で? ここはあなたのような人には縁の無い場所ですよ」
保健室へと入室した甘粕に、部屋の主であるカレンはそう告げた。
「そう言ってくれるなよ。俺とて人の子だ。医師のやっかいになることもある」
「どの口が言うのかしら。肉体面でも精神面でも、何をしても堪えないどころか意気揚々と立ち上がるおめでたいその性質。あなたほど苛め甲斐のない人間はいないわ」
「これは容赦のないことだ。しかしな、女医。おまえたち運営側は聖杯戦争を公平を保つためのもの。その立場は中立に在るのだろう。優遇を求めはせんが、一方的な切り捨てもその意義を問われるのではないか?」
「この応対は元となった人物の性質を反映したものですのであしからず。確かにアルゴリズムの方向性に不本意ながら問題提起をされてはいますが、欠陥と診断されるほど破綻した論理でもありません。
元よりこの聖杯戦争とは、痛みと死を与えるものなのですから」
辛辣に、冷たく。
投げかける言葉には拒絶の意志が込められる。
この相手には何もすべきことは無いと、明確に理解しているが故に。
「決して尽きない可能性、それこそが月でも観測できない人の価値。そしてそれが最も顕著になるのが戦争などといった危機的な状況。だからこそこの戦いはあるのです。
ムーンセルは求めています。あなたがたの苦痛を、嘆きを、絶望を、そしてその窮地より発揮される、方程式の成り立たない事象の数々を。
ほら、何処にも矛盾はないでしょう。苛虐こそ月の意思ならば、私のパーソナリティもその意図を反映するAIの定義を外れてはいません。
そして私の思考論理は、あなたに対して施す手を持ちません。どのような用件はか知りませんが、私がそれを了承することはないと思いなさい」
「なるほど。それには俺も頷こう。やはりおまえとは通じるものがあると思うがな。
だが、ならばこそ聞いてほしい。そのようなおまえだからの申し出だ。損はさせんよ」
拒絶を受けても、甘粕の態度は変わらない。
不快に思うことなく、むしろ喜ばしいとばかりにカレンの意思を尊重し、その上で己自身も譲らない。
「用件は単純だ。見繕ってほしい『
「話にならないわね。あなたが言ったように私は中立の立場です。術式の提供など論外だわ」
「それは戦力として見た場合だろう。おまえたちの中立とは直接の戦闘行為に関したもの。それ以外では、むしろ両陣営の万全を補助する役割がある。ならばそれに則した用途に限定すれば、中立性も保たれよう」
それは感情論ではなく、理詰めの言葉による説き伏せ。
要求があるからにはその理屈もある。相手の拒絶を解きほぐすべく、甘粕は自らの理を重ねていく。
「此度の俺の対戦相手。そうだな、登録名に則ってランルーくん、と呼ぼうか。俺の提案とは彼女への処置に関する事だよ。
有り体に言って、彼女はまともではあるまい。なあ、女医よ。参加者の健康管理を担当する者として、この状態を看過することをどう思っている?」
「……彼女の精神状態は月で発症したものではありません。極めて特殊なケースであるのは認めますが、その状態で参加を表明した以上、こちらから処置する必要性は認められない」
「が、処置することが不当であるとも言えまい。窮地における変革、感情がもたらす人間の変動こそ月が求めるものならば、これとてその一環には違いあるまい。
改善、そう改善だ。俺は彼女を正気に戻してやりたいのだよ。狂気の不明を良しとするのではなく、彼女にはしかと目を見開いてもらいたい。より善き姿に戻そうとするのなら、それはやはり改善と呼ぶべきだろう」
「それをあなたが言うの? 対戦相手である、これから殺し合うべき間柄のあなたが。それこそ理屈に合わないとは考えないのかしら」
「考えんな。むしろ対戦者であればこそと思う。命を賭して競う相手だから、口を挟む権利があると。
真剣なのだよ、俺は。相手にもその覚悟を求めることの、いったい何がいかんという。切実な死合いの場で、その程度も持たない事の方がよほど不義理ではないか」
これは互いが己のために傷つけ合う闘争だ。
ならばこそ、踏み込むことも許される。必然として命を懸ける覚悟が求められるのだから、何をしようともそれはこの上ない真剣での行いである。
事の正否を決めるのは覚悟の如何。殴られることを覚悟するから、殴ることが許される。己が掲げる信条を、甘粕は臆面もなく語っていく。
「確信がある。彼女の真価とは表層の怪物性ではない。道化の姿に隠れた奥にこそ、それはある。
他意はない。俺はそれを知りたいだけだ。彼女が持つ輝きをしかとこの身で味わいたい」
「それは彼女の傷を開く行為です。心に受けた痛みが致命に繋がることもあるでしょう」
「痛みを与えるのがこの戦いの意義なのだろう。変革を見守るのが月の意思ならば、そうした結果とて受け入れてこその公平ではないかね。
案ずるなよ。今回は俺とて雑には扱わん。荒療治には違いないが、繊細を心掛けるとも。なにせ淑女の心象に脚を踏み入れようというのだ。礼節くらいは弁えるさ」
甘粕は譲らない。
すでに決意は胸にあり、後はやり遂げるのみ。
その意志は不屈そのもの。単純明快、彼はやりたいと思うからそうするのだ。
人の勇気を、輝けるその姿を目にしたい。己はいつだって胸踊る光景を望んでいるのだから、そのための労苦ならば喜んで負うだろう。
圧を伴う言葉や表情にも、節々に滲み出る幼稚な真意。
それを感じ取ったのか、先に折れたのはカレンの方だった。
「……用途の限定。あくまでも使用を彼女の精神疾患の治療のみに留めるなら、条件次第ですが申し出を受けることも考えないではありません」
「ほう。快い返事をいただけて嬉しいが、どういった心境の変化かな?」
「変なふうには受け取らないでくださる。門外漢にやらせて、半端な結果にするのもどうかと考えただけです。
ここで私が断っても、あなたは諦める気など無いのでしょう。それであなたが不覚を取るなりは自由ですが、処置を間違えて壊してしまうような結末は容認し難いのですよ。
彼女の痛みは、力で触れるべきものではない。強さばかりを声高に叫ぶような粗忽者に任せてはおけないでしょう」
「そうか。いや助かる。素直に礼を述べさせてくれ。言うように、この手の事は俺にとって専門外。どうにもやりすぎてしまうと自覚はあるのでな、手段は選ばせてもらおうと思ったが、見込んだ通りのようで安心している。
だがな、女人の心が繊細であり複雑怪奇なのは承知しているが、少々の素直さとて必要だと思うぞ。そんな言い繕った言い様でなく、もっと率直さを持つといい」
甘粕の言い分は、言ってしまえば屁理屈の類いだ。
道理が通っているようでいて通っていない。少なくとも従わなければならない理屈ではない。
断るだけなら閉め出してしまえばいい。それでも甘粕は諦めないだろうが、それはまた別の話だろう。
それでも、カレンはそれをしなかった。
再現された彼女という人格は、どうあれ甘粕の申し出に頷いてみせたのだ。
「あら、私は率直ではないと。事実を告げてきたつもりでしたが、何をもってそう感じられたので?」
「簡単な事だ。色々と宣ってはくれたがな。
おまえ、要は好きなのだろう。嗜虐の愉悦というやつが」
今度こそ、敵意を滲ませてカレンは甘粕を睨み付けた。
「再現されたものかもしれん。だがおまえがそうと感じる心は、確かにあるものだろう。
AIとして、所詮は本機能の付属品かもしれんがな。せっかく持った個なのだ。理屈ばかりでなく、もっと趣向を愉しむ余分を持ってみるといい。
案外、そういうところから開ける世界があるかもしれんぞ」
本来ならば頷く必要のない事柄を了承した
何てことはない。カレン本人がそれを求めたというだけだ。
聖杯戦争を運営する装置として、そこに付属されたパーソナリティ。細部まで元の人物を再現した思考パターンは、人のように己の好みで判断を下していた。
「あなたは何がしたいの? 意味の見えない雑音ばかりを振り撒いて、AIにまで介入しようとする。
はっきり言います。あなたの行動は破綻している。勝利を求めるものとして矛盾だらけよ」
「勝利を求める、か。勝ちというものを設定した条件達成でのみ判断する、観測の化身らしい結論であるが。
俺はただ正直なだけのつもりだよ。俺自身の心に従っているに過ぎん。己を偽らず、真に望んでいる事をしている。
人の勇気が好きだ。立ち上がろうとする姿を愛しく思う。そのような光に溢れた世界が到来してほしいと心より願っているのだ。
だからこそ、俺はあらゆる他者に試練を課す。他者とは、すなわち人なのだから。愛すべき輝きを守るため、俺はこの行いに迷いなど持っておらん」
敵に利するとも見える行いをし、自らが不利を得る事もいとわない。
常道に照らし合わせれば正気を疑いそうな行いも、甘粕にとってはなんらおかしいものではないのだ。
人の輝きを愛するから、それを最大限に発揮させようとする。遍く意志を愛しく思っているから、あらゆる他人がその対象であり、殺し合う敵でさえ例外ではない。
全ては彼が感じ、彼が愉しいと思える行為に終始する。その"趣向"に則れば、甘粕正彦には一点の矛盾もなかった。
「そもそもだ、人の定義とは何処にある? 血肉を持つことか? ホモ・サピエンスよりの、遺伝子の証明を有していることか?
違うと、俺は思う。大事なのは意志の有無。確固たる己を定める自立した意識を持つなら、それは俺にとって人なのだ。機械だろうが怪物だろうが、愛すべき者に違いない。
その目覚めを願っている。誕生を祝福しよう。存在に縛られず、真に立ち上がる瞬間を目にしたいのだよ」
その期待の眼差しは、カレンにも向けられている。
彼は人の意志を等しく愛しているのだから、その定義に当てはまるのなら当然そうなる。
如何にムーンセルに人格を再現されたとはいえ、本質はあくまでAI。道具として使われるべきという存在理由にも無頓着だ。
カレンのために、ではない。あくまで己がそうしたいからそうするまで。相手の事情にも左右されないから、その行動にはぶれが生じない。
あんまりといえばあんまりな、その独善ぶり。
手の付けようがない傍迷惑さに、敵意を持つ事さえ馬鹿らしいとばかりにカレンは意気を解いた。
「改めて言っておきます。私、あなたの事が嫌いです。出来ることなら関わりたくありません。
そうでしょう? 傷のひとつさえ持たない人間なんて、狂人よりもよっぽど異常者だわ」
そんな自己の意思表示を行ったカレンに、甘粕は愉しげに微笑した。
「それで? どのような術式をお求めですか? 閉じた心象に侵入しようとするなど、およそまともなソフトではなさそうですが」
「否定はせん。かつては幾人もの心を壊してきた曰く付きの代物だ。俺としても、まるで無関係というわけでもない。
とはいえ、元来の用途でいえば医療ソフトだ。むしろこちらのやり方こそ、あるべき使用方法だとも言える。そう不適切でもないだろう」
それは、最大の禁忌であり、辿るべくして辿った終着点。
医療を目的としながら、しかしあまりの"幸福"ゆえに人を壊してしまうもの。
電脳を通した他者の交信・感応、発生する自他の融け合いに伴う多幸感、安心感はあらゆる電子ドラッグを上回る。
意志弱き者の鬼門。魂の腐敗を誘発させる堕落の温床。
辛苦をもって魂の練磨を願う甘粕の信条とは対極にあるもの。だからこそ、正反する両者には数奇な縁が生まれていた。
かつて遭った、この世で最も堕落を善しとした女。彼女の手により創造された忌むべき力の名を、甘粕は躊躇うことなく口にした。
「――"万色悠滞"と、いうのだがな」
久々の更新。
正直、総統閣下の話とベクトル違いすぎて、感覚取り戻すのに一番苦労しました。
独断と偏見に満ちた話ではありますが、これが自分のランルーくん像です。
タベタイ、タベタイと、一見して異常者、怪物と映る道化師の姿。
けれどもヴラド公は、そんな彼女を尊いものとして扱っています。そして彼の属性は秩序・善です。
決して秩序から反した、異端的な美しさではない。むしろ異端な魂を持ちながら、それでも秩序の側に在ったから、そこに真実を見たのではと。
好きだから、吸わない。同じ四回戦のアルクェイドも意識した、そんな在り方となっております。
もちろん、これはこのSSだけでの話です。
もっと怪物的なランルーくんを想像してた方も多いかと思います。
そこを否定する気とかは全然ないので、あくまで一つの見方として捉えてもらえれば幸いです。
なんでアマカッスがこんな事知ってるの? というツッコミはノーコメントで。
先のネタバレにも成りかねますので、とにかく頑張って調べたくらいの認識でお願いします。