もしもExtraのラスボスが甘粕正彦だったら 作:ヘルシーテツオ
聖杯戦争に参加するマスターらには、各々に一つずつ個室を与えられる。
通称、マイルーム。校舎2階の教室の扉を介して行き来できるそれは、ムーンセルよりその機密性を保障された完全なプライベート空間だ。
他のマスターが侵入する事は不可能だし、ここでの会話や出来事は絶対に外部へ漏れない。ムーンセルも記録こそしているものの、内容を閲覧するのは特記事項が起きた場合のみである。
戦いへ向かう者たちのための拠点であり、唯一の憩いの場。身体と心を完全に休める事が許される、聖杯戦争の最中において参戦者たちの家にも等しい場所なのだ。
デフォルト状態でこそ外観通りの教室だが、基本的にその改装は自由である。
少なくともその部分で、ムーンセルからのプロテクトはない。
その内装も、空間そのものの広さに至るまで、マイルーム内に留まる範囲での干渉はほぼ無制限。優れた術者であれば広大な大自然でも、豪奢な宮殿にでも設定できるだろう。
そうした自由が許された空間で、だからこそその内装は極めて異質な体を為していた。
一言で言うなら、礼拝堂。だがそこに神聖さは無く、毒々しいまでの狂気が充満している。
喩えるなら、調律された混沌そのもの。基督教の係累である事は間違いないのだが、価値観の融合と偽装を繰り返した結果、もはや別種にまで堕ちた畸形だった。
ステンドグラスに描かれたのは、戯画的な印象と雑多な原色が百花繚乱と咲き乱れた曼荼羅模様。二十六人聖人の殉教、島原の乱、その他無数にある弾圧の歴史が、恨み晴らさでおくべきかと呪怨を込めて刻まれている。
その名を、隠れ切支丹。日本国にて禁教とされ、長い歴史の中で迫害を受け続けてきた宗教観。その教義における悪魔崇拝、それを行うための祭壇だった。
自身の拠点であり、休息の地とすべき場所に、このような異形の聖堂を設定すること自体、極めて異端の発想だろう。まともな神経の持ち主ならば、この空間の禍々しさと枕を共にしようなどとはまず考えまい。
ならばこの聖堂の主は常人からはかけ離れた感性の持ち主という事になり、事実それは間違っていない。マスターも十分に逸脱した存在だが、何よりそのサーヴァントこそが、この空間にある意味で最も相応しい存在であると言えるのだから。
かつて『魔王』と称されて、自らもそう名乗り上げた
彼女はむしろ原典となった教義を受け入れた側にいるのだが、それをもって涜神者の定義から外れる事は有り得ない。
何故なら、彼女にとって宗教とは利用すべきもの。その教義も概念も余さず理解して、その上で利用価値ありとして自らの道具としたに過ぎない。
ある意味で、彼女こそ神々への最悪の冒涜者といえるだろう。非実在存在への信仰心を持たず、その概念を定義化して道具としての型に落とす。つまりは神秘性の否定であり、宗教意識からの解脱であるのだから。
神からの教えではなく、人間自身の自由と欲望を肯定する。そうした考え方自体が
だから、その感情までも利用する。
長らく本道の教えから離れた教義は、もはや本来のカタチとは全く異なるものに変容している。原典の基督教とは別の宗教だと言ってもいい。
それ故に、そこには原典以上の狂信がある。積年に渡り認められず、虐げられてきた怨嗟の念。単純な善悪二元論の教義では成し得ない、負の方向へと奉られる狂気の象徴こそ、この礼拝堂だ。
ある意味でこの宗教が生まれたのは、最初期に基督教を受け入れた己のせいだと言ってもいい。後の政策がどうであれ、その狂気を引き受ける役は自分であるべきだと。
魔王たる己には、怨念という名の祈りこそ似合いである。彼等の狂信を一身に浴びて力と変えられるように、この畸形のマイルームは存在していた。
連鎖する怨念の上に君臨する魔人アーチャー。その彼女は今、冷然な殺意を湛えている。
笑みのひとつもない。殺戮に快楽など見出さず、されど目的のためならば女子供でも焼き払える酷薄な意志で、その手に刀を握っている。
ここはマイルーム、サーヴァントであるアーチャー以外に立ち入れる者は1人しかいない。手にする刃は、必然として唯一人の人物にしか向けられない。
刃の先に立つのは、甘粕正彦。
怨執渦巻く曼荼羅の下、主従であるはずの2人が対峙していた。
ライダーは考える。窮地に陥った己を理解し、そこまでの自らを省みていた。
どうしてこうなってしまったか、そう問えば理由はやはり油断だろう。自分たちの相手がどんな奴らか、それさえロクに知ろうとしていなかった。言い訳のしようもない。
生前ならば流石にあり得なかったろう。かつて成し遂げたあの"航海"は、こんな迂闊さを晒して実現できるほど甘いものではなかった。
この戦いは
その結果がこれならば、アタシもたいがい間抜けだねぇと、もはや笑うしかなかった。
とはいえ、殊勝に降参などしてやるつもりもない。
せいぜい意地汚く抵抗してやろうと、得物の二丁拳銃を抜きかけて――
銃声が響き渡る。
ライダーのものではない。目に見えてる火縄銃からではなく、認識外の銃弾に手から得物を弾き飛ばされた。
空間内に浮かび上がるように出現する、新たに増加される火縄銃。余さず自身へと向けられるそれらの銃口を見渡して、ライダーは状況を悟った。
つまりはこの空間自体が敵の陣中。
包囲網は完成され、穴はない。抵抗してみせようとすれば、即座に無数の銃火が降り注ぐ。
即ちこれは致死の罠だ。のこのこ何の準備もなしに踏み込んで、今さらどうにか出来る余地を相手が許しているわけがない。
ライダーの前に、軍装の少女が姿を現す。
その気配はサーヴァント。奇抜な格好に笑みを浮かべ、腕を組んだ態度は余裕そのもの。
外見こそ小柄の少女だが、纏った覇気と冷然な視線が、見かけ通りの存在ではないと雄弁に語っている。
特に眼が危険だと、ライダーは思った。こういう眼をした奴は、実にえげつない事をやってのける。勝つためならば手段を選ばず、絶対の確信を得ない限りは油断しない。
こうした手合いが姿を見せたという事は、既にその確信がある事の証左だった。
これは詰みだと、そう感じた己の判断をライダーは改めて認識した。
ここから自分が逆転に持っていく事はどう考えても不可能だろう。
この場の趨勢は既に自分の手を離れている。どうなるにせよ、それは別の誰かの采配によるもの。自分の足掻きはもはや無意味だ。
後はこのまま流れに身を任せるだけ。命のチップはもう卓の上に置かれていると理解した。
観念したと示すように、ライダーは両手を上げる。
それでもその顔には、未だふてぶてしいままの笑みが浮かんでいた。
「……は? え、何だよこれ?」
そして、自らが死地にいる事さえ正確に認識できていない少年は、目の前の事態にも困惑と不満を口にする事しか出来なかった。
「ふざけんなよッ! こんなのルール違反だ! 決戦日の7日目まで戦闘は禁止されてるはずだろ、運営は何をやってんだよ!
つうか、ライダー! おまえ、散々偉そうな事を言っておいて、なに呆気なくやられてるんだよ! 僕のサーヴァントなんだから、ちゃんと強いところ見せてみろよ!」
ただ感情的に喚き散らすばかりの慎二には、自分の現実がまるで見えていない。
全てはゲームだから。所詮、遊びだからと、そんな意識が根底にあるから、本当の意味での真剣に成りきれない。戦争という今の状況にリアリティを感じていないのだ。
何もかも、履き違えている。ルールは権利で、それに守られているのは当然だと。恥さえ知らぬその意志は惰性の腐臭を放っていた。
「くそ、なんてクソゲーだよ! こんな不正を許してるなんて、自由性にしたって程度があるだろ! 誰も彼もチートに手を出したりしたら、ゲームとして成り立たないだろうが!」
だからこそ、自らに近づくその足音に、慎二は気付かない。
吐き出す不満にばかり意識がいって、最も注視しなくてはならない相手の事を忘れている。
拳の握り締められる音を、鮮烈に向けられる意志を、覚悟と気概が無いから素通りして気付こうともしていない。
「ムーンセルは何してんだ!? こんなのペナルティものだろ! さっさと――――」
「おい」
それでも、声が掛かったなら、流石に意識もそちらを向く。
故に反射的に、声のした方向へと慎二は振り向いて――――
頬に、途轍もなく熱く重い衝撃が走った。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
その衝撃に押し出され、身体は後方へと弾き飛ばされる。
受身も取れず地面に叩きつけられて、そこで彼はようやく自分が殴られたのだと理解した。
「どうした? まさか殴られないと思っていたか? 俺たちは聖杯を懸けた敵同士で、おまえもその当事者だろう。殴られる理由は十分にある。だからおまえも、存分に殴り返してくるがいい」
慎二は呆然としたまま動けない。
顔に走った痛み、殴られたという現実。浮ついた頭には、それらが実感となって追いつかない。
それでも感じる熱さは本物だ。じわじわと残留する痛みに、少しずつ実感となってくる。
だがそれを待つ暇もなく、腹を蹴り上げる強烈な一撃が、慎二を跳ね飛ばした。
「がぁッ――!?」
「ゲームだと? ああなるほど、確かにこれはゲームだとも。互いに則ったルールがあり、共に報酬を賭けて勝ったか負けたかで争っている。単に懸かっているものの重さが違うというだけで、本質で見ればこの闘争もゲームと呼んで差し支えない」
打ち上げられた身体が、何度かのバウンドを経て止まる。
激しく咳き込む。息ができない。衝撃に内容物が逆流しそうだった。
これが生身の身体なら、確実に嘔吐していただろう。まるで経験のない激痛に、慎二は為す術もなくのたうち回った。
「だが、如何にゲームでも、やはり対面に相手を置いてこそだろう。姿も見えない、声も聞こえない、相手の意志も介せん勝負事など、機械相手の自演と何が違う?」
そんな慎二の様子にも頓着せず、甘粕は更に言葉を重ねていく。
殴りつけ、蹴り上げた本人が、まるで立ち上がれと励ましているように、その声音には熱い感情が宿っている。
その意味を、慎二には到底理解する事が出来なかった。
「おま――――」
言いかけたその口に、二度目の拳が叩き込まれた。
歯が折れて、舌を噛んだ。切れた口内から血が溢れ出す。
自分が何を言おうとしたのか、それさえ忘れて慎二は口元を押さえて悶えた。
「――――ぅぅぅぅッッ!!!!??」
「顔も本名も分からん相手と、画面越しにやり取りを交わして、そこにどんな絆が芽生えるという。気を使わずに楽だから? どんな罵詈雑言を吐いたところで、面と向かった相手でなければ殴られる事も傷つける事も案じずに済むからと。
なあ、本当にそれでいいのか? そんな霞のかかったような連中から評価なり批難なりをされて、何かを得た気になれるのか? どうなんだ、ええ天才ゲーマー?」
言い募る甘粕の言葉を、慎二は既に聞いていなかった。
まるで理解が及ばない、理不尽極まる相手から逃れようと、不格好なまま遁走しようとする。
その片足を、甘粕は容赦なく踏み砕いた。
「あ、ああああああああああッッッ!!!!??」
絶叫のような悲鳴が上がった。
ぐしゃぐしゃに捻じ曲がった己の足、そこから生じる耐え難い激痛に、幼い心は完全に自制を無くしていた。
「どうした、何を慌てている。たかが足の一本が砕けただけだ。その程度、霊子ハッカーであるならば如何様にでも対応できるだろう。
さあ、脚を治すなり痛覚を遮断するなりで、再び立ち上がってくるがいい。許せんだろう、理不尽んに暴力を振るうこの俺が。その怒りで奮起して、拳を振り上げてみせろよ、なぁ!」
そんなこと、出来るわけがない。
理屈の上では確かに可能だろう。間桐慎二の霊視ハッカーとしての能力を鑑みれば、言われたような事は十分に実践できる。
だがそれも、
間桐慎二は戦士ではない。どれほど虚勢の自信を張っていても、一度化けの皮を剥がされれば本性の脆弱さは隠しきれなかった。
「それとも、
その言葉に促されてか、思い出したように慎二はそれを探す。
切実に、必死になって、この月に来てから最も真剣な形相で、慎二は逃走を求めた。
それも無理はない。こんな痛みは初めてだった。この月に至ってからの話ではない。こんな風に正面から恐怖を叩きつけられるのが、生まれてから初めての経験だったのだ。
怖い、ああ怖い。目の前の男が、とにかく怖かった。それがどうしてなのかと考える暇すらなく、ひたすらにそこから逃げようとしか考えられない。
それは情けない感情だろう。それでも、今の慎二は紛れもなく"本気"だった。
しかし――
「……そろそろ理解してもらえたかな? ここは現実で、逃げ場はない。前に進むには戦い、そして勝つしかないのだと」
月の聖杯戦争は、片道切符である。
どれだけ本気になろうと関係ない。逃げ場など何処にも有りはしない。
この戦場に立った時点で、彼らの大半の運命は決している。数理の化身に慈悲はないのだ。
「俺も、おまえも、もはやこの月から逃げられん。己の願いを懸けて、並み居る者どもを打倒して勝ち抜く以外の道はない。だから、おまえも抗ってみせろよ。勇気を示してみるがいい。その身に宿る可能性を、俺に見せてくれ」
激賛する言葉は、相手に通じていない事もお構いなしだ。
意味不明の暴力、理解不能の期待に曝されて、苦痛と恐怖に歪む慎二の胸倉が掴み上げられる。
尚も振るわれる拳。凶相とも見える笑みを浮かべて、甘粕は彼なりの道理を説き続けた。
無数の銃口の下に曝されて、身動きの取れないままにライダーは笑っていた。
「なんだい、おたくの
殴られ、蹴られ、一方的な暴力を加えられる己のマスターの姿にも、ライダーは愉快げに笑みを深めるばかりだ。そこには身を案じたり、義憤に駆られるといった様子は欠片も見えない。
「勝負を決めちまうついで、その性根までへし折ってやろうって腹かい? いやぁ実にいい根性してるよ。付き合ってるアンタも鼻が高いだろう?」
「さて。あれでなかなか抑えの効かぬ性質なのでな。まったく困ったものじゃ」
平然と答えてみせるアーチャーだが、その内心では彼女こそが最も動揺していた。
(――どういうつもりじゃ、正彦)
この奇襲の肝とは、如何にムーンセルの目を欺くかにある。
この場を整えたのも、全てそのためだ。戦闘行動が発覚すれば、即座に強制介入が発生する。
そうなれば誤魔化しようがない。ムーンセルがその強権を行使すれば、抗う術はないのだ。
ライダーを封じるまでに留めているのも、万が一討ち漏らした際の事を懸念しての事だ。
本格的にサーヴァント同士が激突すれば、流石に隠しきれない。もしも何らかの僥倖が重なり倒し損ねて、粘られでもすれば企てが水泡に帰す。
故に、この場を決するのはサーヴァントではない。勝負をつけるのはマスター自身だ。
アーチャーがライダーを抑える内に、甘粕がマスターを仕留める。少なくとも、それがアーチャーの算段だった。
想定では、ここまで長引くものではなかった。マスター同士の戦力差はサーヴァント以上である。手こずる余地はなく、すぐにでも片がつくはずだったのだ。
だが、現状はこれだ。甘粕は何故か止めを刺さずに痛ぶるばかりで、この膠着も予想外に長引いている。このまま時をかければ、今は大人しいライダーも何をしてくるか。
「おや、どうしたい? さっきから口数が少ないぜ。ものの見事にハメてご満悦だったんだろう? だったら笑ってなきゃ駄目さ。ほら、笑みが引きつってきてるぜ」
そして、当のライダーと言えば、まるで動じた様子がない。
己の命を握られた現状にも構わず、実にふてぶてしい態度のままだった。
握ったはずの
この流れは、よくない。生前の経験上、この感覚を覚えた時には、事態は想定を外れて転がっていくと知っている。
それでも、己で動くことは出来ない。ここで隙を晒せば、ライダーは間違いなく逆襲に転じてくる。それをやってのけるだけの胆力を、この英霊は持っている。
(早くその小僧を殺せ、正彦。ここにきて、よもや躊躇うようなそなたではないはずじゃ!)
思いがけない主従の意図の不一致。
過去に存在した数多の可能性の中の聖杯戦争。そこでも多くの魔術師や英霊が破滅の結末を辿る原因となったものに、アーチャーもまた苦しめられていた。
そうして地面に叩きつけられるのも何度目か、すでに慎二自身にも分からない。
全身を打ちのめされ、抵抗する力はとうに失われていたが、振るわれる暴力は終わらなかった。
和やかな凶相を浮かべながら振るわれる甘粕の拳は、彼の気概を伝えるように熱く重い。
諦観の中に逃げることがないように、一撃毎に心身に強い衝撃を与え続ける。
絶望という逃げ道さえ封じられて、もはや慎二の中につまらない虚栄心は微塵もなかった。
「ご、ごめ……ごめんなひゃい!」
外聞もなく無様そのものの有り様で、慎二は謝罪の言葉を口にする。
怪我のせいで上手く喋れず、声も震えきっていたが、それでも意図する言葉は明確に響いた。
「ごめんなさい? おいおい何か勘違いしていないか。大体、何に謝っているつもりだよ、おまえ」
しかし甘粕は止まらない。他人には理解できない彼の道理は、ここで止める事を容認しない。
「俺はおまえに期待しているんだよ。なあ、アジア圏のゲーム
困難だと承知で挑んだのだろう。たとえゲーム感覚であったとしても、この聖杯戦争が尋常ならざる
いいんだぞ、それでも。行き過ぎた自尊心も、確固として貫けば輝きとなる。そこまで自身の優性を信じぬけるなら、それは紛れもない強さだろう。
だから、おまえも早く目覚めるがいい。今この時を置いて、一体いつの何処で覚醒の機会があるという。大人になるという事はな、己の行動の対価を己で支払えるようになる事だ」
慎二の胸倉を掴み上げて、自身と同じ視線まで持っていき、甘粕は告げる。
その眼に侮蔑の色はない。どれだけの醜態を前にしても、甘粕は対等の相手として見ていた。
「――ああ、そうだ。
そう、対等であるからこそ、容赦もまた無いのだ。
手を抜くとは、相手を侮るという事。格下と決めつけ見下す行為に他ならない。
やるならば徹底的に、本気で潰す覚悟で当たらねば目覚めるものはない。そのように彼は理解していたし、信じている。
だから――その抜き手を、右の眼球へと抉り込んでいた。
「がぁ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!????」
慎二の口から、まともではない絶叫が上がった。
抉り込んだ抜き手をそのまま右へ、眼球ごと右顔面を引き裂くように抜き出した。
鮮血が散る。放り出した慎二を見下ろし、血塗れの手で拳を固めて甘粕は告げた。
「忘れるな。それが傷つけられる痛みであり、力に対する恐怖だ。戦いに向かうのならば、必ずや持っていなければならない覚悟だよ。それを認識し、その上で立ち上がってこそ、おまえは初めて
その言葉に答える声はない。地に伏せ苦悶を上げ続ける慎二に、そんな気力はなかった。
それでも甘粕には満足だったのか、苦笑して慎二に背を向ける。
そして場を覆っていた炎の創界を、何の躊躇もなく解除してみせた。
「なぁ……っ!?」
驚愕の声はアーチャーのもの。彼女にとってこれは完全に慮外の判断だ。
アーチャーの持つ"宝具"の一端を応用し、
だからこそ、解せない。これで今回の仕掛けの全てが無意味になったと、他ならぬ甘粕が理解していないはずがないのに。
「ハハハッ、どうやら命拾いしたみたいだねぇ」
対し、寸前まで命を握られながら、悪びれもせずに言い放ったのはライダーだ。
「ライダー……ッ!」
「おや、どうしたんだい? アンタんとこの大将は、もうやる気は無いって言ってんだろ。まあと言っても、こうなっちまった以上はあんま関係ないかもしんないけどね」
アリーナ内に鳴り響く
結界が解かれた事で、誤魔化されてきた内部の状況は即座にムーンセルへと察知される。
強制介入が開始された。たとえ今から戦闘を始めても、決着に至る間もなく遮断してしまう。
もはや事態は己の手より逃れたと、アーチャーもそれを認めなければならなかった。
「いやぁ、副官は難儀なもんだねぇ。思い通りといきたくても、大将の意向ってモンがある。そうそう好き放題とはいかないもんさ。アンタ、そういうの慣れてないんだろ?
分かるんだぜ、アンタ、上から駒を動かさなにゃあ気が済まないタチだろう。あんまり、誰かについて戦うのは得意でないと見たね。随分と苛立っていたじゃあないかい。
オイオイ、さっきまでのドヤ顔はどうしたよ。そうガンを飛ばされちゃあ、悔しがってるって告白してるようなモンだぜ」
どこまでも豪胆に、ふてぶてしい態度のまま、ライダーはアーチャーを通りすぎる。
その足で向かったのは、未だ起き上がってこれない己のマスターの元だ。
「ホラ、慎二ぃ? いつまでも呆けてるんじゃないよ。船の戦じゃあ、砲弾で手足が吹っ飛ぶなんざ毎度の事さね。それでもやせ我慢してみせんのが、本物の海の男ってやつだよ」
強引に慎二の身体を引き起こして、抱え込む。
慎二はほとんど反応せず、時折苦し気な呻きを漏らすばかりだが、ライダーは構わなかった。
彼女が慎二の懐から取り出したのは、リターンクリスタルと呼ばれるアイテム。このアリーナからの帰還手段であり、全ての参加者が購入できる基本装備だ。
ライダーたちにとって敵の目の前だったが、頓着していない。
既にこの場での衝突は流れた。ライダーはそう判断し、意識さえ向けていなかった。
「待てよ、ライダー」
それを呼び止める甘粕の声。
呼ばれたライダーは、素直に彼の方へと振り返ってみせた。
「なんだい?」
「アーチャーの銃火に曝され、己のマスターを痛め付けられる中でも、おまえは動じていなかったな。俺がこうすると分かっていたのか?」
「はあ? そんなもん、分かるわけないじゃないのさ。あいにく予言の類いとは縁がなくてね、さっきは普通にピンチだったし、打つ手も特に無かったよ。
どうやらアンタは相当な変わり種みたいだけどね。要はそのおかげで助かった、それだけだろ」
「豪気なことだな。要は俺の采配ひとつで命運尽きていたと、そう白状しているようなものだろうに。おまえはそれでいいのか?」
「現にアタシらは生き繋いだ。それで十分だよ」
甘粕の不可解さも、窮地に陥った己たちの事も全て承知している。
今回は相手の気まぐれに助けられた。それが無ければここで退場だった事も理解している。
それでもライダーは常の自分を崩さない。そんな自分の不甲斐なさを自覚しながら、それも有りだろうと愉快気に笑っていた。
「元々そんなもんだろう、人生ってのは。どんだけ頭捻って捏ねくり出した考えってのも、くだらねぇ誰かの気まぐれ一つで崩れるもんだ。命運なんざ、いつだって理不尽って波に掻っ攫われてもおかしくないもんなんだよ。
だったらいちいち気にしたって詮無きことさね。どうせ碌でもないもんなら、せいぜい愉しんでやらにゃあ損だろうよ」
己の信条を語るライダーは、何処までも清々しい。
彼女に後悔はない。少なくともそうした感情に拘る性質ではないのは確かである。
絶体絶命の窮状さえも、自身にとっての快楽に。世界の海を制覇した偉大なる冒険家は、そんな過去の栄光さえも置き去りに、刹那の享楽のみを求めている。
そのような輝きに満ちた英霊の姿に、甘粕は一層に笑みを深めていた。
「まあひとつ捨て台詞でも残しておくかい。陸の戦いじゃあまんまとしてやられたが、海じゃこうはいかない。次はアタシの"艦隊"が相手をしてやるさ。所詮、負け惜しみだけどね」
そう言い残し、ライダーの姿が慎二と共にかき消える。
残されたのは甘粕とアーチャーの主従のみ。敵対する者が消えて、彼等は改めて向き直る。
アーチャーは、甘粕を見ていた。
その表情に色はなく、しかし目差しには殺気を滲ませて。
激する事なく押し黙って、アーチャーは己の契約者を睨み続けていた。
――――そして、遡っていた時間は回帰する。
自陣の
怒声を上げる事もせず、先までと変わらない冷徹な表情で。
彼女はとても静かだった。その静けさこそが、何より本気をはっきりと示している。
冗談を排した真剣の殺気。ここで違えた答えを返したなら、容赦なく刃を振るうと告げていた。
「答えてもらおう、甘粕正彦。一体何のつもりじゃ?」
甘粕もまた、アーチャーの刀が本気なのは重々承知している。
彼女の裁定の刃は、腑抜けた答えを許さない。故に覚悟を持って、その答えを口にする。
「アーチャー。俺は何も違えていない。誰が相手であろうと、俺は俺がすべき事をする。先に宣した通りだよ。
試練を与える。そうして人は立ち上がれると、見込んでいるから俺は殴るのだ。誰であれ、そう在れると思っている。故に例外はない」
ぶれない答えを甘粕は返した。初志貫徹、信じる理念を貫き通す。彼が行うのはそれだけだ。
慎二に対して行った暴行も、彼なりの試練である。それによって立ち上がる事こそ甘粕は期待している。
最初から明言してきた事でもある。何も違えていないという甘粕の言は、確かに正しかった。
「それは、おまえが悦楽に浸るのとどう異なる?」
だがそんな答えでは、今のアーチャーは納得しない。
ぶれることのない甘粕の行動原理、その根底にある歪みを問い質した。
「試練、試練とそなたは言う。それが人のためであると、ああそれも間違いないのだろう。
だが、それも結局は己が好ましいと思うが故にやっている事であろう。人の勇なる姿が見たいから、そうした光景を愛すがため、狂おしく目にしたいと望む。
要はそれがそなたにとっての悦楽じゃ。愉しむなとは言わん。悦楽を望む心を否定はせん。されど、それのみではわしを得心させるには足りんぞ」
人の勇気が、雄々しく立ち上がる姿が好きだ。失いたくないと切に願っている。
そうした感情こそが甘粕正彦の原動力だ。何より愛する輝きのため、彼は強さを発揮する。
それは信念であり、善性であるのだろう。だがそれ以上に、甘粕自身の愉悦のためという側面があるのも事実だった。
「世には様々な王がおる。理想を謳う王。夢を語る王。神の代行人を名乗る王。世の裁定者たる王と、王道とは王の数だけ存在しておる。
どれも違う王のカタチじゃ。だがそこにも、ひとつの共通する道理がある。何より王であるならば、避けては通れん道理が」
突き付けた刀が喉元に喰い込む。
ただのひと押しで貫ける刃、それよりも鋭い言葉が放たれた。
「王とは、人の上に君臨するもの。王道とは1人のものに非ず、その臣を狂奔させるもの也。
王自身が手を穢すのではない。王が臣に手を穢させるのじゃ。分かるか、王の決断には軽々しくない重みがある。
兵を狂わすのは容易いこと。然るべき名目の大義と主命という免罪符を与えてやれば、群衆とはどこまでも残酷になれる。そしてひとたび始まれば、その流れは易々とは治まらん。
兵に、臣に、それを行わす最初の号令をかけるのが王じゃ。正道であれ邪道であれ、発した王にはそれを全うし報いる義務がある」
それがどんな王であれ、その手段がどれほど残虐なものだとしても。
王の権威とは従う臣下の存在があってこそ。現実に王の意志を実行するのは臣下なのだ。そして彼らを従わせるには、それに報いる何かがある事が必要となる。
善悪に関わらず、人を従えるとはそういう事だ。名誉か富か、何であれ人々が納得できる報いを与える事が王たる者の責任である。
「浮世には、正しい王道があるのではない。
神仏の加護? 絶対たる正義? 浮いた言葉で惑わされるは群衆のみで十分よ。王が己の行動の正しさを証明できるのは、王自身しかおらぬ。
神の思惑など無い、この世にあるのは人の意志じゃ。ならばこそ正しさも誤りも、人自身でしか決める事はできぬ。それら人の群れの先頭に立ち、先駆けの決断を下す者こそ、王。
下した決断は軽くない。世の善悪は駆け抜けたの後に築かれる。容易く覆してよいものでは断じてないのだ」
責任を負うこと。如何な王道だとて、その大原則こそ真であるとアーチャーは告げる。
革新の王。乱世の時代、様々な新機軸を打ち立てて、既存の概念を過去のものとした風雲児。
それは過去の価値を否定するという事。かつてあった正しさを誤りに変えて、自身こそが新たな価値観となって君臨する事を意味している。
綺麗事だけでは済まない。輝かしい成果の裏では、古き概念と共に淘汰されるものが確実に存在する。褥を共にしてきたそれらを捨てず、消え去るべきと定められて滅んでいった者たちが。
己の決断が、世に血を流させる。その重みを理解して覚悟と共に進める者こそ王なのだ。
それこそがアーチャー――――天下人・織田信長の掲げる信念だった。
「甘粕正彦、そなたは言うたな。強さを失った人民のため、克己のための試練を下すと。ああ、その信念の是非は問わぬ。それを貫く覚悟あらば、なんであれ価値はあろう。
だが、己の望む景色を見たいがため、我欲のみで走る輩というならば、是非に及ばず。無軌道の混迷など不要。私情のみの者に大義は成せず、ここで散るものと心得よ」
その信念が己の期待を外したものであれば、ここで殺すとアーチャーは断言した。
マスターとサーヴァントは一蓮托生。マスターを殺害すれば連座でサーヴァントもまた消滅する。それを承知で、それでもアーチャーは斬ると告げた。
その断定は、苛烈にして無情。
激しながらも内なる心は冷徹そのままに、王としてあるべき裁きがそこにはある。
二度目の生に対する未練など、それに比すれば塵芥だ。何より優先するべき王としての在り方に比べたなら、再び黄泉に舞い戻るなど如何程のことでもない。
元より己が現世に降り立ったのも、並び立つ破格の男の覇道に触発されての事。稀代の大うつけと見たこの勇者の行く末を見届けるためだ。
期待外れと分かったならば、それこそ付き合う義理もない。我欲に終始する悪童風情の掌で踊るなど、許容できるわけもなかった。
睨み据える視線の圧は、まさしく英霊たる者の気迫。
生き難い動乱の時代を誰よりも駆け抜けた王として、そこにあるのは徹底した厳しさだ。
その苛烈なる殺意を受け止めて、常人に平静は保てまい。誰もが眼前に突きつけられた破滅を覚悟し、頭を垂れるしか無いだろう。
「――――素晴らしい」
甘粕正彦は、それでも尚、喜色を溢れさせて笑っていた。
「王たる者としての自負。革新を担う先駆けとして自身に懸けた矜持。まったく正しく、そして美しい。それこそ俺が愛する人間の輝きだと確信する」
「毎度の褒め讃えか? そんなものでわしが引き下がると?」
「まさか。単なる素直な感想だよ。弁明ならばこれからだ。
だが、褒め讃えたいという気持ちも本物だよ。おまえの何よりの価値は、その厳しさだと思っている。自他に妥協を許さず、己の覚悟として背負う姿。能力や宝具などそれこそ二の次だ。英霊たちの持つ真の価値とは、その生前を経て身に付けた信念の強度に他ならん。
俺が真意を暈したままでいたのも、それが理由なのだ。余計なことを知らせてその厳しさを曇らせたくなかったのだよ。彼らにはそれが必要だと感じていたからな」
彼らとは、敵対する主従である慎二たちの事だ。
試練とは輝きを引き出すためのもの。子を見込むからこそ殴るのだと、豪語した信念に嘘はない。たとえ最期には死の別離が待ち受けているとしても、それは変わらないのだ。
甘粕のその信念を、アーチャーは悦楽だと言った。
目先の愉しみのため、先にある真の目的から遠ざかる。アーチャーの厳しさはそれを許さない。
流血と共に進む道で必要なのは、無情の決意と邁進の覚悟であると。半端に個人へと執着する甘粕の姿を、快楽に絆された甘えであると彼女は告げたのだ。
「これが俺の悦楽である。なるほど、確かにその通り。俺が試練を課そうとするのも、結局は俺自身がそれを望んでいるからだと、その指摘に否はない。
自身にとっての理想を定め、断固たる覚悟でそれをカタチとして成果を築く。その報いこそを真とするおまえには、俺の姿は甘えと映るのも無理はない。
だが、俺も容易くは己の信条を覆せない。俺にも俺の真がある。そしてそれは、決して誤りではないと信じている」
アーチャーの刀が、僅かに震える。触れた甘粕の喉元より血のひと雫が流れ落ちる。
重要なのはこの先だ。ここからの甘粕の解答こそが、アーチャーの裁定の如何を決める。
「そうだな、ひとつ過去を教訓とする話をしよう。アーチャー、おまえは『農業集団化』という政策を知っているか?」
「なんだと?」
「1929年、ソヴィエト連邦にて実施された5ヵ年計画。仮想敵である西欧列強に比べ、常に後背に陣してきた工業力の向上を狙い、旧態然とする分散した村社会的な農業を一新して、重機を用いた近代的農業への移行による生産力の増加を目的とした大事業。
名目だけ見れば、なるほど納得のいくものだろう。かつての大国としての威厳をこの手に、世界が恐慌に喘ぐ今こそ先進的強国として躍り出る好機であると、富国強兵の決意は見事と思える。
だがその実態は、急進性に身を任せた狂信的数字が乱立し、無謀極まる計画実現のため強権を振るい、既存農村を徹底的に破壊する恐怖の弾圧政策だった」
「強制的に徴収させていく穀物。あって無いような定義方法の元にカテゴライズされ、敵対的と判断されれば処刑か、あるいは収容所か不毛の地への追放か。それ以外も強制的に移住を強いられ、土地や家畜も国有化され、国家という全体機構のための礎として搾取された。
この事業には、工業化の推進という目的とは別に、社会主義国家として農民階級の完全撤廃、階級闘争という意味合いもあった。理想社会の達成のため、革命の火が灯った
「勘違いしないでほしいが、なにも俺は彼らの事業を否定しているわけではない。国家に尽くし、滅私奉公を誓う事も、一つの決意である事に違いはない。おまえが言うところの、己の行いの責任を負う覚悟。それさえあるなら、物事の善悪は当事者たちにしか決められん。
しかし、俺はそこに疑問を持っている。所詮、後世に残った記録や伝聞からの想像に過ぎんが、そう間違った見解だとも思っていない。果たして当事者たちの何人に、おまえのような覚悟があったのかと。
大義という免罪符は、群衆を容易く狂気へと駆り立てる。だからこそ、それを発する指導者には覚悟と責任が求められる。我も人、彼も人と、直接手を汚さぬならばせめてその道理を介して決断するのが筋だろう。だが伝え聞く限りでは、どうもそうとは思えないのだ。
遠く離れた遠方の地で、書類上の数字のみを見て、あげられる成果ばかりに現つを抜かす。その記載された数字は己と同じ人なのだと、最低限の認識さえも忘れて。正しさを疑わないのではない、疑うための思考を自ら捨てた。国家のため、社会のため、己はその理念の一部であると盲信し、その罪悪感から逃れるために。
無論、これは俺の想像だとも。事実として、この政策の後にソ連は急激な発展を遂げ、世界を二分する大国に生まれ変わった。長年に渡る闘争と辛酸の中を歩き続け、遂には権力の座を手にしたかの書記長殿も、まさしく鉄血と称するに相応しい意志の持ち主なのだろうさ。
だが、残念ながら全員がそうだったとはとても思えない。大半にはやはり、大した覚悟もなしに決断し、惨状の重さから逃れんとする惰弱の逃避があるのではと愚考してしまうのだ」
「先祖代々より受け継がれ守り抜いてきた土地を、生活を共にした私財であり家族でもある家畜たちを、国家のために必要だと言われ、ああそうかと納得する者がどこにいる。
農民たちは飢餓がくると承知しながら穀物を焼き、己の財産たる家畜を自ら屠殺した。分かる、分かるぞ。不倶戴天の侵略者にも等しい弾圧者に対する、農民たちのせめてもの抵抗。その覚悟を目の当たりにして、単なる愚行と非難できる者などいるものか。
もう一度言おう。我も人、彼も人だ。如何なる時代、そして人であったとしても、忘れてはならない大原則だ。どんなに高尚な理想であってもな、この道理を忘れた理念は腐臭を放つのだよ」
「どうしてこうなってしまうのか。その答えは、実に単純な一言で言い表せる。
リスクが無いから。己は死なぬと高を括っているから。強権を振るえるのは自らだけで、命じるだけの立場なら相手の拳も届く事はないと知っているからだ。だからこそ恥も知らずに罵倒が出来る。その惨状と向き合う覚悟さえ無いくせにな。
そうした輩には、自らの暴力性を正当化する理由さえあればいい。正義のため、社会のためと、もっと分かり易いところでは皆が同じことをやっているからとな。己の掲げる大義に誇りを持っている者が、果たしてどれだけいることか。
弱者へ愛を施す愉悦があるように、それとは真逆の、有無を言わさぬ強権で全てを推し進められる愉悦もまたある。どちらも傲慢で、かつ癖になる概念だ。権利と文明の庇護の下、安全圏から見当違いの善意を吐く人畜と同じく、見栄えの良い名目に縋り、己の悪性から目を背けて覚悟もなしに特権を振りかざす者もまた、度し難い畜生どもだよ」
「これは圧制者側ばかりに適用されるものではない。一歩違えば、それを打倒せんとする義心にも同じ腐敗が現れるのだ。
仮にだ、過去に戻る能力があったとする。その者は未来を知るが故に、後に惨状をもたらす独裁者を排除しようと考える。その目論見は見事に成功し、未来の邪悪なる存在は消え、歴史はまた別の方向へと歩んでいくだろう、と。
で、まさかそれで終わりではあるまい。当然だ、世界はそれからも続いていく。邪悪であろうとも世界に大きな比重を持った存在を排除すれば、その反動も無視は出来ん。打倒を果たした者には、その後を統べる義務がある。悪の親玉さえ倒せば後はお役御免など、素面で言ってるのだとすれば悪党以下に度し難い屑だろう。
手を下して事を為すと決めたなら、血の対価を背負う覚悟をしろ。その意志が足りん者はな、結局は碌なことにならない。むしろ余計に世を悪くするだけだ。要は責任を負えという事さ、おまえが言った通りだよ、アーチャー」
「俺は悲劇を憎んでいる。人が絶望する姿など見たくない。生まれた命には等しく機会があるべきだろう。一体どれほどの価値ある意志が、不遇の中で潰えていった事か。
それは例に上げた話だけではない。あるゆる時代において、この悲劇は付いて回った。悲しい、悲しいな、このような不条理があってはならんと切に願っている」
我も人、彼も人。大義のための犠牲を謳うなら、決して忘れてはならない道理であると。
それは恐らく万人の大半が賛同できる概念だろう。多少なりとも世の道理を解しているならば、誰であれ理解している事でもあるはずだ。
正義を気取った殺戮を行い、それを疑問にも思わず自らに陶酔する盲信。そんな輩の醜さは、純粋な悪辣以上の嫌悪と腐臭に満ちている。
だが、当然の道理だと主張するその姿には、不可解さもまた存在している。
甘粕は管理の安寧を否定している。理不尽を廃した先の平穏は堕落の温床だと断言した。
世界に対し試練を与える。それは甘粕の願いであり、究極の理不尽でもある。彼の望む人の強さのために、何の罪もない人々に試練を課すというのだから。
その甘粕が、世の理不尽を嘆くと、あってはならないという。それは矛盾しているように聞こえて、そしてその不合理さを甘粕自身が理解できてないはずがなかった。
「甘粕正彦。そなたは言ったな、人の光を取り戻さんがため、世に試練をもたらすと」
「ああ。二言はない。試練に抗い、人が輝きを発揮できる世界。それこそ俺が求める"
「それでは些か具体性を欠いていよう。試練?
戦火の吹き荒れる乱世も、文明を洗い流す天災も、所詮は過去にあったものの再来に過ぎん。それで変わる程度など知れていよう。わしにはおまえが、それで満足するとは思えなくなった。
聞かせい、正彦。おまえの言う楽園とやらの姿を。おまえはこのムーンセルを使い、世界に如何なる試練をもたらすつもりじゃ?」
たとえ聖杯が奇跡を叶える願望機であっても、その祈り手に願いが無ければ話にならない。
ムーンセルは万能の演算器だ。懸けられた願いが荒唐無稽なものであっても、現実の中で感受できるように世界を運用する。
だがそれでは、元の祈り手の望みとの乖離も有り得るだろう。元より矛盾を孕んだ人の願いなど、実現できたとしても何処かに歪さを含んでいるのだ。
一見して、矛盾しているとも思える甘粕の信念。
だがそのような欠落を、甘粕ほどの男が見過ごしているとは思えない。それでは彼自身が語った、所業の重さから目を背ける惰弱さと同様になる。
故にアーチャーは、改めてそれを問うた。祈りの如何を、そこに真意があると察して。
「俺自身、この月に上るまでは半信半疑だった。ムーンセル、太陽系最古の遺物であり願望機と、大層な話はよく聞いたが、現物を見ないことには流石に信じきれなかったよ。
だが、俺はこうして月にいる。そしてその力を実感した。霊子虚構世界、サーヴァント、どれも今の人類には到底及ばぬ力だ。万能たる聖杯、それは真実だと確信した」
そして問われた甘粕もまた、答える声音に欠片の迷いも抱いていない。
彼の意志に惰弱さは無い。揺るがない強い信念で、甘粕は己の
「
「な、に……ッ!?」
「権力者も民衆も、あらゆる立場の者が等しく超人となれる権利を得る。肉体的な優劣で格差が生まれる事はない、描いた思いの強さによって光は万人に降り注ぐのだ。
意志が惰性に陥ることももはや無い。何故なら、誰であっても油断など出来ないのだから。惰弱な意志で攻撃すれば、それ以上の意志で反撃を受けるだけ。相手が王でも奴隷でも、総ての者に本気となって当たらざる負えなくなる」
それはまさしく、究極の闘争世界だった。
地上のあらゆる人間が、その意志の如何により、ムーンセルに記録された英霊、神魔の力を降ろす。マナが潰えた世界でも、それを具現させる代替の可能性を持ってきて。
不遇の立場に甘んじてきた者は、即座にその力で反撃に出るだろう。体制に属する者は、自らの秩序を守るために全力で当たらなければならない。
国による大多数の力とて、もはや何の安心材料にもならない。具現させた力次第では、個人で国家戦力を覆すことさえ可能となるのだ。
言うなれば、総ての人類が核兵器以上の武力を行使できるということ。
もはやそこに国家間の戦争など存在しない。"個人"同士の戦争がそこにはある。
「……それでそなたは、世界が滅びずに済むと思っているのか?」
「少なくとも、現在の秩序は悉く滅び去るだろうな。何事かが確実に起こり続けていく世界なのだ。今までのままの体制ではいられない。発生する混沌は、恐らく人類史上で最大最悪の規模として現れるだろう。
そしてその後にどんな秩序が築かれるとしても、それは輝きを掴み取った雄々しき勇者の手によって為されるだろう。ならば良し、どのような世界であれ、俺は否定などしない」
そして、そうなった先の世界では、法や倫理などの秩序は悉く崩れ落ちるだろう。
誰もが超常の力を振るい、己の意志を貫く過程で、既存文明は破壊され無謬の荒野が広がっていく。社会の保障を失った世界で生き残れるのは、確固たる芯を持った勇者のみ。
超人乱神が入り乱れ、互いの覇と覇を競う群雄割拠の動乱期が訪れる。どのような立場の者であれ、その混乱の中で緩みなど許されない。まさしく総てが本気の意志同士の激突となるのだ。
「イデオロギーは何だって構わないのだ。どれも各々に利点と道理があり、等しく人の手で生み出された概念である事に違いはない。今世界を覆い尽くしているハーウェイの管理社会とて、人民の総意により建設された正当な秩序だろう。
勿論、争いとは唾棄すべきものだ。この世に戦争以上の惨劇はなく、現実の闘争の中で物語に語られる美談など皆無に等しい。忌諱すべしとして遠ざける行いは正しいものだとも。
それでも、一つ。争いの中にも唯一救いがあるとすれば、それは正真正銘の本心からぶつかった場合による。真実、己の信念を懸けて突き進んだ果ての激突には、たとえ敗れた先にも無念と共に納得の光があると知っている。本気の衝突が出来るのは、互いに理解し合った仲だけなのだから。
そう、それだけなのだ。俺は皆に、その事を忘れてほしくない。対立する他者もまた、己と同じ人なのだと。その意識を常に持ち、歩んでいける勇気を手にしてほしいだけなのだよ。それさえ果たされれば世のカタチなど何でもいい。それが"人の世界"であるなら、等しく俺は祝福しよう」
「不遇の身の上に産まれ、不条理の下に淘汰されようとする人々よ。反逆の牙を持って我はここに在りと立つがいい。圧政を敷く弾圧者よ。己の支配に道理があると信じるなら、鉄血の覚悟を持って事を成せ。決して強権の上に胡座をかくな。
それこそ俺が目指す"
改めて聞き届けた甘粕の願いは、しかしアーチャーの想定を大きく上回っていた。
矛盾など無かった。その大望は確固たる形を持ち、かつ常軌を逸した域で狂っている。
甘粕正彦の願いは、寸分の狂いなく果たされるだろう。月と接続した人類は、その意志によって次々と超越の存在へと変貌していく。停滞を憂いる心配など、何処にも必要がない。
緩やかな滅びへと歩む世界の現状も、そうなれば関係なくなる。
何故なら勇者とは、あらゆる試練を打破できる存在だから。世界の滅びという危機も、その意志の力で乗り越えていけると確信している。
地球という環境が消失するなら、地球が無くとも生きられるほど人が強くなれば良いのである。
「そしてだからこそ、俺自身にも試練が必要だ。それは避けては通れない。
地上で言われたよ、俺の願いは狂気だと。ああ、自覚しているとも。およそ他人から賛同を得られる類の願いではない。少なくとも、聞かされて即座に頷くものはそういまい。そこで流される血の量も、間違いなく空前絶後のものとなるだろう。
認められんよなぁ、許せまい。俺の勝手なエゴに世界を好きにされて、文句の一つもないなどそれこそどうかしてるだろう。弱気に流された同意ならば全く不要だ。
ましてそんなものに奇跡を求めた大願を阻まれて、無念と思わないはずがない。世界のための仕方ない犠牲だなどと、納得など出来るものか」
「俺もその手の戯言は何より嫌いでな。先の言もある、他者と向き合えと言った俺自身が、その舌の根も乾かん内に己の言葉を翻すわけにはいくまい。
おまえの問いに答えよう、アーチャー。あの場で間桐慎二を仕留める事は簡単だった。確かにあれは情けだったし、俺自身がそうしたかったというのも否定はできん。
だがそれでもだ。俺はこの姿勢を崩すわけにはいかん。甘粕正彦は輝きを引き出すための試練である。聖杯があろうが無かろうが、己に課したこの道理、断じて違えるわけにはいかんのだ。
おまえは戦上手だよ、アーチャー。織田前右府信長よ。おまえに采配を任せれば恐らく俺は勝てるのだろう。断固たる勝利とその報いで以て咎の清算とする、その信条は素晴らしいと思う。
しかし俺にはそれでは足りない。今ある世界を身勝手な独善で根底から塗り替えようというのなら、その世界の住まうあらゆる意志と戦う覚悟と持って当たらねばならんだろう」
甘粕正彦は破格の益荒男。まさしくこの停滞した世に生まれた英雄の器である。
アーチャーはそのように理解していたし、事実それは間違っていない。その信念の強さも、矛盾のない在り方にも不足はなかった。
だがそれだけでは不足だった。甘粕という男の本質を、アーチャーは今こそ思い知る。
「俺は、この聖杯戦争、対戦する相手の輝きたる強さの総てを出し尽くさせよう。切実なる思いを、胸に抱いた祈りを、その人生の重みを余すことなく受け止める。
その上で、踏破する。祈りの丈をぶつけ合い、それでも俺が凌駕してみせよう。そのためにも正々堂々、裏など取らない真っ向勝負で決着をつける。
ああ勿論、これは俺個人の勝手な自戒だ。相手にまでこの道理を押し付ける気は毛頭ない。謀略、暗殺、いかなる卑劣であっても構わない。外道の手段に頼るということは、それほどに切なる願いがあるという事なのだから。故にどんな手段であろうと否定はしない、むしろ大いにやってほしい。切実なる勝利への執着を、俺は心より認め賞賛しよう。
どの道、万人に通じる理想など有りはしないのだ。己と他人の二者が揃えば、理想とする世界のカタチもまた異なる。どれだけ崇高なものであろうと、誰かにとっての理想でなければ、対立者が現れるのは必然だろう。元より人間の戦いとは、多種多様な正義同士の衝突にこそある。結局は己の正しさを強き意志で推し進めた者の価値観こそが、世の道理となるのだ。
それら含めて、俺はその試練を乗り越えよう。この月には自らの願いを持った強い意志が揃っている。それら輝ける意志と対峙して尚、俺の信念こそが強いと真っ向からの勝利で以て証明せねばならん。正しいか間違っているかという以前に、それさえも出来ない意志で、世界に試練をと口にするなど烏滸がましいにも程がある。
出来ないというなら、そんな男は死ねばいい。無用な流血をもたらすだけの男ならばな」
確信した。甘粕正彦は大馬鹿者だ。
それも規格外に、限度というものを知らなすぎる。現実性や勝算などという言葉は、全て言い訳と切り捨ててまるで一顧だにしていない。
そうした面があるのは承知の上で、だからこそ召喚に応えたとも言える。ただ想定していた範疇を遥かに逸脱した"うつけ"であった。
「長くなってしまったが、要は互いに悔いなど残らんよう本気でやろうという事さ。俺が言いたいのはそれだけだよ。
それこそが俺にとっての"戦の真"だ。どれだけ非効率だろうが、これだけは譲れん。それを外したら、そもそもの意義を見失ってしまうのでな」
血迷っているとしか思えない言葉も、甘粕にとっては当たり前のもの。
人類に試練を課すと、甘粕は言った。その甘粕自身が、試練から逃げるなど有り得ない。
そもそも自分に出来ない事を、他人にやらせるなど情けないにも程がある。そのような不心得を甘粕正彦が許すはずがない。
世界にも、人間にも厳しいがそれ以上に、甘粕正彦は"自分"にこそ厳しいのだ。
「……甘粕正彦。なるほど、改めて思うたわ。そなたは破格で、危険であると」
射抜くようなアーチャーの双眸には、未だ冷淡な殺意が宿っている。
刃は今も首を捉えたまま、裁定の掌に乗った命は相変わらずだ。
「そなたの夢は世界を灼く。苛烈が過ぎるその大火は、後にはもはや何も残らぬやもしれん。芯を鍛えんと槌を振り下ろし、そのまま砕き割ってしまううつけ者じゃ。
生前のわしであれば、そなたを討たんと動いたであろうな」
睨み据えた眼光が、その意気を増す。英霊の殺意が圧となって空気さえ歪ませた。
甘粕は動じない。常人ならば一秒とて耐えられない重圧の中にあって、彼は常の気概を崩さなかった。
宣した信念を貫き、迷いなき意志の強度を示すために。それこそがアーチャーの裁定に対し、己が出来る何よりの弁明であると理解しているから。
やがて、僅かな沈黙の時間が流れた後、アーチャーは刀を下ろした。
「しかしわしは過去に住まう英霊。未だこの現世に立脚した重みを持たぬ亡霊の類に過ぎぬ。世の何たるかを決めるのは、今に生きる人間であるべし。亡霊が何かを取り決める資格はない」
アーチャーが身を翻す。
甘粕にその背を向けて、一歩一歩ゆっくりと歩を進め、離れていく。
認めたのか、それとも諦めたのか。
どちらとも取れるし、どちらでもないようにも見える。
今の彼女は静謐だ。静けさの中に冷酷な殺気があった先までと違い、そこに外を圧する気迫の類は一切ない。
無論、そんな静けさは一時のみのものでしかなかったが。
「が、しかしよ。過去の世を築いた英霊として、物申さずといるわけではない。
そして、わしは見ての通り"女"じゃ。男共のように戯けた夢には惑わされんぞ」
一拍を置き、アーチャーが再び甘粕へと振り向いた。
その顔には笑みが浮かんでいる。獰猛な、攻撃性を持った笑みが。
「わしが生きた時代もそうであった。群雄割拠の戦国世、古き権威は崩れ去り下克上の野望に誰もが焦がれておった。己の器も弁えず、浮ついた夢に酔ううつけ共よ。
なまじ好機と見えるから、勇んで飛び出し踏み外す。分かってみせてるつもりでも、内の野心は隠しきれずに。いかに世が乱れようが、それで高みに至れるわけではないのだ。
そうした輩は悉く転落した。天下取りとは栄えある夢ではない。その道理の何たるか、それを解さぬ阿呆な男衆など、皆喰ろうてやったわ」
アーチャーのその考え方は、ある種の女性特有の思考だろう。
男とは強さに焦がれるものだ。英傑、凡人に至るまで、男性という種族に根ざした"最強"への渇望はそうそう拭い取れるものではない。
子孫を孕む機能を持たず、屈強な肉体を与えられるのも、全てはそのために。強い力は男の価値で、それを以て地位も名誉も女も獲得できる権利を持てるのだから。
そう、強くなければ男じゃないが、女はその限りではないのである。
「そなたはどうじゃ、甘粕正彦。わしが喰い散らかした輩と同じ、所詮は大望に酔い痴れるだけの男か。それとも懸けた信義で道理さえも覆す生粋の大うつけか。
わしは実益でしかものを測らぬタチでな。そうと見えるだけでは納得せぬぞ」
アーチャーと、甘粕の視線が交錯する。
その手には未だ刀が握られたまま。納められない刃は、アーチャー自身の戦意そのものだ。
冷淡ではない。しかし今は別の熱を持って、アーチャーは甘粕と向き合っている。
その姿はまるで、果し合いにて対峙する両者の構図と見えた。
「――――剣を抜け、甘粕正彦。吐いた大言、その力で証明せよ」
そしてアーチャーは、通常ならば考えられないような事を言ってのけた。
「わしはな、口先の男というのも別段嫌いではない。そこに命をも賭した芯があらば、放言大いに結構よ。
だが、そこまで言ったのだ。わしのやり様を潰してまで、それほどの世迷い言を吐いたのだ。よもや舌先の言葉だけで、それを実証できるとは思うまいな。力を示せよ。その意志が育んだ強さとやら、ここでしかと表してみよ。よもや嫌とは言うまい。
なに、これもおまえの言う所の試練じゃて。おまえは、試練からは逃げんのだろう?」
向けた剣先が示す殺気は本気以外の何物でもない。
彼女はここで、本当にマスターと死合うつもりであった。
「戦の真を謳うのなら、それでわしの真を塗りつぶしてみよ。さもなくば所詮そこまでの思いであったと、散り果てるが定めと心得るのじゃ」
その行程は必要不可欠。何故なら彼等が奉ずる戦の真は、各々で大きく形を異にする。
方や、大望成就のための鉄血の姿勢を。方や、大望に見合う意志を証明するための試練を。どちらが正しいか間違っているかではなく、そもそも両者の価値観からして違いすぎるのだ。
徹底した合理主義と、熱く猛った夢想論。互いの主張は相容れない。ならば主とするのはどちらか、ぶつかり合わねば決められない。
それが甘粕正彦にとっての試練だと、その厳しさでアーチャーは断言した。
とはいえやはり、その内容は正気のものとは思えない。
甘粕正彦は傑物だが、超人ではない。その身はあくまで人間で、能力はその範疇から逸脱するものではない。決して超常の力を有しているわけではないのだ。
英霊とは、人々の幻想により編まれた時代の最強者。必然として人間を超える存在である。
人間が英霊に勝とうなど、前提から間違えている。難易度は不可能と言っても過言ではない。
試練と呼ぶには余りに無茶ぶり。アーチャーが告げた内容は、そうしたものだった。
「ああ、そうだな。おまえの言う通りだ」
だがその無理難題を、本当に無理と取るかは、結局は本人次第である。
少なくとも甘粕正彦には、それを不可能と取るつもりは毛頭なかった。
「道を同じくするべき者たちでも、奉じる信念の違いよりぶつかり合う。何もおかしなことない、人とはそれぞれ違うのだから。決して己の信だけが真ではないと、それを認める事が他者を理解する第一歩だ。
異存はないよ、アーチャー。確かに俺の言う事は戯れ言だ。力も無しに吐いた所で法螺話にしか成りはしない。ここで果てるならば、俺もその程度の男だったと納得するさ。
――それに、な」
「それに?」
「それとは別に、おまえとはこうして一度立ち合ってもみたかった。俺もいっぱしの男なのでな、そうした趣向が無いわけでもないのだよ。
そも、
その言葉は挑発か、それとも素から出たものか。
判断が付け難い。アーチャーもまさかそんな言葉が出るとは思わなかったのか、呆けた表情で二の句を継げずにいた。
但し、それもほんの束の間の事。その面貌はすぐに歪んだ。
「ふふ、くはははは、あっはははははははは!!」
弾けたように響く大笑。愉快、愉快だと、その言動を笑う。
その身の程知らずさ、挑発であったとしても、吐き出す言葉はどれも度肝を抜いてくる。
それも餓鬼の意地ではない。素面そのものでやってくるのだから、まったく大した奴だろう。
笑いが止まる。
交錯する視線。交わした一瞬に、彼等は互いの意図を察していた。
故に、次の行動も一致する。両者が踏み込むのは全くの同時だった。
振るわれる刀。抜き放たれる軍刀。
対峙した中間点で、甘粕正彦とアーチャーは刃を衝突させた。
おまえがッ! 立ち上がるまでッ! 殴るのを止めない!
甘粕VS慎二と言ったな? すまん、ありゃ嘘だった。
いや、間違ってはないんですが、バトルになってませんね、これ。
まあぶっちゃけ、このSSの甘粕にとってモラトリアムは自分を鍛える期間じゃなくて、対戦相手を強くする期間となります。
その輝きを最大限まで引き出し、全てを出し尽くさせた上で、それでも自分が勝利する。そういう方針ですね。
次回の甘粕VSアーチャーでは、アーチャーの戦闘描写や能力解析、それと人間・甘粕正彦がどの程度のものなのかを描こうと思います。
あくまで二次創作ですが、違和感のないように仕上げるよう頑張ります。
それと、今回の話で参考にさせてもらったものを紹介しときます。
◆やる夫AA系作品『やる夫は赤い皇帝になるようです』
単なる歴史解説ではなく、多種多様なキャラに個性があり、物語としてもどっぷりハマりこめる逸品。オススメです。