妹が兄の数奇な運命を知る、二年前の話。
八舞姉妹攻略のテーマは“少年期の卒業”。
善人の善人たる理想論でもって行動し、本物の善を為した少年。
やがて理想では抗えぬ現実を知り妥協を覚えることを成長というのならば、それはそれは残酷な定め。
カルネアデスの板――――そんな現実(もの)が、突き付けられるというならば。
二つの嵐がそこにあった。
場所は、嵐が“嵐(ねったいていきあつ)”としてあり得る筈のない極寒の氷上。
沈まぬ太陽の光を遮り、巻き上げた水気が雲を構成し、やがて雹となって白く閉ざされた大地を叩く。
そんな凍てつく世界をさらに過酷に荒らす嵐が二つ、互いにぶつかり合っていた。
相殺などという概念はそこにはない。
それぞれの暴風は気ままに吹き荒れるばかり、その中心同士の激突で生じたエネルギーでさえ、風に変換され氷片を舞わす。
その白き氷の華に霞む視界の向こう―――――烈風を飼い馴らし、宙を翔る乙女が二人。
錠と鎖と、革のベルトで構成されたまるで罪人を思わせる拘束服を纏う姿はまるで鏡映し。
凍土の地にてその煽情的な姿はむしろ非現実の苛烈さを際立たせる。
片方は槍を、建築物の柱を丸ごとぶち抜いたかのような巨大かつ重厚な槍の穂先を。
片方は錘を、果て知らぬまでに伸びながらそれを全て遠心力に乗せる幻想の鎖で結んだ鏃を。
必殺の気迫を以て互いへと叩きつける。
これが何度めの激突だろうか――――大気が啼く、自由を失い奴隷となり為されるがままに引き千切られて行き場を失った風鳴りが、慟哭のように雪へと染みわたる。
えんえんと、延々と―――――そんな弱者の悲鳴など、端から聞いている訳が無い。
世界の災厄たる乙女達は、出来の悪い虚像を映した鏡を叩き割るように、自身と同じ顔をした相手を滅殺せんとする意志のみに集中しているかの様に不毛な果たし合いばかりを続ける。
ならばその声なき世界の叫びを聞くものはこの閉ざされた地に存在せず…………その正しい意味もまた、理解されることは無かった。
果たしてこの雪風の唸りは本当に悲鳴であったのか――――反逆への、呪詛であったのか。
「――――ッ、迂闊。これは…………」
「あああああああぁぁぁぁぁぁ――――――――――ッッッ!!!!?」
鎖が、撓(たわ)んだ。
繰り返され続けた激突の中で緩みがその勢いを失わせ、武具が文字通りのただの“オモリ”と化す。
その原因が使い手の手元の狂いか、相手の仕掛けか、あるいは他の――――――いずれにせよそこに飛び込む槍使いは突進の勢いが止まらない。
そして、その巨大な槍が錘使いの乙女の柔肌を裂き、脇腹を深く抉った。
溢れる鮮血。
雪風に紛れてすぐに凍りつく、命の滴。
見えづらくとも着実に死への道に足を踏み出す、決闘の敗者は何故かこれでよかったとでも言うかのように安心した微笑みを見せ。
先ほどまでそうあれかしと貫く凶器を向け続けていた、決闘の勝者は何故かこんな筈ではなかったとでも言うかのように怯えと慄きを見せ。
風が、止んだ。
吹雪は消え、氷の世界に静寂が戻る。
二人の乙女は、初めからいなかったかの様にその姿を、世界から“消失(ロスト)”させていた――――――――。
真夏の陽炎。
五河士道が彼女に最初に抱いたのは、そんな印象だった。
ふらふらと、儚げで、灼けつく夏の太陽の下で目を離せば消えてしまいそうな存在感。
革ベルトと錠と鎖とは、今が真夏だからにしてもずいぶん気合いの入った服………なのだが、その端正な顔の表情を動かそうとしない様はどこかちぐはぐだった。
足取りはおぼつかなく、しかし意識ははっきりしているようで、熱中症にしてもどこかおかしい。
そんな状態で、住宅街の路上を歩いていた彼女は、ちょうど美九の家に向かって通りすがった士道を捕まえて、どこか浮世離れた声音でこういった。
「困窮。おなかがすきました」
「…………は?」
「再度。おなかがすきました」
「えっと、うん…………?」
新手の逆ナンパだろうか、と士道は困惑した。
あるいは暑さで頭がやられてしまったのかと失礼な想像をした。
とはいえ、彼女の見た目は士道と同年代かやや年上ほどの、くるくると巻かれたハニーブロンドが魅力的な美少女。
下心云々ではなくいたたまれない的な意味で士道は対応せざるを得ない。
「じゃあ、家に帰ってごはん食べる、とか?」
…………こんな天然なことを言い出す辺り、士道もまた暑さで頭が参っている可能性もあったが。
だが、そんな士道の答えに考え込むその少女。
「帰路。帰る、家?分からない、夕弦(ゆづる)は、それを、持っている?いない?」
「え………?」
「忘我。帰る――――そもそも夕弦はどこから来たのでしょう。なにも分かりません」
頭に手をやった少女が、微かに顔をしかめた気がした。
その独特の喋り方に、士道はとりあえずまたややこしいことになりそうな予感を覚える。
忘我。
『怒りに我を忘れる』とかの用法でないならば、言葉通りの意味だとすれば、もしかすると。
「えっと………夕弦、でいいのか?」
「っ、発見!夕弦の名前は夕弦でした」
名前の確認に随分間抜けな発言が返るが、これを本気で言っているのだとすると。
少年漫画なんかのボーイ・ミーツ・ガールにある程度付きやすいお約束の単語が士道の頭には浮かんでいた。
「やっぱり………。君は他になにか自分のこと言えるか?記憶喪失、とか言ったりする?」
「賞賛。何故分かったのですか、あなたは天才ですか…………?」
「いや、天才じゃないけれども、経験というか心当たりというかパターンというか……」
「認識。確かに夕弦は何も分かりません。分かるものを強いてあげるなら、自分のなにもかもほとんどすべてを“思い出せない”こと。そして―――――――、」
――――――自身が精霊という存在であること。
「ですよねー」
意外と精霊ってどこにでもいるものなのか?と士道は三度目の既知との遭遇(笑)に脱力しかけた。
いや、目の前の少女が記憶喪失なら下手すると七罪や美九よりも大変なのかもしれないが、かなり天然かつ緊張感の湧かない夕弦の雰囲気のせいで、構える気にもなれないのだ。
しかし、それも一瞬のことだった。
「再認。おなかが、“すき”ま、し…………」
「え、おい、夕弦っ!?」
ぽん、と近くなっていた士道の胸に、夕弦が倒れ込む。
とっさに受け止めたが、あまりにもぐったりしているのを慌てて支え――――掌にべたりとついた生温い液体の感触に慄いた。
夕弦の服………おそらく七罪と同じだとすれば霊装とやらには止血効果もあるのだろうが、それでも腰布の下から肌が裂けて血がにじんでいることに気がつく。
「お前怪我して………おなかが“空き”ましたってそういう意味かよ!!ブラックジョークにしても笑えねぇぞおい!?」
救急車を、と考えたところで精霊を病院に連れていったところで意味などあるのかと考えてしまう。
幸い美九の家がすぐそこのところだったので、そこまで担いでいくことを決めたのだった。
「ねえ、七罪さん。『普通の生活してれば精霊にそうそう会うものじゃない』んじゃなかったんですかぁ?」
「その筈なんだけど。しかも私達並みにめんどくさい事情持ってるっぽいとか…………はい士道、スポドリ」
「おう………せんくす…………」
なるべく急いで怪我人を運ぶ、あと血を流した女の子を運んでいるところを見られないように全力で掛けてきたので、汗だくになった士道を美九と七罪は唖然としながら出迎えた。
何が起こったのか―――は、士道の方も説明してほしいくらいなのだが―――軽く話すと、夕弦をほぼ使っていない客間のベッドに寝かせて手当てすると言い、汗やら血で汚れた士道はというと美九の家のシャワーを借りさせられた。
「ごく、ごく…………ぷはっ、ふう………夕弦はどうだ?」
「傷は〈贋造魔女【ハニエル】〉で塞いどいたわ。命に別条はないでしょ」
「そっか、よかった」
上がった士道に渡されたペットボトルを飲み干しながら、ベッドで寝息を立てている夕弦の様子を七罪に確認すると、安堵して置いてあった椅子に座りこむ。
夕弦の顔色は安らかそのものなのだが、初対面でもあれだけの怪我で平然と士道と話をしていたので油断出来ないものの、そこは七罪を信用することにする。
“士道を士織にしたように”、七罪の変身能力は自分以外のものを変化させることもできるので、それで夕弦の傷口を塞いだのだとか。
それでふと安心したところで、今自分が飲んでいたスポーツドリンクのペットボトルをなんとはなしに見やる。
女の子一人の美九の家に士道の着替えがあったことといい、七罪がこの家の冷蔵庫を平然と漁ることといい、他人の家に馴染み過ぎな気がしないでもなかった。
『だーりんならいつでも歓迎ですー。それに、帰ったときにだーりんがいておかえりって言ってもらえると、すごく幸せになれるんですからぁ』
美九がそんな風に言ってくれているので、甘えているのだが。
そんな美九はというと、どこか思案顔。
…………よくよく考えれば、確率的に七罪さん(ひとりめ)は偶々、私(ふたりめ)は奇跡として士道さんはもう出会っちゃっているんですよねー。だから三度目は無い、って思ったんですけどぉ、
――――逆に、二度あることが三度あったって考えるなら、夕弦(さんにんめ)は………“作為”ってことなんじゃないの。“心当たり”、あるんでしょ?
「…………」
「美九?」
「え?あ、はい、なんでしょうだーりんっ?」
「何か心配事でもあるのか?」
物憂げそうにも感じた美九を気にかけると、彼女はあたふたして視線を逸らした。
「いや、えと、ふぁ………ま、まあ、考えても仕方ないというか意味のないことでもありますのでー」
「それでも、美九にとっては悩みなんだろ?聞かせてくれるか?」
「だーりん………」
じ、と美九にしっかりと視線を合わせる。
困ったようにあちらこちらと瞳をうろたえさせていたが、やがて小さくため息を漏らすと照れくさそうに小さく笑った。
「美九?」
「だーりん、すごいです。心配されてるのが嬉しくて、本当にどうでもよくなっちゃったじゃないですかー」
「お、おう……?そうなのか?」
「はい、そうなんですー。あ、それよりも夕弦さん、起きそうですよっ!」
「ん。朦朧、ここは…………」
やや話を逸らされた気もするが、本当に微かに夕弦の瞼が動いていた。
今は夕弦に第一声でなんと声をかけようか、と考えながらも、士道は後で美九の様子を気に掛けるべきか、と脳内の備考にメモをしておくのだった。
この夕弦実は『夕弦に勝ってしまったことに動転し自傷したあと自分が夕弦だと思い込んだ耶倶矢』――――――とかいう双子ミステリーの古典トリックネタが浮かんでやってみたくなったんだけど、意外に常識的な耶倶矢がこの面倒くささになると我らが士道さんですら話に収集つけられなくなるので断念。
きっぱりと諦める為にここに書いておきます、正真正銘夕弦です。